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2011.04.17 18:34

諏訪哲二さん。

今、一番学びたい方の一人です。
以前『間違いだらけの教育論』を読み、義務教育でしかなしえない「教育の在り方」を知り(学び)、教育とは何だろう、自分が出来る教育(Z会という私企業を通じて)は何なんだろう、と、深く考えるキッカケになりました。

そして最近、『自己チュー親子』読了。これまた素晴らしい本でした。
ありがちな、モンスターペアレントを単に批判する書籍ではなく、1970年代から家庭のありようが変わり、モンスターペアレント的な親はどのように考えているか、を分析した本です。

このブログで中身を少しずつ紹介していきたいと思います。


“私たちは「私」を信じなければ生きてはいけないが、「私」への懐疑を同時に持っていなければならない。それが近代人の条件であり、モラルである。
しかし、「私」そのものが絶対化したら?
その「私」がほかの人の「私」と交流できなくなったら?
そうなったら、本人にとっても社会にとってもかなり危険なことになろう。”


本著を貫く見方です。
「私だけの私」という言い方も本著に散見されますが、「私だけの私」は本質的に、異質なものが同居する「社会」に蔓延ってはいけませんよね。
そしてこの「私だけの私」「自分だけの自分」が「自己チュー」なわけです。


“自分はひとつで」あってはいけないのだ。社会的な「個人」としての「私」と、自分や自分の外部で閉じている「私自身であるような私」とは区別されなければいけない。近代人は外に表示する「私」と、内面に確保される「(この)私」という、二つの私を持っていなくてはならないのであろう。”

良く分かる考え方ですが、正直「なんて上手に表現するんだろう…」と感じた文章です。
「表現の自由」を論じるときに、良く、「内心」が完全自由であることに対比して、制限付き自由であることを指摘するが、これに似た表現かと思います。

社会的な「個人」としての「私」がいなければ、社会の中で生きていく権利はない、といっても過言ではないでしょう。
第三者から「贈与」を受けるために社会で生きているわけですから…


“カンニング・ペーパーを答案用紙の下に隠してテストを受けながら、カンニングはしなかったし、その意志もなかったと言いはる生徒。他人の自転車を無断借用して、家の近くに乗り捨て、盗んだのではない、ただ、借りただけと言い訳する高校生”

これらの高校生は「私自身であるような私」の論理で言い訳をしているが、社会的な「個人」として通用するハズがありません。
また、問題の本質は、これらの高校生が“社会的な「個人」として通用しない(このままでは生きるのに苦しむ)”と理解していないことにあります。

誤解を恐れずに申し上げれば、悪意がある方がまだマシです。善意だからやっかいなのです。
Tags :
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寺西隆行
ICT CONNECT 21 の寺西隆行です。小松高校→東大理一→工学部環境系→教育の道へ。教育とマーケティングをずっと見つめながら過ごすことが喜びです。
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