2020.02.27 01:59

 とくに昔の卒業生から「教室長(会社員)をやめたら何をするのですか?」と質問される機会があります。何となく、私が2月で教室長をひくことに気づいてくださっていたりする。
 話してみると「忙しそうに見えたから」とおっしゃる。教室長のときはなかなか連休もとれず、忙しそうに見えた。授業だけではなく、面談だとか説明会だとかいろいろな仕事がありますからね。自習室が騒がしいときは、騒がないようにという手紙を書いて貼ったりしていました。
 
 騒がしさもそのときどきで種類が違います。問題が生じるたびにふさわしい手紙を書いて貼っておく。それでちゃんと伝わるところがここの生徒たちのすごいところで、騒ぐとやめさせるぞ的な殺伐としたセリフは一切使わずにすみました。
 一連の行動を見ていた彼らにしてみれば、そうしたことに使っていた時間を何を使うのか興味があるのでしょう。あるいは何もすることがなくて、耄碌(?)してしまうことを心配してくださっているのかもしれません。
 
 私はいわゆる「仕事」をしているときも仕事以外のことをしているときも、どちらも私として生きています。1日は同じ1日で、1時間も同じ1時間です。仕事をしなくても何かしら行為はしているわけで、そうした全行動に魂をこめるのが正しい生き方ではないかと考えています。
 わかりやすく書くと人生は「何をするか」以上に「どのようにするか」が大切だと思うのです。たとえば食べるとか飲むとか本を読むとかは自分にとっは必要で大切なことで、収入が発生する「仕事」でなくても全力でやるべきでしょう。
 
 スキのない生き方などと漠然と表現してしまうと息苦しくとらえられてしまいそうですが、すべての時間帯を充実させたいぐらいの意味ですね。
 趣味的に深めたいことがないこともないのですが、仮にそうではないことでも行為する限りはしっかりやるという覚悟を持つ。世の中いろいろ不透明なことも多く、それこそ何がどうなるかはもちろんわかりませんが、気づいたところからむだにしないという気持ちこそがどなたにとっても救いになるはずです。
 
 何をするのですか? 時空間を濃く生きますよ、ですね。
 
 
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2020.02.24 08:24

 いよいよ今週でブログはおしまいの予定です。3月中はまだ身分的(?)には社員という形ですので、気が向いたときに何度か更新する機会があるかもしれません。教室に来る日は授業日のみに限られてきますので、何かございましたら渋谷教室にお電話をいただけたらと思います。私が来る日や時間帯は決まっていて、お知らせすることが可能です。もっとも受験の発表日には終日待機しているつもりです。
 2月29日の午後、新教室の川越教室でお話させていただく予定になっています。先日、その下見に行ってきました。
 
 自宅からだとけっこう時間がかかりました。池袋経由でうかがったのですが、1時間半ぐらいかかった。バス→JR→私鉄電車です。東武線というのはふだんあまり使用しないので、とても新鮮な感じがしました。快速というのですか、はやい電車に乗ると池袋の次が成増だったりしてびっくりしました。あいだに10ぐらい駅があるはずですが、すべて停車しない。
 遠い昔中板橋や大山などいくつか下りた記憶がありますが、すべてもう前世紀のことです。
 
 川越教室は思っていたより大きかった。非常に明るく清潔な空間である印象を受けましたが、こういうのはやはり働く方たちの配慮が大きいですね。とくに明るさというのは大切な要素で、現場で働く人間がどんよりした雰囲気で仕事をしていると何もかもそういう色を帯びてしまうので、明るく明るくということは心がけなければいけないと思っています。
 教室内もそういうところがあり、先生が極端に暗かったりすると(ということも珍しいでしょうが)生徒たちも元気が出ません。適度な明るさは必要だと思います。
 
 川越の商店街を少しぶらぶらしました。風呂桶店があり、片手で使える木の桶にかなりの値段がつけられていました。手作りのものとなると、もともとそれぐらいの価値があるものなのでしょう。ほかにもいろいろ珍しいものがありほしかったのですが、思いつきで妙なものを買って帰ると家族にあきれられるような気もしたので断念しました。
 長い商店街にはけっこう大手のチェーン店が多く、個人営業のお店は少なかったように感じました。だんだんそうなってしまったのかもしれません。
 
