2019.09.29 00:10

 あそこはいまどうなっているのだろう? という場所があるものですね。大人の方のほうがたくさんあるかもしれない。自分にもそういう場所が複数あり、そろそろ行かないと危ない(?)かもしれないと考えるときもあります。
 たとえば出身校の校庭に入ってみたいのですが、もちろんふらりと入っていったら不審者に間違われますから、それなりの「手続き」を踏む必要があるでしょう。その「手続き」が何となく億劫で行けないままになっています。
 
 校庭には大きな土管がありました。土管の中に入って親しい友だちといろいろ話した記憶があるのです。土管はいまでもあるのかどうか。また古めかしいお地蔵さんが立っていました。私は呪いというものがあるかどうか確かめたいと思って、そのお地蔵さんを意味なく蹴ったり叩いたりしていた時期がありました。
 そんなことを続けていたときに、何かの本ですごくこわい呪いの話を読みました。それから今度は慌ててお地蔵さんに日々謝りました。
 
 小学校の1年生か2年生のときのことですが、いま考えても家庭環境の関係で、非常に不安定な子どもだったと思います。
 当時、校庭に迷い犬が入ってきたことがありました。いわゆる野良犬ですが、非常になついていたので捨て犬だった可能性が高いですかね。2~3日のあいだ野良犬は伸び伸びと校庭で暮らしました。私たちも面白がって給食を分けたりした。食べきれなくなったのでしょう。私は偶然、犬が土の中に食べ物を埋める現場を目撃しました。近づいていくと「うーっ!」と威嚇する。
 
 迷い犬はふっと姿を消しました。学校が保健所に連絡したのでしょう。そうした情報は少しずつ伝わってきた。大人に殺されちゃったんだわと泣いていた女の子がいました。
 いま自宅の犬を散歩させながら、私はふとその迷い犬のことを思い出すときがあります。犬が一生懸命穴を掘っていたシーンを思い出す。食べ物を埋めていたあたりをちょっと見てみたいと思うのですが、そんなことを事細かに説明したらそれこそ異常者だと思われて校庭に入れてもらえないでしょう。なかなか難しいですよ。
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2019.09.28 07:07

 この話は以前も書いたのですが、生徒たちの様子を見ていていろいろ気づくことがあり、再度書いてみようと思いました。世界中、どこの国を探しても「あいさつのない国」というのはないそうです。あいさつの形式やあいさつ語というものは、必ずあるといいます。
 これはよく考えるとすごいことで、簡単にまとめてしまうと「人間はあいさつを必要とする動物」であると言えるでしょう。
 
 世界中の人があいさつをしている中でもし個人的に一切あいさつしないで生活するということになると、その人は世界でめったに見かけない人間ということになります。すると相手はあいさつしないことにはよほどの理由があるはずだと考えるでしょう。残念ながらどうしても悪い方向にいかざるをえないですね。あいさつしない、あいさつしたくないということは・・・相手はこちらを認めていないのだろうという結論に容易に結びつくと思います。
 場合によっては敵意を持っていると解釈されるかもしれません。
 
 誤解ではあっても、そもそも世界中の人間がやっていることを1人で避けていること自体に若干問題はあるような気がします。
 ここの教室にも必ずあいさつしてくれる生徒、気が向いたらあいさつしてくれる生徒、たまにあいさつしてくれる生徒というのがいて、それはまあ普通でしょう。ただこちらがあいさつの言葉をかけても返してこない生徒もいます。恥ずかしいとかいままでしなかったあいさつを今日から突然はじめるのは不自然だとかいろいろ理由はあると思いますし、私はそうした生徒を悪く思うことはありません。そこは安心してください。
 
 中には中学時代の私のように、大人そのものに反発して「絶対にあいさつしない」と決めている子もいるのかもしれません。それならそれでいいと思います。納得いくまで貫かれたらいい(私は1年も続きませんでした)。
 ただ「何となく」あいさつをしないという人は、場合によっては逆に敵意を持たれたり生意気だと思われたりする可能性があるので、そこは気をつけられるといいと思います。世界中がやっていることを個人的にやらないというのはやはり多少無理が出てくるものなのですよ。ほんの目礼でいいですから、友だち相手に試してみてください。柔らかい空気が気に入ったら友だち以外にも展開してみたらどうでしょう。
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2019.09.25 00:20

