2019.11.18 09:34

 私が生まれてからしばらくして日本は高度成長期ということになりました。当時、デパートという施設は大変にぎわっていました。ある意味で、夢の世界みたいな感覚もあった。子どもたちは親から次の休みはデパートに行くぞと言われると大喜びしたものです。小学校低学年のころ、私は同級生から「明日、デパートに行くんだ」という話を何度か聞かされたことがあります。おそらく私もそんな話をしていたに違いありません。
 
 ファミリー・レストランだとかコンビニエンスストアーだとかをまったく見かけない時代ですからね。デパートの大食堂(というものがありました)で家族で食事するというのは1大イベントでした。
 ご飯ものでは「お子さまランチ」というのがあって、よく注文しました。学年が上がってくるとむしろソフトクリームなどの甘いものを食べていた。いずれにせよ、それなりの価格で家族で食事をするのにデパートの大食堂は好適だったのでしょう。
 
 私立中学に入って下校途中に友だちと盛り場をうろうろする機会ができるようになると、やはりデパートに入って遊びました。当時は屋上に動物がたくさんいて動物園みたいになっていたり、ゲーム機が大量に並んでいてゲームセンターのかわりになっていたりしました。
 本当のゲームセンターだとときどきこわいお兄さんがいたりする印象があったのですが、デパート内では安心して遊べました。
 
 そのデパートがだんだんなくなってきていますね。とくに地方都市は顕著です。先日、先祖のお墓がある豊橋市でも最後のデパートが来春閉店するという知らせを目にしました。昔は市内に3つもデパートがあったのですよ。1970年代、友人と屋上のビアガーデンに入ったことがあります。生バンドが「ハイウェイ・スター」を演奏していた。ギターソロがへろへろでヴォーカルの人がステージ上で顔を覆ったりしているので、かえって(田舎に旅行に来た!)とうれしくなったのを覚えています。
 
 豊橋市だけではなく、東三河地区にデパートというものがとうとうなくなってしまうそうです。閉店まえに1度行って来ようと思っています。
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2019.11.17 08:17

 渋谷という街にはあまり本格的な蕎麦屋さんがないと思っていました。以前、ときどき行っていた老舗のチェーン店がありましたが、いつのまにか閉店してしまいました。改装かな? と期待していたのですが、その後はステーキ屋さんになっています。
 立ち食いの蕎麦屋さんはたくさんあり、時間がないときはお邪魔することもあるのですが、じっくり味わう感じではありません。他にも蕎麦関係の専門店はいくつか見つけたものの、どこもとくにどうという感じではありませんでした。
 
 私自身、いわゆる「グルメ」ではありません。世の中で唯一わかるのはビールの味ぐらいで、あとは何だかよくわからない。いつだったかどなたかにカレーの中ではC&Cのカレーがいちばんおいしいと話したところ、それは非常に安上がりですばらしい。うらやましい限りですと褒められたようなあきれられたような微妙な感想をいただいた。
 その程度の「舌」であるということです。ですから蕎麦がどうのこうのと語ったところで的外れかもしれません。
 
 渋谷教室に勤めるようになって丸8年が経過しました。今年になってはじめて私はすごくおいしい蕎麦屋さんを発見しました。昔からずーっと存在していたらしいのですが、こちらのアンテナに引っかかってこなかったのです。
 建物の2階に入っていたということもあります。外から見て蕎麦屋さんがあるようには見えない。偶然発見して入ってみたら、これが明るくて雰囲気がよくてすごくおいしい。
 
 そもそも陽光が燦燦とさしこむうえに照明も底抜けに明るいというだけでも得点が高いですよ。どういうわけか蕎麦屋さんの中には薄暗さを売りにしているようなお店があります。悪気はないのでしょう。老舗の居酒屋さんにもそういう感じの名店がいくつかある。神経が疲れないようにという配慮なのですね。
 そういうお店はきらいではないのですが、飲み屋さんならともかく食べ物屋さんはやっぱり明るいほうがいいですね。
 
