2019.08.31 08:08

 向かいの洋食屋さんが、長いこと閉まっていました。結局ひと月近くでしたよ。入院して手術を受けられたそうです。現在は復帰されて以前のように営業されていますが、さすがに身体のことを考えて午後2時半から休憩時間を作られています。私はその時間帯にお邪魔していたので、少しだけ行きにくくなりました。ただここまでくると「だから行かない」という選択肢はないので、少し早い時間帯にお邪魔するようにしています。場合によっては仕事前に行くという感じでしょうか。
 
 ときどきブログに床屋さんのことも書いてきました。非常に尊敬できるご主人で、腕がどうこうということもありますが、ご主人の話を聞いているだけで楽しいので基本的にはその理髪店以外には行かなくなりました。
 夏期講習期間は忙しくて散髪どころではなかったのですが、ちょっと時間もできたので先日行ってみました。ところがあいにく閉まっています。出張の散髪もなさっているのでタイミングが合わないのかなと思いました。
 
 ただちょっとだけいやな予感もしたので、先日電話をかけてみました。予約も受けつけていますから電話をかけること自体は変でもないのです。すると奥さんらしき方が出てきて、入院しましたとおっしゃるではないですか。ご迷惑をおかけしますがしばらくお休みさせてください・・・とのことでした。
 ご主人の持病は前々からうかがっていたのでそちらですかと質問するとそうではないと言います。
 
 細かくうかがいましたが、少し時間がかかるかもしれない。
 洋食屋さんのご主人は70代、床屋さんのご主人は80代です。まあ、それぐらいの年齢になるといろいろアクシデントがありますね。私は60代でいまはとくに何が不調ということもありませんので、いわゆる会社員をやめたあとも国語の先生は続けられたらいいなと思っています。いくつになっても自分のできることで世の中のお役にたつというのは素晴らしいことですからね。いくつになっても、というよりいくつであってもですかね。
 
 あなたがまだ小さくても、世の中のためにできることはいろいろあります。ときどきバスを下りるときに「ありがとうございました!」と大きな声で挨拶していく小学生を見かけますが、あれだけで空気がぱっと明るくなります。できることはいろいろあるものです。昔、私はある橋でしばしば川をながめていました。その様子を見ている人たちがいることに気づいた。プラットホームが頭上にあり、並んでいる人がこちらを見ているのです。
 
 私なら「あそこに孤独な男がいる」と感じるでしょう。その影は何かのときにふと胸に去来して、ある種の救いや涼しさを作ってくれるような気がしました。ただ見られることでさえ他者の役にたつ可能性がある。そういうことをよく考えます。
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2019.08.29 09:49

 いまから41年前、私はある喫茶店でアルバイトをしていた時期があります。これが不思議なアルバイトで、いちおう擬似(?)正社員みたいな扱いになっていました。身分は大学生だったのですが、とりあえず正社員という形で登録されていた。ですから、週休は1日(だったかな?)で、毎日8時間ぐらい働いていました。
 大学はやめようかなともちょっと考えていたのです。いろいろありまして、中退という形がいちばんかっこいいかなと思っていました。
 
 そのお店はできたてで何もかも新しかった。飲み物を運んだり、作ったりしていました。複雑なことは何もなかったですね。適当に仲間はできましたが、私は当時からあまり他人に心を許すことがなかったので、特別親しい人間はできませんでした。それはそれでいいと思っていた。
 数か月間働いて何となくやめました。働きはじめるときも何となくでしたが、やめるときも何となくでした。そういう人間だったのです。
 
 中退は依然として迷っていました。アルバイトをしていてもしていなくても大学にはあまり行っていなかった。で、留年しました。留年したとなると卒業しないとまずいかもなぐらいの気持ちにはなっていきました。
 その喫茶店はじつはいまも残っています。ときどきのぞいてみることがある。1997年にのぞいたときはーー驚いたことにーーアルバイトしていたときに副店長だった方がまだいらっしゃった。19年前あなたと一緒に働いていました・・・と私が告げると、少ししてあちらも思い出してくださった。
 
 ああ、何々大学の・・・と大学名をあげられていたので、本当に思い出してくださったのだと思います。その後その方はいなくなり、もちろん現在は全員知らない方ばかりです。先週もちょっと時間をつぶす必要が出てきて午後の一時期、その喫茶店でコーヒーを飲んでいました。大きなお店なのでだらだらしていても迷惑がかからないのがいいところです。
 まあ、空間を見ていると不思議な気持ちにはなりますね。ここで自分も働いていたのかと考えると。
 
