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2013.10.14 01:16

後編まで長々と書いてきましたが、僕が思うところの、現在の2次試験の形態を活かしつつ、教育再生実行会議が指摘する欠点を補う入試の形は、下記です。
補)あくまで2次試験以降に論点を絞っています。念のため。
 
1.2次試験で記述による解答の割合を増やす
2.点数化される論文試験を課す
3.2までで、各大学のアドミッション・ポリシーに沿った学生を選抜しきれないと判断した場合、その大学においては、2までの合格者を9割~9割5分にとどめ、2までの合格ボーラーライン近傍一定割合をセレクトし、面接または点数化されない論文などの試験を課す
 
1にするだけで、知識偏重は是正されます(欠点Aの克服)。
2により、アドミッション・ポリシーに近い学生を選抜する問題を設定する可能性が開けますし、論文では主体的なコミットメントも試せます(欠点C、Dの克服)。5教科試験との点数の割合は、アドミッション・ポリシーに応じ、各大学個別に決めれば済むことです。
最後に3により、合格者の多様性も確保できることが期待できますし、1点刻みの試験の代案としての納得性が増します(欠点B、Eの克服)。
 
これでいいと思うんです。
そして、この形、今の大学入試制度上で可能ですし、近い形で実施している大学も相当数あるはずです。
「2までの生徒に、3を課す」あたりが、「2までで一度合否を決め、それとは別に、3の割合が多い試験を実施する」(現実的な)形態である「分離分割方式」(前期・後期日程での開催)とは異なる提案になりますが。
 
3について、後編との絡みで少しだけ補足すると、後編で取り上げた面接は、「面接の前までの試験で合格してきた人間を“落とす”ための面接試験」という見せ方をしていますが、上記では「面接の前までの試験で不合格だった人間を“受からせる”ための面接試験」という位置づけで見せています。実態は全く同じなのですが、20歳未満が多数と言う発達段階を考慮すると、点数化されない試験を課す場合には、「受からせるためのもの」という見せ方の方が、現実に無理なく対応できると思います。
 
 
以上、教育再生実行会議で挙げられた課題を解決する方法論を考えてみました。
課題解決の案を考える際は、どうしても「制度をどうするか」「手法をどうするか」に話がいってしまいますし、それはそれで仕方がないことなのですが、論を展開する間、あるいは論を普段から考える間、決して忘れてはいけないのは
 
「大学入試で問う力とは何か。それにはどんなものがあるか。それらの力を問う割合(バランス)はどれくらいか。」
 
という視点です。ここを忘れてしまうと、それこそ、制度のための制度になってしまいますので…
 
個人的には
「大学入試で問う力は、学力である。学力とは、学ぶ力のことである。」
と定義できるのでは、と思います。
学力を学ぶ力と定義しないから、学力=5教科の力と(無意識に)定義している人とそうではない人で、論がすれ違う。
入試では学力を問う、と定義しないから、人間力とか主体性とか、別の表現が出てくる…。
本来は、「学力」の中に全部包含されており(このブログの高校生の皆さんは、高い学力を持っている、という見方。そして、この力は、教育再生実行会議で大事にしようとしている力ですよね?)、包含されている中の力を要素分解し、「5教科の能力」「主体性」その他の能力をどれくらいの割合で見る試験が望ましいか、目安を文科省が!?提示し、あとは大学個々のアドミッション・ポリシーに従い、割合を変化させ、それに即した試験を実施する、でいいと思うのですが。
 
いずれにせよ、繰り返しになりますが
「大学入試で問う力とは何か。それにはどんなものがあるか。それらの力を問う割合(バランス)はどれくらいか。」
と、大学入試の制度設計を考える際は、常に自分に問いかけておかなければいけないことだと思います。
 
 
長々と語ってきた、大学入試、2次試験廃止!?の論の最後に…
このニュースが世に流れた時に、「Z会はどうなるんだろう?」なんていう素朴な疑問を持たれた方も、ひょっとしたらいらっしゃるかもしれません。
僕がZ会社員だから、過剰に意識しちゃっているのでしょうか(笑)
 
Z会の経営理念。
「わたしたちZ会グループは、「学ぶ」ことにより成長したいと願う人々に対して、 
知性・感性を育む教育サービスを提供することを通して、 社会の革新と発展に貢献します。 
わたしたちはこの使命を達成するために、お客様にとって最高のサービスを提供します。」
どこにも「5教科の力を高める」とは書いてありません。あくまで現時点において、「5教科の力を高める」商材・サービスを提供した方が、経営理念と会社の存続を突き詰めて考えると、最も良い形と判断しているにすぎません。
 
