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2016.09.13 13:27

本日午前は「国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議(第1回)の開催について」に出席していました。
配られた資料の中に、「次世代の学校指導体制の在り方について(最終まとめ)が一部抜粋されており、さらにその一部が文科省の方から読み上げられました。

「教員が、教科指導、生徒指導、部活動指導等を一体的に行う「日本型学校教育」は、国際的にも高く評価される大きな成果。」
※出典は「次世代の学校指導体制の在り方について(最終まとめ)<概要>1ページ目


他国の学校教育の良い部分にスポットライトがあたることがあります。
そして、良い部分に学ぶところは沢山あります。

一方で、「日本型学校教育」も素晴らしいんです。
たとえば、徳育(しつけ)にあたる部分。フランスは、徳育(しつけ)は家庭と教会で行い、学校は知育、と区別が厳格だそうですが、いまの日本の学校教育で、徳育(しつけ)がすべて学校以外に委ねられる姿は想像しにくいですよね。
※もちろん、本質的には「しつけは家庭」でしょうが、本質通りに現実を動かすのは難しい(かといって現実に甘えてもいけない)、という意味で。。。

いろいろな事情のある子供たちの徳育まで実質的に背負う部分もある日本の学校教育は、ありがたいと思えませんか…?


これまでの歴史で培ってきた「日本型学校教育」は素晴らしいんです。
ただ、家庭が背負うべき部分を学校が背負ってきた側面もある気が個人的にはいたします。

今後、次世代の社会を担う子供たちを育成するために、学校(教師)に求められることは、質も高く量も多くなることが予想されます(とくに、次期学習指導要領から…)。
そんな学校(教師)に少しでもパフォーマンスを高くしていただくために、これまでの「日本型学校教育」に感謝と敬意をもつことから、学校の余計な負荷を少なくしようという社会形成が始まる気がいたします。


余談ですが…
「学びの地図」を目指す次期学習指導要領。
これをキッカケに、多くのご家庭で、学校教育に思いを馳せていただけるといいなあ、と思います。


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2013.12.06 23:40

公教育の世界で大変活躍されており、情報発信も積極的にされている、小牧中学校の玉置崇校長先生。

小牧中学校のWebサイト

学校のサイトとしては、情報発信量がハンパじゃありません。
生徒たちが生き生きと、中学校の中で活動していることが、とってもよく伝わってきます。
その影響で、(このブログを書いている日と比較した)「昨日」のページビュー、1,271。
個人でブログをやっている方や、中小企業でサイトを管理されている方なら、この数字がいかにすごいか、お分かりになるのではないでしょうか。

玉置校長は個人のブログでも、仕事日記を書かれています。
三楽の仕事日記
2003年1月4日からほぼ毎日書き続け(10年以上!)、先日、アクセス数が80万件を突破したようです。
ほんとに、ほんとに、凄いことだと思います。


さて、このブログには裏話があるそうです。
なんでも、一度、書くのを止めたとか。県の教育委員会事務局に配属となり、県の教育行政を担う仕事をする以上、いろいろ書くと教育行政に迷惑がかかるかもしれない。。。そう考えられてのこと。
するとそのときの教育長がこう仰ったそうです。

「なぜ仕事日記をやめたのか。書きなさい。
多くの人は県教委は何をやっているのか知らないのだから、そのためにも書けばいい」


心から共感します。「教育」に携わる人間の言葉だからこそ、なおさら。


いわゆる「キャリア教育」という言葉に基づき、職場体験をはじめとして、大人のいろいろな仕事を見ることが、子どもたちのためになる、ってことは、フツーに考えればわかりますよね。
では、大人社会が、そのサポートをしているでしょうか?というと、決してサポートが十分じゃないと思うんです。
その一つが、上記の玉置先生の止めようと思った出来事の中にも見えます。
そう、「所属先にご迷惑をかけてはいけない」という思いから、仕事について表現できなくなってしまうこと。


ではなぜ、「所属先にご迷惑がかかる」と、大人は思ってしまうのでしょうか。


まず、“(所属先の)秘密を守らなければいけないものを、秘密と思わず話してしまうのはまずいから”という理由があります。
所属先がこのリスクを、情報発信以上に捉えるのであれば、書くのを止めなさい、となりますよね。

ただこれは、インターネットのみならずリアルなお付き合いの中でも、個人の言論の中で“秘密を守らなければいけないものを、秘密と思わず話してしまう”リスクをゼロにすることは不可能です。
そして、個人の経験的なものですが、“ネットでは何言うか(言われるか)わからないから怖い(のでネットでは表現しない)”と過剰に思う方の中の方が、リアルで“おいおい、それって、噂話でもいっちゃいけないでしょ”という発言をポロッとする方が、相当数いると感じるんですよね。。。
ネットで何かを表現している方のほうが、「話してはいけないこと」に敏感である、とでも申しますか。

