[2008年09月05日(金) ]
「社会起業家」をもっとふつうの市民にとって身近な存在にするために、いろんな支援事業を自分らしく始めようと考えています。
一つは、社会起業家の方々が自らの活動を広報するのに時間や労力、コストをかけているので、そうした広報を講演という形でお金をもらってできないかと考え、社会起業家による講演をブッキングする広報支援事業。
これは、おいおい既存の会社の社内ベンチャーとして経理を代行してもらう形で進めたいと協力企業を探しています。
また、このブログでも書いたように、社会起業による社会問題解決の実録に基づいたリアルでドラマチックな物語をマンガにするために原作を書くことも考えています。
いま、マンガの力は急速に失われつつあります。
それは、マンガの主だった購買層の10代の消費動向がゲームやインターネット、ケータイに流れており、マンガは雑誌ではなく、単行本のみを好きなものだけたまに買うという習慣になっているのにもかかわらず、マンガ編集の現場に危機感が足りないからです。
しかし、ゲームを超えるだけの「強度」のある物語が、ノンフィクション=実録にはあるのです。
みんなが困っている社会問題を解決するためにビジネスを生み出し、問題の解決にエネルギーを注ぐ社会起業家の物語は、「なぜ働くか」という命題に明確に答えています。
それは、10代でも大人でも親でも子どもでも理解可能な魅力的なアクションです。
できれば、オンラインゲーム化したい社会起業の物語さえあります。
しかし、その原作としてマンガ発で始めたほうが、沈滞している出版業界に一筋の希望の光をともすことになるでしょう。
何10億という単位で売り上げが落ち込み、いろんな雑誌が休刊に追い込まれている今、書籍という商品には定価の一部が社会起業家に寄付されるような社会貢献という付加価値をつけてみる試みが必要でしょう。
ヴォルヴィックの「1リットルfor10リットル」というキャンペーンで、あの水は前年度比1.3倍以上の売り上げを示しました。
1リットルのヴォルヴィックを買えば、10リットルの安全な水がアフリカに生まれるという仕組みです。
水自体は変わっていないのに、社会貢献のできる水という付加価値が売上を上げたのです。
そのような消費者の意識の高まりを理解できる人が出版界にいるのなら、本の売り上げの一部を寄付することをデフォルトにしていくこともできるでしょう。
買うだけで社会貢献。
これが、これからの時代の当り前の付加価値になります。
他にも、ニュースになるような社会貢献の仕組みのアイデアはいくつもありますが、出版業界のような旧弊なビジネスモデルの業界にほど、教えてあげたい気がします。
もっとも、当事者である出版社の社員がそこにお金を出すだけの危機感を持っていれば、の話ですが…。
[2008年09月02日(火) ]
ボランティアで社会貢献活動をしている人から、こんなことを聞きました。
「お金を持っている人ほど、寄付してくれないのです」
下流資産層には寄付するだけの余裕がなく、逆に上流資産層であるお金持ちは自分の利益になることにしかお金を出さない。
そして、貧乏でも飛び抜けたお金持ちでもない中流資産層(ふつうの人々)は、社会的弱者にそもそも関心が薄い。
…というのが、先進国であるはずの日本の姿、らしいのです。
そこで、いきなり余談になるかもしれませんが、資産層別に親の教育方針は異なります。
下流資産層の親は、「自分らしさを追うよりも人並みになりなさい」と言います。
中流資産層の親は、「人並みになるなら、自分らしく生きても応援する」と言います。
上流資産層の親は、「人並み以上になりなさい」と言います。
しかし、戦後、高度経済成長によって「にわか中流」として自分の家や車を持つに至った資産層は、どんどん下流化への一途をたどっています。
つまり、もともと下流資産層だった家柄では、形ばかりは中流並みになったつもりでも、内面は下流のままなので、ただ真面目に働いていれば時代の波によって高所得化していった時代をデフォルトとして考えているので、自分自身の努力で人生は開けていくのだという自己評価を親自身が持てないまま、子どもを教育しているケースが珍しくないのです。