 テーブルに着くとお茶と水を両方持ってきてくださる。そういうところも配慮が行き届いている。当然いつ行ってもにぎわっていますが、女性の1人客も安心できる感じです。先日はカキ南蛮蕎麦というのを食べてみました。少し高めではありましたが、感動的においしかった。お酒を飲んでいる方もけっこういらっしゃって、いつか早く帰れた日にやってみたいと思っています。
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2019.11.16 07:09

 あえてあまりふれずに来ていたのですが、入試改革云々でいろいろと混乱してきていますね。こういうとき変革の方向性ばかり気にしているのはじつはあまり感心しないのであって、考えるべきなのはあくまでも「本質的な学力」「本質的な人間力」をつけるにはどうしたらいいのかということに尽きると思います。
 たとえば英語の入試がどういう方向に変転していくのかさかんに心配されている生徒もいて、それはまったく当然ですがこういうことは言えるでしょう。
 
 英語以前に、まずきちんと物事が考えられるようになる必要があり、また物事をとりあえずは日本語で過不足なく正確に伝えられるような技術と思考力、精神力を自分の中に育てていかなければなりません。本質的な伝達力はそうしたものであり、そこに英語なり何なりの語学力が乗っかってきます。
 この件について自分はこう考える、その理由はこれこれこうである、あなたの考えも理解できるがこの点だけは気にかかる、そこを話し合いましょう・・・という力。
 
 日本語で深く語れない人間がいくら外国語のスキルを高めたところで、使いようがないものです。優秀な翻訳機にはなれるかもしれない。しかし、あなたはどうなのだと真正面から問われたときに「えーと、あのー、えーと・・・」ではそれこそ磨きに磨いた英語の出番がありません。
 英語の試験については心配しすぎないことです。それこそ普段から教科書を暗記するぐらいまできちんと読みこんでいる子はいずれちゃんと話せるようにもなります。
 
 リスニングにしてもラジオの基礎講座などをきちんと聴いて短文を大量に正確に暗記し続けてきた生徒はーーもちろんそれなりの訓練は必要ですがーー会話ができるようになるものです。
 問題なのは、そうした基礎訓練はさんざんなまけていながら改革の波にうまい具合に乗っかって(それは幻想にすぎないのですが)、手っ取り早く最低の努力で合格「だけ」を得られないものかという情けない姿勢です。
 
 方向性が決まらないから勉強ができないではなくて、本質的な勉強をしているからどんな方向から攻められたってびくともしないという気概を持つ。健康と同じですよ。胃腸を調べられたらどうしようとか腎臓はやばいかもしれないぞとかという発想自体がおかしいのであって、全身健康体でどこを調べられたって大丈夫という形こそが本当の健康でしょう。迷われたときは、ご自身の歩いている道が本質的なものであるかどうかということだけを自問されるといいと思います。
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2019.11.15 02:40

 虫も殺せぬ何とかという表現がありますが、私もだんだん歳をとってきて意味なく生き物を殺したりしないように・・・という気持ちを持つようになりました。宗教的な何かとはまったく無縁のお話ですよ。
 先日、家内が変な虫がカーテンにくっついているのでとってほしいと言ってきました。見ると3センチぐらいのときどき見かける昆虫(名前はわかりません)が、大人しくカーテンの内側にへばりついています。
 
 家内はティッシュペーパーを何枚か重ねて私に渡してきました。私がどうすることを期待していたのかはわかりませんが、私はここのところ自室でもいつもそうしているようにティッシュペーパーでゆるく虫を包みました。つぶさないように細心の注意を払って、そのまま玄関に向かい、廊下にそっと虫を落とした。生きているか死んでしまったかまではわざわざ確認しませんでした。
 
 仮に殺してしまったとしても、たいした罪悪感は覚えなかったかもしれません。ただ、次からは気をつけよう程度には考えたと思います。
 小1時間たってから自宅を出ました。仕事の日だったかどうか正確に覚えていないのですが、ふと見るとさきほどの昆虫が廊下の壁にはりついているではないですか。白い壁に黒い虫なので目だちます。すぐにわかりました。まあ、これはこれでよかったという気持ちになりましたよ。
 
