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2014.03.31 23:50

中編の続きです。

以前から思っていること。
そして、『謝るなら、いつでもおいで』を読んで、さらにその想いを強くしたこと。

それは

自己同一性(セルフ・アイデンティティ)に「なぜ」はない。

ってことです。


社会の中で、多くの人が“猟奇的”と思える事件を、未成年が引き起こした場合…

なんでそんなことしたんだ!?
なぜそこまでの行動に出られるんだ!?
なぜストッパーが働かなかったのか!?

…など、「なぜ」を追究しようとする声がいろいろ聞こえてくる気がします。

でも、そこに、「なぜ」はないんですよね。

補足すると、「なぜ!?」と思う人の、それまでの知見や経験でわかるような「なぜ」なんてないってことです。だからこそ“猟奇的”という感覚になるんだと思います。

家庭環境、周囲の環境、幼い頃にあった不幸な出来事…
事件の真相を追う際に、様々な原因を調べようとしますし、それはそれで気持ちはわかります。
しかし、少なくとも、「事件」にまで発展するような加害者のアイデンティティの「なぜ」は、「これ」とわかる原因などないんだと思います。
どこかのボタンの掛け違い、だけどその掛け違いは、単純にわかるものではない、と。
※もちろん、心理学的な視点他から、専門家の分析は、同じような事件を起こさないためにも必要だとは思いますが、それは素人の言語体でわかるものであってもいけない、とも思います。


なんであの人は、あんな物の言い方するんだろう。
なんであの人は、あそこまで人に優しくなれるんだろ。
なんであの人は、人生楽しそうなんだろう。
なんであの人は、誰からも好かれるんだろ。
なんであの人は…

ふっと思うくらいだったらいいと思うんです。
でも、その「なんで」を詮索するようなことは、不毛です。
自分の知見や経験ではわかりっこないアイデンティティの形成があるからこそ「なんで」という感に陥るわけですから。


他人のアイデンティティに直結するような「なぜ」については、わからない、と割り切る。
その上で、自分とは違う、けれどもその人はその人、と、一人格として受け入れる。
そういう姿勢で他人と接した方が、寛容な自分になれる、そんな気がしています。


本著で描かれた事件そのものは、決して許されることではありませんが、加害者を「異常」というカテゴリにあてはめるのは、正確ではないと感じています。
「謝るなら、いつでもおいで。」タイトルは、被害者のお兄さんが、加害者に向けた言葉。
最後に書籍から引用します。お兄さんの言葉です。


相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。お互いにひきずりたくないというか。こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。謝るならいつでもおいで、って。それだけ。

結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。


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2014.03.30 23:30

前編の続きです。

2.親の、子どもを理解しようとする努力に終わりはない。

このような事件を知ると、加害者の親の子育てへの批判的な目がすぐに向きます。
しかし、本著を見る限り、親の子育てに(悪い意味で)偏りがあったか、というと、とてもそうは思えません。
普通の…いや、普通の親以上に、親としての努力をされていますし、その努力が子どもへの「偏愛」というものでもなく、子どもを守りながら社会へと羽ばたかせたいと思っている、普通の親御さんの姿が書かれております。きっと筆者もそう感じていらっしゃると思います。

どこまでいっても、親は子どものことを完全に理解することはできません。
しかし、理解しようとする努力を怠らず、努力に終わりはない、と思う姿勢も大切です。

誰よりも、親である僕自身に、「親の、子どもを理解しようとする努力に終わりはない。」という言葉を強く投げかけたい、そう思いました。


3.アイデンティティの中に、周囲の社会が広がっていっても存置できるものをおく必要がある。

前編で述べた通り、加害者は「オリジナルでセンスのある人間」というアイデンティティを持っていたようですが、「オリジナル」「センスがある」ということは、他者から評価されることによって初めて成り立つ性質のものですよね。

きっと加害者は、人生のどこかで、「オリジナル」「センスがある」という評価を受けたことがあるんだと思います。
しかし、本著で垣間見える加害者の像からは、加害者の認識下でのオリジナリティとは遠いオリジナリティしか発揮されていません。
前編で述べた通り、被害者からオリジナリティを否定されるかのようなコメントを受け取り、アイデンティティが崩壊したような感をうけます。もちろん、被害者は、無自覚にコメントしています。

このアイデンティティの彷徨い方って、それまで勉強ができる、と思っていた人間が、例えば高校や大学に合格し、自分よりできる人間を沢山目の当たりにしたときと似ていると思うんです。
自分はできると思っていた、でもできないという評価を受けた、というときと。
そんな時、アイデンティティを保つには、「勉強ができるように頑張る」か、「勉強以外のものにも自らの強みを発揮しておく」か、どちらかしかないですよね。

発達段階に従い、社会はどんどん広がるんです。広がった社会でも自らの中に存置できるアイデンティティってとても大切だと思いました。


以上の3つが、本著を読んで、感じたことです。
その他に、以前から思っている想いを強くしたことが1つだけあります。


後編に続きます。
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2014.03.29 23:50

謝るなら、いつでもおいで』(集英社)
1日で一気に読了しました。

本著は、2004年に起きた「佐世保小6同級生殺害事件」について、被害女児の父親の部下であり、また、記者と言う立場から、事件の背景を追わざるを得なくなった筆者の川名荘志さんのルポタージュです。
上記「佐世保小6同級生殺害事件」にはウィキペディアへのリンクがはってありますが、ウィキペディアですら、実際の事件の感度とは異なるんだなあ、という感想を抱きました。それも仕方のないことです、第三者は「報道された事柄」を自分の脳内言語に落とし込み、解釈し、表現しているわけですから。

