最近、
聖学院大学に注目しています。
…というか、マスコミもかなり注目しているようで、先週発売された『週刊ダイヤモンド』では、4ページに渡り特集が組まれていました。
注目している点を挙げると、下記のようなことがあります。
◆キャッチコピー
「面倒見のよい大学。入って伸びる大学。」これをリメディアル教育(入学前準備教育)を始めた頃と同じ時期に使い始め、継続しているようです。
とくに「入って伸びる」という表現を使い続けているところが、広告宣伝担当の一員でもある自分が唸るところです。
キャッチとして使い続ける肝の座り方もさることながら、「入って伸びる」というキャッチ自体を使い続ける以上は、大学内の教育姿勢にもそれを求め続けなければいけない、という、非常に自らに厳しい姿勢を課しているからです。
誰でも年とともに成長します。
「入って伸びる」と大学生が実感するには、「年齢の成長以上に成長する」ことが必要です。
だからこのキャッチ、「本気」の表れなんです。
「偏差値」という尺度では(申し訳ないですが)高くない大学であれば、なおさら。
◆リメディアル教育(入学前準備教育)への覚悟
上に少し触れましたが、聖学院大学ではリメディアル教育の一環として、入学前準備教育を本格的に行っています。
『週刊ダイヤモンド』2010.9.18号より引用します。
==(引用開始)==
使うテキストの内容は、大学生になるための補習授業から描くイメージとはそうとう違う。
たとえば、数学は中学で習う、1次関数のグラフを書かせる問題が並んでいる。英語は、読み上げられる短文の英単語を書き取るレベルのものまである。英文を書き取る場合でも、綴りがわからなければ、カタカナで書いてもよい。小論文(国語)には、注意点として句読点の使い方や改行の仕方まで記されている。
こんな初歩的なレベルでよいのかとも思うが、山下研一広報企画部長はその狙いを、「基礎学力をつけることも大事だが、それより大事なのは学習習慣を身につけ、わかる喜びを体験し自信をつけること」だと説明する。
教え導き、学習習慣をつけさせ、理解することで本人がさらに学習し、伸びる、というわけだ。「伸ばす」ではなく「伸びる」となっているのがミソだ。
==(引用終了)==
教える側に立つ人間は、とかく「(その年次にしては)低いレベルの学習内容」を教えることに抵抗を覚えるものです。
抵抗にもいろいろあり…
1つは、教える側が「そんなことまで教えるべきではない」と決め付けているパターン。
もう1つは「それを教えなければいけない、としたならば、最後(大学の場合は「卒業」)に望まれる学力レベルまでとても達しない」という自信の無さからくる抵抗。
あと、「これを教えていると保護者に知られたらなんと言われるか」という体面もあるかもしれません。
これらの抵抗が基礎学力を身につけることを妨げるばかりか、その前提となる学習習慣の定着を奪っていること、往々にしてあります。
入学を認めた学生のレベルが実際に中学生レベルのこともできていなければ、そこからやらなければいけない―
そんな覚悟と、「伸びる」姿勢の涵養へ導くモデルが、聖学院大学の入学前準備教育にはあるのです。
◆就職を保証しよう、という姿勢
基礎学力をつけ、在学中に一定の学士力を身につければ、昨今外部環境の激変から、大学に大きな期待がかけられている「就職」の斡旋、ということになります。
就職の斡旋、といっても「過干渉」になっては、学生本人の体力を落すことにつながりかねず、いわゆる「就業力」が学生に身につかない、という悪循環になるケースもあるかと思います。
聖学院大学の提唱するのは、セーフティネット。
就職の場合、学生の希望する就職先と、企業の求人を「マッチング」させるため、何万もの企業から情報収集、学生の前に求人情報として提供したり、企業説明会の場を何度も大学で開催する、など、需要と供給の橋渡しを、それこそ「職員が汗をかいて」やっているのです。
情報が氾濫する昨今、学生が「え~その企業知っていたら受けていたのに~」ということ、かなりの確率で起きうると思います。
このような不幸を極力ゼロにする、文字通り「努力」を、聖学院大学は行っています。
以上から、
「現状を真正面から見て、対峙し、解決策を、知恵と汗で模索する姿勢」が、聖学院大学からはまざまざと見て取れるのです。
以前だったら「学士力をつける」だけで大学はよかった。
しかし今は、学士力以前の「基礎学力」や「学習習慣」を定着することや、就業力を身につけることまで、大学側に、「現実問題として」求められている場合が沢山あります。
いうならば、職員にかかる負荷は以前の3倍。
現状を見て「昔だったらこんなことは…」といっている企業人。
でももう、昔じゃないんです。
今に立ち向かうには、昔以上に知恵も汗も必要なんです。
聖学院大学に見習いませんか?