2019.12.28 07:35

 幼児のころ「ウソをついてはいけない」と習います。正直でいなさい。ウソをつかなくてすむ清廉潔白な生活を送りなさい。大人になるに従って、自然とウソをつくようになります。不思議ですね。
 ウソまでいかなくても、ごまかしが入ってくる。よくわかりませんとか、その記録はもう廃棄してしまいましたとか、お答えは差し控えさせていただきますとか。
 ご本人が面白がってそうするわけではなく、やむにやまれず・・・という事情がありそうです。
 
 私なんか、幼児期からウソばかりついてきました。根本には周囲への反発がありました。両親の決めた規則に納得がいかないので、彼らがしてはいけないということを隠れてする。そして「していないよ」とウソをつく。してはいけないことの中には「誰それと遊んではいけない」というのがあった。逆に「誰それと友だちになりなさい」というめちゃくちゃなものもありました。相手のあることを私だけで決められるわけがない。
 遊びたい子とは遊びたいし、遊びたくない子とは口もききたくないものです。もういいやと自分勝手に判断して「言う通りにしているよ」とウソだけつく。
 
 寄り道せずに帰って来いとか買い食いしてはいけないとか、そうした約束もことごとく破りました。発覚したらすごく叱られそうです。叱られるとうちに入れてもらえないかもしれない。そういうことがよくあった。そこで、ウソをついて両親の言いなり風を装いました。
 そもそも「こうあるべき」「こうしなさい」という大前提が真理とは限りません。するとウソをつくことが必ずしも反真理というわけでもなかったりします。
 
 何かの力に圧倒されてウソをつかざるをえない立場の方も多いでしょう。組織全体の利益のためですね。組織の正義がいわゆる倫理的な正義と一致しているとは限らない。その場合、どうするかという問題が出てきます。
 難しく考えすぎるとちょっと苦しいかもしれませんね。宇宙には本来上下左右の概念がないのと同じで、広大な世の中では善悪を一概に決定できない要素が強くある。そうした人生観を持っていないと、場合によっては行き詰ってしまう。
 
 ただ大昔の易経関連の本なんかを読んでいると、為政者は常に国家や民のことを考え欲張らず身を正しく云々と書いてあります。為政者までいかなくても主人たる者、我が身を律して徳を積むように・・・とさかんに説かれている。
 現代はそのへんの道徳的な枠組みも少し崩れかけてきているように思います。何がそれを壊したのか。ときどきそういうことを考えます。
 
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2019.12.27 06:11

 私が小学生のとき「てぶくろの反対を言ってごらん」というくだらない遊びがはやりました。いまの小学生はこんなつまらない遊びはしていないようにも思いますが、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。てぶくろを反対側から読むと「ろくぶて」になります。解釈の仕方によっては6回ぶってという意味になる。そこで相手はすかさず6回ぶちます。もちろん遊びですからそんなに強くぶつわけではない。いち、に、さん、し、ご、ろくと声をあげながら軽くぶつ。
 
 ほどなく、この遊びは相手によって印象が全然違うということに小学生の自分は気づきました。ぶつ力は誰でも同じようなものなのですが、ぶたれたときの印象が違う。こちらはわざとひっかかってやるわけです。私自身がぶつ側にまわったときは、友だちがひっかかってくれていたのでしょう。わざとひっかかるぐらいですから、敵みたいなのはいないはずなのにぶたれたときの印象が非常に不快な相手がいる。また多少強くぶたれても女の子相手だとわくわくする。
 
 子どもでしたから、どうしてなのだろう? と不思議でした。ぶつという行為で相手が放出するエネルギーは一定なはずです。それがどうしてここまで違う意味を持ってくるのだろうと考えた。
 で、子どもなりにこれはあくまでも心の問題なのだろうと考えました。自分が対象をどう考えるかということでいい悪いが180度変わってくる。不快になるのとわくわくするのとでは真逆ですからね。
 
