2009.01.20 15:54


 同性愛者や両性愛者などの性的少数派は、英語で「セクシュアル・マイノリティ」(セクマイ)と呼ばれています。

 しかし、そもそも性は個人的な属性であり、それぞれに違うわけで、たとえば「同性愛だから少数派」と位置付ける意味がどれほどあるのか、疑問を感じることがあります。

 そこで、「セクシュアル・バラエティ」(セクバラ)という言葉を使っている友人が僕にはいます。

 これは、性の自己決定だけでなく、個人の自尊心の自己決定権を保証する意味で、とても良い提案のように、僕は感じました。

 というのも、このブログで紹介した森山直太朗さんの歌『生きてることがつらいなら』について、いくつかのコメントがあって、そのほとんどは「嫌なら聞くな」「そんなふうに受け取られるのが不思議だ」という否定的なものだったのです。

 「そんなふう」とは、僕がこの歌について、こう書いたからです。

大好きな恋人や大事な親友に対しても、「くたばる喜び、とっておけ」と歌えるのかな?

 
 この歌によって、救われる人もいるでしょう。
 しかし、救われないどころか、不快に感じる人もいる。

 そのように異なった相反する印象を両方受け入れることこそ、大事だろうと思うのです。
 なぜなら、人それぞれに感性があり、その感性は個人それぞれの人生経験で異なってくるからです。

 それは、自尊心の持ち方が違うことに由来します。

 たとえば、親から虐待を受けて育った人に対して、平気で「親孝行しろ」「親を憎むなんて信じられない」という人がいます。

 虐待された事実がどれほど重く、世間から「それでも親なんだから」と言われてしまうつらさを、どれほどの人が知っているでしょうか?

 そこには、少数派ゆえに、世間という大人数にあがらえない悔しさが見え隠れします。

 しかし、それを耐え忍んだ先に、無理解・無関心な世間も受け入れる文脈として「人はそれぞれだよね」という地平に立つことができます。

 「人それぞれ」と認識することは、自分を少数派として切り捨ててきた世間を受け入れるという痛みまで受け入れてきたことを意味します。

 森山ファンには、彼の歌う歌を肯定的に受け入れたい気持ちが強いのかもしれません。
 しかし、その気持ちと同じくらいに、彼のその歌に嫌悪を感じる人がいる現実も受け入れてみてはどうだろうかと思うのです。

 自殺したい人に向けて歌ったと思われるこの歌は、自殺志願者がそれぞれ死にたくなる理由が違うように、また自殺された遺族の気持ちもそれぞれ違うように、手放しでこの歌を肯定することができない人がいるってことを配慮して作られたとは、僕には思えないのです。

 なので、もう一度、書いておきます。

大好きな恋人や大事な親友に対しても、「くたばる喜び、とっておけ」と歌えるのかな?

 この「 」の中のフレーズは、本当に救いでしょうか?
 僕には、むしろどこか突き放したように感じます。

 死ぬほどつらい問題を抱えている人に対して、一緒に解決するために汗をかこう、時間をなげうとうとするならば、こんな突き放した評論家のような書き方にはならないと僕は思うのです。

 僕は議論を求めているわけではありません。
 そう感じてしまう人がいることを知っておいてほしいと思うのです。

 なぜなら、自分が死にたくなるような当事者になった時に、本当に「くたばる喜び、とっておけ」と言われてうれしいかどうかは、その時にあなたが決めることになるからです。

 当事者性とは、「人それぞれ」の感じ方をすべて肯定することです。
 一つのことに対してみんなが同じように感じることが正しいなんて考えは持ちません。

 あなたがそう思えば、それは正しい。
 それと同じ程度に、僕の言うことも正しいのです。
Tags :
総合
ソーシャルブックマーク:

2008.09.09 00:34


 森山直太朗の新曲『生きてることが辛いなら』が、一部で話題になっています。

 で、おそらくこの曲を嫌がる人の多くは、「死ねばいい」というフレーズに引っかかったんだろうと思います。

 で、この曲を擁護したいファンの多くは、最後のフレーズ「くたばる喜び、とっておけ」で救われたと主張するのでしょう。

 しかし、どっちにしても、なんだかさみしい気がしませんか?

