2019.05.21 07:52

 ブログを読んでくださっている方からときどき内容や文体の柔らかさに救われる(は大げさですが)とおっしゃっていただくことがあり、それは私自身ちょっと意識していることなので、うれしく思うときがあります。私個人は本質的にはかたよった人間ではあるのですが、物事に対してとりわけ公式な場では穏やかであることを大切にしたいと現在は考えています。
 場に対する責任みたいなものでしょうか。不安をあおる存在ではありたくないのです。
 
 それぞれ役割があり、どういう形で世の中に貢献するかという意識も違ってくると思うのですが、とりあえず当分この形でいくつもりです。
 好き嫌いというのは当然どなたにもありますね。たとえば食べ物でさえ、自分にはなるべく食べたくない食品があることはあります。ただそこにわざわざフォーカスしない。話題にしない。話題にすれば、どうして嫌いなのか、それがどんなにまずいかみたいなことを書かざるをえなくなります。それは役割ではないなという気持ちがあるのです。
 
 同じように好きではない(露骨に書けば嫌いな)音楽、文学、政治的立場、観念や哲学、生き方があることはありますが、そこにはあえてふれないようにしています。世の中、あれはサイアクだという話題がじつに多く、そのほうが刺激的で注目を集めやすい傾向があるかもしれません。賛否両論渦巻いて・・・という状況を狙って、そうした話題を持ち出す方もいらっしゃるでしょう。
 ただそうするとどうしても否定的な文言をたくさん並べざるをえなくなります。それはやはり避けたい。
 
 たとえば「悪」という概念がありますね。そういった概念も時代や場所とともに変わっていきます。また宗教的な解釈などで大きな差が出てくる場合もあります。ですからどんなにわかりやすそうに見えることも、あえて決めつけたくないという気持ちを持っています。さまざまな紛争でさえある程度操作された情報しか入ってこないと思うので、善対悪という単純化された図式でとらえたくないのです。
 まして「悪を殲滅せよ!」的なあおりは、自分の守備範囲ではないと思っています。
 
 害虫というのはこちらからの一方的な視点であり、あそこに害虫がいるよというのはずいぶん身勝手な表現ではないかと思うとともに、そういう視点に立つ人間の存在も否定はしない。穏健な表現につとめていきたいと考えています。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.19 07:45

 忙しすぎるという状況がありますね。これは年齢に関係ありません。やることが多すぎる。人間、誰でも食べて寝ないといけません。それから最低限の身の回りの世話はしないわけにはいかない。トイレに行くとか身体を清潔に保つとか。
 それ以外のことは必ずしもやらなくてもいいかもしれません。まあ、義務教育期間はなるべく学校へは行ったほうがいいでしょうし、勉強もまるきりやらないというわけにはいかないでしょう。
 
 食べて寝て最低限の生活活動をして、学校に行く。それだけであればそんなには忙しくないですね。つまり忙しすぎるというのはご自身の判断で、そこにいろいろなものをつけ加えすぎた可能性があるということです。 
 その際、何をつけ加えるのかの判断はとても大切になってきます。どちらの方向に進みたいのか、それをできるだけしっかりさせておく。その際、どうしても本当の自分と向き合う必要があります。
 
 ものすごく高いレベルの難関校に進学したいというのなら、本当にそこまで勉強したいのか心の底をのぞいてみてください。見栄だとか体裁だとかで、漠然といい学校と言っているケースもけっこう多いものです。うんといい学校に進みたいと言いながら、できるだけ効率よく楽をしたいというのはどこかしら矛盾している。合格したらうんと遊べるぞなどというのも、最難関校をめざす人間の心構えとしてどうなのか。合格したらとことん勉強するぞ! であるべきではないか。
 
 忙しすぎるということであれば、何かを削るしかありません。大切なものは削れませんから、本音の部分でまあいいかもしれないと考えているものを削る。必ずしも勉強しているから安心というものでもないのです。人によっては削らなければいけないのはむしろ勉強かもしれません。
 ひたすら芸事や競技の道を目指している。ところが勉強が忙しくてろくに練習時間がとれないという場合は、方向性に疑問があるでしょう。
 