 ドアの位置が微妙に変わっている。調理場も見えない奥のところにひっこんでしまいました。トイレの場所も変わった。客席も昔は「禁煙席」なんかありませんから変わっています。それでも空間は同じですからね。当時、ひっきりなしに店の電話がなり、しょっちゅうお客さんに取りついだものでした。電話がかかってくるのを待っている人間がたくさんいました。
 現代はそういうところは変わりましたね。本当に進歩なのかどうかはわかりませんが。
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2019.08.28 03:40

 最上位クラスを担当されたある教科の先生が授業日誌にこういうことを書かれていました。私はこの先生のことを尊敬していますが、細かいところまでちゃんと見てくださるからです。このクラスの生徒たちは、と書かれていました。原文のままではありませんが、内容はこうです。授業後みんな消しゴムのかすをそれぞれ集め、椅子の位置をきちんと直していく。
 消しゴムのかすについては、先日私も偶然記事に書きました。椅子のことは気づいていませんでした。
 
 机の内側にきちんと収めて教室を出ていく。もともとがそうなっていましたからね。立ち上がってそのままでよしとはしない。もとの形に整えておく。
 私はそのクラスを担当していませんでしたが、名簿で顔ぶれをざっと確認し、あの子たちならそういうこともあるだろうなと思いました。
 一般的にこういう現象を見ると、さすがは最上位クラスだ。お行儀もいい・・・ということになりがちですが、その発想はどうなのでしょう。
 
 逆に、もともとそういう人間だったから最上位のクラスまでのぼってこられたのではないかと思うのです。最上位クラスだからマナーがきちんとしているのではなく、マナーがきちんとしている人間だったから勉強に対してのマナーもしっかりしていて、どんどんできるようになったということではないか。
 原因と結果みたいなものを逆転して考えがちですが、そうではないでしょう。生活すべてがきちんとしている延長線上に「勉強」という項目がある。
 
 先日、非公開を希望されているコメント投稿がありました。詳しくは書けませんが、日本で最高峰の国立大学の学生さんたちがーーたとえば学食でーーどれだけマナーがいいかということが書かれていました。不本意な形で汚してしまったときには、お詫びのメモまで残してくださったりするそうです。
 さすがは・・・ということになりがちですが、これもまたそういう人間だからその大学に進学できたのだと言えるのではないか。
 
 日々の生活すべてが試されているということを意識しておいていいと思います。だらしない生活を送る者はだらしない将棋を指すというのは、昔の偉い棋士の先生の言葉ですが、だらしない生活を送るようではだらしない勉強や仕事、だらしない交友関係、だらしない娯楽、だらしない食事や健康管理、だらしない散財、だらしないファッションや外見になりかねないということです。
 要するに気が張っているかどうかということなのでしょう。すべてが関係してきます。ですから、いま「この瞬間」にも気をつけないといけないということですね。
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2019.08.26 03:57

 芥川龍之介の木登りシーン(!)だとか、さまざまな古い映像を見ることができる世の中になりました。1969年のレッド・ツェッペリンの白黒映像などを見ていると、まあ世の中には精進だとか努力だとか刻苦勉励だとか・・・だけではどうにもならない何かが存在するなという気持ちになります。昔、BURRN! 誌の編集長も同じことを書かれていましたね。このメンバー4人が出会い、こういう音楽を探究しはじめたということ自体が奇跡みたいなものでしょう。
 
 仮にたったいまこのバンドが同じ形でデビューしたとしても、時代遅れどころが大騒ぎになると思います。凡百のバンドではかなわないですよ。演奏力(テクニックというより迫力みたいなもの)も歌もルックス(これは大きいと思う)もステージでの動きも、まったくかなわないですね。
 ぜんぶすごいのですが、とりわけ当時のロバート・プラントの存在感はシンガーの域を超えてしまった感があります。こんな人、そのへんで見かけたら大変ですよ。
 