 先日、小学校6年生向けの公開授業がありました。30分間の短いやつだったのですが、教材(どこの教室も同一のものを使用しています)がなかなかよくて、こういうことが書いてありました。
 まとめてしまうと、どの人間も自分の中に字引ーー辞書と考えてくださっていいでしょうーーを持っているというのです。そしてその辞書によって読んでいるものや他者の言葉を理解する。
 
 ところが、現代はその辞書がどんどん薄くなってきた。昔に比べて格段に薄っぺらくなった。だからちょっと難しい用語や言い回しが出てくると理解できない。心の辞書にないわけですから調べようがない。もちろん本物の辞書をひくことはできますが、テストではそんなことが許されるわけがありませんから、ちんぷんかんぷんのまま終わってしまう。
 余談ですが、先日この「ちんぷんかんぷん」を知らない中学生がいました。なるほど、心の辞書は間違いなく薄くなってきているのかもしれません。
 
 ではなぜ昔に比べて心の辞書が薄くなってしまったのか。
 読まないからですよ。言葉や言い回しに対する体験が乏しいからです。いまをときめく将棋の藤井七段は中学生のころから「僥倖」だとか「隘路」だとかという言葉を使われていましたが、それは中学生であっても彼の心の辞書にその言葉が記録されていたからですね。自然とそうした言葉が出てくるのはすごいことで、使用法まできちんとわかっているわけですから、意味調べを1回しましたレベルでないのは歴然としています。
 
 藤井先生は小学校の4年生のころから大人の新聞を毎日読まれていたそうです。そうやって心の辞書の厚みが「自然に」(ここは大きい)増えていった。大人の新聞を小学生が読んでいれば毎日毎日わからない言葉が大量に出てくるはずで、いちいち調べなくても難しい語彙のシャワーを浴びているうちに(ははあ、これは以前も見たことがあるぞ。これこれこういう意味じゃないかな)というのがわかるようになってくるものなのです。
 ちんぷんかんぷんというのは、全然わからないという意味らしいぞとわかってくる。
 
 そうやって心の辞書を分厚くしていく努力をまったくしないまま、受験があるので読解力だけすぐにつけたいなどと欲張るのはどう考えても無理だということがおわかりになると思います。あなた自身の心の辞書を厚くしていくしかないのです。対話では限界がありますし、そんな難しい言葉で友だち同士が話す機会はまずないでしょう。ということは、こつこつ活字で獲得していくしかない。
 昨日も何も読まなかった、今日も何も読んでいないということであれば、いつまでたっても心の辞書は薄いままです。ではいまからどう動いていけばいいのか、はっきりしていますね。
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2019.09.24 01:07

 以前も記事にした理容師さんが復活しました。入院されていたのですがたいしたことはなかったそうで、お仕事を再開された。私はもう10年以上ご主人にだけ散髪していただいているので、他で髪を刈ると何となく違和感が残ります。85歳というお歳もお歳ですから、万が一お店を閉められることにでもなったらちょっと大変だぞと思っていました。
 先日うかがったときに、100歳まで現役で頑張りたいとおっしゃっていたので、こりゃ当分大丈夫だなと安心しました。
 
 お年寄りが頑張っていらっしゃるとこちらも励みになります。私はまだまだご主人より若造ですが、会社員としては近い将来完全にリタイアすることになります。もっともその後も先生として残れればやっていきたいという希望は持っていまして、いまのままならおそらくその願いは叶えていただけるのではないかとも思っています。
 まあ、こんなこと自慢するものではありませんが、アンケートを見るかぎり若いころよりむしろ支持されているようにも感じます。
 