 ご自身のなさることに順位をつけてください。食べるとか寝るとかはあたりまえなのでそれ以外のことですね。本当はどうしたいのか。勉強時間を削らざるをえない活動がそれほど大切なのか。であれば最上位校には入れないかもしれませんが、それが真実の自分自身なら正しい選択でしょう。成績的には勉強を最上位に置く人には負けてしまうかもしれませんが、何も恥じる必要はないと思います。
 
 
 
 
 
ソーシャルブックマーク:

2019.05.18 00:25

 現在の賃貸マンションに暮らしはじめて約20年になります。基本的に私は昔から「住まい」というものにあまり興味がありません。そのときどき快適に暮らせればそれで十分なので、それ以上の要素はまったく求めていないということです。これからも住み続けられるかぎりはここで暮らすのではないかと思います。
 いまは家内と犬しかいませんが、事情があって息子が一時期戻ってくる話が出てきました。それならそれで、私はもちろん歓迎するつもりです。
 
 マンションの周囲はずいぶん変わりました。自宅の前に大きな公園がありますが、来たときはなかった。公園に付随している(逆か)マンション群もなかった。青梅街道まで5分程度で出られるのですが、途中の道筋はいまよりはるかに殺風景でした。
 越してきた当初は青梅街道沿いに商店がいくつか並んでいたのですが、次から次へとなくなっていきました。荻窪と西荻窪のちょうど中間地点なので、皆さんここまでいらっしゃらないのでしょう。酒屋さん、畳屋さん、クリーニング屋さん、スナックなどがなくなりました。
 
 一軒、非常に古い居酒屋さんが残っていました。これがものすごくシブい。おばあさんがやっていました。店名がおばあさんのお名前だったのではないかと思うのですが、何かご迷惑がかかるといけないのでぼかして書くと「おしん」とか「お千代」とか「おみつ」みたいな屋号でした。
 でしたというのは・・・先週、突然看板がなくなっていることに気づきました。あれ? と思ってよく見るとお店自体がなくなっている。
 
 正確には覚えていないのですが、私はそのお店に数回うかがったことがあります。20年間で数回。昔はランチ営業もやっていて、昼間入ったことがありました。ものすごくあたりまえの定食(ご飯、味噌汁、小鉢に焼魚というような)がおいしかったのですが、自宅から数分の場所にわざわざ食べに行くのは何となく不自然な感じがして、その程度の訪問回数になってしまいました。
 お正月の特訓授業のあとにお邪魔したことがあります。
 
 お正月にやっている居酒屋さんも珍しいと興味をひかれ、わざわざ入ってみました。遅い時間帯だったのでお客さんは私1人でした。おばあさんが、お正月も寂しいからお店を開けておいてほしいというひとり者の年配のお客さんがいらっしゃるので、元旦以外は開けているとおっしゃっていた。
 何か食べ物はありますかと言うと、だいたい売り切れてしまってその日はひじきしかないということでした。で、飲みながらひじきだけをむしゃむしゃ食べて帰りました。
 
 おばあさんの姿は比較的最近目撃した記憶があります。お元気だといいのですが。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.17 09:10

 今年、1回だけになると思うのですが、渋谷教室で講演します。7月13日土曜日の午前10時30分から1時間半ぐらいですね。ちょっとゲリラ的にやりたいという気持ちがあり、とくに講演者の名前は明示していません。タイトルも「勉強や成績についての面白い話」としてあります。今後もあまり宣伝しないつもりではあるのですが、よろしかったらいらしてください。Z会進学教室のイベントという項目からお申込み可能なはずです。
 私は現在ファッショナブルな(?)引き際を考えているので、講演なども地味に終息させていくことになると思います。
 
 こういうのは気質の問題でしょうね。大騒ぎせずに少しずつ消えていくというのが理想なのです。先日「修道士は沈黙する」という映画を見ました。最後の最後で修道士は思いがけないスタイルでいなくなってしまうのですが、こういうのがいいなと思いましたよ。この映画はかなり考えさせられました。中学生の皆さんにはちょっと難しいように感じますが、大人の方で日々の生活に圧迫されて息苦しくなっていらっしゃる方はご覧になってみてください。人間の幸福について、本当に価値のある人生について考えさせられる映画でした。
 