 いまになって言えることというのがありますが、ロバート・プラントのステージでの動きはそれまでのロックやソウルの歌い手とあきらかに違っています。動く人はたくさんいました。アーサー・ブラウンとかミック・ジャガーとかとかジェイムズ・ブラウンとか。私は全員好きですが、ロバート・プラント以前のシンガーの動きにはダンス的要素が強かった。それをとくに女の子が大喜びで応援した。
 ところがロバート・プラントは音に乗っているだけで、装飾的な動きはあえて避けているように見えます。
 
 たとえば「ハウ・メニー・モア・タイムズ」のような曲は、それ以前のシンガーだったら出だしの部分で手足をくねらせたりしてお客さんをあおったでしょう。ところがロバート・プラントは首を振ってリズムを確認しているだけです。要所要所で身体を動かしてもダンス的なものは否定している感覚があり、その威厳さにむしろ同性がひかれたのではないか。
 長い金髪にパーマをかけ胸元をはだけて厳かに首を振るシンガーはその後何人か出てきましたが、ロバート・プラントの出現がきっかけなっていますね。こんなのもありなのかということでしょう。
 
 ああいう表現方法を個で考え出したところがすごい。どの曲でもロバート・プラントは首を縦に振るだけで、冷静に観客席を見ています。お客さんを乗せようとかウケようとか少しは考えそうなものですが、そういうことはしなくても大丈夫だという自信があったのですね。
 当時のジミー・ペイジのセリフで「自分たちは単なるロックン・ロールを演奏しているだけなのに観客は大騒ぎしている」というのがありましたが、いま見ればやはり音も映像も別格だと思います。
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2019.08.25 00:16

 歳をとることを私は悪いことだとは考えていません。意外な不便さも出てきますがそれはそれでいいと思っていて、少なくとも人生に「これは悪い」という定義を持ちこまないように気をつけています。歳をとることに限らず、自分自身に関して言えば極端な何かが起きてもやみくもに悪いとは定義しないつもりです。自分にとっては「そのときのその変化」がベストなのだと考えるように心がけています。
 生きることを祝祭であると決めた以上、変化を否定すること自体が不自然ではないかと思うのです。
 
 歳をとって、好きなものに対して気持ちがいくぶん衰えてきたという感覚は出てきました。たとえば音楽(ロック)に関して。
 今年はホワイトスネイクの新譜が出て、非常に充実した内容で愛聴しているのですが、10月予定だった日本公演(バンド側の都合で来年に延期になりました)には行けなかったら行かなくてもいいかなと考えていました。以前だったら何が何でも見に行っただろうに・・・と面白く感じました。
 東京公演の予定がハロウィンの日だったのです。教室のこと(渋谷界隈の騒ぎ)がちょっと気になるので、その日はできれば休みたくなかった。
 
 ロックそのものは好きは好きで、相変わらずBURRN! 誌も愛読しています(今月号のギルビー・クラークのインタビュー記事は興味深い内容でした)が、昔のレベルでの熱はさめてきているのかもしれません。
 ところが最近、私は偶然アステリズムという日本のバンドを見つけ、非常に強い感銘を受けました。このバンドは自分がまったく知らなかっただけで、もしかすると有名なのかもしれません。とにかくすごい熱量を感じました。平均年齢が16歳ぐらいだそうです。
 
 インストゥルメンタルで歌はありません。ひたすら轟音を出す。とりあえずヘヴィ・メタルと呼んでもいいのだろうと思います。DIOの「Stand Up & Shout」をやっているぐらいですから。ギタリストは小柄な女の子なのですが、大変な逸材だと思いました。ベースの男の子も雰囲気は将棋の藤井7段みたいにクールですが、大変なテクニシャンで7弦ベースを軽々と弾きこなしていました。ドラムだけ僅かに年上らしい。とにかく寄せ集めではない一体感はすごいものがあります。
 
 よくまあこれだけのメンバーが偶然結びついて、こういう音楽をやっているものだと思いました。映像を見ているとこちらまで思わず首を振ってしまうエネルギーに満ち溢れています。原初的なロックの衝動とでも呼べばいいのでしょうか。「すげえな!」と久しぶりに興奮しましたよ。
 自分の道を見つけるというのは本当に大切なことで、無難だからという理由で好きではないことをいやいや続けている人生は、ある意味で自分で自分を罰しているような要素があります。
 