 ある意味不思議なのですが、話の展開が以前より豊かになってきているのかもしれません。昔は勉強を「やらせよう」という意識が強すぎたように思うのです。いまは無理強いしようとまでは考えない。若い人たちが勉強をいやがるのは勉強そのもののせいではなく、勉強の周囲に付随する別の何かのせいだということに現在の私は完全に気づいているからです。
 たとえば順位のことを言われる、点数のことをけなされる、誰かと比較される、いまは他のことをやりたいのに・・・理由はいろいろあるでしょう。
 
 勉強をいやがっているように見えても、勉強内容そのものが徹底的にきらいというケースはきわめてまれです。ですから、授業で彼らの興味を喚起する話をところどころに入れていけば、毎回毎回全力ではなくてもそれなりに面白がって勉強を続けてくださるものなのです。
 たとえばーー名前は伏せますがーーアルコール依存症だったある有名作家は、入院中も病室にお酒を隠して飲んでいました。どこに隠していたか? 
 
 何と花瓶の中(!)でした。そういうエピソードを話したあとで、テキストに載っているその作家の文章を読んでもらう。それだけで読む姿勢が格段に違ってきたりするものです。そういう工夫をあちらこちらに散りばめられるようになってきました。
 さすがに100歳まで教えることは不可能ですが、いまのままならあと数年間は完全に現役で教えられるように感じます。もっともそういうことは生徒が決めることで、私自身が決めることではないですね。それはよくわかっているつもりです。
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2019.09.23 09:01

 大人は思春期を通過してきているわけですが、そのときの微妙な感覚は忘れてしまっているような気がします。あの憂鬱さ、あの絶望感、また逆にあの高揚感、あの興奮や感激、そうしたものをほとんど忘れて子どもたちに接していれば、ずいぶん理解のない人間だと思われるのも無理はないですね。
 若さゆえ、ただでさえつらかったりする。生きていること自体がひりひり痛い。その相手にいきなり「いいから勉強しろ!」ではうまくいかないのが当然でしょう。
 
 あれは中学2年生になる春休みのことでした。私は妹や母親と一緒に夕暮れどきの商店街を歩いていました。場所まで正確に覚えています。私は友人のためにある将棋の本を買った。翌日だか翌々日だか、彼の家に遊びに行くことになっていたのです。相手の少年も将棋に興味を持ちはじめていたので、ちょうどいいと思って自分も持っている本を買いました。
 夕日を浴びながら坂道を歩いているのですが、何だかむなしくて仕方がない。憂鬱でたまらない。
 
 理由を探ってもわからない。友だちのうちに遊びに行くじゃないかと自分を鼓舞してみる。将棋のテキストだって買ったじゃないか。将棋だって指せるじゃないか。レコードだって聴けるじゃないか。あれこれ考えても、ちっとも心が弾まない。
 そのうち憂鬱の1つの原因は、さっき見た洋画劇場のせいではないかということに気づきました。当時、昼の時間帯に古い洋画を流していたのです。「春の椿事」という映画だったと思います。
 
 内容はコメディでした。それにひきこまれたことの反動が起きているような感じがしました。つまりさっきまで面白がって明るいほうに心がぐーっと傾いた。それが逆方向にまたぐーっと戻りつつあるのではないか。
 いずれにせよ、憂鬱は憂鬱なのですからどうしようもない。だんだん口数も少なくなり、その日は夕食もあまり食べなかった記憶があります。食卓に出てきたコロッケ(商店街で買ったものでした)を見て憂鬱だったさっきの思いがぶり返し、食べる気がなくなってしまった。
 
 私は中学3年生のときに自身をホンモノの鬱病ではないかと疑った時期があり(そうであったら詩人として「はくがつく」とバカなことも考えた)、両親に病院に行かせてくれと訴えて逆に怒られたことがありました。そんなことを考えるのは精神がたるんでいる証拠だ、毎朝早朝に冷水まさつをしろ! だいたい軍隊では・・・ 
 そういう大人とはもう「会話」自体が成立しないと結論づけてしまうのは思春期特有の心理でしょう。私は生徒たちに接するときに、自身の経験してきた思春期の葛藤をつねに意識しています。いまでも心の色は同じだよということですね。
 
