幕末維新の立役者となった薩長土出身者たちは、比較的身分の低い人たちが多いようです。途中、多くの仲間を失ったりもしました。だから、新政府は自分たちのものという意識が強かったでしょうね。一方、鳥羽伏見以後勢いづいて、東北諸藩などに対しては、かなり横暴であったと思います。
Posted by:シルバーバック at 2008年07月30日(水) 18:04
ああ、なるほど。その説明は大変わかりやすいです。
ありがとうございます。
薩長土の子供達は時々集まってサミットを開いているのだそうですね。
幕末から明治にかけて活躍した人の志が今も若い人に
受け継がれているのかなあと思います。
Posted by:上野国出身者 at 2008年07月30日(水) 16:05
上野国出身者様、私自身、あまり意識して「倒幕」と「討幕」を使い分けてきたわけではありません。
使い分けるとすれば、「倒幕」とは幕府から政権を奪取して幕府の解体をはかるということであり、「討幕」は武力によって倒幕をするということになるでしょうか。
では、佐賀藩は倒幕派であったかというと、必ずしも旗幟を鮮明にしていたわけではなく、戊辰戦争開始後に官軍側に参加したということのようです。
Posted by:シルバーバック at 2008年07月30日(水) 10:05
「倒幕」と「討幕」は意味合いが違うのでしょうか。
教えていただけますか。
Posted by:上野国出身者 at 2008年07月29日(火) 18:40
sugarさんがご指摘のように、肥前と肥後は接していませんね。火の国は筑紫国によって分断されていたのでしょうか。でも、それは陸地からの発想であって、本当は有明海でつながっていたと考えたら、納得できるかもしれません。本当はどうなのか調べてみようと思いますが、わからなくても、きっと日本史担当の人たちが黙って見過ごしたりしないだろうと思います。
Posted by:シルバーバック at 2008年07月29日(火) 18:02
越前と越中も接してませんでした。
が,これについては,加賀が越前から分かれたようですので,もともとは接していたようです。
Posted by:
sugar at 2008年07月29日(火) 17:12
ブログの内容と直接関係はありませんが,「肥前」と「肥後」が接していない理由が気になっています。
確か,他の国は,「○前」と「○後」(たとえば「筑前」と」「筑後」。場合によっては「○中」もありますけど)が接していないことはないようなので。
Posted by:
sugar at 2008年07月29日(火) 17:06