 好きなことをやるやらないの判断基準に「生活できないかもしれない」という不安がありますね。私は生徒からその種のアドヴァイスを求められたときには「生活できないかもしれない」からやめようかなと迷う程度であれば、先は困難かもしれないと告げています。生活のことなんか考えもしなかった・・・と夢中になって邁進して、はじめて成功する可能性が出てくるということです。もちろん成功するとは限らないですよ。ただどうなろうと、まったく後悔しないレベルにはなるでしょう。
 私自身が、まあそんな人生だったかもしれないですね。
 
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2019.08.24 01:12

 先日、タクシーの運転手さんからこういう話を聞きました。その運転手さんは約30年間この仕事をされていると話していました。駅のタクシー乗り場に列ができるようになった事実を見て「景気が回復しているから」と言う人がいるが、とんでもない! 生活できない運転手さんがどんどん辞めていき、会社に動いていない車が大量に出てきているそうです。
 何年か前はここまでひどくなかったんだけどねーと嘆かれていた。
 
 その運転手さんは年金ももらわれている。だから何とか生活できている。ところが、お子さんを育てている方などは非常に厳しいことになってきている。そして、このままでは・・・ということで退職者が次々出てきているとおっしゃっていました。
 現在、日本の経済は非常に暗い方向に流れていっているような気がします。私はそうしたことにほとんど興味がないのですが、それでも大きな流れとしてあきらかにおかしなことになってきているような気はします。
 
 政治がごまかしている要素も大きいのかもしれません。バレないようにする。ただごまかされるほうもごまかされるほうで、そういう雰囲気を容認しているのは問題かもしれないですね。
 私はーー飲食店などーー大衆的なお店しか入りませんが、つい先日あるところで「出前先のお店がこの夏でなくなるらしい」という話を聞きました。多いときは月に10万円ぐらいの売上げがあった。それがここのところあまり出前がなくなったと思ったらどうやら夏で閉店らしい。
 
 個人店が苦しんでいますね。そこになかなか光があたらない。個々人の苦しみを何とかしたいと希求するのが宗教と政治だと思うのですが、宗教はともかく政治にそうした気力が乏しいのではないかと感じます。
 10月に増税になるそうですが、当然個々人は自己防衛に走るでしょう。景気はますます悪くなってくるかもしれません。ないところからどんどんとろうという発想自体がどういう民主主義なのだという気がしますが、それを許しているのは結局私たちなのでしょう。
 
 私自身のことで言えば無欲でありたいという理想があるので、自己防衛のために何か特別なことをしようという気持ちはまったくありません。ただ世の中全体がどんどん暗くなっていくのをただ容認していていいのかという気持ちは常に持っています。明るさというのは経済だけに依存するものではありませんから、自分にできることは少しでもしていきたいとも考えています。
 
 
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2019.08.22 08:30

 いまの時期、私自身の授業は午後なのですが、朝から講習をやっているのに教室長が毎日のんびり昼過ぎに出てくるというのはどうかという気がするので、いちおう朝のうちに来るようにしています。午前中は教室もぜんぶふさがっていて面談もできない時期なので、必ずしも私がいる必要はないのですが、まあ何となくですね。
 朝は例によって自宅を出る2時間前に起きてはいます。しかしなかなかまとまったことはできません。まとまったことといっても、たいしたことではないのですが。
 
 要するに「落ち着かない時期」ではあるということになります。するとこういう変なことが起きてくる。私がやっていることは本当に私自身の選択なのだろうか? ということが起きる。
 わかりやすい例を出すとこういうことです。ときどき自分は本当に食べたいものをいま食べていないなと感じるときがあります。お店は自分で選んだ。メニューの選択も自分でした。ところがよく考えてみると、現時点で「これ」を食べる必然性は全然ないと感じるときがある。
 
 何となくなじみの店で何となくなじみのものを何も考えずに食べている。まあ、どなたにもあるのかもしれませんが、それは生き方としては大変もったいないような気がするのです。本当に食べたいものを食べない、本当に会いたい人に会わない、本当に行きたいところに行かない、本当に見たい映画を見ない、本当に聴きたい音楽を聴かない・・・忙しいから仕方がないと言い切るには、あまりにももったいなくないですか?
 まあ、そのあたりをどれぐらいきちんと把握していけるかというところに、人生の価値みたいなものも隠されているのでしょう。
 
