昨日朝、朝のTVを見ていたら、トランプ大統領の演説が報道されていました。
その報道を見ていた小学生の娘から発せられた言葉。
(嫌そうに)
「なにいってんの」
「なにいってんの?」と聞く行為ではありません。
相手に嫌悪感を込めて言う「なにいってんの」という、あれです。
「〇〇はなんでそういうの?」
「だって嫌いなんだもん。みんな嫌ってるよ」
「みんな嫌っているから嫌いなの?」
「…ちがう」
「ほんと?」
「ほんと」
「だったらいいよ。みんなが嫌いだから嫌いっていうのは余りよくないよ。」
「…うん」
「いじめもおんなじだよ。みんながやるから、ってやるのはだめだよ」
「いじめなんてしてない!」
「うん、わかってるね」
「「みんながやってる、だからやる」という価値判断では好ましくない」と、少しは感覚的にわかってもらえる体験になったかなあ、と思います。
メディアからは、「「日本が嫌い」という価値観」を持っている周辺諸国の人の声が流れてきます。
個人的な体験などでそう思うのはわかりますが、いつのまにかそういう価値観になってしまう、ということも往々にしてあると推測できます。
そして、「多分そういう国なんだよね(そしてそれは決して好ましいことではないよね)」という感想を持つ人であればあるほど、「トランプが嫌い」と脊髄反射的に思ったり、表現したりすることに注意を払わなければいけないと思うのです。
全く同じ価値観形成になってしまいますから。
上記のやり取りから少し進んだ、仮のやり取りのお話を。
このあと娘が「だってグローバル化している世界の中で、保護貿易はよくないでしょ」と言ってきたら
「なんでグローバル化している、って思うの?そして、グローバル化することは“よい”ことなの?」
「保護貿易はよくないの?グローバル化していても保護貿易してもいい、ってことはないの?」
と畳みかけるつもりでした。
※まあ仮の話ですし、今の小学の学年でそこまで言ってきたら、心の中で「よーいろいろ知ってるな」と思うくらいのレベルの話ですが。
「トランプはよくない」と思う大人も、「なんでそうなの?」と言える人は少ないと思うんです。
正直僕も、論理立ててわかりやすくは言えません(好き嫌いは別にして)…。
個人的な感覚ですが、社会において、「相対的に少し物事を知っている層」が、社会における知の蓄積を妨げることがあると感じています。
たとえば「トランプはよくない」と言うことに対し「なんで?」と聞いて、余りはっきりと答えられない娘のような状態の人間に対し
「よくない。だって世界で協調しなければいけないときに、そうしようとしていないんだもん」
と言って「あっ、そうかあ」と終わってしまうと、それで知は止まります。
(「私は嫌い。だって世界で協調しなければいけないときに、そうしようとしていないんだもん」なら好き嫌いの問題ですからいいんですけどね)
なんで世界は協調すべきなんでしょう?
もちろん僕も、世界は協調しなければいけない!とは「思います」。
一方で、「なんで?」と考え、その「なんで?」がわかるように、様々な知見を身につけなきゃなーと思います。
「アクティブ・ラーニングの視点」や「主体的・対話的で深い学び」って、そういうことなんじゃないかなーと思っています。
いわゆる「問いを立てる(立て続ける)」ってことですね。