 いままでもいろいろなところでお話してきました。Z会の教室だけでも渋谷教室、横浜教室、立川教室、祖師谷教室、南浦和教室、八王子教室でお話してきました。関西圏でも2つの教室で、三島の教室でも仙台教室でもお話しました。名古屋では外部会場でお話しました。東北地方の高校に呼んでいただいたこともありました。
 内容としては、簡単に言えば「いまからよりよく生きる以外に私たちに選択肢はない」ということになりますかね。ここから元気を出して進んでいこうという話で、もちろん勉強のことを中心に置きます。
 
 私はもう40年近く、こうした仕事を続けています。当然、見てきた生徒数は相当なもので、彼らの存在自体が財産になっています。優等生がたくさんいるわけですが、全期間を通じてまったく不安や揺れのない人間などはまず存在しないのであって、皆さんいろいろな時期があり乗り越えて大成されていく。その1つ1つの事例は示唆に富んでいます。
 くわしく見ていけばいくほど勉強法だけではなく生活自体が大切だということがわかってくる。生活における正直さやたくましさですね。それはしかし盲点になりやすい。そのあたりをお話したいと思っています。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.15 09:26

 丁寧に書きなさいとか声に出して何度も音読しなさいとか紙に書いて繰り返し練習しなさいとかというのは、丁寧に書くことや音読することや繰り返しそのものが目的ではありません。形だけそんなことをしても仕方がないでしょう。
 要するに「心をこめる」ことに目的はあります。心をこめて愛情深く勉強した結果として、丁寧にもなるでしょうし声に出して音読したくもなるでしょうし覚えられるまで練習したくもなるでしょう。目的と手段を取り違えてはいけませんね。
 
 これは勉強だけではありません。何でも同じです。得意にしたいことがあれば、心をこめて接するしかない。あたりまえですね。人と人との関係を考えてみればすぐにわかるはずです。相手が物質の場合でも感情なんかないだろうからと乱暴に扱えば、やはり心をこめて取り扱うときより劣化のスピードがはるかにはやい。こういうことを本当はそれぞれがうんと子どものときに教えるべきではないかとも思うのですが、現代は心をこめるなどというのは古臭い感じで、そんなことより効率重視という大人が増えているのかもしれない。
 
 たとえば私はこの文章を自宅のパソコンで書いています。手書きしているわけではありませんから、文字はすべて丁寧です。丁寧にと意識しなくても自然に丁寧な文字が出てくる。こういうのがこわいところで、そういう感覚に慣れてしまってはいけないとも思っています。文字は丁寧なものが出てくるにしても言葉づかいなんかは意図的に丁寧に書いていくことができるわけですから、気をつけてとにかく「きちんとした文章を書こう」という意志を持つ。それが心をこめることにつながってくると考えています。
 
 そもそも生きること自体、心をこめたほうがこめないよりははるかにいいですね。生きるというのは細かい作業の連続であり、1つ1つの作業が無限に接続して「生活」というものを形作っています。その生活全体をいつかは人生と呼ぶわけでしょう。
 すると細部の1つ1つに心をこめずに心のこもった人生を送ることは不可能になります。原理的にそういうことになりますよ。細部のすべてに心をこめてこそ、人生全体が心のこもった連続体として完成する。
 
 昔、将棋の大名人がホテルの浴室で洗濯していたという話がありました。現在では考えられませんが、昭和のころはそんなこともあったのでしょう。洗濯物を干すヒモ(?)にかすかな皺も見逃すまいという真剣な面持ちで衣類を干されている姿を見て、記事を書いた方はこうした緻密さが盤上でも生きているのだと感心されたそうです。心をこめた将棋を指せる土台は心をこめた日常生活にあったのだと。
 あなたがホンモノになりたいということであれば、心をこめて生活するのが最上の方法です。
 
