オビが秀逸だったので買ってしまった。
「『薩長土肥』の雄藩のなかで最も軽視される佐賀藩から明治維新を問い直す。」
毛利敏彦著「幕末維新と佐賀藩」(中公新書)である。
本文もなかなかのもの。
「さて、黒船来航から和親条約にいたる日本開国の過程は、それなりに目配りの利いた老中阿部正弘の老練な政治指導のもとで、概して無難に執り行われた。ところが世の攘夷風潮に加えて、阿部急死(安政4年6月)後の幕閣が、軽率にも冬眠中の朝廷(天皇)という厄介な妖怪を目覚めさせたので、日本の政情は一気に激動期に入ることになる。」
NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ている人には、具体的に何をさすかわかるだろう。
しかし、大胆な表現をしたものである。
藤田覚著「幕末の天皇」(講談社選書メチエ)によれば、孝明天皇より前の光格天皇のころから朝廷は権威の回復に意欲的であり、冬眠中という比喩が妥当とも思えない。
本書は幕末・維新の佐賀藩がテーマだから、
鍋島閑叟、江藤新平を中心に幕末・維新が叙述されるのは当然である。
実際、藩主の鍋島閑叟は長崎警護の役目がら海防に対する意欲が高く、
藩政改革を断行し、いち早く近代化をなしとげた名君といっていいだろう。
また、佐賀藩出身の江藤新平には教育制度に卓見があり、
司法制度の確立に大きな役割を果たしている。
さて、岩倉使節団が帰国したころ、
西郷隆盛は朝鮮に自分を使者として派遣するように主張していた。
朝鮮で自分が殺されれば、朝鮮を攻める大義名分が立つというのである。
これを征韓論という。
岩倉具視・大久保利通らは征韓論に反対し、
征韓派の西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らは参議を辞任した。
これを明治6年の政変という。
しかし、西郷は自分が朝鮮で本当に殺されると考えていたわけではない。
著者はそう主張する。
「自分が殺されれば」というのは武力による開国を主張する板垣を味方につけるため。
交渉による朝鮮の開国が本心であり、征韓論というのは誤りだというのだ。
「西郷の征韓論」によって大変なことになっている。そう帰国したばかりの岩倉や大久保に吹聴したのは長州藩の不振にあせった伊藤博文なのだそうだ。
下野した江藤新平らは民撰議員設立建白を提出する。
武力による政府転覆など全然考えてはいなかった。
しかし、佐賀の乱が起こり、その首謀者とされた江藤新平は処刑される。
自らが作り上げた司法制度による弁明の機会を与えられることもないまま。
それは大久保利通の強い意向であったといわれている。
「ではなぜ大久保は、国家権力を私物化し、敵味方多数の若者の命を犠牲にしてまで、江藤抹殺に狂奔したのだろうか。その答えは容易には得られないが、あえて大胆な想像を許していただけるなら、私は、大久保が江藤に対する強烈な嫉妬心に囚われていたからであるように思われてならない。江藤の溢れるばかりに華麗な才能は、気力実践力に富むが凡才を自覚している大久保の劣等感をかきたてずにはおかなかっただろう。権力者の嫉妬心ほど怖いものはない。」
確かに、佐賀の乱は大久保の謀略の可能性が高い。
江藤らを思えば、大久保に対する評価は厳しくなって当然だろう。
でも、学者の筆にしては走りすぎでは‥‥