 
 
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2019.09.22 07:11

 たとえばご自身のお子さんに対してでも暴言を吐くのはよくないという記事を読むとしますね。まあ、間違いのない真理ではあると思います。するといままで暴言を吐いてきてしまった方にはある意味で感じの悪い指摘であり、いまさらそんなことを言われても・・・という不快感は抱かれるかもしれません。
 こういうのはいい悪いではないですね。歳をとっても少しは運動したほうがいいという常識がありますが、私なんか生まれてからまったく運動してきませんでしたから、それこそいまさら言われても・・・という気持ちになります。
 
 ごくごく自然な反応であって、現在私はどなたかを責める目的で発言することはまずありません。すべての提言は「こちらの方向のほうがより豊かさが増すようですよ」という情報提供でしかなく、人さまの生き方をどうこうという大それた気持ちはまったく持っていません。
 そもそも私たち大人も幼少期にじつは相当傷ついています。傷ついた結果、ある種の偏向が生じている可能性はおおいにありえます。しかも、それに気づいていない。
 
 ご自身の傷ついている微妙な部分を他者の中に見て批判的になるということはごくごく普通のことで、異常でも何でもありません。たとえば私には、非常にだらしないところがあります。そしてそれを両親に強く叱られて育ちました。叱られたことに対する強い反発が生じ、わざとだらしないままでいたい変な気持ちもあるのです。
 複雑なことになってしまったわけですね。だらしない自分は本当はいやである。しかしそれを矯正することはそれに輪をかけていやである。
 
 するとたとえば息子がだらしないところを見るとストレートに注意できない何かが顔を出します。ただこうやって気づいている要素があるので、彼の整理整頓がなっていなくてもそうは責めません。つまり複雑な背景を持っている自分は息子の欠点(だらしなさは欠点は欠点だと思います)を過剰に痛めつけるようなことをする可能性があるので気をつけているということです。
 気づかなかった時代は仕方がない。ただ気づいた瞬間からは十分注意する。できるところからスタートする気持ちはつねに大切だと考えています。
 
 
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2019.09.21 09:12

 実話なのでちょっとぼかして書きます。ある地方都市に立ち飲み屋さんができました。昔から何軒かあったのですが、新しいお店が開店した。非常にオシャレな感じの内装で、全体が黒です。イメージとしてぜんぶ黒で統一している。そして経営されている方(確認したわけではないですが、まず間違いないと思います)が若くてきれいな女性です。その女性も黒系統の服を着ているのは、お店の雰囲気に合わせているのでしょう。
 私は2回しかお邪魔したことがないので細かいところはよくわかりません。
 
 値段設定は安くはありません。高くはないですが、安くもない。つまりお客さんの層をある程度コントロールしたいということだったのだろうと思います。
 ところがここにお年寄りの集団が集まるようになりました。何かしら肉体労働に従事されているらしいお年寄りのグループが仕事終わりに来る。彼らはあきらかに店主のおねえさんを気に入っていて、勝手に店の奥から椅子を持ってくるとおねえさん前のカウンター席を陣取るようにして座ります。
 
 おねえさんが困惑している様子は私にも伝わってきました。噛み合わない会話を耳にしていれば私でなくてもわかりますよ。お年寄りの1人が言う。「土曜は閉まっとったな」おねえさん「土曜日はいつも開けてますよ」お年寄り「いや、閉まっとった」別のお年寄りも「しっかりせえや、閉まっとったんでわしら難儀したでー」などと言う。
 そっけない調子でおねえさんは「私が開けてるのだから間違いなく開いていましたよ」と打ち切ります。
 
 彼らは注文も甘えていて(?)、おでんがあるのですが、堂々と「汁だけ飲ましてくれんかのー」などと言う。居酒屋歴40年の私でも、そんな注文聞いたことないですよ。それを笑顔でじつにうれしそうにお姉さんに向かって大声でリクエストする。
 悪気はまったくないのだと思います。早い時間からやっているお店はそこだけなので、仲間同士でふらりと入ってみたら孫みたいな美人のおねえさんがいて、すっかり舞い上がってしまったのでしょう。
 