 そのあたりが原点だったのではないかと思います。
 人生、長いこと生きているといろいろなことがあります。いわゆる「いいこと」も起きれば「悪いこと」も起きる。試験、就職、人間関係、お金の損得、健康状態、何かの勝敗・・・
 悪いことが起きたときのダメージは一定の力を持って押し寄せてくるものですが、こちらの姿勢によってかなりのレベルまで緩和することができますね。
 
 先週、昔の卒業生がある名門大学に進学することになったと報告にいらしてくださった。文字通りの一流大学です。すごいじゃないかという話になったのですが、彼はじつは高校は第一志望校ではないところに進学しました。ベストの結果が出なかったわけですね。それで高校で頑張った。相当頑張りましたとご本人がおっしゃっていたので、間違いないと思います。結果として第一志望だった高校からもそうは簡単に入れない大学に合格できた。 
 
 私たちの人生は解釈の仕方によってどうにでも変わる可能性があるということです。ぶつかってくる力は一定でも、いくらでもいい方向に持っていくことができる。その解釈の仕方こそ、まず学ばなければならないものなのかもしれません。
 小さなエゴでいらいらするのでなく、ご自身が「試されている」という事実に誇りを持って前進してくださったらいいと思いますよ。
 
 
 
 
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2019.12.25 00:04

 紙の本で読むほうが電子機器で読むより総合的な力がつくという調査結果が出たそうですね。昔からそうではないかと言われてきましたが、数字ではっきり示されると説得力が増します。新聞に大きく掲載されていたのでお読みになった方も多いでしょう。
 紙で読む利点はぱっと前に戻れるところだと思います。あれ? 似た話は前も出てきたぞというときにーーきちんと読んでいればーーこのあたりだなというところにぱっと戻って確認することができる。それこそ行ったり来たりで理解が深まります。
 
 そうした作業の繰り返しが「読解」なのであって、疑問を抱きながらも確認しにくいので先へ先へと進んでいくような読書だとやはり十分な成果が上がらないということなのでしょう。
 さらにこれは近い将来試験というものが紙媒体でなくなれば解決していくことなのかもしれませんが、現状で入学試験は基本的に紙で実施されていますから、同じレベルの刺激に反応できなければいけません。紙に印刷されている文字では気づけないということではいけない。
 
 電子機器はくっきりしていてきわめて刺激が強いですから、画面のレベルだと気づけるのに印刷された平凡な文字だと気づけないということが起こりうるように思います。これは当代の一流棋士が画面で見ているだけでは力にならず、きちんと盤に向かって実際の駒を動かして考えないといけないとおっしゃっているのと似た感覚がありそうです。
 画面で見ればわかる変化をいちいち盤に並べるのですから二度手間みたいなものなのですが、そのあたりがじつは重要なのでしょう。
 
 紙の本を読むときには印をつける人もたくさんいます。真剣に読むという意味ではよいことですね。そうした作業がやりやすいのも本のよさでしょう。まったくストレスがかからずに印をつけられる。さまざまな線をひっぱったり星印をつけたり丸で囲んだり、自由な作業が可能です。
 作業そのものが読み取る力だけでなく、集中力や忍耐力や判断力を涵養してくれる。集中していなければ線なんか引けませんから。
 
 本をまったく読まないグループはやはり力が落ちるとも書いてありました。単純な読解力とか国語力だけではないからこわい。集中力や理解力、表現力なども落ちる。それでも読みたくないということであればそれはそれでいいのですが、好きなことを活字で体験するのは案外楽しいものですよ。
 サッカーやダンス、料理、音楽なども活字によって違った楽しみを得ることができます。とにかく経験してみてくださいよ。けっこう楽しいぞとわかってくるはずです。
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2019.12.24 09:04

 いろいろなご質問をいただくことがあります。非公開でというものも多いので、ご迷惑がかからないようにお答えするようにしています。先日いただいたものはなかなか深遠な要素があり、読んでいてなるほどと感心しました。
 私たちは日々自分たちの生活を作っています。生活だけでなく、自分たち自身も作っています。その事実は相当意識していいことだと思います。自然に推移しているわけではなく、じつは無意識であってもやはり「作っている」のです。
 
