2018.11.19 08:04

 ときどきシブい名居酒屋に非常にオシャレな方がいらっしゃるときがあります。まず服装が周囲のお客さんと全然違う。黒っぽい格好が多いような気がしますが、どうなのかな。帽子をかぶっていらっしゃるケースもあります。で、若い。おそらく30代ではないかと思います。
 私は特定の方のことを書いているわけではありません。鶯谷のKだとか大塚のEだとか湯島のSなどで、ふと見かけた方たちの総合的なイメージを書いています。
 
 けっこうタバコを吸われますね。それも洋モクが多い。見たこともない銘柄だったりします。昔ながらのパイプの方もいました。美しい絵柄のパイプを使われている。袋に入ったタバコをパイプにつめてマッチ(!)で火をつけています。
 ライターを使われる方が圧倒的に多いことは多いのですが、マッチという方も私は複数目撃しました。何かしらこだわりがあるのでしょう。さすがに葉巻の方はいらっしゃらない。香りが強すぎるからですね。
 
 比較的複数でいらっしゃる率が高いようにも感じます。ご一緒されている方も同じようなオシャレ系の方です。
 そういうオシャレな若い方がシブい居酒屋を好むというのは、シブい居酒屋の作り出す空間がある意味でまたオシャレなのかもしれません。何かしらそういう要素があるのだと思います。音楽はない。過剰な装飾もない。
 これはいい悪いではなく、私は若いころオシャレすること・・・というより万が一にもオシャレに見られてしまうことを恥じる気持ちがありました。
 
 ですから着飾りたいという気持ちがあっても、他者に「オシャレをしているな」と感じさせる手前で、確実に止めようとしているところがありました。オシャレに見られないように気を遣うというのも何だか変なのですが、そのあたりは幼少時に受けた教育が大きかったような気がします。男は格好を気にするなとさかんに言われました。
 そういう自分が好きな空間と、うんとオシャレな若い方が好む空間が同じというのはちょっと面白いと思いました。
 
 そしてひょっとすると、うんとオシャレなタイプの方は歳をとられるとこの空間の雰囲気を逆に避けられるようになるのかもしれないとちょっと思ったりします。それはなかなか複雑な人間心理であるようにも思います。
 
 
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2018.11.18 00:26

 私は小さいころから本を読むのがとても好きでした。自宅にこもって本ばかり読んでいるので、外で遊びなさいと大人から注意されたものです。昭和30年代はいまと違って、男の子は色が黒くなくてはいけないというような変な法則(?)があった。私は色白だったので「女の子みたいね」とよく揶揄されました。
 絵本からスタートしてすぐ活字だけの本(挿絵はありました)に移りました。いまでも印象に残っている本に「ぼくらはにんげん」というのがあります。
 
 この記事を書くにあたっていろいろネットで調べてみたのですが、結局よくわかりませんでした。私はこの本を小学校低学年のころ愛読していた記憶があります。何か・・・とても不思議な感動を覚えた。
 いくつかのエピソードに分かれていました。非常によく覚えている話にこんなのがあります。町工場でお父さんが働いている。そのお父さんの給料日が来た。そもそも給料日という概念すらなかったので、新鮮な感動(大人は月1回会社からお金をもらうのか!)がありました。
 
 細かいところは忘れてしまったのですが、その日は僅かなごちそうが出る。みんなで食卓につくとお父さんがお酒(日本酒だと思われます)を忘れたと台所に取りに行く。台所でコップに少しだけついでその場でぱっと飲んでから、さらにコップになみなみと日本酒らしきものを注ぐ。それを目撃した主人公の小学生は「あ、ずるい!」と声を出します。
 どうやらコップに一杯だけしか飲まないきまりになっているらしいのです。私の自宅では父も母もまったくアルコール類を飲まなかったので、そうした描写もまた新鮮でした。
 
 それだけの話です。それだけの話で事件も何も起こらない。庶民がつつましく生活している様子がこまごまと描かれていて、とにかく面白かった。その本を買ってきた父に「これは科目でいうと何の科目の本なの?」と質問すると、父は困ったように「まあ、社会科だろうな」と答えました。
 事件も起きずヒーローもあらわれずさしたる感動を伴うわけでもなく町工場で働くお父さん一家の給料日を描くというのは、半ば「私小説」の発想です。
 