なぜ高校や大学に行くのか、その理由がはっきり自覚されないまま、「みんなが進学するのでとりあえずそれに合わせる」という気持ちのままでは、大学で就職戦線に立たされた時に息切れします。
何のために働くのか、それがわからなければ、働いた後でも辞めてしまいます。
つまり、自分はなぜいま、この勉強をやっているのかという答えにはっきりした答えを持とうと自覚しないかぎり、結局は問題を先送りし、大人になってから失速し、自発的な失業者になってしまいかねないのです。
そこで、自分の生い立ちを考えれば、親から自分の夢を応援されない下流資産層の子は、とまどいます。
しかし、ある意味では、どうあがいても金持ちのようにはなれないし、憧れももたないので、収まるところに収まることで精神的な安定を保ちます。
問題を先送りしがちな中流資産層は、自分が自分自身のことをあまりにも考えていなかったことに、ある日突然に驚愕します。
あえて上流資産層の行方については書きませんが、「ふつうの人」とは中流資産層の出身者であり、彼らは大学生になる頃には、自分が中流の人としか付き合っていないことに気付かないまま、周囲に合わせることを考えるしかなくなっているのです。
世の中には、もっとわかりやすく言うなら、海の向こうの世界には、1日1ドルの暮らしを強いられてもなんとか生きようともがいている人たちがいます。
それを知るとき、ガレージに車が2台以上あったり、億ションに住むことがステータスだと思ったり、小学校受験に躍起になったりしている「豊かさ」があまりにも空しいことだと気づいてもいいようなものです。
それらの「モノ」は、あの世まで持って行けません。
むしろ、こっけいなライフスタイルのように、僕には思えます。
3食飯が食えて、屋根があって、なんとか食いつなげる程度の収入があったら、自分より経済的にも精神的にも余裕のない人を救いあげることに時間や労力を投資するほうが、まっとうな命の使い道のような気がするのです。
そのように考えた人たちが昨今増えています。
社会起業家とは、そのように自分より弱者が世の中には多数存在している現実に目をそむけない人たちなのだといえるでしょう。
ベンツを数台乗り回した後でないと、弱者のことを考えられないとしたら、あまりにもモノに操られた人生のように思うのです。
あなたの隣にも、きっと弱者はいます。
あなたは、誰かにとって「強者」なのです。
今のあなたにも、きっとできることがあるはず。
その発見から、本当に「豊かな」人生が始まるように思うのです。
[2008年08月29日(金) ]
僕はここのところ、「社会起業家」のことばかり、ブログでも雑誌でも本でも書いているわけですが、政治や行政が解決できない社会問題の解決にビジネスの手法を使って取り組んでいる彼らにも悩みはあります。
その一つが、市民を味方にするために、自分たちの取り組んでいる社会問題の一般への認知を広げていくことなんですが、社会起業シーンには、どうしても市民運動とビジネスという両面を往復するばかりで、ふつうの人と上手につながることが忘れがちになっている傾向があるんですね。
もちろん、社会問題の解決にまじめに取り組んでいるからこそ、なかなかふつうの人たちの生活まで関心を持つ余裕がないのかもしれません。
しかし、ふつうの市民からの理解を得たいのであれば、ふつうの市民がどんな暮らしをしているかに関心をもつのは当然でしょう。
もっと端的にいえば、ふつうの人たちがふだんのくらしの中でふれるメディアに出ていくことが大事だろうと思うのです。
それは、テレビや新聞といったマスメディアだけではなく、映画や音楽、演劇やアート、マンガやアニメ、本などの娯楽も入ります。
ところが、なかなか、社会起業家は自分たちの活動がそうしたふつうの市民のアート・コンテンツになっていけることを知りません。
僕はその突破口として、社会起業家の仕事をドラマティックに描くマンガの原作を手掛けたいと常々思っています。
いま、目を引く新鮮なドラマがある働き方は、社会起業のように公益のために汗を流し、助成金を取り付けるだけの社会的成果を上げている人たちくらいです。
たとえば、バングラデシュでジュートという麻を使ったおしゃれなバッグを作り、日本で売っているマザーハウスの山口絵理子さんの起業に至るまでの奮闘ぶりは『裸でも生きる』(講談社biz)という自叙伝で明らかにされていますが、これはまさにマンガそのものです。