 小さいころ、私は昆虫を残酷な方法で殺すことがありました。友だちと殺虫剤をかけて苦しむ様子を長い時間をかけて観察したりした。母親からは益虫は殺すなと言われましたが、益虫害虫という考え方自体いまの私にはどうなのかな? と思われます。
 戒律として何かを守るとか主義主張がはっきりしているとかは立派なことでしょう。しかし、自然に残酷なことは避けたくなるというのも何かしら意味のあることではないかと思っています。
 
 食べるものなどについてもそういうところがあります。自分の目から見て気の毒に感じる食材は食べる回数が減ってきています。流行のヴィーガンとかではまったくないものの、何となく気になる。ただこうした感じは、あくまでも私個人の次元にとどめておきたいとも考えています。
 冬のコートなどで革製品をいくつか持っています。それは末永く大切にしていきますが、新しいものはもう買わないと思います。
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2019.11.13 01:14

 先日の休み、神保町の古書街に行ってきました。私はもともと古本にはあまり興味がありません。どなたかが愛読されたものであるという事実に重い畏敬の念があるのです。完全に病的な感覚だとはわかっているのですが、書籍にも何かしら感情のようなものが内在していて、かつての持ち主を懐かしく感じているのではないかと考えてしまう。にわかにあらわれた新しい主人(=古本を買った私)のことや、新しく置かれた本棚のことを心地よく思っていないのではないか。
 
 中古のCDについてはそこまで抵抗がないのですが、それは変色や傷みが書籍よりは少ないからでしょう。「いやがっているのではないか?」という妙な物語が出来にくいということが幸いしているように感じます。
 ですから、現在も流通している本であれば私は必ず新品を買い求めます。絶版になってしまったものはーーもはやどうしようもないのでーー古書店で探して入手するときもあります。
 
 神保町の古書街に将棋や囲碁の古書を専門に扱っているお店があります。いままでも何度かのぞいたことがありました。以前から探している本があるのですが、もう40年も昔の書籍なのでなかなか見つからない。中身は何となく覚えているものの、書籍のタイトルや著者名は記憶から抜け落ちていました。
 さすがにもう諦めかけていたのですが、今回まったく偶然に発見しました。他の書籍を買うつもりでしたので、結局2冊買いました。
 
 当時880円だった本に2800円の値がついています。内容を考えると安いものだと思います。古い書籍なので紙の色はかなり変色していました。青年時代にたしか新宿の紀伊国屋書店だったと思いますが、立ち読みした記憶が残っています。
 青年期の私は将棋と文学に、共通したものを感じていました。将棋に関して、私は勝負事というゲーム性より文学的な何かを求めていたような気がします。入手したもうひとつの書籍にも真検師の経験がある強豪の言葉が掲載されていました。
 
 毎日毎日会社と将棋道場を行き来していた。つまり徹夜で賭け将棋を指しているわけですね。するとある日、電車の中から外の景色が真っ赤に見えた。眠らずに目を酷使しているうちに、視神経に異常をきたしてしまったのだそうです。こういう話はもう完全に文学ですね。
 無頼派のようなアマチュア強豪の話題にひかれました。その言動を文学書のように活字で読むのが楽しかった。いまはそうした強豪が減ってしまって、ちょっと寂しいですかね。
 
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2019.11.12 09:23

 勉強の話はさんざん書いてきたので繰り返しになってしまうのですが、少しだけ補足しておきます。「成績が『飛躍的に』上がらない」と嘆いている方がいますが、原因は比較的はっきりしています。
 ご本人は「勉強している」とおっしゃる。ウソではないでしょう。ただご本人の基準から見てということです。相対的にもっともっと勉強している仲間は大勢います。それをやりなさいというのではないですよ。ただ原因がわからないというのであれば、原因の1つは間違いなくそうです。
 