 たとえば字の汚い人というのがいます。責めているのではないですよ。わかりやすい例としてあげさせてください。字が汚いというのは乱暴に書くから汚いのであって、丁寧に書きはじめれば次第にきれいになります。上手下手はともかく、乱雑ではなくなるはずです。少なくとも丁寧に書く人だと周囲には認識されるでしょう。
 そうやって一瞬一瞬作っていくという事実は間違いない。ところが、そのときふとこういう疑念が出てくることがあります。
 
 こんなこと(丁寧に書くということ)をやっているけれども、本当は自分はすごく字が汚い人間なのだ、こんなことは一時しのぎのメッキみたいなものにすぎないのだという気持ちですね。それはそうでしょう。何年も何年も、場合によっては何十年も汚く書いてきた。歴史的にはそちらのほうがよほど長い。丁寧に書きはじめたのは今日ですから。
 そこが人間の偉大なところで、そうやって人は自分の意志でいい方向にも悪い方向にも変わることができます。いくらでもいい方向に、ご自身を作り直していくことができます。
 
 他の動植物ではできないことで、自分の世界を自分で創造していくというのは神さまの領域に近いでしょう。そうした能力を秘めているのにまったく利用しないというのは、非常にもったいないことだと思います。慣れてくるまでは(偽物の自分)ぐらいの疑いを持たれるかもしれませんが、どちらが本当になりたい自分なのかということをしっかり考えてください。
 本当になりたい自分になるための第一歩なのであれば、いままでのことはもういいですから、ここからしっかりご自身とご自身の世界を作り変えてください。
 
 何かに依存せずにきちんと自分の人生を生きるというのは、結局そういうことなのだと思いますよ。私たちはありとあらゆる習慣から離れる自由も持っています。あなたが「本当は」どういう方向に進んでいきたいかということだけが大切なのです。
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2019.12.22 01:30

 自宅に昭和50年ごろの将棋雑誌が1冊だけあります。当時は毎月のように将棋雑誌を購読していました。ただそのころのものはぜんぶ処分してしまっていて、この本は後に上石神井の古書店で買い求めたものでした。
 なぜその号を求めたのかははっきりしません。掲載されていた棋譜に興味があったのだと思いますが、どの棋譜かわからなくなっています。当時はインターネットも何もありませんでしたから、一般の人間が棋譜を見るためには専門誌を買うしかありませんでした。
 
 さまざまな広告が載っていて、それがまた面白い。将棋道場の広告も大量に載っていますが、現存している道場は皆無です。ただ有名な新宿の道場などは、場所を移していまも営業されているはずです。
 現在将棋を指す人の多くは、無料でネットで指しているのではないかと思います。もちろん大会に出ようという志の方は別でしょう。そういう方はやはりリアルな対局が欠かせないですね。盤と駒を使う対局ですね。
 
 ときどきこの将棋道場の跡はどうなっただろう? と気になって、現地まで見に行ってみることがあります。我ながら変な趣味だとは思うのですが、何となく気がかりで仕方がない。ビルはそのままで別の会社やお店が入っていることが多いですね。さきほどの新宿の道場は飲み屋さんになっていました。懐かしいので入ってみたのですが、若い方がたくさんいらっしゃって、まさかここが将棋道場だったとはどなたも思わないオシャレな内装になっていました。
 
 一軒家の道場だと完全になくなってしまっています。跡地を見てもどこにどういう形で建物があったのか思い出せなかったりする。杉並区にあった道場もそうでした。住所だけを頼りに行ってみたのですがーーこの話は以前も書いたなーーマンションと民家が並んでいるだけで、こんなところに? という感じでした。
 そこには電車に乗って日曜日にわざわざ出かけていったことがあった。木造家屋のひと部屋を使用しているのですが、タバコの煙が充満していてとにかく苦しかった。
 
 1990年代、新宿に非常にオシャレな道場ができたことがあります。道場というよりクラブという感じ。いわゆる「おじさん」だけでなく、学生さんや女性もたくさんいらっしゃった。アマの女流名人をとられた若くて美しい女性と指したことがあります。それはもう本当にきれいな方で、変なおじさん(私のこと)は緊張してしまって将棋どころじゃなかったですよ。あれも苦しいと言えば苦しかった。どうかと思います。
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2019.12.21 00:54