読んでみれば、実録マンガとして成立する条件がいっぱいあるとわかるはずです。
それをマンガ雑誌を発行している講談社が漫画化しないのは、とても残念です。
他にも多くの社会起業家がいて、それぞれにドラマチックな起業、斬新なアイデア、ユニークな働き方など、マンガになりうる魅力が満載です。
ぜひ、社会起業家自身が漫画化に動けなくても、自叙伝を書いてマンガ編集部や、漫画家に売り込んでみれば、0円で宣伝できるか、原作権があれば、印税をもらいながら広報することができるでしょう。
せっかく苦労してみんなのために社会問題の解決をしているのですから、それをマンガや映画のようなポップなメディアでふつうの市民の届く場所へ知らしめてほしいように思います。
もちろん、売れているシンガーソングライターやロックアーチストに歌を作ってもらうのもいいかもしれませんね。
その印税の一部を社会問題を解決する活動原資に充当させられるような時代が来たら、きっと日本はもっと楽しい国になるような気がするのです。
[2008年08月26日(火) ]
自殺志願者に「生きろ」とは、簡単に言えない…。
そんな趣旨の記事を、NHK福祉ネットワークの特設サイト「自殺と向き合う」に書きました。
「死にたい」という人に「生きていてほしい」というのが精いっぱいの人に、自殺対策のほんとのところを知ってほしいからです。
これまでの自殺対策は、精神科医療に問題解決を預けるか、地域で連携して支援できる人間関係を作っていくか、「いのちの電話」などの支援団体に任せるかというもので、それらにお金を投じれば何とかなると考えられていました。
しかし、ここ10年、日本の自殺者数は年間3万人台をキープしていて、劇的に減ってはいないのです。
となれば、根本的に自殺対策が間違っていたと反省するのが、当たり前の反省でしょう。
では、何が間違っていたのでしょうか?
僕は、死にたい理由がそれぞれあるのに、その個々の事情に踏み込んで、一緒に解決を伴走できるだけの個人的な試みを軽視してきたからだろうと思います。
自殺対策には、マニュアルがありません。
死にたい理由はさまざまであり、当事者がうつ病でも、うつ病を治せば死にたくなくなるかといえば、そうではなく、死にたくなる誘因が親からの虐待であれば、親から引き離して暮らせるだけの手ほどきが不可欠なのです。
ソーシャルワーカーがそこまで道筋をつけられるかといえば、なかなか難しいと思います。
少なくとも、僕は自殺者の葬式で、ソーシャルワーカーが列席しているのを見たことがありませんから。
こう言ったら語弊があるかもしれませんが、葬式に出る程度の深い人間関係を当事者と結ばない限り、死にたいという気持ちをほぐすだけの支援ができるとは思えないのです。
「死にたい」と望む人に対して「生きてほしい」と言うのは、立派なエゴです。
しかし、それがエゴでなくなるのは、「死にたい」とまで追い詰められているその人の問題を一緒に解決にまで導くという強い気持ちなしには難しいでしょう。
そして、そういう強い気持ちがあると、支援する側の時間が奪われますから、支援する個人にこそ経済的な支援を取り付けることが必要だろうと思うのです。
しかし、今日に至るまで、財団や国、自治体が、自殺者を食い止めるために日夜飛び回ったり、相談電話を受けては解決に走っている個人にお金を援助した、という実績を聞いたことはありません。
ニートの社会復帰のための支援事業においても同じことがいえるのですが、何年も働いていないニートに人並みの職業技術を身につけさせたところで、すぐに雇用されるとは限りません。
なぜなら、失業していたことはマイナスの履歴となり、採用される際に他の人と比べられるとハンデになるからです。
労働意欲についても、マイナスの実績は「薄い」と見られがちです。
ニートどころか、自殺を繰り返しているような人は、さらに社会復帰が厳しいです。
たいていの企業は、そういう人を「危ない人」「怖い人」と考えて遠ざけがちですから。
だからこそ、自殺したい人を救うには、伴走者が必要なんです。
向かい風がどんなに強くても、一緒に闘ってくれる仲間が必要なんです。
あなたはタダでそれができますか?