 それを子ども向けの書籍でやってしまうというのは、ある意味すごい試みだったのかもしれないといまだからこそ思います。出版社も何ももうわからないのですが、あまり売れなかったのかもしれません。私は確か2種類持っていたはずなのでシリーズ物だったのでしょうが、2巻目で打ち切られたのかもしれません。
 ぼくらはにんげんという真正面からのタイトルもすごいと思います。
 
 
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2018.11.17 00:05

 玄関先が極端に冷たいというのは、積極的に入ろうという気持ちになれないものだと思います。冷たいというのは比喩であり、もう少し正確に書くと「入ってほしくない」オーラを漂わせているとでも呼ぶべきなのでしょうか。あるところで何の事務所なのかわかりませんが、玄関先に「呼び鈴鳴らすな! 訪問禁止! ノックもだめ!」というチラシが貼られているのを見たことがありますが、そういう感じの拒否感ですね。
 こうなってしまうと、もうどうにも接点は持てない感じです。
 
 人間にとってあいさつというのはそういう要素があります。あいさつ言語というのは全人類全民族が持っているという記事を読んだことがありますが、それだけ人間にとって絶対に必要なものなのでしょう。
 あいさつ言語は日本語にもたくさんありますね。こんにちは。元気? やあ。よお。おはようございます。いただきます。ごちそうさま。ありがとう。きりがないほど次々出てきます。
 
 しかし、いくら豊富にあったとしても個人的に使わないのであれば、ないのと同じです。全人類が持っているものをある個人だけ持っていないということになる。
 一切あいさつをなさらない人が、短絡的に悪いとは考えていません。それなりに理由があるのでしょう。中学高校時代の一時期、私は大人には絶対あいさつしないと決めていました。何があっても絶対に無視をする。
 ただそんなときでも仲間とはちゃんとあいさつはしていました。やあ、ぐらいですけどね。
 
 あいさつをしないで他者からよく思われるというのは、なかなか難しいと思います。学校の内申がなかなかとれないと嘆いている方はいらっしゃいますが、まさかあいさつ皆無で内申だけ最高点をもらおうとはしていませんね? あいさつなんか実力と関係ないじゃないかという考え方がないわけではないですが、実力だけが物を言う囲碁将棋や大相撲の世界だって、あいさつだけはきちんとできなければいけないと教えています。なしでいいというのは、やっぱり若干かたよっています。
 
 自分は悪いことは何一つしていないという言い方がありますね。しかし世の中は相対的に評価されるので、現実問題としてあいさつされる方がたくさんいらっしゃるわけですから「悪いことはしないがあいさつもしない」という態度はあきらかにマイナスです。
 あいさつは一生続くものです。どこからはじめても遅すぎるということはありません。中高校生の方、それぐらいの余裕は持っても悪くないかもしれないですよ。
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2018.11.16 01:10

 自慢ではないですが、うちは汚いのです。汚いというのは掃除をしない。片づけないということですね。それでよしとしている。
 家事は主に家内でやってくれていますが、これがまた豪快。片づけなくても祭りみたいでいいじゃないかー! 的なムードが家じゅうに漂っているのです。まあ、家内の体調のことなんかもじつはあるのですが。
 なかなか不思議なもので、私も1人ならきちんとするのですが、2人だと思うようにならないので全然きれいにする気にならない。
 
 2人しかいないのに汚いということは、もちろん私にも責任があります。きれいに暮らしたいという気持ちがないわけでもないのですが、自分の部屋とトイレ(その2つは自分が掃除しています)以外はどうでもいいような気持ちもある。
 するとたとえばこんなことが起きます。洗濯をして取りこんだ洗濯物がいまは独立した元「息子の部屋」の中に雑然と山になっている。多くはまだ洗濯ばさみにはさまった状態のままです。家内もたたまない。私も何も言わないし手伝わない。
 
 するとたんすに着替えがなくなりますね。完全に空になる。私はのこのこ息子の部屋まで出て行って必要なものを洗濯ばさみからはずして持ち帰ります。下着とか靴下とか。ごっそり持って行くことはありません。必要なものだけをーーつまり1つだけーー持ち帰ります。
 先日、こういうことがありました。2つの部屋をうろうろしていた犬の姿がふと見えなくなった。ときどきベランダに下りていくことがあるので、しょうがないなと思って見に行くとベランダの網戸はちゃんと閉まっていてベランダにもいない。
 
