2017.10.18 00:44

 私はいまでも大きな書店さんに行くのが大変好きで、よくうろうろしています。私が行くコーナーはだいたい決まっていて、多くは神秘思想だとか精神世界だとか哲学とかの棚でしょうか。あやしいものとあやしくないものとの境界線上のあたりで面白そうな書籍を探す感覚です。
 昔から人づきあいはあまり得意ではなかったので、娯楽の入口はほとんどが活字でした。ルールを本で覚えるということです。
 
 将棋なんかにしても細かいところはすべて活字で覚えました。昔、有吉道夫という将棋界の偉い先生が、ご自身は本で覚えた将棋なのでひ弱さがあるとインタビューで語られている記事を見て以来、自分もそうかもしれないと考えるようになりました。私の知人は逆に本なんか一切読まず、実戦だけで将棋が強くなった。どうしても勝てませんでしたよ。終盤になって逆転負けを喫したものです。
 
 いわゆるノウハウ本というものがあります。健康法とかお金の増やし方とか。
 ノウハウ本にはいろいろ思い出があります。20代前半ではなかったか。私は女の子にもてたくて仕方がありませんでした。もてたいと願うのですからもてなかったのでしょう。これは何か研究しなければいけないと思い、例によって活字で研究しようと考えた。女の子にもてるための本を買ったことがあります。
 タイトルも著者も出版社もぜんぶ忘れてしまいました。その本だけを買うのはいかにも恥ずかしかったので、どうでもいいような本を同時に何冊か買った。恥ずかしさを薄めようとたくらんだのですが、バレていたかもしれませんね。
 
 じつにくだらないこと(?)が書かれていましたよ。時代に合わせて長髪にしましょうとか。ただし清潔にしなければならないとあった。当時、男の子でも髪を伸ばしている人間が多かったからでしょう。タバコの吸い方の項目もあった。
 あと何だったか、とにかくいろいろあったのでそのうちのいくつかを私は実践したように思います。女の子のまえであまり喋らないとか。タバコは短くなりすぎないうちに捨てるとか。
 そうやって実践して、結局さらにもてなくなったように思います。
 
 要するに、もて方の本を読んでいるような人間ではもてないということです。これはどの世界でもそうかもしれません。ノウハウを追い求めている程度の器ではその世界での飛躍的な進歩は見られないということでしょう。やり方ではなく、あり方が大切。もて方の本を買っていた私が、偉そうに書けるお話ではないですけどね。
 
ソーシャルブックマーク:

2017.10.17 08:05

 ときどき生徒同士の会話が全然噛み合っていないなと感じることがあります。話したいことを話すだけでは会話になっていない。会話というのはキャッチボールと同じですから、相手が投げてきた言葉は確実に受け止めなければならない。相手がすぐに投げ返してこないのであれば、何かしら準備が必要でそうしているのだろうと想像してじっと待つべきだと思いますよ。
 それを待てないからと自分だけが続けざまに投げてしまってはボールが2つ3つと増えてしまい収拾がつかなくなった球技みたいになります。
 
 相手が言葉をすぐ返してこないときにその理由について憶測できる才覚は必要でしょう。単に物理的なものなのか、あるいは心理的な何なのか、もっとべつの理由がありそうなのか。
 適切な言葉が見つからないときの黙し方と心理的に混乱しているときの黙し方とは相当違うはずです。場合によっては相手は気持ちを隠そうとするかもしれませんが、無言の反応のなかでそのあたりが読み取れるかどうか。読み取れるようにならなければ、将来深い人間関係はうまくいかないと思います。
 
 子どものうちは仕方がない面もありますが、高学年になってきたらそのあたりは積極的に考えて取り組むべきです。まだ子どもだからわからなくてもいいじゃないかではいずれ困ることが出てくるかもしれません。
 自分の話したいことだけを連続でまくしたてている人も見かけます。相手があきらかに困惑している。遠目で見ていてもそのことがはっきりわかる。周囲の人たちは全員わかる。ところが話者のみ興奮してかまわず喋りまくる。相手が大人であれば、微笑んで聞いてくださるでしょうが。
 
