1年間、「こたえのない学校」のLCLプログラムに参加していました。
http://kotaenonai.org/lcl-kokuchi-1609/
…といっても、後半の半年間は体調不良(頭痛が2か月治らなかった)、予定の組めない仕事、という状況で、全く参加できず、検討グループの一員になりきれず、申し訳なさいっぱいですが、そんな私でも最後まで輪に入れていただけた皆様には心から感謝申し上げます。
昨日は最後ということで、学びが終わった後に呑み会。
参加メンバーの一人が、とある教育関係者向けではない外部セミナー(メンバーの質は高いです)に出たとき、教育の話を議論する場があったそうで、そのとき
「(教育の手法が)打ち上げ花火的な…」
と感じたそうです。
はい、私も、公教育の現場を見に行こうとしていない(とでもいいますか)皆さんが教育を語るとき、同じように感じることがとても多いです。
公教育従事者以外は、実際には、現場を見れる機会はほぼないと思うのですが、推測できる部分はあります。
そしてその部分で、公教育外の方が欠けている視点に
“教師は子供の「日常」を支え、1年間(とくに小学校は、担任として)面倒を見続けている。そのための場づくりをし、その上で「学力」を身につけさせている”
というのを強く感じます。
そのために教師は「(学ぶ意欲等の)継続」を常に意識し、授業空間を作り続けているわけですから、派手さ奇抜さ享楽的な感じを捨てています。そして「社会に出てから役立つ”こと””内容”」ではなく、「社会に出てから役立つ”資質・能力”」そのものを磨こうとしているんです。
公教育でこういうことをしたらいいんじゃないか、という案を持たれている方は、その案を組み込んだうえで、1年間の「日常」をつくれるだろうか?を考えてほしいんです(あるいは、非日常としてのプログラムと位置付けるか)
そして、「日常」を支えている教師に敬意をもってほしいと思います。
それが「社会に開かれた教育課程」として、公教育と地域や社会とが良質につながることにもつながると思いますから。
今回参加したLCL、私が参加した様々なセミナー(恐らくこれまで50回は何らかの形で参画しています)の中でもトップクラスに入る、「社会をよくしよう」と考えていて、その思考力も、指導技術も持ち合わせていて、そして(議論ではなく)「対話」できるメンバーでした。その多くが教師でした。
そのことをお伝えしたいとともに、繰り返し素敵なメンバーに感謝の意を表したいと思います。
2017.08.27 22:48
- カテゴリ :教育のこと