 つまりは、「お前が決めればいいんだから勝手にすれば?」と突き放しているわけです。

 なぜ、生きてることが辛い人に、「一人で抱えられないほどつらいことがあるなら僕が一緒に解決に動いてあげるよ」と言ってあげないのでしょうか?

 そこに気づけば、この曲があまりにも人と人との「つながり」を喪失してしまっていることに鈍感な歌詞になっていることも理解できるはずです。

 森山さんは作詞したわけでありませんが、テレビでは心をこめて歌っているように見えました。

 「死にたいほどつらいだろうけど、僕は死なないでねと語りかけることしかできないよ」

 彼が本気で歌えば歌うほど、そのように突き放しているように聞こえるのです。

 もちろん、死にたいほどつらい人の話を聞いてあげたり、一緒に死にたくなるほどのつらさを導く問題を解決してくれる人が現実にいないという自殺志願者に対して、語りかけることしかできないのかもしれません。

 でも、「くたばる喜び」を「とっておく」ことを勧めるとしたら、それは「死はすべてから解き放たれる甘美なもの」と認めているようなものではありませんか?

 その甘美なものに近づいたほうが楽だと思う自殺志願者にとって、この歌詞を言葉通りに読めば、「とっておく」時間ずっと生きづらいのだから、そんな時間を待つ必要はないよねと感じるのではないでしょうか?

 ここには、生きることが辛い人の立場ではなく、死んでほしくないという他人事を装いたい立場を優先したいという気持ちが見え隠れします。

 前にこのブログでNHKの福祉ネットワークの番組サイトに「生きろなんて言えない」という文章を寄稿したことを書きましたが、本当に死にたいと思ってしまうほどの生きづらさを抱えている人の立場に立つ時に「くたばる喜び、とっておけ」と歌えるのかな?

 自殺志願者に対してでなくても、たとえば、大好きな恋人や大事な親友に対しても、「くたばる喜び、とっておけ」と歌えるのかな?

 やっぱり、この歌、自分と相手との「つながり」をどこかに置き去りにしているように、僕には感じられるのです。

 相手の苦しみを他人事にしたくないのであれば、そういう突き放した言い方が、ともすれば相手を孤独にさせたままにするのではないかという不安を抱いてもいいはずです。

 人間は、生まれてくる時も死ぬ時も一人です。

 だからこそ、生きてる間くらい、誰かとのつながりを感じ、相手の気持ちや事情に関心をもった物言いを心がけることが必要な気がするのです。

 あなたがさみしさを感じた時、この歌を聞いてみてください。

 「死ねばいい」なんて無責任なこと、勝手にほざいてんじゃねぇよ!
 あんたに俺の気持ちがわかってたまるか!

 そう言いたくなるんじゃないかなぁ?
 
Tags :
総合
ソーシャルブックマーク:

2008.08.22 02:46

 たまには、音楽の話をしましょう。
 音楽は、弱者のもてる一番安い希望だからです。

 ここ数年、僕はユニバーサルな音楽というものを考えながら、流行歌を聞いています。
 ユニバーサルとは、人類普遍なもの。
 国籍も文化も歴史も言語も超えて、どこの誰でも「いいなぁ」と感じうる音。
 そんな音が作られる時代が既に始まっているような気がするのです。

 そもそも、音楽には、冠婚葬祭などの儀礼や、収穫祭や農作業などの生活、戦争や政治などの中から自然発生的に生み出されたという歴史があります。

 世界の民謡を見ても、牛追いの歌があったり、花を摘む歌があったり、もちろんラブソングもあります。

 しかし、そうした土地に根差した土着の歌が多くの人に受け入れられていた時代から、20世紀に入ると蓄音機が誕生し、レコードという複製音楽が商品化されるにつれ、「音楽のグローバル化」が進みました。