 あれれれ? と探していたらごそごそと洗濯物の山が動き、中から犬が幸せそうに顔を出すではないですか! ふわふわしてあたたかくて気持ちがいいからでしょう。中で寝そべっていたらしい。さすがに驚いてだめだよ、こんなところに入ってはと手をかけると「ウーッ!」とうなって噛みつく素振りを見せます。
 ただ本人(本犬?)じつは悪いことをしているという自覚はあり、すぐに山から出てきて自室に逃げていきました。
 
 こりゃだめだと思ったので、出かける前に家内に「犬が洗濯物の山から出てきたのでたたんでおいてくれ」と置手紙を残しました。犬は草むらを駆け回り、土の上に寝そべり、他の犬と取っ組み合ってじつに汚いですからね。部屋に戻るときに拭くだけは拭いていますが、たいしてきれいにはなりません。そんなのが乗っかってしまっては、洗濯の意味がないですよ。
 その晩、帰ってくると洗濯物はきれいにたたまれて自室の机の上に乗っていました。犬のおかげと言えば犬のおかげです。
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2018.11.15 01:18

 難関校に合格するためにはご本人が相当努力しないといけないわけですね。ただご本人だけ努力なさればあとはどうでもいいかというとそういうわけにもいきません。ご家族の協力も絶対に必要で、いい環境でなければいわゆる優等生は育たないと思います。これはスポーツ選手なんかも同じですね。いい環境下に置かれることは、育っていく過程で何より大切ではないかという気がします。
 先日、Z会主催のあるイベントで改めてその感を強くしました。
 
 私はその会には参加していませんでした。内容を知っているのはあとで映像を見せていただいたからです。都立のトップ校の校長先生を何人かお呼びして、生徒や保護者の方の前でお話いただいた。
 そのとき、ある校長先生が次のような話をされていました。中学校までは学校給食がありますね。高校からはなくなりますと前置きをしてこうおっしゃった。「お金を与えて買わせるのではなく弁当にしてください」
 口調は当然でしょう・・・という感じでした。
 
 さらに「自分で作らせればいいのですから」ともつけ足されていました。ただそれは場に生じたある種の緊張感(?)を緩和するためのお話ではないかとも感じました。
 実際問題として、高校生の男子生徒が部活の朝練の前に早起きして弁当を作るというのは相当の負荷がかかります。夜は夜で遅くまで勉強しているでしょうから、不可能ではないにしても相当大変でしょう。先生は暗に「それぐらいの姿勢は親御さんのほうも持ってください」とおっしゃりたかったのではないか。
 
 毎朝お弁当を作るのが相当大変であるということは、息子が高校生のころ家内が毎日お弁当を作っていたのでわかります。家内自身が朝から仕事に出ますから真っ暗な時間帯に起きていました。
 息子は難関校でも何でもない高校に通っていたのですが、まあ作ってやりたいという気持ちがあったのでしょうね。息子が弁当を持っていくのを忘れたときに何度か自分は食べたのですが(息子は「ふつうは届けるだろうよ」と嘆いていました)、ふだんのご飯よりおいしいぐらいで、見た目も大切にしているのがわかりました。
 
 もちろんどの難関高校にも、買った食品を持参している生徒はいらっしゃるはずです。そもそも生徒自身がお仕事が忙しかったりするご両親の負担を考えて「作らなくてもいい」とおっしゃるケースがあることを私は知っています。それでもあえて「弁当にしてください」と校長先生がおっしゃったのは、深いお考えがあったのではないかという気がします。
 昨日、コメントをいただいたある優等生(志望校でわかってしまうといけないので匿名にしました)のお母さまも「仕事が忙しくて、朝のお弁当作りしか気にかけてやれない」と書かれていました。ズバリ! ですね。
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2018.11.14 00:15

 先日、公開授業というのをやりました。私は現在、教室では自身を露出しすぎないようにしたいと考えています。いずれ次の世代の方が引き継いでいかれるわけなので、あまり目立たないほうがいいのかなと感じるのです。そのあたりは個人の美学もあるのですが。
 説明会でお話するのもそろそろお譲りしなければとは思っているものの、わざわざ聞きに来ましたとおっしゃってくださる方がいらっしゃったりするので、ついついでしゃばって(?)お話しています。
 