 数学の得意な生徒がいました。いわゆる最難関高校に進学された。自習室で黙々と数学に取り組んでいる。見たことのないテキストを使っていたので、ちょっとのぞいてみた。あ、これ高校生用のテキストなんですよ・・・と答えました。面白いので、暇さえあれば個人的にどんどん先に進んでいるという話でした。
 また別の生徒で、通りを歩きながらある教科のテキストを読んでいる男の子を目撃したことがありました。歩きながらですよ。
 
 さすがに危ないと思ったので、あとでちょっと注意しました。「あ、見られてましたか。何やってても勉強のことばかり考えちゃって・・・完全に趣味の世界です」と恥ずかしそうにおっしゃった。
 繰り返しますが、全員そこまでやりなさいという意味ではありません。ただそういう人間がけっこう実在する。英語の音読20回を実行している生徒もそうでした。大変じゃないのかね? と質問すると、好きでやってきただけですとけろりと答えました。
 
 好きだからという仲間がたくさんいる。特定の科目にかたよるのかもしれませんが、とにかく勉強が好きである。サッカーが好きダンスが好き音楽が好きゲームが好きと同次元で、勉強が好きという人がーー珍しくはない程度にーー存在します。もしあなたがその仲間に所属していないのであれば、それもまた「飛躍的に」は伸びない原因の1つでしょう。
 ただその人たちは、あなたが得意なことはあなたほど好きではないかもしれない。
 
 私は将棋が好きで徹夜で指し続けたことが何度もあります。賭け将棋なんかではないですよ。実利はまったくない。ただ面白いから私も相手も朝まで夢中で指し続けた結果です。「少しは将棋に興味がある」程度の人にはとても無理でしょう。強い愛情や執着心がないとできません。
 勉強も同じことで、私が見た感じでは睡眠時間を削ってまで勉強している人たちの何パーセントかは単に無我夢中になっているだけで、苦痛は感じていない。
 
 ある優等生(私立の中3生)にどうしてきみはそんなに成績がいいのかと訊ねたことがあります。即答しましたよ。「そりゃぼくほど勉強している人間はいませんから」
 勉強にかける思いや愛情だけでなく作業量も多ければ多いほどうまくいくわけですが、何の世界でも同じです。トップに負けないほどできるようになりたいということであれば、自分ほどやっている人間はいないと断言できる同級生と対等になるまで頑張るしかないでしょう。ただ、それが個々人にとって本当に意味があるのかどうかは別問題です。それぞれの価値観でしょう。
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2019.11.10 01:25

 大学生のときからひとり旅をするようになりました。友人と行く機会もあったのですが、厳密に書くとひとりのときほど楽しくない。自分は名所旧跡の類にあまり興味がありません。さらに地方によくある施設(水族館や動物園みたいなもの)にもほとんど興味がありません。
 街を歩くのが好きなのですが、なかなか共感してくれる仲間はいませんでした。観光スポットには完全に背を向けて、このままただぶらぶらしないか? という提案を喜ぶ人間は珍しいかもしれませんね。
 
 頼めば手伝ってくれるでしょうが、頼むこと自体気がひけてひとりで歩くかということになり、せっかく一緒に旅行しても毎日別行動になる。そのうちわざわざ共通の休みを作ってまで旅行することもないだろうと考えるようになりました。
 行きあたりばったり地方都市をぶらぶらするのが楽しい。いまでこそ意図的にそれなりに有名な居酒屋さんに入ったりもしていますが、若いころはそうした趣味もありませんでした。
 
 まったくしらふの状態で、田舎町の喫茶店で当時流行していたインベーダーゲームをやって、あとはホテルでごろごろ・・・などという考えたらばかみたいな旅もありました。ありましたが、それは鮮烈な思い出になっています。学生時代修学旅行で見たお城だの神社仏閣だのは全然記憶に残っていないのに(唯一小学生のときに見た石庭の不思議さだけは何となく覚えています)、インベーダーゲームをやった喫茶店の様子はまざまざとよみがえる。
 
 私は当時からタバコは吸わなかったのですが、旅行中だけ何となく買うときがありました。間が持てないときはタバコを吸うと何となく「やることがある」人間のように見えます。あのころはどこのお店にも灰皿が置いてありましたから、とりあえず周囲の真似をしてタバコに火だけはつけておいた。
 ひとり旅はまったく喋らないで済むところもいいですね。私はお喋りですが、じつは気まずい沈黙がつらいのでむりに喋っている部分もあるのです。
 