玉置先生が教育委員会に配属になったときの教育長は、玉置先生の過去のブログを見て、「(話してはいけないことの線引きについて)弁えている」と感じ、そして共感し、さらに“多くの人は県教委は何をやっているのか知らない、それを知らせていくのは素晴らしいことだ”と捉え、情報発信のメリットを存分に活用しようとしたんですよね。
加えて、万が一、“あーそれ、話してほしくなかった…”と思えることがあっても、基本的に「弁えている」人であれば大事には至るレベルのものにはなりませんし、指摘する→「ごめん」と謝る、というやりとりがあれば十分なんじゃないでしょうかね。

推測ですが、恐らく、子どもたちに仕事観を植え付けることも大切だ、という強い教育への想いもあったんじゃないでしょうか。


もう1つ。「所属先にご迷惑がかかる」と思ってしまう理由に、“自分の意見が所属先を代表していると思われてはまずいから”というのもあります。
この理由で、所属組織が、組織内の情報発信者にケアする気持ち、とてもよくわかりますよね。

しかしこのケアが「過剰なケア」になってしまうと、社会の中で、仕事の様子が発信される温度が極薄になってしまいます。
仕事そのものが複雑化していたり、地域コミュニティがなくなってしまっているご時世ですから、以前よりもずっとずっと、「働く人の姿、様子、価値観」などを伝えていかなければいけない世の中になっている、にも関わらず。。。

個人的には、多くの組織が、インターネットで表現することについて、いわゆる「炎上」を気にしすぎて、ケアが「過剰」になっているような感を受けます。
でも、その「過剰」感をつくっているのは、組織の方が大元ではないと思うんですよね。
一個人の言動を、所属先の言動とイコールとみなす、一部の「声の大きい、批判することそのものを目的としている批判屋」の存在の影響だと思うんですよね。。。

一個人と所属先はきってもきれないものです。
しかし、一個人は、所属先の全体を代表していません。あくまで所属先の「一部分」です。
逆に、「一部分」ではあって、「無関係」でもありません。

個人は所属先の「一部分」という考え方を、表現の受け手が持ち、そして表現する方も自覚していけば、社会にどんどん、良質な、仕事や仕事観に関わる表現は増えると思います。


子どもたちのためにも、仕事に関することを様々な手段で個人が表現できる、そんな社会の方がいいと思いませんか。
そして、ありがたいことに、僕はブログを通じて表現することが許されているので(笑)より多くの方が表現できるよう、表現します。
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2013.03.27 17:31

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みんな続けています、続けています、Z会。
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Z会小学生コースの担当課長に内定し、まったく未知の教育領域で右往左往しているときに、飛びついた「明日の教室」。
そのときの授業の講師は 野中信行先生

「明日の教室」主宰の一人、京都橘大学の池田修先生のご好意で、前日の関係者呑み会から参加させていただけたのがほんとに幸運で、それから小学校教育の実態や、様々な学校の先生の思いを伺える機会をどんどんいただき、しっかり教材作りに反映することができています。
野中先生にはこのときのご縁がつながり、Z会で勉強会を開催していただきました。


そんな「明日の教室」が朝日新聞で紹介されているとの連絡を池田先生より頂戴し、サイトで見てみたら…
冒頭は、去年出会い今では大親(悪)友の内田明先生の勤める若楠小学校。
そしてやはりというか、日本デジタル教科書学会会長の片山敏郎先生も紹介されていました。
※Z会は日本デジタル教科書学会の会員です。デジタルZでデジタル教育(タブレット教育)、開拓しています。スマイルゼミさんより早くから(笑)


同じ記事の中で紹介された、別々の事例の両方に関われていることに、驚きと、幸せと、なんか、えもいわれぬ感謝の念を覚えました。


Z会に勤務しているからこそ、こういう横のつながり、できる気がします。学校の先生への恩返し、いつか、必ず。
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2013.01.04 23:30

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厚労省に勤める知人から数年ぶりに賀状が届いてました(1/4ですけどw)。
懐かしいなあ、と思うと同時に、そういや新卒入省の時、薬害エイズかなんだかの説明責任を求める電話対応で定時はオシマイ、自分の仕事は夜中にやらざるを得なかった(そして体を壊した)苦労話を思い出しました。


自子の事しか考えず、学校に電話ばかりする人もまた、教師を苦しめています。
精神的にも時間的にも、学校は、教師は、その人だけのものじゃないのに、電話は一対一対応になっちゃいますから。

