2020.01.20 09:13

 公立中学では比較的わかりやすいドリル以外に国語の課題はあまりないようですが、私立中学では教科書以外に相当難しい読解の問題集を課している学校がたくさんあります。たとえば私が知っているある私立中学では、問題集をノートに解いてまるやばつをつけ(自己採点)間違えたところは訂正させたうえで提出を義務づけています。その際、語句の意味調べなども必ず書いておかなければならないことになっています。
 ノート提出は通知表の評価に直結するので、サボることはできません。
 
 先生は丁寧に見てくださいます。さすがに人数が多いので添削まではしてくださらないものの、ただ判を押すだけという感じではありません。
 すごいのはここからです。定期テストにもその問題集から出題されるのですが、問いの形がすべて変わっている! 問題集と同じであれば極端な話、アとかウとか解答を丸暗記するだけで何とかなるかもしれません。それだって相当大変ではあるのですが、定期テストに出る範囲は毎回10題ぐらいですからヤマをかければ何とかなる。
 
 ところが問いの形式がぜんぶ違ってくるとなると・・・これはもう本当に深い読解が必要になってきますね。文章が完全に理解できていなければ得点になりません。教科書以外にそこまで勉強しておきなさいということです。
 さらに課題図書の内容を定期テストに出す私立校もあります。課題図書というのはだいたい文庫本か新書ですから、問いはどこにもついていません。その内容を訊かれるということは1冊まるまる完全に理解していなければならないということで、そうやって鍛えられていくわけです。
 
 もちろん中には課題図書をしっかり読んでいなかったり、問題集の解答を写してしまったりという生徒も出てくるでしょう。すると定期テストで点数がとれないことになり、結局成績を回復するために「しっかり読む」しかないというところに戻ってしまいます。
 国語力が大きく低下しているという新聞特集の最後の最後に「読むしかない」というあたりまえの結論が出ていましたが、私立中学高校はそうやって「読むしかない」とご自身が考えられるように具体的に対策をたてています。
 
 公立校でも活字を読む奨励はなされていますが、読むしかないというぎりぎりまで生徒を追いつめることはまずありません。すると同じ13歳14歳15歳でも読解力がじりじり開いていく。さらに先日も発表されていたように紙の本を読むと読解力だけではなく、集中力や思考力も高まっていくそうですから、そうした力まで開いていく。
 何度も書いてきたように意識的に読む生活を心がけること、そこがスタート地点になると思いますよ。
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2020.01.19 06:29

 保護者会でもお話をはじめたので、ブログにも書いておこうと思います。煩雑でわかりにくくなるといけませんので、なるべくシンプルに事実関係を書きます。
 この春で私は退職することになりました。何かやらかしたわけではないですよ。単純に年齢の関係です。春以降まで残ると次の年度の途中で引く規定になってしまう。現場にいながら途中退出はさすがにまずいでしょう。
 身分的には3月まで社員であるそうなのですが、教室は3月から新年度ですから、3月上旬の入試の合否発表のあたりで基本的には引こうと思います。
 
 同時に社員の形で書かせていただいていたこのブログもおしまいになります。いままでは会社(の方たち)がぜんぶお膳立てしてくださっていて、私はただひたすら文章を書くだけですみました。そうしたさまざまなことを個人でやる能力や才覚は残念ながらありません。静かに終わることにします。
 もともと隠者として生きたいという気持ちも強いので、個人的にどんどん露出していく生き方はちょっと本音と違ってしまうということもありますかね。
 
 何かしら文章は書いていくでしょうが、文芸的なものを書くぐらいでしょうか。まあ、そちらは日の目を見ることはなくても、私個人の中で完結できればある種満足でもあるのです。
 退職後も先生としては使ってくださるということでしたので、3月からはいくつかの教室で授業を担当させていただくことになりました。別の形で教えることも可能にはなりますが、とくに予定しているものはありません。
 