 父親が他界して、ちょうど1年。97歳でしたからね。冷たいようですが、あまり感慨はないというのが正直な気持ちです。こういうことはもっともらしく装うことでもないでしょう。いい悪いではなく、淡々とした親子関係もあるという記録を残しておきます。
 今年は法事の真似事みたいなことはやりましたが、個人的には今後は無理にやらなくてもいいのではないかという気持ちがしました。
 
 リバーシブルの服というのがありますね。小学校低学年のころ、そういうジャンパーを持っていました。表側が濃紺の普通の生地で、裏はつるつるした赤い生地でした。男の子が赤い服を着ているとからかわれるような気がして、裏を着たことはほとんどなかったと記憶しています。
 大人になってからはリバーシブルの服というのは1度も買ったことがありませんでした。子どもっぽいような気がしたのですね。
 
 ところが昨年の冬、ある通販のカタログでリバーシブルのコートを見つけました。表側が黒、裏は青でした。それなりの値段のきちんとしたコートで、私は通販で服を買うことはまずないのですが、どうしてもほしくなって買ってしまった。やはり表側の黒ばかり着ています。
 裏も悪くないので着てみようとは思うのですが、ふだん外側になっているほうを着込むところに若干抵抗を感じるのです。汚れているような気がする。
 
 父が死ぬ数日前でした。施設の部屋で家族がちょっと出かけてくるとみんないなくなってしまった。私と父だけになった。ベッドの上の父は半身を起こしてじーっとこちらを見ていました。会話はすでにない状態で、彼が何を考えていたのかはわかりません。
 私はふと自分がリバーシブルのコートを着ていることを思い出し、こういうのはどう感じるのだろうと父の前で黒い側を脱いでみました。
 
 それから今度は裏返しに青い生地側を着てみた。身動きせずただ見つめている父に向かって「リバーシブル!」と言ってみました。父はかなり注意深く見ていましたが、私のパフォーマンス(?)が終わると、これはどうしたことかという調子で目を閉じました。やれやれという感じだったので、最後の最後まで我が息子はこれかと絶望したのではないかと思います。
 私は私で最後に自分らしい芸が見せられたと誇らしかった。人はそれぞれの真実に生きるしかないと思いますよ。
 
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2019.12.20 00:27

 講師から社員という形にしていただいたのがちょうど20年前の春でした。ある教室の副教室長職と国語科の教材関係を兼任しなさいということになりました。そのとき前任者の才色兼備の女性(現在も年賀状のやりとりをさせていただいています)から、はじめてのお仕事はこれですよとある方の履歴書を見せていただいた。
 国語科の講師を志望されている女性でした。「どうしますか? 書類は合格にしますか?」とおっしゃった。私がまごまごしていると「これからはそういうことを決める立場ですよ」と。
 
 履歴書を見る限り、申し分ないように感じたので合格にしますと答えました。こういうのはある種のご縁でしょうね。
 話は突然とんで今週の水曜日、私はお休みをいただきました。午前中、月に一度うかがうクリニックに行きました。血圧の関係で継続的に診察していただいているのですが、おかげさまできわめて順調です。深刻なことは何一つ起こりません。
 薬をもらって池袋に出ました。
 
 最近出たばかりのある本をジュンク堂で買おうと思ったのです。渋谷のジュンク堂には3回、新宿の紀伊国屋書店にも1回行ったのですが、残念ながら売っていなかった。特殊な書籍なので流通がうまくいっていないのかもしれません。
 池袋のジュンク堂でもぱっと見た感じではなさそうに見えたのですが、1冊だけ発見しました。新刊なのに背表紙だけを見せる形で売られていた。それを買って、西武デパートのレストラン街に行きました。
 