 心をこめてご飯を食べ、心をこめて歯を磨き、心をこめて服を着替えてください。その延長線上に心をこめて勉強するという行為が見えてくると思いますよ。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.14 09:21

 たとえばある生徒が私に対して反抗的だとします(あくまでも例えであり、ありがたいことにいまはそういうことで困らずにすんでいます)。ところが、それは必ずしもその子が私が嫌いということではないのです。私がいやで反抗するという事例ももちろんあるでしょうが、それよりは「先生」とか「大人」とかという権威に対して反抗したいという気持ちを持っていることが多い。
 だいたいは父親との関係でそうなるみたいですね。「権威」みたいなものが許せない。
 
 以前も書いたように私自身そうでした。中学3年のあるとき、これからは大人全員に挨拶をしないと決めたことがありました。大人は自分勝手でずるいから・・・というのが表立っての理由でしたが、もちろんすべての大人の生活を私が知っているわけがありません。どうしてそんなことになったかというとーー細かい事情は忘れてしまいましたがーー要するにいつも両親から強く叱責される。ただその理由の多くに自身ではまったく納得がいかない。納得がいかないけれども力でねじ伏せられてしまう。そのことに対する無念さみたいなものが鬱積して反抗的になりました。
 
 両親は言ってみれば「大人代表」みたいなものでしかない。そして、ぜんぶの大人と挨拶なんかするものかとなった。ただ現実問題として、いい大人というのもたくさんいるわけですよ。そちらのほうが多いぐらいです。先生なんかも理解のあるいい先生がたくさんいました。それを軒並み無視というのはけっこう難しいものがありました。気がつかなかったふりをしたり、徹底的に視線をそらしたり、ばかみたいな努力を重ねてそれでも一時期は徹底して頑張ったように思います。
 
 反抗的というのは、要するに何かでひどく傷ついている可能性があるということです。仮に私に反抗的であるとして、私自身がどうこうではなく私の背後に透けて見える「大人の世界」の理不尽さに抵抗しているだけかもしれない。
 ご家庭でも同じですね。あることでばーんと反抗するのは、そのこと自体が問題ではないのかもしれません。積年の恨みつらみみたいなものがいま出てきて爆発した。ですから、一点にしぼって「この内容のどこに文句があるのだ」などと話してみてもらちがあかないこともあるでしょう。
 
 大人は、その子の反抗をはぐくんだ土壌みたいなものにまで想像をのばす必要があると思います。少なくともまったくこちらに挨拶をしない昔の自分みたいな子がいても、私はその子と自分との関係だけに原因があるのだとは考えないようにしています。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.12 06:59

 入会試験などを受験していただいたときはあたりまえですが、どこのどなたであるかを確認しなければなりません。合格にせよ不合格にせよ、採点してご連絡をさしあげる必要があります。そこで受験にいらした小中学生にご自宅の住所や電話番号を書いていただくのですが、以前は絶対になかったケースですが「いますぐにはわかりません」と言われる(つまり機器で確認しないとわからない)ことが多くなり、ちょっとこれでいいのだろうかと感じるときがあります。
 
 そこであるとき何人かの生徒に「いまの中学生は友だちの連絡先は覚えているものなの?」と質問してみたところ、案の定自動的につながるからいちいち覚える必要がないし覚えていないと答えた子が複数いました。
 逆に言えば、機器をなくしてしまったらどうにもならないということです。私自身現在いくつかの番号は覚えずに電話をかけていて本当に便利な世の中になったとは思う反面、こんなことで本当に大丈夫なのだろうかという不安はないでもない。
 
 少なくともご自宅の住所や電話番号、保護者の方やいちばん親しい友だちの携帯番号ぐらいは暗記しておいてもいいのではないかという気がします。
 同じような事例で、適当に変換していつでも出てくるので漢字を忘れてしまうとおっしゃる大人の方がよくいます。これまた私自身がそうでして、以前書けていたちょっとだけ複雑な漢字を忘れてしまうことがあります。つい先日も「怒濤」の濤の字がーー恥ずかしいことですがーーふと正確に出てこなくなった。あれれ? とわざわざ調べました。
 