 渋谷教室はいままで一緒にお仕事をさせていただいていた国語科のY先生が教室長になります。彼は若いですが(若いからと書くべきかな)、非常に能力が高く生徒に人気があります。毎日毎日隣席の彼のところにたくさんの生徒が質問などで来てくださる光景を見てきました。上の方から次の教室長に現時点でどなたがいいだろうと打診されたときは、迷わずY先生を推薦しました。
 また本部からS先生という英語科の若手の実力者が副教室長としていらっしゃることになっています。教材も作られている先生で、渋谷教室自体は盤石です。
 
 3月度は基本的に有給休暇をいただく(消化する?)つもりですが、授業は休暇も何もないので1日から淡々と展開していきます。講演会は2月2日の町田教室、2月29日の川越教室が終わると当分機会はないと思います。ブログそのものはどうなるのだろう? おそらくしばらくは残されていると思いますが、4月には完全に私の手を離れます。コメントなどもできなくなるかもしれません。
 残り少ない日々ですが、いましばらくおつきあいください。
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2020.01.18 05:58

 推薦試験の面接練習をしていると多少それぞれの持つ厚みの違いみたいなものを感じることがあります。ただこれは時期的な問題もあり、早熟な子のほうがどうしても厚みが出てくるのは仕方のないことで、現在面接は苦手という中学生も合否は別にして劣等感は一切持たれなくていいと思います。
 たとえば自分が中学3年生のころは本当にひどいものでした。話せないというより話したくない。高校受験がなかったので大丈夫でしたが、面接試験があったら一発で落とされていたでしょう。
 
 当時、担任の先生から何か訊かれてぜんぶ「別に」と答えた記憶があります。別にありませんと敬語は使っていましたが、はなから話そうという気持ちがなかった。担任の先生はとてもいい先生でしたが、私はとにかく大人を信用していませんでした。その気持ちはいまもどこかに残っていて、極端に大人みたいなことを口にする大人(?)はあまり信用していないかもしれません。
 ただこの件に深入りしてしまうと本題に入れないので、入試の面接の話に戻すことにします。
 
 どういうところで差が出るか。
 ひとつには「抽象的な」問いかけに対する答えです。「友情とは何か?」「勉強するとはどういうことか?」「よりよい未来を築くために私たちは何を心がけたらよいか?」
 こうした問いかけに考えながらも比較的すらすら答えられる中学生がいて、非常に大人びた印象を受けます。抽象的な問いかけに答えられるということは、ふだんからそうした思考を心がけているのでしょう。目の前の事象に頼って生活するだけでなく、概念的な何かをつねに意識して生活しているということですね。「~とは?」に答えられる生活。
 
 さらに変化球的な質問というのがあります。たとえば「うちを受ける生徒に生徒会長はたくさんいるけれども、きみは他の生徒会長とどこが違う?」とか、「獣医さんになりたいと書いてあるけど動物実験のことはどう考えますか?」とか。
 こうした質問に「うっ」とつまったままになってしまっては感心しないのであって、正解はないのですから正しいかどうかではなく、ぱっと切り返せる活力や能力の片鱗を見せないといけません。
 
 たとえば「どの中学より民主的な運営を心がけてきました」とか「多くの動物たちを助けるために必要最低限の実験はこわがらない精神力も必要かもしれません」とか。練習中にも途中で、難しい質問ですねえ・・・と笑顔で返してくる生徒がいて、そういう感じだと質問者の先生とのコミュニケーションが闊達に進んでいくので好印象を持たれるでしょう。
 結局感情のやりとりなのですよ。やりとりを通じて(いいやつだなあ)という思いが相手の心に堆積していくかどうか。
 
 単純にセリフを棒読みしているような形ではうまくいかないと思ってください。会話というのはやりとりですから、相手がどうであろうと丸暗記というスタイルは自分勝手な部分がありどんなにいいことがらを並べたところで所詮は「暗記」ですから、高評価はあまり期待できません。相手の出方によって考え考え答える気持ちが大切です。それが会話の基本ですからね。
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2020.01.16 01:45