 ご本人は「何も悪いことをしていないのに」とおっしゃるかもしれないですね。確かに相手を害する意図はまったくない。しかし健全な会話のあり方にとっては非常にまずいことをしています。キャッチボールにたとえれば、相手にボールを投げさせようとは一切しないわけです。逆の立場だったらどうでしょう。「きみは投げる必要はない。ぼくの投げるボールだけ受け続けてくれればいいよ」と言われたら内心(そんなのキャッチボールじゃないよ)と不快になるのではないでしょうか。
 
 会話は講義ではありません。投げる以上に受け止める力が試されています。ときには相手がこめた皮肉や諧謔や風刺も含めて正確に理解する能力を磨かないといけない。
 ともかくまずよく聞くことですよ。その度量、忍耐力、余裕、親切心・・・そうしたものが求められています。よく聞いてください。それが必ず授業にも生きてくるはずです。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.15 00:39

fe2786db5284311e8e16e02367d351c7cd62d625.jpg 
 犬がすっかりおとなになってきました。見た目だけですけどね。1月1日生まれですから、約10ヶ月ということになります。
 このまえ体重を量ってみたら8キロを超えていました。だいたい8キロぐらいになりますよと言われていたので、そろそろ成長しきった感じかもしれません。相変わらず自宅では噛みつきますが、加減がわかってきたらしく強く噛むことはありません。どちらかというと、噛みながら舌を動かしてこちらの手を味わっているようにも感じます。甘えているのでしょう。
 
 ひと月に1度、近所のペットショップでシャンプーしてもらっています。ぜいたくですね。で、そのとき必ず写真を撮ってくださる。今回は今月の9日に撮っていただいたものです。携帯で写すときちょっと光ってしまいましたが、雰囲気はおわかりいただけると思います。3月11日の記事「突然犬が来ました」の写真と比べるともはや別人(犬?)のようです。
 散歩をしていると頻繁にオスに間違えられるというのですが、確かにきりっとしたりりしい顔かもしれません。毛並みもーーとくに何もしていないのですがーーそれなりに整っています。
 
 ただ中身はたいしたことないですよ。見ているとばかみたい。もちろん人間から見て犬がばかみたいというのはあたりまえではあります。あたりまえではあるけれども、それでも平均値よりいくぶん頭が軽いほうかもしれないぞと最近は考えるようになりました。
 食べてはいけないというものを喜んで食べようとする。ビニールの切れ端とかプラスチックの破片だとか。そんなものを食べてもおいしくもなんともないと思うのですが、食べようとして「こらっ!」と叱られるのがうれしくて食べてしまうらしいのです。
 
 1日に何度も何度も「こらっ!」と叱られて、そのたびに大喜びするのでちょっと大丈夫かいなという気持ちになります。血筋はすごくいいらしいのですが、逆に血筋がよすぎて頭が軽いという可能性もあるわけで、そのあたりはもう少し成長してみないとわからないですね。
 反面、急速におとなになった部分もあります。以前のように腹話術風に歌を歌っても私の背後を確認しに行かなくなりました。つまらないですよ。「ぞーうさんぞーうさん」と歌っても無視されたりする。
 
 あれ? 頭が軽いのはお互いさまみたいな部分がありますかね。飼い主に似るというからな。私もまた平均値の61歳よりはだいぶ頭が軽い自信はないでもありません。まあ、せいぜいかわいがりますよ。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.14 00:22