 公開授業もほかの先生にお任せしたほうがよかったのかもしれないのですが、今回は私がやることになりました。
 そのとき「言葉はそれぞれの人格と深く結びついている」という話をしました。たとえば肉と魚とどちらが好きですかという問いかけがあったとします。Aくんは肉と答える。Bくんも肉と答える。単純に、AくんとBくんは同じだと言えますか? そんなことはないですね。Aくんの好きな肉は牛肉のハンバーグでした。Bくんの好きな肉は鶏の唐揚げでした。牛肉のハンバーグと鶏の唐揚げは全然違います。
 
 つまり彼らはまったく違うものを思い浮かべて「好き」と答えている。こんな単純なことでさえそうなのですから、抽象的な概念だったらどれほどの差が生じているかわかりません。「紛争」だとか「自己実現」だとか「無私の愛」だとか「努力の欠如」だとか・・・いまあなたが思い浮かべているそれと文章を書いた人間が思い浮かべているそれとでは、ハンバーグと唐揚げ以上の差があるかもしれません。
 要するに「読解なんて簡単だ」などとははじめから考えないことです。言葉の複雑さについての畏怖心はどんな場合でも絶対に必要です。
 
 辞書をひいて「意味調べ」をしたからそれでいいというような考え方がどれほど浅薄であるかということは、こうした事例からおわかりになると思います。相当の回数その用語に正面からぶつかって、この言葉にはこんな事例もあんな事例もあると守備範囲の広さに対する勘をつけていく以外に正しく理解していく方法はないわけです。「エコ」という言葉なんかそうではなかったですか?
 何度も何度も出会ったおかげで「エコは思ったより難しいんだよなあ」とわかってくる。以前よりは正確に読解できる。
 
 同じ言葉でも経験によって違うものを見ているというのはーーとくに中学生高校生の方ーーよく覚えておいてください。約束を破ったなどというのも、しばしば約束に対する解釈の違いだったりします。許すとか許さないとかいうことも解釈の違いだったり、好き嫌いというのも解釈の違いだったりします。
 意味はわかっても読み取れないのはこのあたりから来ています。人格に取りこめるぐらい1つ1つの言葉と親密にせよということですね。
 
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2018.11.12 08:02

 私は先天的に徳性に富んだ人間ではありません。多少なりともいいところがあるとしたら、それはすべて後天的に(無意識の要素も多いと思います)努力して獲得したもので、本質はちょっと変なので気をつけようという気持ちを持っています。
 いわゆる「長野先生」というのは私にとって着ぐるみみたいなもので、ときどき窮屈なので脱ぎたく(?)なります。先生という職種ではありますが、私には道徳的な資質は乏しいという自覚を持っています。
 
 ただそれは傾向として「変」なだけであって、法律に反する何かではもちろんありません。常識人の枠からズレてしまったところこそ面白いので、他者に伝えたいという気持ちは多少持っています。その不可解さは他者の共感を呼ぶ可能性があるとも思うのです。他者と言っても、もちろんごく少数派ですよ。
 その少数派にとって、私の本質の部分は救いにさえなるかもしれません。少なくとも勉強法云々の何倍も救いになりそうな気がする。
 
 人間というものは、もともと不可解なものです。自分が散文を書きたくなるのも、その不可解さを論文みたいな形で発表するのは恥ずかしいので、韜晦させて主人公に語らせたいと考えているからです。そういう意味では、自分が残しているものは小説とは呼べないかもしれません。
 1つ例を挙げます。これは自分の典型的な一面を表す出来事だと思っています。あるとき下町の大衆居酒屋のカウンターで、隣席のお客さんが無銭飲食をしたときがありました。
 
 40歳ぐらいの、大人しそうな労働者風の男性でした。2千円台だったと思うのですが、持っていない。財布を忘れたとも言っていなかったので、まあいいやという気持ちだったのかもしれません。それにしては2千円台という金額はたいした金額でなく、腹いっぱい飲み食いしてやろうという欲もなかったのでしょう。
 財布を忘れたのかとお店の女の人が質問すると、とにかくいまは持ち合わせがありませんと弱々しく答えます。
 