 私の知人に冬は顔を合わせるたびに「いつまでも寒くて本当にいやになっちゃうねえ」とあいさつし、夏になると「毎日毎晩暑くて暑くていやになっちゃうねえ」とあいさつされる方がいます。飲み屋さんの顔見知り程度で、深く知っているわけではありません。食品関係の仕事をされているのかな。
 おまけに春は花粉症で桜が咲こうが何だろうが憂鬱そのもので、秋はーー連休でお金がたくさん出ていくからだったかなーー大変憂鬱だとおっしゃっていました。
 
 要するに春夏秋冬ぜんぶ憂鬱になる理由があります。もちろんそう考えるのは自由ですが、面白いのはそうした感想を持つ方がたとえば冬のわりに極端に暖かい日がおとずれても、けっして「今日は素晴らしい天気に恵まれた!」とは感謝しないことです。感謝せずにそれがあたりまえだという顔をしている。
 整理するとこうなります。軽微な理由でも、とにかく1年中理由があって憂鬱な毎日が続く。そしてその理由が消えたせっかくの日には、あたりまえととらえるので感謝の気持ちが湧いてこない。
 
 これでは幸福を感じるタイミングがないですよ。ちょっともったいない生き方で、私なんか寒い季節は寒さそのものを精一杯味わうように心がけています。昨日も東京の朝はけっこう寒くて午前中は小雨が降っていました。先日も書いたようにその中でまだ小さな黄色い葉をつけているイチョウの樹があります。本当に奇跡的な話で、こういう姿をきりっとした空気の中で見られる経験は素晴らしい。
 夏も同じようなものです。おととし新宿の電光掲示板が瞬間的に40℃を超えた日のことなど、幸福な気持ちで鮮明に思い出すことができます。
 
 つまりその人間の視点でしかないということですね。どこを見ているか。同じ東京に暮らす「人間」ですから、寒いも暑いもそれに対する抵抗力もそうは変わらないでしょう。であれば、その感覚を楽しもうという方向から見るか真逆から見るかで、大げさに言えば天国と地獄ほどの差が生じてきます。天国も地獄も心の中にあるとはよく言ったもので、ある人が地獄と感じる状況をある人は天国と認識しているという極端なことも起こりうる。それが人生でしょう。
 
 私は真夏もつねにスーツ姿なので、親しい人間から「汗をかくのにどうして平気でいられるのか」と問われたことがありました。たくさん汗をかいたあとでシャワーを浴びるとすごく気持ちがいいからだと答えたのですが、彼は確かにそうだね、気づかなかったと賛同してくれました。
 真夏に汗をかくからこそふだんの何倍もシャワーが爽快なわけで、現実の不快感でさえよい方向に持っていく想像力を人間は有しています。幸福かどうかはあなたが「いま」幸福を見つける意志を強く持っているか、その想像力を十全に活かせるかにかかっているように思います。
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2020.01.15 09:17

 教科の先生のところに質問に来てくださる生徒が注意を受けている様子が耳に入ってくることがあります。頻繁にある例として「授業中くわしく説明したところばかりではないか」というのがあります。同じ質問者だったりすることがあるので、要するにあとで質問すればいいやと軽く考えて授業中注意深く聞いていない生徒がいるということですね。
 受験生であれば、まさか内職したり寝ていたりということはないでしょうが、散漫であるということになるとちょっと心配です。
 
 あとで質問すればいいというのは、そもそも依頼心が強すぎる傾向があります。質問することは「権利」ではありますが、先生の時間もとりますしほかの質問者の時間も奪うことになります。どうしようもないものは遠慮せずに質問するべきでしょう。ただ授業でやったことのほんの少しの応用程度であれば、自力で何とかしようという気概だけは持ちたいところです。
 昔の先生は生徒が質問に行っても「まだまだ考えが足りない」ぐらいしかおっしゃらなかったものでした。
 