 政治的な話題はこれまでも避けてきました。1つには、私はほとんど政治に興味を持ってこなかったのでとりあげる資格がないと考えているからです。よくわからないことを偉そうに語るのはちょっとどうかなという気持ちがあります。そういうのってどの世界でもありそうですね。昔飲み屋さんで「おたく、ロックが好きなんだって? おれも大好きだよ。マイケル・ジャクソン!」と話しかけられ、このあといったいどういう展開にもっていったらいいのだろうと困ってしまったことがあります。そういう困惑を他者に与えたくありません。
 
 ただ選挙のときにはそれなりに応援したい候補者が出てくることがあります。若いときは「無所属で魅力的な女の人」「極端に面白いことを公報に書いている人」「気の毒そうな人」に入れていた時期がありました。この選択ですと、だいたいの方は落選されてしまいます。毎回毎回落選される方ばかりなので、これはもう選挙に行く意味がないやと棄権していた時期もありました。
 前回のアメリカ合衆国の大統領選挙のときにちょっといいことを言うなと感じた候補者がいましたが、その方は党の代表者に選ばれませんでした。そもそも投票もできませんけどね。
 
 具体的には書きませんが、今回の選挙でそのアメリカ人に似たことをおっしゃる政党が出てきました。応援したいので、期日前投票には行くつもりです。いまはネットで街頭演説の様子を見ることができます。そこで非常に面白いことを発見しました。
 ふだん私は街頭演説を見ませんから、こういう手法がどれぐらい流行しているのかはまったくわかりません。ひょっとすると「そんなことも知らなかったのか」と笑われるような気もします。
 
 その党首が演説している最中にかすかに音楽をかぶせているのです。はじめは何かの錯覚かと思ったのですが、間違いなくかぶせている。音楽というよりは効果音みたいなものですね。単音だったり和音だったり、トークの合間にポローンと入る。
 それがじつにじつに心地いいのですよ。音楽とまで言ってしまっていいものなのか心配ですが、要するに音というのはこんなにいいものだったのかという気持ちになります。そしてまたその音が訴えにすごくマッチしています。思想のある音なのです。
 
 授業なんかでもこの手法はありだなと思いましたよ。かすかに音が、メロディーが入る。知っている曲では、逆にそちらに意識を持っていってしまわれるでしょうから、単音でいいかもしれない。
 用言というのは3つあったのを覚えているかね? ポローン。日本人ではじめてノーベル文学賞をとったのは誰だっけ? でまたまた和音。いずれにせよ、こういう効果を考え出す人間という動物は不思議ですね。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.13 01:13

 いわゆる感傷的な人間というのが存在しますね。いい悪いではありません。ご性格ということになってくると思います。私もどちらかと言えば感傷に流されやすいタイプだと思っています。
 小さなころから悲しいことは大小いろいろ経験してきました。しかし、それが自分を磨いてくれた側面は否定することができません。自分の場合は、楽しいことより悲しいことから学んだほうがずっと大きいですね。人格形成に役立ったということです。
 
 具体的に書くとこういうことです。できないことのほうができることより何かしら意味を持った。合格できなかったときのほうが合格できたときより深く考える契機になった。失恋のほうが円滑なおつきあいより深い痕跡を残した。失敗したときは成功したときより人生の意味に気づけた・・・きりがありませんが、そういう感じです。
 不合格だとか失恋だとか失敗だとか、当然かなりの痛みがあります。その痛みはしかしやがて「激痛」ではなくなってきます。そしてじわじわと生きる意味を考える材料になる。
 
 以前読んだ書籍ーー何だったかは忘れてしまいましたーーに「神とは生きることである」という記載があり、はっとしたときがありました。「生きることが神である」だったかもしれません。とにかく生=神と人生を全面肯定していた。
 私が現在読んでいる「発心集」ではむしろ自由闊達に生きることを否定する内容が大量に列挙されていてとても興味深いのですが、私個人は生きることが神であるという着想は非常に「元気が出る」いい考えだと思います。
 