本著の巻頭言で、筆者はこのようなことを書いています。
“本当のことを書くということは、いつだって、むずかしいものだ”
ここでいう“本当のことを書くのはむずかしい”というのは、事実自体をどこまで書いていいものか、書かれたものがどのように捉えられるか、という、社会の中で受けざるを得ない評価を意識して、のことでもあり、「本当のこと」を感度まで含めて表現できているか、という、本来の真実性(とでも申しますか)を意識して、のことでもあるように思います。
拙い例ですが、僕も結構な頻度でブログを書いており、かつ、それなりの方に見ていただいていますので、“本当のことを書くということは、いつだって、むずかしいものだ”という気持ち、凄くわかるんですね。そして、そういう立場に立たないと、「むずかしさ」の感度まで含めて「むずかしい」とわからないことであることも…。

そんな筆者の様々な想いの下、表現されたものですから、事件について、最も真実性を帯びた書籍だと思います。
だからこそ、読者に衝動的な感情を与えるような表現はほぼ一切なく~換言すれば、ドラマのような切迫感を生んだり、感情的ゆさぶりをかけることなく~、恐らくそれは相当に筆者が意識して無くし、まとめられた書籍になっていますので、冷静に読めます。

そんな冷静さの中で読んだ結果、本著から、常に僕の興味関心事の一つである「自己同一性(セルフ・アイデンティティ)」について、より深く考えることになりました。

・・・・・

多分僕自身が、アイデンティティという事柄に、自覚的に興味を持ち始めたのは、就職活動のときだと思います。
「自分はいったい何者で、どういう特長があって、どういうことがしたいのか」ということを、必然的に考えることになりますからね。
その時に強烈な体験をし(ここでは省略します)、その後の人生で教育という業界を選んだため、自分の経験・体験では考えにくい、あるいは、理解しにくい考え方や言動に出会った時、「○○さんが××のような考え方をしたり、△△のような立ち居振る舞いをするのは、どういうアイデンティティの下なのか」ということを考える傾向にあります。

傍から見ると猟奇的とも言える事件は、事件を引き起こした人間の意識下では“猟奇的ではない”という意識で引き起こされることも多いんだと思っています。特に引き起こした人間が若者の場合、その猟奇性に無自覚な場合が多い。
そこで、そんな風になった背景、過去の経験は何なのか、について洞察する、つまりは、当事者のアイデンティティ形成についていろいろ知っていくことで、他者に対する解釈力がつき、様々な他者への対処力が向上すると思っています。
だから、本著のような「不可解な事件」についてのルポタージュは割と読む方だと思います。もちろん身の回りの人間が、同じ不幸にあわないためにも(当事者側からのルポタージュは、それを望んでいるとも思いますし)。

そんな目的で本著を読んでいるので、事件についての詳細云々は、全て書籍に譲ります(僕のような目的で書籍から知見を得たい方は、どうぞご購入しご覧ください)。
ここでは、事件の加害者のアイデンティティから、子どものアイデンティティ形成の際にこういうことを気をつけなければならないのでは、と個人的に思ったこと3点と、以前から思っている想いを強くした事柄1つについて、まとめてみます。


子どものアイデンティティ形成の際に注意しなければいけない、と思ったこと3点。

1.アイデンティティには複数のものを包含した方がよい。

加害者のアイデンティティとして、「バスケットボール好き」「オリジナルでセンスのある人間」という2点の占める割合がかなり高かったんだと思われます。
ところが、家庭の事情で、5年生の12月からバスケットボールを止めざるを得なくなった(当人、家庭の事情とは知らなかったものと思われます)。
一つのアイデンティティが喪失している際に、「オリジナル」や「センス」について否定されるコメントを、同級生のグループで行っていた交換日記中で、被害者から受け取ってしまった(注:コメント自体はいわゆる中傷のようなものではなく、いたってフツウの、そして短いコメントです。が、加害者にとってはそう受け止められなかった、というものです)。
恐らくこの段階で、アイデンティティを保つものがほぼゼロとなり、自分と言う存在を保つために、コメントした被害者の存在を消したい、という流れにいきついたのではないかと感じました。

自らのアイデンティティを保つものは、多く持っていた方がいいですよね。
一つがなくなっても、別の逃げ道を、自らの中に持っていれば、その逃げ道の方に自分の存在意義を確認しにいくはずですから。
僕自身、無意識のうちに、そう心掛けている気がしますし、子育てにおいても、子どものアイデンティティには複数のものを包含させる努力をしたい、そう思いました。


中編に続きます。
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寺西隆行
ICT CONNECT 21 の寺西隆行です。小松高校→東大理一→工学部環境系→教育の道へ。教育とマーケティングをずっと見つめながら過ごすことが喜びです。
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