 自分もお世話になってきた塾がこうした時代もどんどん発展していく姿はやはり誇らしく感じます。今回も教室長や教務の方が突然下見に来ただけの私に対して、非常に親切に対応してくださった。こちらはお仕事の邪魔をしてしまって申し訳ないぐらいに思っているのに、本当にフレンドリーに接してくださったことを感謝しています。ただ「私に」だけではなく、皆さんにそうなのでしょう。
 そのあたり成功の秘訣ですね。人間が教室という「場」を作るわけですから。
 
 
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2020.02.23 00:27

 先日のお休みの日は朝から歯医者さんの予約が入っていました。現在、月に1度歯医者さんの定期診療を受けています。そんなに行かなくてもいいような気もするのですが、歯医者さんが来なさいとおっしゃるので何となく通っている。歯垢をとっていただいて、あとはクリーニングですね。おかげさまで調子がいいのは確かです。
 40代は何年間も歯医者さんに行かなかった時期がありました。少しぐらい虫歯があっても放っておいた。6年ぶりですよ、とあきれられた。
 
 歯医者さんに行く前の晩はアルコール類を一切とりません。それほど飲まなくても完全に分解されず、万が一アルコール臭かったりすると失礼ですからね。アルコールを飲まずに明け方まで本を読んだり考え事をしたり将棋を指したり、映画や動画を見たりしています。
 だいたいはいよいよあと3時間ぐらいで起きなければという時刻になって「やばい!」と寝る支度をはじめます。歯医者さんだけなら帰ってきてから眠ればいいのですが、そのまま予定が入っていると極端な寝不足は若干響きます。
 
 だいたいそういう感じのとき、荒唐無稽な夢を見ます。潜在意識下のどこかに急いで眠らなければという焦りがあるのではないか。でなければ、どう考えても見るわけがないような夢を見る。その日は、ローリング・ストーンズに手紙を書いている夢を見ました。世紀のロックバンドのストーンズです。
 そもそもまず何の手紙だかわからない。英語で書けたのかどうかもわからない。そのあたりは記憶にないのです。
 
 封筒に入れ宛名を書く段になって、はたと迷った。ローリング・ストーンズの住所はどうやって調べればよいのだろう? さらにローリング・ストーンズ名義だと受け取ってもらえないのではないかと心配になってきた。
 ミック・ジャガーとかキース・リチャーズとか、個人名のほうがよいのではないか? ということであれば・・・ここはいちばん実直そうなドラムのチャーリー・ワッツ宛にしようかなと真面目に悩んでいる。
 
 目が覚めて息子に話したら「お父さん、大丈夫か?」と大笑いされました。
 私が若いころ、ストーンズは全盛期だったと思います。「ミュージック・ライフ」誌の人気投票ではじめて1位をとったのが1973年か74年でした。それにしたってもう半世紀も昔です。
 ストーンズの曲で好きな曲はたくさんあります。「シーズ・ア・レインボー」「ビッチ」(すごいタイトル)「ミス・ユー」がベスト3かな。
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2020.02.20 15:19

 見えているようで見えていないことというのは大量にあります。志望校、就職先、結婚相手、信用できる対象・・・そうしたものが見えているようで見えていない。だから、学校や会社を途中で移ってしまったり(それが悪いという意味ではまったくありません)、厚い友情や婚姻関係が途切れてしまったりもするのです。
 ある意味で仕方のないことではあると思います。ただそうしたことがなぜ起きるのかということは少しだけ意識されていてもいいかもしれません。
 
 だいたいは事実を自分の中でねじまげて解釈してしまうところからスタートしていますね。つまり好きになった人を「何から何まで」いい人であると決めつけてしまう。行きたい学校入りたい会社を「何から何まで」すばらしいところであると決めつけてしまう。物事をうまくいかせるためには大きなエネルギーが必要で、そのエネルギーは「どうしても手に入れたい!」という熱意が原料になりますから、強い憧れは必要でしょう。ただそこに多大な幻想を抱きすぎると、ちょっと心配でもあります。仮に合格できたり入社できたりご結婚なさったりしても、そこからもかなりの努力が必要だからです。
 