 失敗したときの痛みは、やがて形を変えて努力することの源泉になったり他者に対する優しさや寛容さになったり人生に対するふところの深さになったりします。現在の私はまずまず穏やかな人間ではないかと思うのですが、私が一切の失敗や痛みを経験していなかったら(そういう方はあまりいらっしゃらないでしょうが)、もっと冷淡に振舞っていたかもしれません。
 生徒が何かいたずらをしているのを見ても(自分もあんなことをしていたな)という気持ちがあればこそ、怒るのではなく静かに注意できる。
 
 私は自分が少年時代に予定していた形ではいわゆる「成功」を収められなかった人間です。それは人生のあらゆる分野に及んでいるのかもしれません。しかし「予定していなかった形」では成功を収めているようにもまた感じます。すべてのネガティヴな体験も「生きることは神である」という概念に結びついていったわけですから。
 一時的な痛みがあっても、勇気を持って進んでください。予定の形ではないかもしれませんが、生きることによる大成功が待っているはずです。
 
 
ソーシャルブックマーク:

2017.10.10 09:41

 昨日、仙台教室にうかがってきました。勉強のことと生活のことをお話した。くわしくは書きませんが、うかがってよかったと思います。お手紙をいただいた複数の方には簡単なお返事をさしあげました。いずれお手許に届きます。
 私はきわめて平凡なおじさん(?)ですが、中学生を教えることに関しては35年以上継続しているので、ある意味職人みたいな感覚があります。ある程度のコツはつかめている。それをお伝えしていく感じになるでしょうか。
 
 直近では11月19日の日曜日の午前中ーーやはり新しくできるーー南浦和教室で同じようなお話をすることになっています。こちらはすでにかなりの方がお申しこみくださっていて、おそらく満員になってしまうと思います。ご興味がおありの方はお早めにお申しこみください。
 毎年お話していて、核心的な部分はじつは変わりません。あたりまえですね。そんなに方法論がころころ変わるものではない。たとえば「たくさん読んでください」というのがある年から「あまり読まなくていいですよ」となるわけがない。
 
 ただエピソードなんかは毎年どんどん増えていきますからそのあたりを多少入れ替える感じになります。たくさん読むということに関して、今年知った生徒のエピソードを入れたりする。私が軽い気持ちで紹介した文豪の小説を、帰り(講習中は昼間授業が終わるので)に買って帰った中学生が複数いたとかですね。感度のよさが彼らの学力向上に一役買っている。全員がそうしなさいという意味ではなく、知的好奇心の強さはひょっとすると成績と連動しているのかもしれない・・・程度に認識していただければ、何かしらご本人の中で動きが出てくるかもしれません。
 
 昔、ある私立高校で入試を受けてきた生徒が憤慨していたことがありました。もう合格しても絶対に行かないつもりだと言う。話を聞いてみると面接でこう言われたというのです。最後に面接官の先生が「きみのほうから何か質問したいことはある?」とおっしゃった。真面目な彼は「どうしたら勉強ができるようになりますか」と訊いた。
 すると担当の先生は顔を見合わせて(お二人だったそうです)笑いながらこうおっしゃった。「ばかとつきあわないことだよ」さらに追い討ちをかけるように「茶髪のね」とおっしゃった。
 
 緊張した生徒をなごませてやろうぐらいのお気持ちだったということは大人の私にはわかるのですが、彼はその答えに心底失望してしまった。大人側の振舞いは本当に大切だと思います。
 講演を終え、新幹線に飛び乗って教室に戻りすぐ授業に入りました。「中学受験をしない」小学6年生の初回の授業。授業が終わったところである生徒(ご兄弟がすでに通われています)にこう声をかけられた。「ごくろうさまでございます」一瞬意味がわからなかったのですが、続けてこうおっしゃった。「お酒が飲めなくて残念でした」
 
 あ! と思いましたよ。昨日の私のブログを読んでから来られたのでしょう。油断できないですね。まあ、せいぜい一生懸命生きていく姿を見せていこうと思います。それがいちばんの「教材」になりますからね。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.09 00:46

