Z会が運営するSNS「
パルティオゼット」には「通報」という機能が設けられています。
日記やコミュニティで、ルール違反していたり、なんかひと騒動起こった時に、スタッフに「通報」するための機能です、多分。
私は
パルティオゼットが始まった当時からこの通報という機能、あまり好きではありませんでした。
そして実際今まで使ったことは一度もありません。
通報するのってなんだか後ろめたい感じがした、というかせこいって思ってたんですよね。
上手く言葉に出来ないんですけど、何かあった時に通報ってボタンをポチって押して、あとはスタッフに任せればいいっていう姿勢が嫌いだった、のかな。
だから私はいつも言葉で注意していました。
たまには議論にもなりましたし、スタッフが仲裁に入るほど事が大きくなったこともあります。
でも、やっぱりそういう注意する存在って必要だと思ってましたし、言い合いなどをすることによって、何かが改善する場合も多いんですよね。
例えば、自分が知らないところで通報されてスタッフに注意されるよりも、誰かに「ダメだよ」って一言直接言われた方が素直に受け止められる場合だってあるはず。
でも、最近その注意というものが出来ない…。
その理由は、「組織に属しているから」です。
あまり詳しくは書けないのですが、今私はとある企画に関わっています。
仮にその団体をAとしましょう。
Aという団体に属すことによって自分の行動が制限されているような気がしてならないのです。
(※別にAを批判したいわけではなく、あくまでも例に挙げているだけなので)
上にあげた「通報」にしても、前までは通報するのに抵抗があったのに、今では注意することにためらいを感じてしまう自分がいます。
ルール違反をしていて注意したいと思っても、「ミルヒ」として注意したのではなく「Aに属する人間」として注意した、と解釈されるのが嫌だからです。
私は自分が正しいと思う事を行動に移したいだけなのに、どうしても組織の人間というのが束縛になってしまう。
少しだけ話がずれますが、「こころの科学入門」という授業を大学で取っていました。
そこで、「私は〜」から始まる、自分に関する文章を20書け、という実験が日本人とアメリカ人に対して行われた、という話がありました。
日本人は
・私は大学生である。
・私は18歳である。
・私は吹奏楽が好きである。
などをあげ、
アメリカ人は
・私はフレンドリーだ。
・私は勇気がある。
・私は社交的だ。
などと書いていたそうです。
つまり、一般論として自分を語る時、日本人は「肩書」などを重要視しアメリカ人は主に「性格」などを重要視する、と。
外見か中身か。
これってまさに私がいま上で思ったことに直結するなぁって思いました。
どうしても
パルティオゼットで発言する時に、自分としてではなくAの人間として、っていう意識が付きまとってしまうんです。
組織に属するってこういうことなのかなーって思ったりしました。
そんな時、ある方がこうおっしゃってくれました。
Aのメンバーとして規則として守ることは守っても、自分と言う「個」を捨てちゃダメだ、と。
このバランスって大事だ、って。
〈「個」を守るということと、社会性を弁えるってこと、対立概念じゃない。〉
すごく当たり前のようなことに聞こえて実際とっても難しい。
対立概念じゃないのに、でも、そう受け止められてしまうことが多々あるのが現実。
締めがなくてちょっと後味の悪い文章になってしまいましたが、
まぁこんなことを思ってみた大学1年生の夏でした。