 仕方なく自分でしばらく考える。すると手がかりが見つかって(ああ、そういうことだったのか)と納得出来たりする。そうした経験は自信にもつながってくるので、自分で何とかしようという意志は非常に大切ですね。
 また質問の途中で「ここから先は自分でやりなさい」と言われたりしている生徒もいます。あるときは「ここからは計算だけじゃないか。自分で計算しないでどうするんだ?」と苦笑されていた子もいました。
 
 式をたててもらって、さらに計算までしてもらおうと考えたのですね。細かい作業は自力でやらなければ力がつきません。
 私のところにも「これがわからない」と持ってくる生徒がときどきいますーーその9割以上は非常にまともな質問ですーーただ、あるときほかの授業で出された宿題をそのまま持ってきて「解答」を教えてほしいと言われたことがあり、それはきみの宿題なのだから私が教えるわけにはいかないよと伝えました。
 
 解いている時間がないのですとおっしゃっていて、おそらく本当でしょう。であれば、受験生なら勉強以外の時間を削って勉強にあてればいいのですが、それは思いつかなかったのかもしれません。
 受験生でも気分転換と称してゲームなどをけっこうやっている生徒を私はたくさん知っています。それはそれで個人の自由でしょう。その種の娯楽を封印している生徒との差は当然出てきますが、ご本人がよしとしているのであれば他人がとやかく言うべきではないのかもしれません。自己責任ですね。
 
 問題なのはトップクラスになりたいと言いながら、娯楽の時間は減らしたくないというケースです。いくら何でもそれは難しい。娯楽より勉強のほうがよっぽど楽しいという状況にならないかぎり、勉強でトップになることは難しいでしょう。
 つい最近、ある優秀な卒業生が人間の趣味の中でいちばん実りのある豊かなものが勉強だとおっしゃっていた。本で読んだとか何だとかではなく、ご本人が実感されたセリフです。逆に勉強より他のもののほうが楽しいという本音にはその人の本質が隠されているように思います。そこをしっかり見つめないと。
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2020.01.13 09:31

 先週、2011年度に教えていた生徒がふらりと遊びに来てくださいました。彼はーー話の様子からーー私のブログの存在はご存じないようでした。私もとくに宣伝したりはしないので、その話題は出ないままお話しました。
 先生がまだいらっしゃるかどうか不安ではあったとおっしゃっていました。それでいらっしゃる直前に電話をかけてこられた。私がまだいるということで、安心して遊びに来てくださいました。
 
 もともと優秀な生徒ではありましたが、当時は最上位ではなかった。彼自身そのころはあまり本を読まなかったので、それが伸び悩んでいた原因かもしれないとおっしゃっていました。現在は大学4年生で、卒業されてからはいわゆるロースクールで学ばれるそうです。日本ではいちばん難しい(?)ロースクールに合格された。
 ちょっと驚いたことがありますが、勉強は立ってするという話でした。そのほうが集中できるので立って勉強ができる机を用意したそうです。ノートだのパソコンだのはそこに乗せている。
 
 座らないというのはまたストイックですね。将棋でもやはり「立って研究する」という若手棋士を知っていますが、あの藤井七段にも勝ったことがあるぐらいの非常に強い先生です。
 大学時代ももちろんうんと勉強をしたそうですが、その「勉強する」という姿勢はZ会進学教室で中学生のときに身に着けたと非常にうれしいことをおっしゃってくださった。
 学校ではできないという意味ではありません。ただ塾のほうが真剣に勉強する優秀な仲間が多かった。その空気から一生懸命勉強する感覚が獲得できたというのです。
 