 お店の人が電話番号を聞くとすらすら答えました。「いつなら持って来られるの?」「明日なら」・・・ということになり、男の人は何度も頭を下げて帰っていきました。身なりは悪くありませんでした。しかもけっこう美男子なのです。容姿のよさは強く私を揺さぶりました。
 翌々日、私は公衆電話から男に電話をかけてみました。男が隣で呟いた番号を覚えていたのです。意識的に覚えたと言ってもいいかもしれません。電話口から「もしもし」と優しそうな静かな声が聞こえてきました。
 
 うん、まあ大丈夫かと満足して受話器を置きました。何がまあ大丈夫なのかは自分でもよくわからない。ただ生きていることを確認したいような気持ちがあった。それだけの話で、番号はすぐに忘れてしまいました。男がお店にお金を持っていったかどうかはわかりません。
 100人あの場にいたとして、男に無言電話をかける人間は私ぐらいではないかと思います。ただ同じように100人いたら、電話をかけた私に「よくやった!」とおっしゃってくださる方は5人ぐらいいらっしゃるような気はします。
 
 私はじつはこのブログも、その5人の方に向かって書いているような気がすることがあります。
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2018.11.11 00:04

 施設にいる父親が急速に衰えてきています。とくに認知能力が低下してきている。それは加速度的な感じで、いずれは何もわからなくなるかもしれません。わからなくなるまで体力がもってしまったということなのでしょう。
 私のこともふとわからないときがあったのですが、そのあたりはいい加減でまた突然わかったりもする。何かがつながるのでしょうね。ああお前か、となる。
 
 父は幼少期あまり幸福ではなかったようです。周囲からいろいろ話を聞いたことがありました。幼少期幸福でなかったことと軍隊や戦時下でもちろん幸福ではなかったこと、その2つが人格形成に大きな影響を与えていたような気がします。
 昔の人間ですから「不幸だった」とは語りませんよ。やせ我慢みたいなものもあるでしょうし、弱音を吐くことをみっともないと考える古風な道徳観もあるのだろうと思います。
 
 父がここ数ヶ月さかんに郷里の豊橋の名前を口にすることに気づきました。もちろん実際に行くことは不可能ですが、まあそろそろという感じもあって何かひっかかるのでしょうね。神社の名前なんかをぽつりと呟いたりする。
 代わりに行って写真を撮ってこようかと考えています。こういう話は往々にして結局間に合わなかったりするものですね。ずっとそのつもりでいたのに・・・結果的に間に合わなかったというような話題はよく耳にします。
 
 来年のゴールデンウイークの連休でと考えていたのですが、それでは遅すぎる可能性が高くなってきた。写真を見せても「これ、どこ?」では意味がないですからね。そうかといっていまの時期ーーさまざまなご家庭の面談が入ってきていますーー連休はちょっと取れません。たとえば今週のたった1度の休みもクリニックに行く予定が入っています。
 時間を作って日帰りを狙うしかなさそうです。片道(こだまで行くことになります)東京駅からは2時間ちょっとですから。
 
 写真を撮ってきてくれと頼まれたわけでもないですし、さまざまな状況から行かなくても(行けなくても)まったく問題はないのですが、気づいてしまったことは行動に移したいとも思っています。そもそも相手が喜ぶかどうかはよくわかりません。まあ、自己満足兼気分転換みたいなものでしょうね。
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2018.11.10 05:59

 基本的にはそれぞれの方が「私こそが人生の主役である」と実感できないかぎり、本当の満足感安心感はなかなか得られないと思います。私の人生の主役は私である、というのは考えてみればきわめてあたりまえなのですが、そう思えない習慣的な思考回路が成立してしまっている部分があるのでしょう。
 だれだれが悪いという思いこみなどはその最たるもので、ある人が悪いと決めつけている相手が人類全体から悪いと思われていることはまずありません。
 
 何かの拍子にある個人にとって「悪い」ということになってしまったわけですから、その悪いと決めつけてしまった人間の何らかの努力によって関係が改善していく可能性は十分あります。意識的に改善していけるのであれば、それこそ主役としての生き方ということになりますね。
 組織と組織の関係でもそういうことがありそうです。ただ非難しているだけであれば要するに主役はあちら(向こうが変化するまで何も起きない)と決めつけてしまったようなもので、こちらには改善の自由もチャンスもないということになる。
 