大学入試の形が変化したら、それに伴って、提供する商品・サービスの形を変えるだけ。
Z会の経営理念が上記であり、それを理解している社員ばかりであれば、大学入試の形が変わっても、最高のサービスを提供し続けられるはずですし、そうしなければいけない。
 
強くそう想っています。
 
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2013.10.14 00:00

中編の続きです。
 
4.「1点刻み」の試験より納得性の高い試験とは
 
中編で挙げた3点と、ここで述べる話は、やや性質が異なる気がします。
なぜなら、1~3は、(できるかどうかはともかく)「ああ、そういうことができたらいいよね~」と、ちょっと考えれば誰しも感じることだと思うんですが、この点においては
 
「1点刻みが一番公平じゃない?」
 
という考えもそれなりに多くの人が抱いている感覚だと思いますから。
そこで、ここでは、1点刻みの是非を問うのではなく、1点刻みの試験より納得性の高い試験を考えていくと…いう前提で書き進めます。
 
 
“1点刻みの(現行の)大学入試は、ちょっとね…”と感じる場合、恐らく2通りあります。
 
・「教科型試験」の形態のみで、1点刻みで合否が決められることに納得できない場合
・そもそも、1点刻みで合否が決められることに納得できない場合
 
“1点刻みの(現行の)大学入試は、ちょっとね…”と感じた方は、冷静に“なんでそう感じるんだろう?”と考えてみてほしいんですよね。
僕の感覚では、意外と、上記前者のように、“「教科型試験」の形態のみで”の前提で、1点刻みという実態を捉えようとしていることが多いと思うんです。
だから「1点刻み」という言葉のみに着目して代案を考えた時、脊髄反射で「人物重視」の試験とか、その形態として「面接」「論文」を課すことなどが挙げられるのではなかろうかと。
 
しかし、「人物重視」の試験を課したり、「面接」や「論文」を課したところで、「1点刻み」という点が解消できる保証はありません。それらの形態においてもまた点数化するのであれば(かつ、その可能性は決して低くないですよね)。
そして、“「教科型試験」の形態のみで、1点刻みで合否が決められることに納得できない”感覚を持つ場合(それはすごくわかります)、「1点刻み」が問題の本質ではなく、「教科型試験」の形態のみ(で判断される)、という点が、“納得できない”本質のことも多いので、中編の2で述べた克服法を提示すれば、納得感が高まる場合もあると思います。
 
 
一方、そもそも「1点刻み」という選抜方法そのものに納得性が薄い場合、代案を考える際に
「選抜する側の“主観”を許せるか、その“主観”はどれくらいの温度感で許せるか」
という問題に必ずぶち当たると思うんです。
なぜなら…逆に、選抜する側の“主観”の余地を最も少なくしたい、とするならば、知識だけを問うた「正解のある問題」ばかりを出題すればよいわけで、行きつく先は「1点刻み」なわけですから。
 
ですから、「1点刻み」の克服法として「人物重視」の試験や、「面接」や「論文」を提案する場合、提案者の脳内では必ず、「選抜者の“主観”による選別」の余地を認めているはずなんです。
ただ、“主観”が余りにも独りよがりのものであると、公平性の観点から好ましくない結果が生まれるのは誰の目にも明らかですよね。
 
従って、「1点刻み」の問題解決には、「選抜者の“主観”による選別」の余地を認めた上で、「選抜者の“主観”」に客観性を高める行為~僕の感覚では行為以上の「格闘」~が必ず必要になってくるはずなんです。
そして、この格闘は、選抜する側だけではなく、選抜される側にも必要です。ではないと、僕の感覚を言葉にするのであれば、「フェアーではない」です。
 
 
選抜する側の格闘、これは中編の1でご紹介した、北海道教育大学元学長の村山紀昭さんの次のツイートがすべてを表しています。
 
「論述方式の入試の客観性の可能性と必要性こそ議論されるべきではないか。日本の教育では、長年こうした論述試験の客観性が軽視されてきた。そろそろそこに踏み込むべきでないか。客観性を、単に点数上の公平性のレベルで論じていては埒があかないと思う。大学人は自らの知的普遍性に確信を持つべきだ。
引用元:https://twitter.com/muranori7/status/388921835099660288
 