 池袋は昔勤めていましたから、いくつかいいお店は知っています。ただ個人店でだらだら本を広げたりするのは迷惑かなという気持ちもしたので、デパートに行った。するとどのお店もーー相当店舗があるにもかかわらずーー廊下で椅子待ちしているお客さんがたくさんいました。どちらかと言えばお年寄りが多いですね。多少値段が高くてもゆっくりできますし、味も安定しているからでしょう。こんなに待っていられないなという気持ちがしたので、食事はあきらめて近くのエレベーターで下りることにしました。
 
 このエレベーターがまた来ない。そういうものですね。4基ならんでいるのに、みんな同じような階をうろうろしています。で、来るとなるといっせいに来る。あるエレベーターに乗りました。レストラン街は8階にあったので、各階で停まります。ある階でふと最後のお客さんが乗ってきた。
 それが20年前私が「合格にします」と言った先生なのです。現在はZ会進学教室のある教室の教室長にもなられていて、模擬テストの問題なども毎年作成され昔とは逆に私が教えていただく立場です。
 
 不思議ですねーと笑い合って1階でお別れしたのですが、こういうのは確率的にありえないことで、やっぱり何かのご縁としか考えられない。そしてじつは見えない法則というものがあるような気がします。凡人の私には見えないだけで、必然なのかもしれません。
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2019.12.19 10:08

 10年以上昔ですが、こういうことがありました。いまはもういらっしゃらないある先生ーー若手の優秀な先生ですーーが、私にある男子生徒はもう指導したくないとおっしゃってきた。事情を聞いてみると、その中学生が授業中とんでもない発言を笑いながらしていたのが許せないというのです。
 細かいところまで書くことはできないのですが、要するに「ある人たちは皆殺しにしちゃえばいいじゃん」的な発言でした。
 
 倫理的に見れば、どこに出しても許されないような発言であることは確かでした。その先生は人一倍正義感が強かったのでしょう。ああいう生徒は教えたくない。教えたくないどころか保護者の方に、お宅のお子さんの発言をどう思うかと正面から問いかけてみたいとおっしゃっていました。「あの種の発言がふだん容認されているのであれば、勉強以前の問題で倫理意識がおかしいと思うのです」
 同時期、私は生徒本人からもこの件で相談を受けました。
 
 彼は彼でご自身の失言をちょっとまずかったと思っていました。先生が怒ってしまったのでどうしたらよいだろうと友だちと一緒に私のところに来た。「ふざけただけなんです」
 正しい正しくないの問題ではないでしょうが、話を聞いていて私が担当者ならそんなには怒らないとも思いました。未熟な子どもが周囲のウケを狙ってわーっと乱暴なことを言い散らした。それを本気で怒ってしまうのは、逆に大人側が成熟していないとも考えるわけです。
 
 そういうものでしょう。中学生ぐらいだとわざと乱暴な、めちゃくちゃなことを言う可能性がある。うちの息子もその世代のころはときどき極端に乱暴なことを言っていました。それこそ誰それは死ねばいいという話題が出たりする。
 そんなときに「そういうわけにもいかないだろうよ」と笑顔で返せる程度の余裕は育てる側に必要です。指導者が、未熟な相手が道から半歩はずれかけただけでかっとなって見捨てたくなる心理状態で本当に大丈夫なのか? という不安を抱きます。
 
 ついでに書いておくとこの件は、もちろん無事解決しました。事実関係がどうのこうの、倫理意識がどうのこうの以上に、「温かな」場の力が働くことがある。それもまた大切なことですね。残念ながら現代はこうした場の力がどこでも弱っている感じがします。だから「まるくおさまる」力が働かない。人間には、ご自身が活躍するだけでなく、場の力を作ろうという意志も必要かもしれませんね。
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2019.12.17 00:35

 文学作品は読まなくてもいいという意見があるみたいですね。これからの世の中は、論理的なものだけ正確に読めればよろしいということなのでしょう。それで十分だと解釈された方たちがいらっしゃって、将来的には中学生や高校生がほとんど文学に触れずに大人になっていく仕組みも成立しそうです。
 たとえば高校の教科書から文豪の文学作品などが削られていく。そうしたものは、時間をかけて学ばなくても大丈夫という判断なのだと思います。
 