 この3連休はなかなか忙しい。昨晩は保護者会もあり日曜日でも早めに帰ることができませんでした。今日はいまからちょっと寝て、早起きして仙台教室にお話に行くことになっています。
 なかなか目まぐるしい1日になりそうです。お昼に仙台に着いて1時間半お話して、30分後には新幹線の中。そうしないと夜の授業に間に合いません。東京に戻ってそのまま渋谷教室に直行します。
 現在はすこぶる体調もいいので、とくに問題ありません。少しでもいいお話をしてきたいと思っています。
 
 人数的にはあまり多くはなかった(突然いらっしゃっても大丈夫そうでしたよ)のですが、そういうことはたいして問題ではありません。私はご縁を大切に考えているので、とにかくお話できる機会をいただけたことを幸せに感じています。
 最近、興味があり鴨長明の「発心集」を読んでいます。古文のテキストとして一部を読んだことはありますが、今回は完全に読書ですね。高校生用の問題集で見かけた発心集のエピソードにいたく感動して、いっそのことぜんぶ読もうかという気持ちになりました。
 
 私自身は古典専門ではないので、古文そのものだけだとすらすら読めない部分がやはり出てきます。ただ現代語訳もついていますからまったく不自由はありません。
 どの章も世捨て人だらけ。人さまの前でお話したりするのは営利や名誉を求めてのことだと反省してとことん逃げてしまう高僧の話なんかが次から次へと出てくる。
 それはもう徹底していますよ。居所を知られただけで逃げてしまう。もともと所持品(?)もたいしてないですからね。さっといなくなる。余計なことはすべて仏道修行の邪魔になるというのです。
 
 私なんかのレベルですと名誉だとか利益だとか、それはそれで楽しいことではないかとも考えるのですが、徹頭徹尾いやがる姿が面白い。ぜんぶ煩悩であると排除してしまう。いずれはこんな心理になるのかもしれませんが、現時点では自分は世俗の楽しみや成功も肯定的にとらえています。
 そもそも発心集を買ったのは、新宿で「エイリアン・コヴェナント」を見た帰りでした。エイリアンの映画帰りに発心集というのも我ながらちょっと分裂(?)しているなあとあとで気づいて苦笑しましたよ。
 
 東北新幹線は久しぶりです。3連休最終日ですので、帰りはけっこう混んでいるみたいでした。授業があるのでほっとしてビールを飲めない(あたりまえだろ!)のがつらいところではありますかね。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.08 06:31

 私は10年以上まえから自宅のトイレの掃除をしています。家事の分担というほど大げさなものではなく、トイレ掃除が何となく好きなのでずーっとやっています。やりたいことをやっているという感じでしょうか。
 ここがポイントだというところがあり、流れるような作業ぶりですよ。いまは使い捨ての紙ブラシ(?)みたいなものもあり、本当に掃除しやすくなりました。お風呂もバスタブなどは私が洗っていますが、これまたコツがつかめてくると楽しい。
 
 1人暮らしをしていたときはけっこうこまめに掃除をしていました。またときどき料理を作ったりもした。料理に関しては40歳ぐらいのときにもう1度基礎からやってみようかと考えたことがありました。そして本を買った。
 休みの日にキッチンでアルコール類を飲みながらつまみを作ったりしていたのですが、どうも自分にはあまり合わない作業だという気がしました。これは感覚的なもので、楽しいことは楽しいのですが本質と合わないように感じるのです。比喩的に書くとたとえば自分は将棋は指しますが、碁は打ちません。
 
 少しだけかじってみて、あまり自分に合わないような気がしたのでやめてしまいました。それと似たような感じです。
 極端なことをしたくなるのですよ。徹底的にすりつぶしたらどうなるだろうとか3倍ぐらい胡椒を入れてみたらどうなるだろうとか考える。あるいは途中で面倒になってもう食べちゃえと未完成で食べてしまったりする。
 いまは家内が忙しいときは買い食いか外食ですね。何かを作ることはめったにありません。
 
