中編の続きです。
以前から思っていること。
そして、『謝るなら、いつでもおいで』を読んで、さらにその想いを強くしたこと。
それは
自己同一性(セルフ・アイデンティティ)に「なぜ」はない。
ってことです。
社会の中で、多くの人が“猟奇的”と思える事件を、未成年が引き起こした場合…
なんでそんなことしたんだ!?
なぜそこまでの行動に出られるんだ!?
なぜストッパーが働かなかったのか!?
…など、「なぜ」を追究しようとする声がいろいろ聞こえてくる気がします。
でも、そこに、「なぜ」はないんですよね。
補足すると、「なぜ!?」と思う人の、それまでの知見や経験でわかるような「なぜ」なんてないってことです。だからこそ“猟奇的”という感覚になるんだと思います。
家庭環境、周囲の環境、幼い頃にあった不幸な出来事…
事件の真相を追う際に、様々な原因を調べようとしますし、それはそれで気持ちはわかります。
しかし、少なくとも、「事件」にまで発展するような加害者のアイデンティティの「なぜ」は、「これ」とわかる原因などないんだと思います。
どこかのボタンの掛け違い、だけどその掛け違いは、単純にわかるものではない、と。
※もちろん、心理学的な視点他から、専門家の分析は、同じような事件を起こさないためにも必要だとは思いますが、それは素人の言語体でわかるものであってもいけない、とも思います。
なんであの人は、あんな物の言い方するんだろう。
なんであの人は、あそこまで人に優しくなれるんだろ。
なんであの人は、人生楽しそうなんだろう。
なんであの人は、誰からも好かれるんだろ。
なんであの人は…
ふっと思うくらいだったらいいと思うんです。
でも、その「なんで」を詮索するようなことは、不毛です。
自分の知見や経験ではわかりっこないアイデンティティの形成があるからこそ「なんで」という感に陥るわけですから。
他人のアイデンティティに直結するような「なぜ」については、わからない、と割り切る。
その上で、自分とは違う、けれどもその人はその人、と、一人格として受け入れる。
そういう姿勢で他人と接した方が、寛容な自分になれる、そんな気がしています。
本著で描かれた事件そのものは、決して許されることではありませんが、加害者を「異常」というカテゴリにあてはめるのは、正確ではないと感じています。
「謝るなら、いつでもおいで。」タイトルは、被害者のお兄さんが、加害者に向けた言葉。
最後に書籍から引用します。お兄さんの言葉です。
相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。お互いにひきずりたくないというか。こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。謝るならいつでもおいで、って。それだけ。
結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。
2014.03.31 23:50
- カテゴリ :書籍紹介