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[2008年06月27日(金) ]
「なぜ、伊藤は大隈を政府から追い出したんだろう?」
帰宅直後、いきなり長女から明治14年の政変についての質問をぶつけられた。
「だって、悪いのは黒田でしょ!大隈は悪いことしていないのに、伊藤はヒドイ!」
どうやら長女は早稲田大学の創立者大隈重信びいきであるらしい。
西南戦争後、政府批判は自由民権運動の形を取るようになり、
国会開設の要求は日に日に高まっていった。
そのころ、伊藤博文と大隈重信はともに政府の中心であったが、
憲法制定・国会開設は避けて通れない課題であると認識を一致させていた。
しかし、大隈が独自に「立憲政体に関する意見書」を上奏したことに伊藤は立腹する。
そのころ、開拓使長官黒田清隆は、同じ薩摩出身の五代友厚に官有物を格安で払下げようとして、民権派の批判を浴びた。開拓使官有物払下げ事件である。
大隈の身内ともいえる大蔵省内からも黒田批判がおこった。
そのため、大隈は民権派と通じているとされ、政府内で孤立した。
伊藤にしてみれば、薩摩閥の重鎮である黒田を敵にまわすことはできなかっただろう。
なにしろ、当時の政府は薩長のバランスの上になりたっていた。
結局、大隈を追放して政府内の結束を固め、官有物の払下げは中止。
「国会開設の詔」を出して国会開設を約束し、民権派の批判をかわした。
以上のように説明できればよかったのだが、
知識にあやふやなところがあったので、ちょっと雑な答え方をしてしまった。
「そう黒田を一方的に悪者と決めつけないほうがいいよ。黒田は本気で北海道開拓を考えていたんだから。函館戦争ってあったでしょ。旧幕府軍最後の戦い。新政府軍を率いた黒田は、降伏した榎本武揚の命を必死で助けようとしたんだよ。男気のある奴なんだよ。伊藤だって、政府内部で大隈と黒田が対立したんじゃ、やってられないでしょ。薩摩と肥前のどっち取るっていわれたら、それは薩摩だよ。薩摩閥のほうが強いもの。」
少し気がひけたので、日本近現代史A牧原憲夫著「民権と憲法」(岩波新書)の明治14年の政変のページにしおりを挟んで渡した。
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