僕には、もうできません。
そんな体力もありません。
だからこそ、自殺を誘引する社会問題の解決をビジネスの手法で取り組む「社会起業家」を応援することにしたのです。
[2008年08月25日(月) ]
社会の仕組みが悪いせいで貧乏や失業、病気などを強いられている「社会的弱者」は、世界中にいっぱいいます。
逆に、それほど生きることに困っていない人も、いっぱいいます。
だったら、「生きることに困ってない人」が社会的弱者を救ってあげればいい。
僕は自然にそう思うのですが、現実はそう自然に思う人は決して多くはないようです。
たとえば、「アフリカでHIVウィルスをもったまま生まれてきた子どもがいます。ぜひ支援してください」と言われたとき、自分とのかかわりがよくわからず、結果的に無関心を装ってその場から離れたくなる、ということはあるでしょう。
他にも、「ニートを支援して社会復帰につながる活動をしています。その活動を手伝ってくれませんか?」と言われた場合も、やはりそれだけでは自分がかかわる意味がよくわからないということもあるでしょう。
社会問題は国内外に山積みであり、無差別テロ、年金問題、減らない自殺者、子ども虐待、失業対策など、数え上げればきりがないほど多いので、目を覆いたくなる気持ちもわからないではないのです。
世界中に社会的弱者はいっぱいいて、深刻な社会問題が毎日のように新聞やテレビなどで報道されている今日、そのすべてに責任を感じていては、身が持たないのも道理なのです。
しかし、そうではあっても、社会問題というのは自分から遠い出来事ではないのです。
逆にいえば、自分とは無縁のように見える問題もどこかで自分とつながっているからこそ、どこか生理的に放り出したくなるような重さを感じるのではないでしょうか?
僕自身、すべての社会問題に付き合っていたら、生きていけません。
それでも、自分が見過ごせないと思ったことは、自分の無理なくできる範囲で支援をしたいと思うのです。
この「無理なく」というのがポイントで、ほんの少しの支援を無駄なことと思わず、たとえば、支援したいNPOやNGOの団体のサイトを自分のブログで紹介してあげるだけでもいいと思うのです。
そして、自分が「どうしても見過ごせない!」と思った社会問題についてだけは、その解決のために日夜働いている社会起業家を探し、活動を手伝ったり、広報してあげたり、あるいは自分で解決できるビジネスを始めるなど、アクションを始めたらいいと思うんです。
あるホームページで、こんな言葉を見つけました。
「先進国に住む私たちの心の飢餓が、世界の飢餓をつくりだしている」
あなたは自分自身の心を満たすことばかりを考え、自分が救えるはずの社会的弱者の苦しみについては忘れていいと、本当に思っているのですか?
違うはず。
僕はそう思いたいのです。
元ビートルズのジョン・レノンは、「imagine」でこう歌いました。
「僕は一人じゃない。
君もいつか仲間に加わってほしいな」
[2008年08月22日(金) ]
たまには、音楽の話をしましょう。
音楽は、弱者のもてる一番安い希望だからです。
ここ数年、僕はユニバーサルな音楽というものを考えながら、流行歌を聞いています。
ユニバーサルとは、人類普遍なもの。
国籍も文化も歴史も言語も超えて、どこの誰でも「いいなぁ」と感じうる音。
そんな音が作られる時代が既に始まっているような気がするのです。
そもそも、音楽には、冠婚葬祭などの儀礼や、収穫祭や農作業などの生活、戦争や政治などの中から自然発生的に生み出されたという歴史があります。
世界の民謡を見ても、牛追いの歌があったり、花を摘む歌があったり、もちろんラブソングもあります。
しかし、そうした土地に根差した土着の歌が多くの人に受け入れられていた時代から、20世紀に入ると蓄音機が誕生し、レコードという複製音楽が商品化されるにつれ、「音楽のグローバル化」が進みました。