 別の進学先、別の会社、別の方とご結婚されたときとまったく同量の努力がなされなければ、絶対にうまくいかないと思いますよ。夢が叶った! ではないのです。人生自体が終わりではないですから、これからますます頑張るしかない。つらいことも大変なこともくじけそうになることも大量に出てくるでしょう。
 そういったことを考えるにつけ、この学校に入れなかったら何もかもすべておしまいだというようなことは絶対にないと思ってください。入れたらもちろんうれしいですが、万が一入れなければ次の手段が必ず出てきます。
 
 こういうのは個人情報になってしまうのではっきりとは書けないのですが、いわゆる「第一志望校」に落ちてしまったけれどもその後頑張って夢を叶えたという生徒は、数えきれないほどたくさんいます。高校受験で第一志望校ではなかったのに第一志望の大学に合格できたという生徒もたくさんいますし、第一志望の大学には届かなかったけれども、就職だとか将来設計は理想通りにいったという生徒もまたたくさんいます。もっとも、そこもまだゴールではありません。
 
 永遠に夢を叶え続ける過程が人生です。そしてまた夢というのは学校名や職業名だけではなく、あなた自身に帰結していく要素が必ず出てきます。どこの学校、どこの職場、どの環境下においても、あなたがどんな人になりたいのかということこそが重要です。学校や職場の名前によりかからなくても「すごい人だ!」と感嘆されるような人間がいるもので、あなたもそうなってくださったらいい。
 試験場にはウエットティシューを持っていかれると便利です。甘いものも持っていくといいかもしれない。すぐ溶けるチョコレートとかですね。
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2020.02.19 09:46

 私は特別神経質な人間だとは思っていませんが、たとえば財布の中のお札は同じ向きに揃えています。これはもう何十年もそうしていて、裏表も上下もぜんぶ同じ方向に揃えている。長いこと当然ではないかと思っていたのですが、あるとき友人に「そんなこと考えたこともなかった」と言われて、皆さんがそうではなかったのかと意外に感じました。
 お札の顔は下向きにしておいたほうがお金がたまるという説を聞いたことがあります。恥ずかしがって財布から出ていきたがらないからだそうです。
 
 いくら何でもそれは迷信だと思いますが、相手の方にお札で支払うとき顔を下向きにしておいたほうが正面を向けて支払いやすいということに気づいてから、私もまたお札の顔は下向きに並べています。
 そんなものなのかな? と感じるのは、銀行でお金をおろすときですね。ATMでおろすとお札の向きがめちゃくちゃになっていることがよくあります。同方向に揃って出てくるときのほうが珍しい。
 
 こういうのはお金を補填しておく方が同方向に揃えたいと考えないのかなという気持ちになります。私がお店でお支払いするときでさえ、すべてのお札を同じ向きにしてさっと出しますが、それはある意味で礼儀だと思うのでそうやっているわけです。ATMでお金をおろすのは基本的に銀行を使うお客さんですから、私が責任者であればできるだけ揃えてあげようよぐらいの提案はするのではないかと思います。
 せめて裏表ぐらいは揃っていないと、みっともないでしょう。
 
 昔、こういうことがありました。ATMでいくらかおろしたところ、1枚だけ破れてくしゃくしゃのお札が出てきました。感じが悪いので、そのお札は機械にもどして新しいお札を出そうとした。ところがーーはでに破れているせいかーー機械に入らないのです。何度やってももどってきてしまう。
 仕方がないので「こんなお札が出てきてしまったので」と窓口のほうにいくと「並んでください」と注意されました。「破れているお札の交換をお願いしたいだけです」と言ったのですが、順番ですとけっこう待たされました。
 
 あれは何となく理不尽な思いがしました。ATMではもともと選びようがないではないですか。ひどいお札が出てきたうえに、それを取り換えるために窓口に並ばないといけない。せいぜい10分程度ですが、何となくですね。
 