“「大学人が投げかける問いは、知識問ではなくても、ある程度客観性、普遍性を持って提供できている」という「覚悟」を持つまで公平性を高めていく”という格闘、とでも申しましょうか。
 
 
一方、選別される側も、自らの「なぜ不合格だったのか」という言語では理解できない「なぜ」の存在を認める「覚悟」を持つまでの格闘が必要だと思うんです。
「点数化されないけれど、客観性は担保できている」という試験のあり方を「よし」とし、その試験で自らが不幸な結果に終わっても、「選抜者側がそういう受け止め方をしたんだ」と割り切る覚悟(と理解)を…。

 
たとえば論文試験で、自分が「最高の出来!」と思って書いた論文がほとんど評価されなかった、とします。
「なぜダメなんですか?」と聞いても、「主体性が伝わってこない」「アドミッションポリシーにあわない」などの理由の場合、評価されなかった人間の「なぜ」がみたされる回答ってないと思います。
※「一見論理的な風で、質問者を煙にまく」回答は用意できるでしょうけど…
 
うまくいえませんが、「その“なぜ”がわかっていないから(わかろうとしていないから)評価されていない」という感じなのかと。
 
また、面接試験の例では、僕自身の話を紹介します。
僕は就職の際、某自治体で「ほとんどの人が落ちない」と言われていた最後の面接で落ちています。落ちた人間の中で面接以外の評価は1番、という結果まで知らされています(実際順位で通知が来ますので)。当時の第一志望でした(苦笑)。
また、勤務先(Z会)の若い頃の昇格試験面接において、「ほとんどの人が落ちない」と言われている面接で落ちました(落ちる人は1割程度です)。
両方とも“なぜだ!”と思いましたよ、正直。でも、今は、その理由がわかります。
なぜか。「評価者が評価しない回答だったから」
 
 
「点数上の公平性」を超えた、知的普遍性に確信を持つという、選抜者側の覚悟。
そして、その覚悟を持ってして問われた試験において、「点数上の公平性」を超えた、知的普遍性を認め、結果を受け入れる、選抜される側の覚悟。
「1点刻み」をなくすには、不可欠なんです。
 
余談ですが、今、社会で求められている「コミュニケーション能力」を社会全体として上昇させるには、「自分が“なぜ”かわからない結果や表現をいったん受け入れ、その“なぜ”をわかろうとする、自分自身の内心での探究活動」が必要な気がしています。
コミュニケーションとは、その発生の段階で相手との齟齬があることを受け入れて、その齟齬を埋めていく作業に他なりませんので。
「点数化されない試験」を早い段階で経験することは、社会人になってからのコミュニケーション能力を高める方向になることはなるでしょう。大学入試でそれを経験させるかどうかはまた別の話ですが。
 
以上により、教育再生実行会議の配布資料1において、「2次試験廃止」との表現を導いた、現行入試の問題点については、2次試験を廃止する、という状況までつくらなくても、今のよい部分を活かしながら、解決法を模索できる気がするんです。
あくまで僕自身の私見にすぎませんが、こんな試験形態がよいのではないか、ということを、(結)のブログで書きたいと思います。
 
 
 
 
 
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2013.10.13 02:26

前編でも述べた、現行の大学入試の欠点(といわれているところ)は
 
A.知識偏重である。
B.1点刻みである。
C.アドミッションポリシーと(現状の)大学入試で判別できる能力にギャップがある。
D.主体的に学習に取り組む力が高校段階でつかない。
E.合格者の多様性が確保できない。
 
です。克服する方法論について考えてみます。
 
 

1.知識偏重型試験からの脱却
 
これはほとんどの人がこう思いませんか?

「論述式問題を中心にすればいいだけ」と。
 
元北海道教育大学学長の村山紀昭さんも、2次試験の徹底した論述試験化を大学入試改革のキモに据えるべきだと、ツイッターで下記のような発言をしています。
 
「大学入試改革論議に関して、一点刻みの学力か面接での人物重視かが議論されているが、問題は、今の共通テストで高校教育が縛られていて、思考力や創造力の教育が削がれているとことにある。で、ポイントは大学がフランスのような徹底した記述式の問題で選抜をする構えを取るかどうかではないか。」
引用元:https://twitter.com/muranori7/status/388918974894710784
 
「教育再生実行会議の大学入試論議の先行きは不透明でそう期待していないが、小中高大の教育の有り様を根本から変えるのには大学入試の根本改革が必須なのは事実だと思う。そのポイントは、一定の主題に関してとことん思考力を試す論述試験ではないか。これをやれば少なくとも高校教育は根本から変わる。」
 
