協働することと馴れ合いは違います。(←クリック!)の記事でご紹介させていただいた、厚切りジェイソンのツイートと記事をご覧になったYoshitaka Hirayamaさまが、Facebookで貴重な意見を述べられていました。
「なるほど。」と深く頷きましたので、ご紹介します。
※ご本人さまから許諾を得ました。ありがとうございました。
(以下、引用)
確かに、そういう「呪縛」があると思いますし、問題であると思います。
しかし、農耕民族であった日本人には、それは、生きるために必要な知恵でもあったと思います。なぜなら、農作業というのは個人の作業ではなくて、集団作業である場合が多く、例えば、水田への灌漑用水路を作ったり維持管理するには、「みんなに合わせる」ことが大事であり、自分勝手に、自分だけの都合では水は手には入れないからです。そういう集団の力でなりたっている生活システムでしたから、集団行動を乱す奴がいると、他のみんなが迷惑することもあったのでしょう。「村八分」という制裁を表す言葉も残っています。
そういう背景もあって、身に付いてしまった「呪縛」であるからこそ、強力な呪縛であり、呪縛であることにさえ気づいてないかもしれません。そして「出る杭は打たれる」の文化、「泣き寝入り」の文化が生まれ、社会の進歩が後れがちということになりかねない。だから、日本の外の世界からの視点をジェイソンが提供してくれているので、貴重なアドバイスだと思います。
(引用終了)
このご意見、2つの視点で、素晴らしいと思いました。
1点目は、これまで「周りとあわせる」日本の(教育)風土が生まれたことの背景がしっかりと述べられていること。言われてみたらそうだよね、と頷けるのですが、言われるまでは言葉にできない、極めて鋭い指摘だと思います。
もう1点は、「周りとあわせる」日本の(教育)風土の背景を説明し、その価値を認めながらも、「だからこそ外の視点での見方は貴重」とも述べているところです。
このテの議論をすると…
「集団に入っていかず勝手なことばかりすることを認めるわけにはいかない。」という保守的な人と、
「周りとあわせろ、ばかりの日本の教育はおかしい。異質な能力を認めていかないと、歴史に名を残すような“すごい人”なんて生まれるわけはない。」という革新的な人との二項対立が生まれ、
議論は平行線になることがほとんどな気がします。
しかし、ある事象が存在したり、あるいは、ある意見があるときに、その事象や意見が存在している理由は必ずどこかにあります。
それらのメリット・デメリットが必ずどこかにあります。
そして、自分の意見にはメリットばかり述べ、対立意見の方面からは、対抗軸へのデメリットばかりを述べるから、「全体としてよくしよう」という議論が進まないんだと思います。
自らとは異なるあり方を受容した上で意見を述べるためにも、とても参考になる意見に触れられたと思っています。
まさに「協働する」ためにも必要なことですね。
「メテウス」
でも培っていかなければいけない姿勢です。
2016.02.28 20:03
- カテゴリ :ものの見方・考え方