気がつけば、どこの町にもネット上にも商品化された音楽があふれ、国内外の音楽を自由に選べる時代になってきました。
こうなると、同じ時代や同じ国に生まれていたとしても同じ歌を歌う機会は減り、同じ流行歌をみんなで歌うことは、他人とのあいさつ程度に「抑えておくもの」になり下がり、いつもは個人的に好きな楽曲にはまるということが当たり前になってしまいました。
そうした中で面白い傾向も生まれてきているように思います。
それは、どこの国の音楽であっても、自分が好きならそれでいいというリスナーの感覚です。
端的にいえば、どの言語で歌われていても、そのアーチストがインディーズであろうとなかろうと、好きな音楽ならかまわない、というわけです。
そこで、下記の映像を見てください。
日本では、まず知られていない「キューティーパイ」という2人組(※現在は3人組)が自分たちで作った歌を、サビだけ、リスナーであるドイツ人に合わせてドイツ語で歌っています。
http://www.youtube.com/v/bH9PhhceJYw&hl=ja&fs=1
そういえば、日本の仙台を本拠地に活動しているバンド「モンキーマジック」も、カナダ人兄弟と日本人2人の混成バンドで、日本語と英語の両方を歌詞の中に入れ込んでいます。
http://www.youtube.com/v/JDAm9Bz1E8w&hl=ja&fs=1
「ハイブリッド・バンド」などとも呼ばれてますが、彼らの音楽は日本以外でもリスナーを獲得しているらしいです。
ちなみに、ゆらゆら帝国というバンドも、ニューヨークで日本語で歌うライブが受けて、ライブ盤を現地のレコード会社から発売するなど、言語を超えた受け方をしています。
そもそも、音楽に乗っている言語の意味などは、音楽の魅力であるグルーヴの次の次くらいに必要なものかもしれませんが、一部だけでもリスナーの理解できる言語が含まれているだけで、ミュージシャン側が伝えたいフィーリングは伝わるというものでしょう。
そのぐらい、すでにいろんな音楽が20世紀の間に世界中に流通し、ロックはアメリカの専売特許ではなくなり、テクノポップも日本の専売特許ではなくなったというわけなのです。
みんなが自分の好きな音というものを知っている世界。
そこには、国境も言語の違いも関係ないってわけです。
でも、だからこそ、母国語では理解できないリスナー向けに一部でも相手の言語を混ぜてあげながら、独自の音楽世界を聞かせていくというモードが支持されていくのだろうと思うのです。
それは、国境や地理、お国事情や文化などを超えるための約束のようなものです。
言い換えるなら、個人的なフィーリングをどんな人にも伝えられるようにするための変換プラグのようなものです。
そして、そうした配慮が目指す先は、自宅パソコンからネット上にアップした音源が、世界のどこかにいる誰かが支持するという音楽の流通の面白さを実現し、「私の痛みはみんなの痛み」といえるだけの回路を作るという音楽の新しい方向性なんだろうと直感するのです。
私の痛みは、君にも理解できる「みんなの痛み」。
それが目指される時、私は(ふだんは周囲から疎外されていようとも)決して孤独ではない。
そうした希望的観測に基づいたポップソングを、僕は「ソーシャルポップ」と呼んでみたい気がするのです。
http://www.youtube.com/v/PLiM1MFpBEY&hl=ja&fs=1
かつて、YMOという日本のバンドが、「テクノポップ」という音楽の新しいジャンルを世界に発信し、「世界中のマイノリティ(少数派)のみなさんへ」と呼びかけ、音楽のジャンルとして世界的な認知を受けたように、「ソーシャルポップ」はやがて当り前のジャンルになっていくのかもしれません。
[2008年08月20日(水) ]
「サッカーボール1個を貧しいアジアの子に贈ったところで、何も変わらない」
そう思う人がいるかもしれません。
でも、サッカー通なら、世界のサッカー選手の多くが貧しい国の貧しい街の出身であることを知っているでしょう。