 ホテルには偽名で泊まっていました。これまた不思議な心理ですが、私であることがわかられるといやなのです。そこで偽名にウソの住所、ウソの電話番号を書く。セットにしていくつか暗記していたぐらいです。ただの無名な大学生のくせに、匿名性の中で生活したいという強い願望がありました。
 いまは面倒臭いので本名を出しますが、ふと昔のペンネームを書いたりするときもあります。本質的にはやっぱり自分は「隠者」なのでしょうね。
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2019.11.09 01:31

 昨日、都内のあるところで社員会というものがありました。私もいまは社員なので参加させていただいた。11時から開始でしたので自宅を9時半に出ました。1時間あれば十分到着できるのですが、だいたいいつもこうしています。万が一何か(事故など)あっても絶対に間に合うように、十分到着可能な時間にさらに30分は余裕を見ておくようにしています。
 予定通り、目的の駅には10時すぎに着きました。
 
 それから駅前の喫茶店に入った。それもまたいつものパターンで、大きな用事があって出かけていくときは駅前の喫茶店でしばらく待機するようにしています。時間をつぶすというよりは、目的地にわーっととびこんでいくようなスタイルは落ち着かないので避けているのです。
 コーヒーを飲んで、少しゆっくりしてからころあいを見て出かけていく。お店に置いてあったスポーツ新聞に、前日の壮絶なボクシング試合のことが掲載されていました。
 
 前日私は仕事が休みで試合の中継を見ていました。めったにテレビは見ないのですが、この試合だけは見ようと思った。途中、はらはらするシーンはあったものの、最後はダウンも奪って日本人のチャンビオンが首尾よく勝ちました。
 試合を思い出しながら活字を読むと、それなりに楽しいものです。そこが活字の魅力で、結果はわかっていても読んでいくと(あの場面をこう表現するのか)といろいろ気づくことが出てきます。
 
 15分前にお店は出た。社員会の場所は歩いてほんの3分です。余裕で間に合うなと思っていたら、どういうわけか途中道に迷ってしまいました。一本道にもかかわらず正しくない一本道を歩いていた。路上で調べなおしているうちにどんどん時間だけが経過して、もう間に合わないなという時刻になっていました。
 これはもう行かなくてもいいかと考えた。私は子どものときからそうなのです。全か無かしか考えられない。1分でも遅れると帰ってしまったりする。そういう自分が許せないのです。
 
 自分がこうなので、そういう生徒の気持ちはよくわかります。ちょっとでも遅れるともう来られなくなる生徒がいます。男女の区別なく毎年いる。サボるというより、気質的な何かなのです。私のように遅れた自分を罰したい気持ちにもなるのでしょう。
 まあ、しかし生徒に「過去の自分でいまの自分を縛る生き方を選択すると苦しむのは自分だよ」などと言っている手前、言行不一致はいかんだろうと思い直しました。みっともないのですが、遅刻で参加させていただいた。参加してみれば、やっぱり行ってよかったと思いました。そういうものですね。
 
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2019.11.08 06:13

 俗に言う悪い子というのがいます。たとえばお店にあった何かを黙って持ってくる、身体の不自由な方をからかう、弱い者いじめばかりする、テストでカンニングする。いろいろありますが、行為としてはぜんぶ「悪い」でしょう。ですから、そうした行為に励む子は、とりあえず悪い子であるということになってしまいます。
 ところがご本人はーーあくまでも子どもの場合ですよーー悪いことをしているという自覚がほとんどなかったりします。
 
 だいたいは親しい友だちも一緒にそんなことをしている。誰かをいじめる、スキあらば物をとってくる、協力してカンニングする・・・悪いということに全然気づいていない。気づいていないどころか、部活動の「ノリ」で、あいつはそんなすげーものとってきたのか、よーし、自分だって負けてはいられない、もっと大物を持ってきてギャフンを言わせてやる! などと張り切っていたりします。
 私は自分がそうでしたから、よくわかるのです。事実、問題を起こした子に訊いてみると、皆さん昔の私と同じですね。
 