 気がつけば、どこの町にもネット上にも商品化された音楽があふれ、国内外の音楽を自由に選べる時代になってきました。

 こうなると、同じ時代や同じ国に生まれていたとしても同じ歌を歌う機会は減り、同じ流行歌をみんなで歌うことは、他人とのあいさつ程度に「抑えておくもの」になり下がり、いつもは個人的に好きな楽曲にはまるということが当たり前になってしまいました。

 そうした中で面白い傾向も生まれてきているように思います。
 それは、どこの国の音楽であっても、自分が好きならそれでいいというリスナーの感覚です。
 端的にいえば、どの言語で歌われていても、そのアーチストがインディーズであろうとなかろうと、好きな音楽ならかまわない、というわけです。

 そこで、下記の映像を見てください。
 日本では、まず知られていない「キューティーパイ」という2人組(※現在は3人組)が自分たちで作った歌を、サビだけ、リスナーであるドイツ人に合わせてドイツ語で歌っています。

http://www.youtube.com/v/bH9PhhceJYw&hl=ja&fs=1

 そういえば、日本の仙台を本拠地に活動しているバンド「モンキーマジック」も、カナダ人兄弟と日本人2人の混成バンドで、日本語と英語の両方を歌詞の中に入れ込んでいます。

http://www.youtube.com/v/JDAm9Bz1E8w&hl=ja&fs=1

 「ハイブリッド・バンド」などとも呼ばれてますが、彼らの音楽は日本以外でもリスナーを獲得しているらしいです。

 ちなみに、ゆらゆら帝国というバンドも、ニューヨークで日本語で歌うライブが受けて、ライブ盤を現地のレコード会社から発売するなど、言語を超えた受け方をしています。

 そもそも、音楽に乗っている言語の意味などは、音楽の魅力であるグルーヴの次の次くらいに必要なものかもしれませんが、一部だけでもリスナーの理解できる言語が含まれているだけで、ミュージシャン側が伝えたいフィーリングは伝わるというものでしょう。

 そのぐらい、すでにいろんな音楽が20世紀の間に世界中に流通し、ロックはアメリカの専売特許ではなくなり、テクノポップも日本の専売特許ではなくなったというわけなのです。

 みんなが自分の好きな音というものを知っている世界。
 そこには、国境も言語の違いも関係ないってわけです。

 でも、だからこそ、母国語では理解できないリスナー向けに一部でも相手の言語を混ぜてあげながら、独自の音楽世界を聞かせていくというモードが支持されていくのだろうと思うのです。

 それは、国境や地理、お国事情や文化などを超えるための約束のようなものです。
 言い換えるなら、個人的なフィーリングをどんな人にも伝えられるようにするための変換プラグのようなものです。

 そして、そうした配慮が目指す先は、自宅パソコンからネット上にアップした音源が、世界のどこかにいる誰かが支持するという音楽の流通の面白さを実現し、「私の痛みはみんなの痛み」といえるだけの回路を作るという音楽の新しい方向性なんだろうと直感するのです。

 私の痛みは、君にも理解できる「みんなの痛み」。
 それが目指される時、私は(ふだんは周囲から疎外されていようとも)決して孤独ではない。
 そうした希望的観測に基づいたポップソングを、僕は「ソーシャルポップ」と呼んでみたい気がするのです。

http://www.youtube.com/v/PLiM1MFpBEY&hl=ja&fs=1

 かつて、YMOという日本のバンドが、「テクノポップ」という音楽の新しいジャンルを世界に発信し、「世界中のマイノリティ(少数派)のみなさんへ」と呼びかけ、音楽のジャンルとして世界的な認知を受けたように、「ソーシャルポップ」はやがて当り前のジャンルになっていくのかもしれません。
Tags :
総合
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
今一生
 君は誰かにとっての「強者」。その意味を一緒に考えよう!

カレンダー

<<   2017年12月   >>
          01 02
03 04 05 06 07 08 09
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

新着記事

月別アーカイブ