 文学を「学ぶ」という発想自体に何かしら問題はあるのかもしれませんが、たとえば国語のテストでときどき小説のセリフをならびかえる問題が出てくることがあります。あの種の問いができる生徒は、すごく国語ができます。統計をとってきたわけではありませんが、長年の経験でそう言えると思っています。逆にならびかえが全然できない生徒もたくさんいて、点数の伸びが停滞する傾向があるように感じます。
 
 要するに含みですね。含みだとか伏線だとか。そうしたものを体得していくために文学は間違いなく役にたちます。ただ「勉強」としてやってもどれぐらい身につくのかというのはわかりません。できればに文芸作品に親しむ過程で、自然に体得してもらいたいというのが本音です。
 文学作品というのは主人公の動きが予想できますね。この人ならこうするのではないかという流れがある。
 
 読んでいて面白いのはそういうところです。これは困ったことになったぞ・・・と読者が一体化して感じる。世間一般には何でもない出来事であっても、主人公にとっては大変な問題だということが熱心な読者にはわかります。含みや伏線をしっかりとおさえてきているからです。
 太宰治の「人間失格」の主人公は非常にしたたかなところがあります。弱者の中の弱者を気取るのですが、熱心に読むと劣等者どころか相当な曲者だということがわかってくる。
 
 倫理だと宗教だとか「こうしなさい」と明快に方向性を示してくれますね。それこそ経典に書いてある。ところが文学作品はそうではない。読み進めていく読者自身が(どう生きるべきか)と迷いながら判断する必要がある。その迷いこそが財産なのです。子ども向けのものであっても「お話」を持たない民族がいないということはもっと真剣に考えるべきだと思います。人間には何よりも物語が必要なのですよ。
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2019.12.15 00:43

 ときどき塾をしばらくお休みしたいという生徒が出てきます。学校の部活動が忙しくなってきてというケースが多いですね。そのままやめてしまう方もいますが、しばらくして戻ってきてくださる生徒もいます。それぞれの考え方で、いろいろな形があっていいと思います。
 こちらとしてはご縁が続けばうれしいのですが、「必ず来なさい」みたいなことはなるべく言わないようにもしています。
 休会されたばかりの方に手紙を書くときがあります。
 
 せっかく休めてほっとしているのに私から手紙が来てがっかりという形はもちろん避けたいわけで、全員に書いているわけではありません。何かで教えたことがあった生徒だとか、私から手紙が来てもそうは苦痛に感じないであろう生徒だとか・・・ときには出すことがあるという程度です。
 するとお返事をくださる方がいます。それはうれしいですよ。お返事をいただこうと思って書くわけではありませんから。
 
 先日、いただいたお手紙には塾をお休みしたことでご自身の時間が持てるようになったと書かれていました。さらにおうちのお手伝いがあれこれできるようになったともありました。空いた時間でお手伝いをされているというのは、非常に貴いことだと思いました。来年になったらまた塾に戻りたい、そのときはしっかりしたご自身を見てもらいたいと結ばれていましたが、こうした精神性は勉強以上にお手伝いから学ばれたのではないでしょうか。
 
 歳をとって、電話は若干乱暴な手段だと考えるようになりました。ですから私的な関係ではあまりかけることはありません。またメールも便利すぎるので気をつけるようにしています。相手の方の自由を拘束する要素がある。メールが来ているが、すぐに動かないといけないのかなと迷わせるような真似はしたくないのです。そこへいくと手紙はのんびりしていていいですね。
 以前ある方にやってみる? と勧められたことがあるのですが、私はツイッターにもまったく手を出しませんでした。
 
 単純に、自分程度の人間は思いついことをぽんぽん呟く器ではないと考えたのです。手当たり次第に発言したことすべて真善美につながるという自信はまったくない。よかれと思ったことでも世の中に影を投げかける結果にならないとも限らない。そうであれば面白そうでもまったく使わないという選択をしました。
 世界中で、力のある方がいくらか乱暴なことを呟くこともあるらしいですね。まあ、それはすべて個々の選択でしょう。自分がどうこう言う話ではないと思っています。
 
 
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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