 息子の革靴を磨くのはまだ続けています。これもまた趣味みたいなもので、磨いておいてやりたいという気持ちになるのです。靴墨を使用せずに外国製の特殊なクリームで磨く。これまた流れるよう。そしてぴかぴかになります。もちろん自分の靴も磨く。
 昔「長野先生の靴はいつもぴかぴかですね」とある先生に言われたことがありました。ちょっと得意な気分になりました。
 あとは自室の掃除ぐらいでしょうか。ゴミ出しは息子が必ずやってくれます。缶やビンを出す日には「うちは、酒飲みすぎなんだよ!」とぼやいたりしています。私もそう思います。
 
 犬は家事を分担することはもちろんありませんが、うろうろしているだけで私たちの心が明るくなりますから十分役にたっています。
 小中学生のお子さんであっても、簡単なお手伝いをやらせたほうがいいとは思います。何かしら温かいものが生まれてくるからです。
ソーシャルブックマーク:

2017.10.07 01:19

 その生徒は私が直接教えている子ではありません。ただいい意味で目立つ生徒なので以前から注目していました。この目立つというのは、簡単に書けばひたすら明るいという意味です。彼女が部屋に入ってくるだけでぱっと周囲が明るくなる。そういう人間が世の中には存在するものですね。
 全員がそうなる必要はもちろんないですよ。ただ現実的に貴重な存在で、彼女がいるおかげでとても授業の雰囲気がいいという話を私は先生方から聞いています。
 
 このまえその子が「自分は細胞から輝いている」という意味のことを口にしていたそうです。ある先生が「よほどご両親から愛されて育ってきたのでしょうね」とおっしゃっていた。私もまったく同感でした。
 この愛されてというところが問題で、ご本人に自分が強く愛されてきたという実感が持てなければある意味で愛情は空回り状態とも言えます。それはそうでしょう。伝わらない感情はないのと同じです。私自身、少年期両親とはきわめて冷たい関係でしたからそのことはよくわかります。
 
 ここで犬の話に移りますが、今回私は飼い犬に徹底的にやさしくしてみました。やさしくというのは、めったに叱らないという意味です。いたずらをしても強くは叱らない。さらにとりあえず撫でてやる。どちらでもいいときは撫でてやる。話しかけてやる。笑顔を見せる。
 家内も息子も穏やかな人間ですから、彼女(メスです)は要するに四六時中かわいがられてばかりいます。するとどうなったか。散歩に行くとわかるのですが、全人類から必ずかわいがられるものだと思いこんでいるふしがある。とんでもなくあやしいおじさんにまで愛想を振りまいて近づこうとするので、こちらが焦りますよ。
 
 生きること自体に肯定的なのです。悪いことはめったに起こらないという思いこみがあるのでしょう。同じ柴犬でも昔飼っていた犬とはずいぶん態度が変わるものだなと感心してしまいます。昔育て方を失敗したので、今回は愛情が伝わりやすいようにしているという側面はあるのですが。
 犬と人間を一緒にするわけではないですが、やはり「どれだけ伝わっているか」ということは大事でしょう。心配している姿を見せるだけでは、愛情は伝わりにくい。
 
 そんなことやっていて本当に大丈夫? お友だちはもっとしっかりしているんじゃない? 全然進歩が見られないんだけど。こんな点数じゃどこにも行けないわよ。いったいどうするつもり? 泣くのもばかを見るのも自分だよ。いつも言われているのにちっともわからないんだから。このままだと絶対後悔するよ。気づいたときには手遅れさ。本当にぐずね。
 すべて愛情から発せられた言葉でしょうが、彼らがこうした言葉で「愛されているなあ」とつくづく実感することはまずありません。むしろいやがらせを受けているような、いじめられているような否定的な感情を持つでしょう。
 