 以前ーーこの子は女子生徒でしたがーー塾に来るといくら勉強しても全然からかわれたりしないので安心できると話していた生徒もいました。よくできるのですが、学校ではそういう部分を見せると(意識して見せようとしなくても見えてしまうものです)、何となくからかわれたりする。親しい友だちにも「あなたは勉強ができるから私みたいに進学の悩みがなくていいね」と皮肉みたいなことを言われる。わかっていてもわからないふりをしてみたり・・・という変な気苦労がつきまとう。
 
 それが塾ではどんなに勉強していても、あきらかにもっと勉強している友だちがいる。冬休みもお正月もあたりまえのように自習室で黙々と勉強している。見ていると誰とも話さず、食事するだけであとはずーっとテキストとノートに向かって孤独に孤独に作業を重ねている。
 精神性の場ですね。ロースクールに進まれることになった彼も、中学のときに渋谷教室でそうした感覚に目覚めてくださった。大成されるであろうオーラが漂っていましたよ。
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2020.01.12 00:15

 先日、あるところで「マスク依存症」という言葉をはじめて目撃しました。これは知らなかった。こういう言葉が出てきているということは、ある種社会問題化しはじめているのかもしれません。
 マスクをやめられなくなるというのです。マスクをつけていると対人関係である程度の距離感が保てます。相手の視線を一部さえぎることができる。じろじろ見られても安心でしょう。その安心感が心地よくて、何でもないときもマスクははずせなくなる。マスクがないと人前に出るのがこわい。
 
 風邪をひいてマスクをするというスタイルは昔からありましたが、最近は「予防のため」とおっしゃる方も多いですね。実際ある程度の効果があるらしく、予防のためのマスクは日本中で流行しています。ですから体調不良でも何でもない生徒が四六時中マスクをつけていても、私はまったく気にしていませんでした。
 ときどき面接の練習のときにもマスクをしている子がいるので、本番のときはとりなよ・・・ぐらいでしょうか。それ以外の機会に、いちいちはずしなさいと指摘したことはありません。
 
 ただ心理的な問題があるとなるとちょっと心配です。中学生のうちはいいですよ。高校生大学生さらに社会人になってもマスクをしないと対人関係が安定しないというのはやはり問題かもしれません。面と向かって大切なお話をするときや大勢の人間に伝えたいときにいつも顔を隠しているわけにもいかないでしょう。表情全体で誠実に伝えたほうが確実で、それができないと他者に(隠しておきたい何かがあるのでは?)と不安を抱かせる可能性もある。
 目は口ほどに物を言うという表現がありますが、表情全体が見えていてこそ十全に伝わるものがあるはずです。
 
 もっとも自分も高校時代、顔を隠したいとよく考えました。マスクという発想は思い浮かばなかったので、ひたすら髪を伸ばした。伸ばして目元が隠れるように、また耳や襟足のあたりも隠れて無防備な面積が少なくなるように努力した。
 大人に切りなさいと言われると強い反発を感じました。顔を出すことに強い抵抗感があったのです。数少ない友人には「どうしてそんなに顔を隠したがるのか」と訊かれ「世界一醜いから」などと答えて笑われました。
 
 ところが、内心はまったくそう思っていない。真逆のことを考えているのです。おれはジギー・スターダストだとうぬぼれている。ところが周囲に全然評価されないものだからやけくそ的な倒錯感情が湧きおこってきて、いつでもどこでも「醜いから」を連発するようになりました。
 そんな私がマスク依存症は問題ですなどともっともらしいことを書くのもどうかと思いますが、あまりにも逃げこみたいという欲求が強いのであれば、単純にマスクをするだけでなく多少は違う対処法を考えてみてもいいのかもしれません。
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2020.01.11 00:43

 東京をほとんどご存じない方もいらっしゃるでしょう。以前、地方から上京された方から東京という特定の繁華街があると思っていたので、びっくりしましたという話をうかがったことがあります。その方の認識だとーー田舎はそうですからーーせいぜい東京駅の周辺がにぎわっている程度かと考えていた。東京駅のすぐ近くに新宿だとか渋谷だとかというよく聞く地名の繁華街があると勘違いされていたそうです。
 あちらこちらに独立した巨大な繁華街がある都市は想像できなかったとおっしゃっていました。
 