 悪いことというよりは、いたずらのつもりなのです。これぐらいならいたずらですむだろうという一線がどんどん後退していって、ついにはある種の犯罪でさえいたずらにすぎないという間違った認識を持つにいたるわけです。
 ですから、事件が起きたときに大人の感性で爆発的に叱ってみたところで、相手は、ぽか~ん? ですよ。この人、たかがいたずらに何をエキサイトしているのだろうという感覚ですね。
 
 それは世間では非常にまずいんだよというところからじっくり「語って」あげてください。息子がそろそろ危ない年齢かなというとき、私は先回りして自身の子ども時代の間違った行為を告げたものでした。「悪いことという意識がまったくなく明るい競技感覚でやっていて、バレても友だちと『次は絶対バレないようにやろうぜ』なんて笑い合っていたんだ」と話しました。
 息子はびっくりしていましたが、事実は事実ですし、そういう意識の麻痺のこわさは伝えておいて損はないと思いました。
 
 何か出てきたときはいきなり犯罪者を裁くような冷たい叱り方をなさらず、お前もそういう年齢になったんだなと落ち着いて話してみてください。
 学歴も地位もあるりっぱな大人だって、四六時中脱税だの汚職だの裏金だの隠蔽だのと目を覆うばかりです。おそらく罪悪感もほとんどなかったのだと思いますよ。未熟な小中学生(まあ高校生も入りますかね)が競技感覚に陥りやすいのはむりもないことです。ただ放っておくわけにはいきませんから、じっくり「人間って不思議だね」という根本のところから話し合ってみてください。
 
 
 
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2019.11.06 02:02

 個人的にちょっと驚いた事件がありました。
 先日、新しくできたばかりの飲食店で(いつものように)朝食兼昼食をとりました。時間は2時ぐらいでしたかね。全メニュー税込みで842円。その時間帯はお客さんはあまりいませんでした。
 あるものを頼み、食べた。それほど広いお店ではなく、外国人の方がご家族で経営されているようです。
 
 お父さんがコックさん、料理を運んでいるのが娘さん・・・と勝手に想像しました。厨房にはお母さんらしき方もいらっしゃった。
 特別においしいということもないのですが、これならまた来てもいいかなという無難な味でした。食べ終わってレジのところに向かった。お運びのお嬢さんがレジの係でもありました。842円ぴったりはなかったのですが、852円あった。500円玉1枚、100円玉3枚、50円玉1枚、1円玉2枚。
 
 ぽんと千円札を出すよりわかりやすいだろうと思ってそうしたのです。お嬢さんはお金を見て「ありがとうございます」とこなれていない感じの日本語でおっしゃると、そのままただお金をしまおうとする。え? と思ったので、私は「10円ね」と言いました。お釣りをくださいという意味です。お金をしまわれる前に言わないとわからなくなってしまうかもしれません。
 お嬢さんはあらためて現金を見ました。それからいきなりスマホを取り出した。
 
 何をするのかと見ていると電卓機能を使って計算しているのです。852ー842ということです。びっくりしました。その間にもお客さんが入ってきたりして、私はそのたびに身体を移動しなければならず落ち着かないことおびただしい。
 お嬢さんは今度はレジから35円(のように見えました)つまんで私に渡そうとしました。こんなことをいつまでもやっていられないので、私は少し大きな声で「10円だけください」と言いました。
 
 長いことごちゃごちゃ話しているので、コックさんがやってきてすぐに10円くださってその場は収まりました。
 あとで考えたのですが、あの極端に計算が苦手なお嬢さんは、日本以外で小学校の算数を習った可能性がありますかね。何だかんだ言っても、日本の教育水準はやはり高いのだと思いましたよ。全商品同一価格の秘密はそのあたりにもあるのかもしれません。しかし毎回ああだとすると、この先ちょっと心配ですかね。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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