 ただそういう雰囲気だと、たとえば女性のお客さんはなかなか入りづらいですね。私でさえ、注文のタイミングをけっこう考えたりしました。お姉さんにしてみればはじめの予定とちょっと違うタイプの常連さんがまずついてしまったわけで、店舗経営というのは難しいものだと思いましたよ。
 なかなか行ける場所ではないのですが、次はちょっと遅い時間帯に行ってみようかなと思っています。昼間のじいさんたち、まだいたりして。
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2019.09.19 08:59

 難しいことはよくわかりませんが、それぞれの人生のいちばん小さな部分で働いている法則はおそらく大きな部分でも同じように働いているのではないかと思います。
 この法則というのは生き方のことでもあり、個々人で違ってきますね。性格というのともちょっと違うかもしれません。性格がどうであれ、どう生きるかは後天的に決められますから。
 
 どんなことであっても愛情をこめたほうがこめないよりはうまくいくような気がしますね。メニューを見て食べる料理を決める。そのとき「ハンバーグ定食でいいや」と考えたり表明したりするよりは「ハンバーグ定食がいい」「ハンバーグ定食が食べたい」と積極的に考え表明するほうが真心と愛情がこもっています。
 同じものを同じお店で同じ条件で食べるのであれば、後者のほうが注文をとる方の印象もいいでしょうし、おいしく感じられたりもするでしょう。
 
 以前、メニューが豊富なお店で「おれは常連だからここにはもう食べたいものがない」と苦笑されていた方がいらっしゃった。それは事実なのかもしれませんが、そもそもそうした姿勢でお店に来られること自体がご自身の食欲を減退させてしまうのではないかとーー余計なことですがーー考えました。
 若いころの私は、食器を洗うのがあまり好きではなかった。性格的なこともあるかもしれません。で、けっこう乱暴に洗ったりしました。
 
 やりたくないという気持ちが腹立たしさにつながるのです。1人暮らしのときでさえ、こんなつまらないことさせやがって! と腹がたった。させやがっても何も、他にどなたもいないのですから自分で洗うしかない。ところが洗い出すといらいらする。お皿が欠けたり割れたりしたとき、心のどこかで(いまのはわざとだったかもしれないな)と感じたものです。
 ただ、そういう感覚は完全に矯正できますね。
 
 性格そのものはそうは変わらないかもしれません。昔もいまも私は怠惰な人間ではあると思います。それでも、小さなところに心をこめる喜びやコツはつかめてきました。洗い物をしているときも「いやな作業」とは考えずに「人生の一部が稼動している」と意識できるようになってきました。
 勉強や仕事でもそういう要素はあると思います。いやな作業と定義するからよくない。それは生きる過程の何かでしかなく、人生という連続性の中に存在しています。
 
 作業の中で何かを発見していく。何かというのは自分自身の長所や短所であり、忍耐力や持久力であり、作業そのものに対しての興味や面白みであり、深い意味では人生そのものに対する感謝や愛情でもあるでしょう。そしていずれは、どう生きるかという生き方自体を最小の単位(行為や作業)の中に見つけていくことになるのだと思います。
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2019.09.18 01:07

 月曜日の敬老の日、母親がお世話になっている施設に行きました。彼女は今月92歳の誕生日を迎えます。ちょうどその日、私はある小学校で講演させていただく予定になっています。お話をいただいたとき(お、母親の誕生日だ)と当然思いました。何となくご縁を感じてお引き受けしました。
 施設には妹夫婦や家内もいたのですが、帰りはーー例によってーー私だけ1人で帰りました。ちょっと歩いてみたいところがあったのです。
 
 歩いてみたいところと見てみたいもの、ですね。中野の駅前に古い「団地」があります。私が中学2年生のころ、友だちとそのあたりで遊んだ記憶がありますから大変古い建物です。それがいよいよ取り壊されそうな感じになってきていました。電車の中から様子が見えるのです。周囲が囲われはじめている。
 壊されてしまう前に行ってみたいと思いながら、なかなか機会がありませんでした。中野駅は通過するだけですからね。
 