サッカーは11人で1チーム。
ボールが1個あれば、22人がゲームを楽しめます。
草サッカーを楽しむ子どもたちの中から、将来のプロサッカー選手が出るかもしれないのです。
その可能性は、カネも遊び道具も食事も満足にない子供たちにとって、一つの希望です。
自分がプロになれなくても、一緒にゲームに興じた友達がプロになったら、それは、その街の人たちにとって大きな誇りでしょう。
貧しいからって、希望がゼロになるわけじゃない。
そう思えることは、今日1日を元気に過ごすために最低限必要な気持ちだと思います。
もちろん、サッカー以外にも、野球やバスケ、映画俳優や歌手など、貧乏から脱出できるチャンスはいっぱいあります。
しかし、そうしたチャンスに希望を感じるのも、ボール1個があるという現実を作り出すことから始まるのだと思います。
いま、北京オリンピックを見ていても、同じ思いを感じることがあります。
ボール1個がなくても、ただ走るだけで国民的英雄になれるかもしれない。
アフリカの選手や南米、アジアなどの貧しい国の選手がアスリートとして国を代表して走る時、それは、国を背負う以上に自分自身と家族の生活を豊かにする少ないチャンスに賭けているのです。
そんなことを思いながら、サッカーボールをカンボジアのこどもたちに贈ろうとしている「ゆるかも」の活動(一つ前の記事)に関心をもってほしいと思うのです。
できれば、サッカーボールをメーカーから直接安く買って、メーカーにも趣旨を理解してもらって、より多くのボールが届けられるようになるといいですね。
[2008年08月19日(火) ]
mixiというSNSのコミュニティで、こんなイベントの案内を見かけました。
国際協力サークルの「ゆるかも」と申します。
ゆるかもは、毎月第3土曜日に、「自分が楽しんで、しかも国際協力♪」がテーマのイベントを開催しています。その名も、サン(第3)ド(土曜)会!
8月のサンド会はフットサルです。
暑い夏に、一緒に思いっきり気持ちのいい汗を流してみませんか?
皆さんの参加費の一部で、カンボジアの子どもたちにボールなど届けたいと考えております。皆様どうぞお誘い合わせの上お越しください。
■種目 フットサル
■日時 8月23日(土)【今回は第4土曜日となります】16:00〜18:00
※19時半から新宿で懇親会を行います。懇親会からのご参加もokです!
■会場 西東京アスタジアム 西武新宿線田無駅より徒歩1分
http://www.ginza-de-futsal.com/tanashi/
〒188-0011 東京都西東京市田無町2丁目1番1号 アスタビル屋上
■集合 田無駅北口 15:40
■持物 運動靴、着替え・タオルなど(更衣室有)
■定員 先着20名
■参加費 学生1500円 社会人1800円
このイベントに参加するだけで、つまりフットサルを楽しむだけで、カンボジアの子供たちにサッカーボールが届けられるという、ささやかな社会貢献なんですね。
貧乏な国の子供たちは、サッカーボール1個を調達するのも大変なんです。
そういう事実を多くの人に知ってもらおうという試みは、まさに元サッカー選手の中田英寿さんが「Take Action2008」と称してフットボールの試合を行い、観戦客に世界の社会問題の映像を見てもらうというソーシャル・ビジネスのカジュアル版と言えそうです。
僕自身の著書『社会起業家に学べ!』(アスキー新書)も、買うだけで日本に社会起業家を増やすお手伝いができます。
本の定価の1%が、社会起業家を育成・支援するNPO法人etic,に届けられるからです。
このように、社会貢献は、それが正しいからやるというあり方から、「自分が楽しめることで自動的に社会貢献になる」というアクションへと変わってきているんですね。
これを読んでいるあなたも、ぜひ「楽しみながらできる社会貢献」の仕組みを考えてみませんか?