これで欠点Aは克服できそうです。
 
 
2.教科能力判別型試験だけでは判別できない能力の発掘
 
現在の大学入試の学力試験では、ほとんどが5教科の試験ですよね。
これが欠点Cの指摘を生むのだと思います。
しかし、これも小論文の形式での出題で、アドミッションポリシーへの適合度を見るために、「正解のない問い」に対しての論述試験を課せば、これまで見過ごされていた能力を発掘できるのではないでしょうか。
 
たとえば、東大では、アドミッションポリシーで「健全な倫理観と責任感,主体性と行動力」が期待されていますが、「世界平和のために、今のあなたにできることを自由に述べてください。」という問いへの回答態度を見るだけで、随分倫理観・責任感・主体性・行動力は現れてくると感じますが…。
また、このような論述問題は、欠点Eの克服にもつながる気がします。
 
 
3.ペーパー型試験では判別できない能力の発掘
 
欠点Dを根拠にして「ペーパー型試験では(主体的な態度を)判断できない。面接を取り入れよう」なんて論に持ちこまれがちですよね。
しかしこれも、上記2のタイプのペーパー試験であれば、欠点Dを克服する能力発掘ができる気がします。
 
最後に残った、欠点Bについての克服法は、後編で。
 
 
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2013.10.13 01:51

2013年10月11日、衝撃的なタイトルを元にした話題が、ネット上を駆け巡りました。
 
国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に
http://mainichi.jp/feature/exam/news/20131011k0000m040148000c.html
 
こちらがYahoo!トピックスのトップニュースにもなったため、ツイッターやFacebookでまたたく間に伝播したようです。
 
 
「2次試験廃止」について、まず“正確なところ”をご紹介した方がいいかもしれません。
これは正直、やや誇張した表現で、同日の下村文科大臣の会見ですぐ「廃止と言うわけではない」と明言されています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1340195.htm
(3分過ぎから言及が始まります)
 
冒頭の毎日新聞のニュースは、先の2013年9月18日に行われた第12回教育再生実行会議の配布資料1を解釈し、10月11日に行われた第13回の会議に先んじて、注目を集めるようにリリースした、と見るのが適切な気が致します。
 
また、「人物評価重視」についても、配布資料1には、それらしい表現が「意欲・適性等を多面的・総合的に評価・判定する選抜に転換。面接(プレゼンテーション、集団討論等)、論文、高校の推薦書、多様な活動・資格を評価。」とあるだけですので、「評価を多面的にする」という方向性だけ示され、「人物評価重視」と過度に解釈しない方が適切な気がします。
 



そこで、「2次試験廃止」というタイトルの元になったと思われる、配布資料1における大学入試について言及しているところを見てみると、この部分かと思います。

 
現状は、知識偏重の1点刻みのテストにより、 
・アドミッションポリシーと大学入学者選抜において求めている能力とのギャップ
・大学入学者選抜に合格することが目的化し、高校段階で主体的に学習に取り組み生涯にわたって学ぶ基礎となる力や多様な体験活動の軽視
・学生集団としての多様性の確保が不十分等
 
この文章のポイントを絞ると、今の大学入試では
 
A.知識偏重である。
B.1点刻みである。
C.アドミッションポリシーと(現状の)大学入試で判別できる能力にギャップがある。
D.主体的に学習に取り組む力が高校段階でつかない。
E.合格者の多様性が確保できない。
 
という欠点がある、ってことですよね。
そして、その欠点を補うものとして、「2次試験廃止」や「(人物評価重視としての)面接」などの手法が提示されている、という流れです。
 
 
…ということは、課題の本質は、
「今の大学入試の良さを出来る限り失わず、上記A~Eの欠点を出来る限り克服する」
ここですよね。教育再生実行会議の狙いは。
 
すぐに手法論に目が行ってしまい、本質的な論点からそれることはママあるようですが…
今回については、会議で配られた資料、つまり、事実そのものを見て、論を展開するのが筋ですよね。
…ということで、A~Eを克服するための方法論について、私見を述べてみたいと思います。



中編に続く。

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寺西隆行
ICT CONNECT 21 の寺西隆行です。小松高校→東大理一→工学部環境系→教育の道へ。教育とマーケティングをずっと見つめながら過ごすことが喜びです。
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