「社会に開かれた教育課程」など、「社会に開く」という表現が増えてきている気がします。
良い傾向だと思います。
「社会に開く」とはどういうことでしょうか。
個人的には、とくに日本社会においてのhowは「禁止の削減」ということではないかと思います。
そして、「禁止の削減」には、他人を管理し統制下に置く、という考え・価値観を個人から薄め、他人の自由を認めた上で折り合いを付けていく、という考え・価値観を濃くしていく、という、個々人の態度・姿勢の転換が求められます。
※最も大事にしなければいけない考え方が、やっぱり苫野一徳さんの仰る「自由の相互承認」だよなあ、というところに行き着くわけですが。
たとえば。
様々に「禁止」されている学校内での活動。
これを削減することで社会に近づけることはすぐイメージできるかと思います。
たとえば。
自分の言動を他人の解釈に基づいて発信することを許容する態度。
「そんなこと言ってない」「そんなこと聞いていない」(=これってつまりは、自分の解釈と違う他人の言動を「禁止」したいという思想)ではなく、「あ、そう解釈したんだ」「あ、そう伝えられていたんだ」と受け止めること。
たとえば。
「囲い込み」という思想からの脱却。
学校で囲い込もうとする。地域で囲い込もうとする。一企業で囲い込もうとする。そのために「禁止」を他人に強要する(あるいは必然的にそういう環境に個人が持ち込まれてしまう)。
率直かつ個人的な感想「なんてさもしいんだ…」。これで個人が生き生きと振舞える社会になりようがない。
それよりも、「囲い込まれたくなる場所をたくさんつくる」。選択肢は個人に委ね、選択される側は共創の姿勢の下で(ときには)競争していけばいい。
個人の自由を奪うことで所属させようとする考えはほんとにさもしい。開こうよ。
たとえば。
議論より対話。
他人を管理し統制下に置くという考えでは、議論で相手に勝つことを必要以上に大切と捉えがち。相手の考えの「禁止」につながりがち。
折り合いをつける、という考えでは、対話して落としどころを見つけるという姿勢になる。
社会に開くってそういうことじゃないですかね。
…と書きながら、これっていつも、よく私自身、言葉にしている「子どもの居場所をたくさんつくる」と一緒だと気づきました(笑)
2018.08.29 13:37
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