きっとゲームのように楽しい社会貢献を新たに生み出せると思いますよ。
[2008年08月15日(金) ]
僕は、4年前から『高校教育』(学事出版)という月刊誌に連載記事を書いています。
高校の校長先生・教頭先生しか読まないという、ある意味でマニア雑誌です。
そこの次号の連載用に書いたネタが、ビジネスに関心のある高校生についてなんですね。
というのも、今世紀に入ってから、地方大学を中心に高校生を対象にしたビジネスプラン・コンテストが盛んに開催され、一つのコンテストに3000人以上の高校生から応募があったりするわけです。
いろんな大学で公募していますから、応募者はおそらく数万人に上るでしょう。
日本全国で330万人の高校生がいるので、だいたい100人に1人、3クラスに1人くらいの割合でビジネスプランを考えるような高校生がいる計算になります。
そして、彼らが考えるビジネスプランがまた面白く、コンテンストに上位入賞しているプランの多くは、なんと「社会起業」そのものなんです。
つまり、今ここにある社会問題を解決するためのビジネスを作りだそうとしている高校生が既に現れてきており、彼らが大学に行く頃には、本気で社会起業を目指そうとするのかもしれません。
実際、社会起業支援サミットの反省会で新規スタッフを募ると、さっそくやってきたのは、神奈川の高校に通う高校生2名でした。
ただ、自分の生活を守るだけに働いたり、自分が稼げればそれでいいという働き方自体に魅力を感じないという世代が、確実に始まっているように思うのです。
社会問題を解決しようとするとき、昔の高校生は政治家になろうとしました。
そして、法律を作ったり、改めていけば、世の中は良くなると単純に考えていたのです。
しかし、法律をほいほい作ることは、それだけ税金を使うということを意味します。
国にお金のない今日では、国税による予算分捕り合戦の中で福祉や教育などの予算が度外視されやすいことは自明のことです。
それに、そもそも法律さえ変えればいいというのは、早計です。
社会問題を解決するには、国税に頼らずに市民の自分がまず解決のためのコストをどう賄うのかについて考え、寄付や収益事業などによる資金調達ができるのであれば、それを真っ先に解決コストの原資として考え、それで済むのなら法律はいらないとするのが、国税の無駄遣いを官僚にさせない方法でしょう。
つまり、政治の力を借りなくても、世の中を変えていくことはできるのです。
自前の収益事業をもって、社会問題を解決するためのコストをまかなう。
まさに、それは社会起業そのものじゃないですか。
そして、「社会起業」という言葉を知らないはずの高校生までが、そういう事業プランを自発的に考え始めたことは、この国にはまだ希望があり、その種はすでに撒かれ始めているということなんだろうと思うのです。
わからない言葉があったら、辞書を開くよりも先にググッて調べる習慣のあるネット世代の高校生や大学生にとって、「社会起業」は当り前のように浸透していくでしょう。
そういう雰囲気は、大人が作っているマスメディアにはまだ取り上げられていません。
しかし、社会起業は世界的潮流であり、海の向こうでは当たり前に知られています。
日本の高校生は、マスメディアに教えられることなく、社会起業に希望を感じ、当たり前のように社会起業を始めようとしているのです。
[2008年08月14日(木) ]
http://createmedia2007.blog88.fc2.com/
今月、東京にイギリスのLGBTの若者たちがやってきます。
日本の若いLGBTと交流するためです。
LGBTとは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアルの性的マイノリティ(少数派)を意味する総称です。
同性愛者、両性愛者は、ヘテロセクシュアル(異性愛者)が圧倒的な多数派であることによって不当な差別やいじめを受けることが珍しくありません。
しかし、今日では芸能界でもふだんの日常でも、そういう性的少数派(略してセクマイ)を見かけたり、知り合ったり、友達の友達にいたりするなど、身近な存在になっているように思います。
でも、当事者のセクマイさんたちは、やはり孤独を感じることが多いようです。
そこで、上記のイベントでは、イギリスからLGBTさんたちが来日し、日本のLGBTさんと交流しようというものなんですね。
田舎にいると、なかなか周囲に理解されないと悩む10代の当事者も少なからずいると思いますが、ぜひこの機会に東京でイギリス人はもちろん、日本のセクマイさんどうしのつながりを作ってみてはいかがですか?
ちなみに、このイベントには僕の友人のレズビアンの女性が手伝っています。
僕自身はヘテロセクシュアルですが、僕には同性愛者や両性愛者、トランスジェンダーやトランスセクシュアルの友人が少なからずいます。
もし、これを読んでいる君自身がヘテロセクシュアルであったとしても、友人に孤独を覚えながら暮らしているLGBTがいたなら、ぜひこのイベントを教えてあげてほしいのです。
メールで上記リンクを教えてあげることも、友情のしるし。
その1個のアクションを大事にしてみてください。
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