 教室長会議のときに、過度に心配なさるご家庭はなかなか結果が出にくいという話になることがあります。皆さん同じ感想を持っている。心配=愛情であるにしてもそれが伝わらないどころか、むしろ家族からのいじめみたいに受け止められてしまう。そのことで自信をなくし、普通の反抗以上に心がねじれてしまう。そうなってくると「細胞から輝く」どころか「細胞から真っ暗」みたいな状態に陥ります。
 外で「自分は細胞から輝いている」と喜びを持って発言できる幸せを与えていらっしゃるかどうか。伝わり方の検証はつねに心がけられていいと思います。
 
 ただそれこそ手遅れということはありません。少年期「完全に心が折れて細胞が死滅してしまった私」がこういう話を書けるのは、経験があればこそです。何でも気づかれたところから調整をかけていけばいいだけです。勇気を持ってよりよい明日を迎えてください。
 
 
ソーシャルブックマーク:

2017.10.06 01:04

 海外で悲惨な事件がありました。犯人は自殺されたそうで原因はよくわからないみたいですね。よくわからないのか、本当はわかっているのに何かの理由(体制によほどの不都合があるとか)で隠蔽されているのか。後者の可能性もあると考えています。
 かなり裕福な暮らしをされていたそうなので、単純な社会に対する不満ではないのかもしれません。いつだったか新幹線の中で事件を起こして亡くなった方は生活に困窮していたという話でした。そちらは単純な不満が鬱積して・・・ということみたいでしたよ。
 
 こういうのはごくごく特殊な病的な人間が引き起こしたものだと考えがちですが、必ずしもそうとは限らないですね。どなたの中にもその種の狂気(と呼んでさしつかえないと思います)の芽は潜んでいるのではないか。それが何かのきっかけで爆発してしまうことがある。抑止できるのが道徳だとか良心だとか宗教だとか愛情であると思うのですが、そうした背景が希薄になってきているのでしょう。
 学生時代、少しだけつきあいのあったどちらかと言えば大人しい男がこういうことを言っていたことがあります。
 
 彼はとても裕福な生活を送っていました。一流大学に通っていましたし、有名企業に就職もした。20代半ばでつきあいは途切れてしまったのですが、もともと大学時代のアルバイト先で知り合った相手なので、細かい事情はよくわかりません。
 山に行ってタバコを消さずにあちらこちらの落葉の上に捨ててくると言うのです。「盛大な山火事になればザマミロだと思ってさ」冷静な口調でそう言うのです。ふだんはまったく暴力的なところがない人間なのですよ。
 
 彼は中学受験に成功して一流大学への道をつかんだのですが、その受験期がどんなにいやだったかということを話していたことがありました。塾だの進学教室だの偏差値だの、とにかくいやだった。私も中学受験組でしたから、その感覚は非常によくわかりました。飲みながらいろいろと具体的なエピソードを話したりしたものです。本当は忍者になりたかったんだと私が言うと、彼はマンガ家になりたかったと言っていました。「それなのにマンガも読ませてもらえなかったもんな」
 そのことと彼が山火事を望むことを単純に結びつけたいわけではないですよ。
 
 ただ一見成功しているように見える人間の内部にさえ、成功するために犠牲にしてこなければならなかったかけがえのない何かが鬱屈して暴れだす瞬間があるような気はします。人間というのは不気味なものですから、真の自分自身を見つめる習慣を持ち続けるのは本当に大切なことで、いい加減にしていると他でもない自分自身に裏切られる悲惨な事故が起きる可能性も捨てきれません。まさか自分が・・・ということが生じうるのが人生なのですよ。
 ともあれ犠牲になった方々のご冥福を心からお祈りいたします。
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2017年10月   >>
01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

新着記事

月別アーカイブ