 政治家なんかはよく「私こそが救世主である」的なキャンペーンで、困っている一般の市民を救ってあげましょうという姿勢を見せることがあります。ときには民衆が熱狂的に出迎えたりもしますが、ああいう状態だと主役の座をじつはそれほどはわかっていない他者に譲り渡してしまっていることになりますから、その人物の転落とともに夢も希望も霧散してしまう・・・などということが起こりえます。そういうことが繰り返し起きているような気もします。
 
 身近なところでは、おつきあいする友だちや恋人なんかもそうですね。ご自身の幸せを安易に相手の存在に依拠させてしまうと、これはもう私は自分の人生の主役を下りましたと宣言しているのと同じです。他人(おつきあいしている方)が不機嫌だと地獄、機嫌がいいと天国という生活を送ることの理不尽さが、習慣になってしまうとわからなくなってくるのです。
 主役はあなたなのですから、あなたの状況だけで決めていくべきでそのあたりは冷静に対処する必要がありそうです。
 
 勉強がうまくいかない理由をたくさん並べるなどというのも主導権が自分にはないと言っているのと同じです。だって部活が体調が親が友だちが学校が先生が時間がテキストが・・・とキリがない。それはウソではないのでしょうが、その次元にとどまっているかぎり主役になれず永遠に事態は改善しないことを少し意識されてもいいかもしれません。
 自分の人生は自分が主役である、自分がコントロールするが基本です。主役として生きるとどんなに楽しいことか。ちょっと想像してみてください。
 
 
 
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2018.11.09 00:07

 将棋が好きだという話は何度も書いてきました。少年期からですね。私はほかのボードゲーム類は一切やりません。囲碁もマージャンもまったく手を出したことがなく、ルールさえわかりません。今後もやらないと思います。将棋だけはいろいろご縁があって好きになりました。30代のいちばん強いときは町道場で四段で指していたことがありました。いまもかろうじてアマチュアの初段ぐらいはあるかもしれません。
 それぐらい好きではあるのですが、本質的には将棋に向いていないという気持ちを持っています。
 
 大学時代はヒマ(?)なので毎日のように道場にお邪魔していた時期があります。自宅の近くに明るくて環境のいい道場があった。ちなみに小池重明という有名な真剣師の先生が沖元二という高名なアマ名人(大阪将軍と呼ばれていました)と三番勝負を行ったのが、なぜか中野区にあったその小さな道場でした。
 自分の場合、毎日行って将棋を指すと3日目ぐらいには飽きてしまうのです。もうどうでもいいやみたいな気持ちになって、わざと変な戦法を試してみたりする。角頭歩突き戦法とか。
 
 いい加減な気持ちになるのです。毎日毎日十番以上指していればそういうものだとも思うのですが、中には全然飽きない方もいて連日すべての将棋に全力投球されているのがわかるのです。そういう方はアマチュア五段ぐらいの肩書きを持っていて、当時の私と指すときは角落ちぐらいの手合いであちらにしてみれば遊びみたいなものなのですが、それでもじつに真剣に考えていました。どんなに悪くなっても精一杯粘るので、何度も何度も逆転負けを喫したものでした。
 この一生懸命さは見習わなければいけないとつねに思いながら、飽きてしまうものはどうしようもない面がありました。
 
 勉強でもそういう要素があり、ちょっと成績を上げる程度であれば比較的簡単ですが、ものすごくできるようになりたいということになると、教科内容そのものを大好きになる必要があります。たとえば英語がすごく得意、数学がすごく得意という生徒にいろいろなことを質問する機会があるのですが、皆さん共通して「要するに趣味みたいなものです」というようなことをおっしゃいますよ。勉強という感覚がない。大好きな趣味で遊んでいるだけという感じを持たれている。
 
 ですから歯を食いしばって・・・などということにはなりません。楽しくて楽しくていつのまにか時間が経過してしまったというだけのことで、頂点まで行きたいのならそれぐらいの感覚が必要でしょう。それこそが「向いている」ことの証明なのですから。
 ただ多くの人間はそこまで感じられないのも事実です。であれば、せめて何かしら面白さを見つけようという意志だけは持たれるといいと思います。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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