今年はそんな教師の救いになるような活動をできればいいと思っています。
学校や教師に期待するなら、自分に直接的な被害がない限り(あるいは明確に予見されない限り)託して任す、それが一番、というメッセージを世の中に出していきたいんです。


たしかに、使命感のある教師は、自分が担任している保護者対応は「(どんなことがあっても)すべき」と受け入れるし、心ある管理職は部外者対応を極力自分たちでやろうとします。
そんな教師の皆さんは、ほんとに「凄い」、その言葉しかでません。

ですが、その使命感を「当然」と、外野は押し付けちゃいけないと思います。
ましてや部外者が学校(最初の話なら厚労省)に電話するのは基本的に迷惑行為です。
とある方(学校関係者)がおっしゃっていました。
「無責任な外野の「正義の味方」が一番質が悪い。」
と。


健全な批判精神は否定しません。
直接的に自子が迷惑を被った場合、「迷惑だ」と学校側に伝えることも全く問題ありません。

しかし、上記のような論を展開したときに「じゃあ電話するなっていうの?それは変でしょ!」「おかしいことはおかしいといわなきゃ!」という反論としての持論にすぐつなげる方は、正直、問題解決を志向しているとは思えないのです。

問題を解決したいと思うのであれば、問題解決にあたっている人に、託して任すこと。
これも大切な、大切な姿勢です。


個人的に、この姿勢が日本社会に欠けていると思っているので、「(当事者じゃないんだったら)託して任そうよ」と、今年はブログその他でメッセージしていければ、と思っています。
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2011.08.11 23:00

今、文科省、初等中等局の決定において、「キャリア教育における外部人材活用等に関する調査研究協力者会議」という会議体があり、先日中間とりまとめが発表されました。

その中間とりまとめに対する意見がこちらになります。


学校教育で、もっと企業のことを教えるべき!とか、先生に民間人活用を!とか、もっともらしく、かつ、簡単な意見は誰でも言えます。
本気で思うのであれば、今、官や専門家でどのような意見が交わされているかを知った上で、意見すべきだと思うんです。


しかし、意外と、こういう議論がされていることを知らない方が多いです。
参考までに掲載しておきます。

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2011.04.18 21:30

昨日のブログの続きで、『自己チュー親子』より。


二五年ほど前から、生徒たちは自分が「やったこと」から目を背け、もっぱら「思ったこと」に閉じこもるようになった。「思ったこと」は「自己」の内面でもあり、ほかの人には見えない聖域である。自分だけの確かな世界である。

「やったこと」と「思ったこと」の対比がキレイな表現ですね。


日本社会が「消費社会」段階に入って五年くらいたった1980(昭和55)年くらいから、学校が不安定になり始めた。80年前後の中学生たちによる「校内暴力」がその嚆矢である。
高校講師の私がはっきりと変化を意識したのは1983年ころであり、ちょうど中学の「校内暴力」大発生の三年くらい後である。


「校内暴力」という言葉が出始めた頃の把握と、高校教師の現場体験からの話として、気に留めておきたい文章です。


1983年前後の高校生たちの変容について、うまく説明することはとても難しい。一言でいえば、生徒が学校の包括的な指導から離れ出したのである。かつての生徒ではなくなった。教師と生徒たちがズレ始めた。生徒たちが教師の後について歩かなくなった。自分の思うこと(内面的位置づけ)にこだわりだした。学校の公共性を認めなくなった。

1983年といえば、僕が10歳になる年である。9歳になる年(3年生)の担任は新任の女性教諭で、今ではひどいことをしたと思っていますが(注:今でも賀状のやり取りをする関係です)、毎日のように先生を「泣かす」クラスでした。「泣かす」というのも、本当に涙を流すこと、毎日でした。
「生徒たちが教師の後について歩かなくなった」のは、小学3年生の自分ですら体験していました(授業のスポイルとか、そういうことはやりませんでしたが…)。


自分の好きなように生きたいとは、誰しも望むものである。自分の好きなように生きるためには、社会や体制や周りとの距離を測らなければいけない。ということは、自分はどういう人間かを測っている必要がある。
(中略)
ところが「新しい子ども」たちは、社会や学校や周りとの距離を測らずに、自分の好きなように生きようとし始めた。これでは社会的な「個人」や「私」が形成されるはずがない。


まだ幼い若者が、好きなように生きたいと思えば思うほど、実は思うようには生きられません。
なぜなら「社会」との断絶が増えるだけですので。
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寺西隆行
ICT CONNECT 21 の寺西隆行です。小松高校→東大理一→工学部環境系→教育の道へ。教育とマーケティングをずっと見つめながら過ごすことが喜びです。
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