 
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2020.02.17 08:44

 来月は有給休暇をいただこうと思っているのですが、それ以前に少しだけ調整する必要が出てきまして、今後は多めに休みをとります。ただお休みの日も何らかの形で教室に出てくる日があります。そもそも都立入試はこれからなので、相談などが出てくる可能性があるのです。
 通われている方は直接教室にお電話をいただければ、私が完全に休む日がいつであるかお知らせできます。ブログが更新されていなくても来ている日があると思ってください。
 
 繰り越しになっているお休みがたまってしまっている。なかなか回数通り休めずにきてしまいました。これは私個人の資質の問題で、いわゆる働き方の稚拙さによるものでした。きちんと予定をたてるべきなのですが、行き当たりばったりを格好よく感じてしまう特質があるのです。休みの日を決めるのがその週だったりしました。
 家内や息子なんかはちゃんと早い時期から予定をたてていますから、そういうところは全然違いました。
 
 2月の最後に1泊で旅行しようかと考えていたのですが、それは中止にしました。これだけいろいろ騒ぎになってくると、うきうきしないですからね。私個人は昔から何かに守られている感覚があるので自分についてはまったく心配していないのですが、世の中全体がダウンしているときに浮かれているのは申し訳ないので大人しくしていたいという心理が働きました。
 私みたいな感想を持つ方は多いのではないか。経済活動は停滞するでしょうが、ここは仕方がないですね。
 
 休んでいても何をするわけでもありません。インターネットで将棋を指したりするぐらいですが、ここのところ惰性でいい加減に指しているのでもう少し真面目にやりたいものだとはしばしば思います。
 そこで少し研究でもして・・・と考えるのですが、あまりにも情報が多すぎて何を研究したらいいのかわからない。私が学生のころは、プロの先生方の棋譜なんかめったに手に入りませんでした。せいぜいテレビ将棋と新聞の将棋欄ぐらいでした。
 
 新聞の将棋欄を切り抜いたりしていたことを思い出します。そうやって偶然手に入るプロの先生の棋譜をこつこつ勉強するしかなかった。ところがいまではどの先生の棋譜も対局翌日にすべてわかったりする。便利さの洪水の中で唖然としてという状況は、しかしどの世界の勉強でも同じかもしれません。多すぎる情報の大半を捨て去る知恵が大切になってきますね。
 10冊のテキストを1回ずつ解くより1冊のテキストを10回解くほうが効果があるとはよく言われる言葉ですし、真理であるとも思います。
 
 
 
 
 
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2020.02.16 01:16

 あまり興味を持ってこなかったのですが、インターネットでふと最近の国会中継を偶然目にする機会がありーー特定のどなたということではなくーーけっこうめちゃくちゃなのでびっくりしてしまいました。単純に、あれでは子どもたちに見せられない気がしましたよ。
 それこそひと昔まえの荒れた中学高校の学級会ではなく、大人の国会ですからね。あのざわついた雰囲気はどうなのでしょう。
 
 江戸時代のような封建的な世の中ではありませんから職業に貴賤はないわけですが、国を運営していくトップの方たちのやりとりがああでは世の中あちこちでトラブルが起きるのもむりはないのかもしれません。
 いわゆる「偉い人」と称される人がいますね。私の世代は、周囲の大人から単純に「偉くなれよ」と言われて育ったものです。しかし現代はその偉さがどういうものなのか、ちょっとわからなくなってきているような気がします。
 
 単純にうまくやるということでいいのかどうか。うまくやる能力が偉くなる能力と重なる部分がすごく大きくなってきていませんかね。偉さの基準が善悪や美醜や正不正ではなく、上手か下手かに変わってきている。善であり美であり正であっても、下手をうてば偉い人にはなれそうもない。逆にあいつはばか正直だから損ばかりしているなどということにもなりかねません。
 その「損」という概念にも問題があります。真善美を貫いたうえでの損であれば、本当に損なのかどうか。
 
 昔も書きましたが、何かの本で「権力は腐敗するという言葉があるがそうではなく、腐敗している人間だからこそ権力がほしくて仕方がないのだ」という記事を読んだことがありました。全面的に賛成するわけでもないのですが、たとえば自分に自信がないから肩書や権力やよい待遇を求めるなどということはどこにでもある話で、うまくやることだけで人間は偉くなれると盲信してしまった方がいてもおかしくはない。
 自分の場合、ここまでほとんど何も考えずに生きてこられたのは幸せでした。
 