 何かの拍子に書けていた漢字を忘れてしまい、なにしろじかには書いていないからなあと苦笑する。少なくとも個人の中に蓄えていたはずのものを失っているわけですから、世の中の便利さをとことん享受する一方で個人の質はどんどん下がっていることになりかねない。生命体にとって本当に進歩なのかどうか。
 知識はやはり財産ですから覚えられるものはしっかり覚えておいて損はないと思います。覚える能力があるのに使わないというのは、もったいないような気がします。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.11 00:19

 私には落魄願望みたいなものがあり、また実際そうなのかもしれず(自分ではよくわからない)、個人的に過去を振り返ることはあってもそのときどきの仲間と無邪気に騒ぎたいという気持ちはあまりありません。クラス会みたいなものは中学生のときに1回、数年前2次会的なものに1回うかがっただけで、あとはすべて欠席です。
 会費を払っていないからだと思いますが、いまは小中高大とクラス会が実施されているかどうかもわからない状態で、まあこれはこれでいいでしょう。
 
 ひとりで思い出すことはときどきあるのです。とくに高校時代。私はいろいろな意味で浮いていたと思います。真面目ではなかったですが、ふざけているわけでもなかった。友だちはそれなりにできましたが、とにかく男子校の空気は苦手でした。自分にはまだ女子校のほうが向いていた(もちろん不可能ですが)のではないかと思いますよ。
 高校1年生のとき、教室が4階になりました。私は希望して、最後尾の窓際の席につかせてもらいました。校舎は高台にありましたし、当時はビルも少なかったので見晴らしがとてもよかった。
 
 遠くに高速道路が見えました。向かいにマンションが建っていた。「まんしょん何々」とひらがなのポップな字体で書かれている。そのことを非常に面白く思った。あまりにもポップな字体なので、まんしょんの部分が「みんくぉん」とも読める(この話は以前ちらりと書きました)。その建物を見るたびに、心のなかでみんくぉんと呟くのが習慣になりました。
 教室は高校1年生のときだけ使用したのですが、私は卒業式の日だれもいないその部屋の窓からわざわざ「みんくぉん」に別れを告げました。ここに来ることはもう2度とないよと。
 
 浪人時代調査書を書いてもらう必要があって校門をくぐった機会はありますが、そのときはみんくぉんのことはもちろん忘れていました。
 ところが人生の折々、なぜかふと「みんくぉん」を思い出すことがあるのです。どちらかと言えば孤独感や失意など否定的な感情を抱いたときです。あのみんくぉんはいまどうしているだろう? と思い出す。
 じつはおととい見てきました。相変わらず「みんくぉん何々」とありました。48年前にはじめて見たときと同じ字体です。
 
 似たような出来事は、どなたにもあると思います。ただ普通は他人には話しませんね。語るだけの価値がないように感じるからです。ところがそういうものでもない。年月の堆積による静けさみたいなものが宿っていて、それは他者にも何かの利益をもたらす可能性がある。
 大切な方だけには、話しておかれるといいですよ。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.10 08:48

 ときどき生徒からこういう質問を受けます。先日の(中学生なので「先日の」とは表現しませんが)テスト、読解問題ができなかったのですが、どうしたらああいう問題ができるようになりますか?
 相手によって答え方は違いますが、基本は「同レベルのもの、できればその作品を断片ではなくまるごと読みなさい。そういう生活をこれからずっと継続しなさい」ということに尽きます。わかりますか。
 
 あるものがわからない。困らないのならそのままでいいのですが、どうしてもわかるようになりたいという場合その「あるもの」に正面からぶつかっていく以上の方法はないはずです。たとえばテニスが不得手である。けれどもどうしてもテニスが上達したいということなら、テニスの練習に励む「しか」ないでしょう。
 えー、同じスポーツなのだから自分の好きなサッカーや水泳じゃだめですか? というのがどれだけ的外れな質問かということは、どなたでもおわかりになると思います。
 