 渋谷の雑踏を歩いていると、ひっきりなしに他人の話し声が聞こえてきます。これまた想像しにくい方がいらっしゃるかもしれませんが、つねに人であふれているのです。駅から教室までは徒歩でほんの数分程度の距離ですが、ふだんは間違いなく3桁の人間とすれ違ったり同方向に歩いたりします。
 そもそもスクランブル交差点を1回渡るだけで、それぐらいの人数の方を目撃することになります。地方都市では、あまりない現象ですね。
 
 ですから話し声も重なるように聞こえてくる。不思議なもので、聞く気がなければ雑音でしかありません。私も基本的にはとりとめのない他者の会話を注意深く聞いても仕方がないので、ほとんど聞いていません。
 ただときどきふと耳に入ってきてしまう不思議な会話があり、あれはいったいどういうことだったのだろうと考えてしまう。つい最近はこういうのがありました。男性同士の会話だったのですが、周囲に人が多すぎて会話の主は特定できませんでした。
 
 若い男性の声でこう言った。「おごってくれなくてもいいからさ、おごろうとしていたぶんだけ、悪いけどいますぐ現金でおれにくれないか」
 ずいぶんな話じゃないかと思ったので、耳に残った。相手の方も何か答えていたようですが、何をおっしゃったのかはわかりませんでした。合理的と言えば合理的な考え方なのでしょうし、ひょっとしたらいまの若い方にはある程度自然な発想なのかもしれませんが、昔だったらちょっと問題にされたかもしれません。
 
 おかしな会話でこういうのもありました。これまた渋谷の雑踏で聞いた。
 数人の学生さんらしきグループでした。「カラオケ行こうぜ」「お、いいねー」「だろ? あそこにカラオケのナの字が見えたからさ」「・・・カラオケにナなんて字入ってないじゃん」「お前っていつもそうな」
 歩きながら私もなるほどカラオケにナという文字は入っていないなと確認してしまいました。お前っていつもそうなと言われていたので、仲間うちではケアレス・ミスが多くて有名な方なのでしょう。
 
 街なかで退屈なときは周囲の会話をじっと聞いてみてください。けっこう楽しめたりしますよ。
 
 
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2020.01.10 09:15

 教室で一緒に働く仲間というのができます。私はこれまで3つの教室で教室長を担当させていただきました。三鷹が2000年度と2001年度、池袋が2004年度から2010年度まで、渋谷が2011年度からです。
 空白の年度は教室長ではなく、別のお仕事をさせていただきました。教室長としてのいちばんの業務は生徒や保護者の方を見守り続けていくことであるわけですが、同時に一緒に働いている方たちへの気配りも大切な仕事だと思ってきました。
 
 人生いろいろなことがあります。けっして仕事だけがすべてではない。ご家庭のこと、趣味のこと、それぞれの人間関係ーーときにはご結婚やご家族の病気などということも起きてくるーーさらには健康問題、子育て、金銭上のトラブル・・・いろいろなことが起きる可能性があります。
 生きていくというのはそういうもので、ずーっと変化がなかったらそれこそロボットと同じでおかしいでしょう。変化がなさそうに見えるのは、それぞれが周囲に気を遣っているからです。
 
 そのへんの微妙な感情の変化を読み取って、仲間が働きやすいように考えていくのが大切なことだと思ってきました。たとえば誕生日にも黙々と仕事をしてくださるときに、1日中教室で顔を合わせているのであればせめてひと言「お誕生日おめでとう」ぐらいは伝えるべきで、そうした挨拶は礼儀だと思います。
 わざわざプレゼントまでは渡さなくても、誕生日なのに朝から晩までこんなに忙しいなんてと悲しい気持ちにならない配慮は必要でしょう。
 
