今日の朝、街頭で寄付を募る皆さんを見て、ふと。
かつて…中学生頃まで、は、こういう寄付支援活動には良く出ていました。
「よいことをしたい」と漠然と思っていて、そして、よいことをしている、と思っている自分に酔っていたんだと思います。よくある話ですよね。
大学になり、自分もちょっぴり関係していた団体が、寄付が必要となました。
団体の活動がとてもいいものだったので、思想性において、まず寄付は断られないだろうと思っていた友人に声をかけました。
電話で5分くらい話し、彼はずっと「うん、うん」と繰り返し、「だから今度あったときに寄付金少しよろしくね~」と軽く話しました。
すると彼、「あ、よしとくわ。」と。これも軽い口調で。
「え?」
「だってよくわからないんだもん。」
そして彼は寄付をしませんでした。
僕にとっては、そのときの価値観からすると、考えられず、頭の中に「???」とか「俺、彼に嫌われているのかなあ」まで思っちゃいました。
阪神大震災のときにボランティアに行きました(大学時代)。
震災後すぐではなく、ボランティア熱が冷め始め、本当に人手が必要なときに行ったので、そのこと自体はよかったと思っています。ただ、ボランティアをやっている自分に酔っていたところもゼロではなかったと思います。
社会人の方と一緒に働きました。
「すごいですねー、会社休まれてボランティアなんて。」
「全然すごくないよ、私のわがままですよ。だから有給休暇できているんですよ。会社で働いている人の方がずっと社会に貢献していますよ。」
これまた、頭の中に「???」と浮かぶばかりでした。
その後はっきり分かりました。自分の身の回りや、今向かっていることに何らかの所作を施し、「良く」する行為はすべて社会に貢献しているんだ、と。
寄付を断った彼が、大切にしている人にお金を投じることも社会貢献。
社会人が、組織や会社を通じて成果を出すことも社会貢献なんだ、と。
20代後半から30代前半までは、その反動かもしれませんが、知らない人が寄付を募ったり、ボランティアを呼びかけたりする行為に対し、なんだかなあ、もっと他にやることをやった方がいい(社会貢献になる)んじゃないかなあ、という思いが強かったです。
もちろん、知っている人への寄付や、自分が選んでやるボランティア活動はしていました。
でも、その行為を他人に「やろうよ!」と、こちらからすると強要、他人からすると圧迫感があるレベルまでの言動をしなくなりました。簡単に申し上げれば「勝手に寄付し、勝手にボランティアしている」状態ですね。
だからこそ、街頭で大声で呼びかける行為に、嫌悪感に近いものを感じていました。
そして今は。
自分の身の回りのこと、大切に思っている人たちに専念している自分を否定しないままで、寄付やボランティアを呼びかける人たちも笑顔で見れる自分がいます。
私も、その皆さんも、自分の選んだ行為であって、そのことに自己重要感を持ち、他人にマイナスよりプラスを与えることであれば、それっていいことじゃないかなあ、と。
他人の選択した行動について、とやかく言わない。
苫野一徳さんの仰る「自由の相互承認」って思想性が強くなってきたんですね、私。
※苫野さんの『
どのような教育が「よい」教育か』いい本ですよ!
そして私は今日、朝は少しゆっくりして、体を休め、家族との時間を楽しみ、行ってくるねと会社(下記の教室。笑)に向かい、「コーヒー買うくらいだったら寄付するかな」と、100円だけちゃりんと納めたのでした。
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