 あるいは時間を切り取って「毎週90分間テニスの学校に通うだけでテニスがめきめき上達できませんか」というのもずいぶん虫がいい質問で、テニススクールで教えてもらったあとは相当の自主練習を積む必要があります。あたりまえなのですが、そこがなかなかわかってもらえない。わからないというより、面倒なのでしょうね。なるべくテニスはしないで(読まないで)すごくテニスが上手になりたい(読解力をつけたい)。
 つい先週の中1のテストでは問題文に、話題の「君たちはどう生きるか」が使用されていました。
 
 読み取れないというのであれば、1冊まるごと読んでみればいいのです。文庫本で入手できます。考え考え毎日読んでください。
 実際すぐに読む子もいます。ちょっとだけあとで読む子もいます。とりあえず一部だけ読む子もいる。ただまったく読まないという生徒も当然出てきます。それは個々人の選択ですから責めはしませんが、読まないでいながら相変わらず便利なコツをつかみたいなどと変なことを迷っている。
 コツなんて概念として獲得したところで役にはたたないのですよ。読み取るコツを体感するために読むのですから。
ソーシャルブックマーク:

2019.05.08 00:36

 連休中、読売新聞に葛飾北斎の「西瓜図」という不思議な絵画の解説が掲載されていました。読んでいて、何だかすごいことだなと思いましたよ。すごいという形容詞にはいろいろな段階があると思いますが、この場合は最大スケールですごい! ということです。
 調べてみるとインターネットでも絵画を見ることはできます。できますが、ついでにいわれみたいなものまでお調べになると「最大スケールですごい」の意味がおわかりいただけるかもしれません。
 
 この絵は北斎が80のときに描いたものらしいのですが、なるほどそこまで年輪を重ねないと描けないものなのかもしれないなという気持ちにもなりました。技術的なこともさることながら(私にはよくわかりません)、発想だとか飄々とした味だとか、同じ北斎が描いたとしても20代30代では出てこなかったような気がするのです。つまり同一人物であってもある時期が到来するまでは創造できない。
 ましてや同じ天才画家だからということで、ピカソやゴッホが描けるかと言ったらーー別種のすばらしい作品にはなるでしょうがーー同じものが創造できるわけがないですね。
 
 こういうのは本当に象徴的な話であり、人間は他の人間とはもちろん違うし、同じ人間であっても年代によって創造・達成できることは違う。それを何から何まで数値によって序列を整えようとするからおかしなことになってきます。
 たとえば年収がどうであるとか偏差値がどうであるとか、若いときはこれぐらいの山に2時間で登れたのにとか連続腕立て伏せが50回はできたのにとか、ぜんぶ数値化してわかりやすく優劣を決めようとするので本質を見失う。
 
 これはけっこう深い問題で、私たちは何かを、あるいはどなたかを好きになるとき数値だけでは決定しません。数値を度外視した直観の部分も非常に大きいはずです。一流のスポーツ選手が数字的に他の職業のほうが儲かりそうだと迷いながら練習し続けて大成したなどということがあり得ると思いますか? 自分はこの道で行くと信じて努力してきたに決まっています。
 それぞれの人間はそれぞれの現状(年齢や境遇という意味です)で、それなりの完成型であり、かけがえのない存在だということです。
 
 だからここで全力で輝こうという意志をまず持つべきです。そのときどきにふさわしい絵を全力で描ききってください。何よりあなた自身の気持ちが大切です。数字による序列でご自身を縛らない。外からの雑音はシャットアウトしてください。そして本当はどうしたいのか、どうなりたいのか、どうやって世の中をよくしたいのか、ご自身の方法を考えてみてください。必ずしも勉強は必要ないかもしれませんが、それもまたおおいにけっこうです。
 
 連休が終わって憂鬱になっている方が増えているという報道を見ました。「みんながそうなのだから自分もそうなるのだろう」という平均値でご自身をおとしめてはいけない。映画の主人公は路地裏をふらふら歩いているときもまた主人公です。あなたの人生であなたご自身はそれどころではない絶対的な主人公ですよ。映画の成功は、主人公であるあなたの本気度次第です。
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2019年05月   >>
      01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

新着記事

月別アーカイブ