 今後はさらに世捨て人(?)生活に入るので、私個人はまったくストレスがなく来られましたが、お若い方は大変だろうと思います。
 結局、自分は生まれ変わっても高速道路には乗らないでしょう。はやすぎると真善美の景色がよく見えない可能性があり、それはちょっとこわい感じがするからです。人間にとっていちばん幸福なのは馬の速度であると看破した古代の哲人がいるそうですが、このご時世馬で走っていては当然ビリです。自分の場合はそれでいいということかもしれません。
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2020.02.15 00:49

 10代のころ、私はキックボクシングが好きでした。もちろん見るのが好きという意味ですよ。地上波で2つぐらい番組があったように記憶していますが、両方とも必ず見ていました。この人はすごい! という日本人選手が何人かいました。
 ブームになった初期のころは残念ながら日本人選手は本場のタイ選手に全然歯がたたないわけです。キックボクシングの源流であるムエタイはあちらの国技ですからね。日本チャンピオンでさえ、あっけなくKO負けしてしまう。重い階級になると向こうは選手層が薄いのですが、それでもやっぱり負けてしまう。
 
 何年かたって日本のキックボクサーの水準も上がってきました。1970年代にはとうとうタイのチャンピオンを敗るようなすごい日本人選手まで出てきた。その過程で、ある選手(チャンピオン)をとりわけ好きになりました。非常に動きが華麗なのです。飛び上がって後ろ回し蹴り一発でタイ選手を倒したりする。
 のちのちキックボクシングの世界も何から何まで真剣勝負ではなかったというような記事を読んだことがありますが、当時の私はすべて真剣勝負だと固く信じていました。
 
 その日本人チャンピオンはタイ人のすごいボクサーに勝つ反面、日本人選手にうっかり敗れてしまうような取りこぼしも若干ありました。そこがまた人間らしくてよかった。絶対に勝つはずだと安心して見ていられないところがスリリングでいいのです。
 20代のとき、渋谷でその選手が派手な女性と連れ立って歩いているところを偶然目撃しました。緑色の光沢のあるスーツ(!)を着ていてあまりにも派手なので、一瞬こわい人かとも思った。
 
 次にあああのチャンピオンだと思い、その時点でさえ懐かしく感じたものです。キックボクシング自体徐々に下火になってきていて、その選手も全盛期は過ぎていました。ただいでたちがいかにもという感じでしたし、お連れの女性もこれまたいかにも(?)という感じでうれしくなりましたよ。私がその選手に会ったことを興奮して伝えたら、何人かの友人は反応してくれました。
 今週、そのときとほぼ同じ場所で、おそらくはそのチャンピオンではないかという方を目撃しました。
 
 40年以上たつわけで、絶対にそうであるとは言い切れません。インターネットであれこれ調べてみたのですがそのチャンピオンに関しては何もわからず、その日渋谷にいらっしゃることが可能なのかどうかもわかりません。昔から短髪でしたが、髪型は相変わらずで色は白くなっていました。コートを着て鋭い目つきで今回は単身で歩いていらっしゃった。
 渋谷の「ほぼ同じ場所」(宮益坂下です)というのが妙な機縁でうれしい。人生終盤に近づいてくると、そういうことが非常に大切だったりするのですよ。
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2020.02.14 00:36

 先日、ドラッグストアーでこういうシーンを見かけました。あるおばさんのお客さん。おばさんと呼ぶのは失礼かもしれませんが、年齢的におねえさんでもおばあさんでもないという程度の意味です。
 マスクが品切れですね。そのことを怒っている。「マスクはないの? いつになったら入るの?」店員さんが当分入らないと伝えた。するとおばさんは怒り出した。「あんたたちマスクしてるじゃないの! 自分たちばっかり得しないでお客さんに売りなさいよ!」
 
 何だかめちゃくちゃだなと思いましたよ。そのお店では、店員さんは全員マスクをしています。そういう規則になっているのでしょう。それをお客なんだから店員用のマスクをすぐに出せと言う。
 論理的にどうなのかよくわかりませんが、そんなことを他者に要求すること自体がちょっと理解しがたい。少なくとも普通の感性からするとそういう感じになりませんか。ちょっとしたことでいわゆる「キレ」る高齢者が増えているそうですが、いきなり感情をぶつけてしまうのは品性を欠いた行動のように思われます。
 