 ですから、そのときどき一緒に働く仲間の誕生日ぐらいはすべて把握していましたし、その日に出てきてくだされば「おめでとうございます」程度は伝えました。しかしこれを儀礼的な何かにしてしまうとかえって負担がかかるでしょう。義務ではなく気が向いたらでまったくさしつかえないのですが、そもそも仲間に「おめでとう」を言う気にならない働き方というのはどうなのかなとも思います。
 人手不足がさかんに言われる世の中で、特定のお仕事に熟達された方というのはそれこそ「人財」ですからね。
 
 人間に対して毎日まったく同じように働けという発想はおかしいと私は思っています。そういうのはひいきのチームに全勝しろとプレッシャーをかけるのと同じで、調子のいいときもあれば調子が出ないときもある。理想的なのは職場に行くと元気が出てくるという形であって、そうなるためには仕事内容だけでなく周囲との関係も大きいでしょう。
 塾もそうですね。毎回まったく同じように猛勉強しろというのはむりです。それでも塾で勉強しているうちに元気が出てきたというのが理想的なのかなとも思います。
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2020.01.08 09:23

 今年の2月にふたつの教室でお話させていただくことになりました。2月2日が町田教室、2月29日が川越教室。新しい教室ができるたびに何となく呼んでいただいていろいろお話してきました。
 勉強のことより、むしろどうやって成長していくのが望ましいか・・・みたいな内容になってしまいます。この2回を終えるとしばらくお話する機会はなさそうなので、いままでのまとめでもあるかなと考えています。
 
 世の中、幸せではないという人が多い。生徒という意味ではないですよ。周囲の大人を見ていてそう感じることがしばしばあります。人生は終わることのない悲しみや苦痛の連続にすぎないと認識されている方がたくさんいる。
 おそらく知人がーーくわしくは書きませんがーー昨年自ら生命を絶っています。確かめようがないことですし勘違いであればいいのですが、あることからそう想像できる。しかし、つらいこと苦しいことの連続こそが人生であるという認識は、あくまでもご本人の印象にすぎないと思います。
 
 そう痛感されるのはその人間の責任ではなく、あまりにもその種の教育(と呼べるのかどうか)を受けてきたからでしょう。徹底した悲観主義教育ですね。悲しくて切なくて苦しくてつらいことばかりだぞと繰り返し教えられてきた。露骨に教えられなくても、少なくともそう示唆されてきた。
 周囲の人間も悪気があるわけではない。ご自身がそういう連鎖の中で育ち、よかれと思って目下の者に伝えてしまう。「このままいったら大変なことになるぞ」「生存競争に敗れたら終わりだぞ」と。
 
 もちろんうまくいかないことはあるかもしれません。それが受験であったり恋愛であったりお金儲けであったりする。ただ、ひとつの扉が閉ざされれば、逆に開く扉も無限に生まれてくるとも考えられます。
 わかりますか? 行きたかったA校に失敗してしまったら、A校以外の無数の学校に進める可能性、そこで考えもしなかった濃密な人間関係に恵まれる可能性が生まれてくる。そうしたところにすぐに光をあてられる強靭な精神力こそが幸福の原動力なのです。
  失意の感情を味わうのは悪いことではありません。仮に涙を流すことがあっても、光が見えていればその情緒は非常に美しい。
 
 結論が「人生は何もかも思うようにならない苦難の連続でいいことなんかひとつもない!」となってしまってはいけないのであって、どの瞬間も「私は新しい扉をたくさん開く自由を得た。うんと冒険して予定通りではない人生の妙味を味わい尽くしてやる」とご自身の中に希望の灯をともせる人間へと導いていくことこそが、本当の意味での「教育」ではないか。
 ではどうしたらそういう人間に近づけるかということです。個人でご家庭で、希望を灯せる人間へと近づく方法論ですね。そんなお話ができたらと思います。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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