 そこで月曜日に行ってみたところ、残念ながらもう中には入れなくなっていました。外からちらりと見えるだけです。工事の告知が掲示されていて「築67年」とありました。67年間使われていた(つい最近まで住んでいる方はいらっしゃいました)というのはすごいですよ。1952年と言えば、太平洋戦争が終わってからまだたいして月日はたっていません。二階家だって珍しかった時代に、マンションのはしりみたいな真新しいビルが何棟も建ったわけですから、当時は街の誇りだったのではないかという気がします。
 
 中野にはDという有名な居酒屋さんがあります。非常にきちんとしたきれいなお店ですが、午後の2時から開いています。午後2時というのはちょっと珍しいですよ。何でも昔中野には鉄道関係などで夜勤の方がけっこう多かったらしい。それで早い時間から開けるようになったとある本に書いてありました。
 私は中野区で生まれ育ったので、他にもちょっと気になる場所や建物があり、そこにも行ってみました。裏道に意外に古い家屋が残っていたりした。
 
 しかし、行きたいところすべてまわれたわけではありません。あそこにはいつでも行けるから・・・というところにはなかなか行けないという現実があります。また休みの日に順番に見に行こうと思っています。永遠の旅人ですね。
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2019.09.17 09:09

 大人はそれほどでもないのでしょうが、子どもの心は日々進化成長しています。外からだとなかなか見えないために、よほど意識していないと忘れられてしまったりもしますね。よく「中学時代1年間に10センチ以上背が伸びたよ」などというお話を耳にすることがありますが、当然心の身長も10センチ以上伸びているはずで、大人はそのあたりを十分配慮しないといけないと思います。
 成長に害になるようなことをしてしまうとまずいですね。さまざまなことがうまくいかなくなってしまう。
 
 ここはよく考えないといけないのですが、問題はこちらが「正しいかどうか」ではない。たとえば「子どもを厳しくしつける」という考え方があり、それはそれで正しいことだと思います。甘やかしていい加減に育てるよりよほどいいことではあるかもしれない。ただ相手によりけりでーーそれこそ小さいころの私自身のようにーーとことん弱虫であれば、厳しくしつけられて一方的に萎縮しだめになる可能性もあります。
 するとそれは健全な心の成長に結びつきません。正しく指導しても相手によっては逆効果ということもありうるわけです。
 
 毎日毎日接している大人が、相手の特性を見きわめながら与えていかないといけないでしょう。その能力こそが真の意味での子育ての能力と言えるのではないか。
 これまでも同じ話を書いていますが、月刊誌に優秀な大学に進んだ方のご家庭がどうであるかというような特集記事が載ることがあります。毎回毎回同じことが書いてありますが、ご家庭が穏やかで温和な、まるい空気を保っていらっしゃるということが書かれている。心が成長できる環境ということです。
 
 これは名人になるような棋士のご家庭もそうだという話を聞いたことがあります。亡くなられた米長元名人は将棋の強い若手棋士のご家庭を片っ端から訪問されていました。そして、まったく同じ結論を出されていた。
 そういう状況であれば、安心して心が成長できるということなのだろうと思います。要するに環境作りに成功している。
 ですから、極端に反抗的であるとか乱暴であるとか投げやりであるとかということであれば、絶望せずに「ここから」環境に修正を加えていかれたらいい。
 
 怒鳴らないとか愚痴らないとかからかったりくさしたりしないとかということは基本中の基本で、叱るにしても「話をじっくり聞く」形でとにかく徹底的に聞いてやる。かぶせるように意見したりせず、こちらの言いたいことは後日に譲るぐらいの余力がほしいと思います。
 言いたいことがあるなら言ってみろと言い、子どもがおずおずと喋りはじめるなり「そんなことだからお前はいつまでたってもだめなんだ!」と激怒するようではまったく逆効果だと思います。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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