 人間が何かで爆発的に怒る場合、そのことだけが問題なのではなく、背後に別の大きな問題が隠れている可能性があります。以前勤めていた塾でーーもう30年近く昔の話ですがーーあるときからやたらと生徒に厳しくあたるようになった若い先生がいました。小学生を次々泣かせてしまう。厳しくしないと合格できないから。おっしゃっていることはわかるのですが、ちょっと様子がおかしい。
 単純な好奇心から、あるとき私はその先生と飲みに行って話を聞きました。すると長年交際されている女性とうまくいかなくなっているというのです。
 
 なんだ、そういうことだったのかと思いましたよ。要するにふられてしまった。もはや修復不能な状態になっている。生活が荒れていますと正直におっしゃっていました。何もかもどうでもいいんですとも。まあ、私も若かったので、彼の気持ちもわかる気はしました。しかし、むしゃくしゃしてあたられている小学生たちはたまったものではないですね。
 その先生は直後に塾もやめてしまいました。自暴自棄みたいなところがあったのでしょう。
 
 落ち着いた愛情で表面がコーティングされている人間は、いきなり他者を爆発的に怒鳴り散らしたりしないものです。礼儀だとか性格だとかの問題ではなく、いわゆる「悪臭」を放ちたくない気持ちが強いからでしょう。大勢の方のまえで四六時中「キレ」まくりみたいなのは、やはりある種においに例えられる要素がありますね。私たちは周囲の環境にも責任を負わなければいけない。そういうことなのだと思います。
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2020.02.12 00:50

 私のことです。私はもともとそういう子どもでした。小学校低学年のころ、そのことを非常に強く叱られました。主に母親にですね。わかっているときはわかっているという意志を示さなければいけない。消極性は悪である。抵抗はありましたがその年齢では母親の言うことが絶対ですから、いやいや手を挙げていました。
 いやいやだったのでぐにゃぐにゃした姿勢で手を挙げた。そのことを先生から注意された。背筋を伸ばしてまっすぐ手を挙げなければいけないと何度か言われました。
 
 わかっていることをなぜわざわざ発表しなければいけないのか? 黙っていると認めてもらえないからだそうです。先生に「わかっている」という事実を伝えないといけない。
 いまもそうですが、私は自分のやり方でわかってくれない人に強引に何かを伝えたいとはまったく思いません。「はい! はい! はい!」みたいな世界観は本来の自分にはないのです。あの一時期だけそうあるべきなのだろうと努力をした。正直なところ不快な努力でした。
 
 自分で生徒を見ていて感じるのですが、どの生徒に対しても「油断できないぞ」という要素を感じます。著しく成績がいい子にも感じますが、いわゆる成績のふるわない子に対しても感じます。単純に勉強していないだけで、独特の世界観を持っていてスケールはかなり大きかったりする。
 先日も授業中話した(ブログに書いたこともあります)のですが、昔「咳をしてもひとり」という有名な自由律俳句にはある種の甘えが残っているのではないかと指摘してきた生徒がいました。
 
 およそ手などはまったく挙げない子で、授業中こっそりマンガを読んだりしていたこともありました。文化的な話題が出てくると食い入るように聞いているので、私はその子がマンガより面白いと思ってくれるような授業を展開しなければいけないと強く意識したものです。
 咳をしてもひとりとした場合、咳をしたという訴えがある。その訴えのぶんだけ甘えているので、いい俳句にするためには「咳をしなくてもひとり」と変えるべきではないかと彼は言う。
 
 こういう生徒に私は間違っても「積極的に手を挙げて」とか「背筋を伸ばして」とかは言いません。ご本人が積極的にしたければもちろんそうすればいいのですが、したくないのであればいまのままでいい。いまのままのあなたを評価できない程度の人間に認めてもらうためだけに、人生の美学まで変えなくていいだろうということです。
 損をすることはあるでしょうね。考え方によります。しかし、たいした損でもないような気もします。
 
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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