 いちいちじーっと熟考し続けるわけにもいきませんから、その「本当に」という本質をどれだけ的確にぱっとつかめるか。そうした能力は先天的なものというより、訓練によって鍛えられるべきものだと思っています。ときどき話題にしていますが、どれだけ意識的に生きているかということですね。
 何となく・・・というのがいちばん問題でしょう。人間は何となく自動的に、いくらでも生きられてしまいますからね。せめて本当はどうしたいのかということを意識するようにすべきでしょう。本当に生きるというのは、そうしたことの連続なのだと思います。
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2019.08.21 00:43

 講習期間中、先生方が講師卓で質問を受けているのですが、ときどきどうなのだろう? と感じるときがあります。先生方の声が聞こえてくるのですよ。たとえば「そこからはもう自分で考えなくちゃ」とか「そんなところまで教えてもらおうと期待していたらだめだよ」とか「やり方がわかったのだからあとは自分で進めてごらんよ」とか。
 要するに、何でもかんでも最後まで答を教えて・・・と依存しすぎる質問が案外多いということです。
 
 科目はやっぱり数学が多いですかね。「これ、授業でやったのにどうして聞いていなかった?」とか「復習していないからやったところを順番に忘れていっているじゃないか」とか、心配になるような会話が聞こえてくることもあります。「自分でも考えようという意志を持ちなさい」というのもあったな。
 質問をしないよりはしてくださったほうがありがたいですが、自助努力を欠いた質問ばかりだと、やはり先に行ってどうなのだろう? ということはありそうです。
 
 国語でも「何が何だかわからない」という要領を得ない質問が来ることがあります。「この文章、わけがわからないんですけど」という。根本的な問題はその文章がどうこうではなく、読み手がその文章を理解できるレベルまで成熟していないというところにあります。こういうものがすらすらわかるようになりたいのであれば、日々の生活で同レベルのものを読みこなして訓練するしかない。具体的には・・・と話を続けるのですが、そこはまだ中学生なので「もっと楽にぱっとわかる方法はないですか」と言う。
 
 それは無理だろう。サッカーだって楽器だって日々訓練に訓練を重ねて何とか上達していくのに、勉強だけ「ぱっと」上達することはありえないと思わないか? と話すと納得はしてくださるものの、納得だけで終わってしまう。そしてまた「わけがわからないんですけど」と嘆く。
 質問したときにーーどの教科でもーー先生がこういうやり方をするといいよと勉強方法まで示唆してくださるときがありますね。それを面倒がっている生徒が多い。それでは何のための質問なのかわからないですよ。
 
 解答以上に「どういう方法論で勉強するか」ということは重要なはずです。質問者の状態を見て先生はアドヴァイスをされているわけですが、当然「復習しなさい、練習しなさい、努力をしなさい」ということになってきますね。そこは大変だからといい加減に聞き流してしまっては、いくら答を教えてくださいという質問をしてもいまひとつ実りが乏しいように思います。
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2019.08.20 00:15

 あおり運転のことがあちらこちらで話題になっています。私は現在車を運転していない(最後に運転したのは1980年代でした)ので直接的にはあまり関係ないのですが、見ていていろいろなことを感じます。
 追い抜かれたことに腹をたててあおったりするケースが多いようですが、逆上する本当の原因は「追い抜かれたこと」ではないでしょう。追い抜かれたことが「きっかけ」となってもともと内在していた怒りが爆発したということだと思います。
 
 ですから、仮に追い抜かれなくても他の何かで怒りが爆発する可能性はあったと思います。怒りがきっかけを求めてうろうろしている状態なわけですから。
 こういうのは私たちも注意しなければならないところで、自分はかつて生徒から「うちの人(ご両親のことが多い)がしょっちゅういらいらしていてすぐに怒り出すので、落ち着いて生活していられない」という訴えを聞く機会がありました。
 
 何でも怒る、静かに言えることを怒鳴る、本当に何をやらせてもだめなんだからというような感想をいちいちつける・・・というのです。蒲団を畳んでいない。それぐらいの小さなことで「まだ畳んでいないの!」と威嚇するように大声を出す。書くと笑い話みたいになってしまいますが、中学生のころの息子と家内のやりとりにもいくつかそんなのがあったように思いました。
 早く起きなさい! 起きてるよ! ちゃんと起きなさい! だから起きてるって言ってるだろう!
 
 そんな怒鳴り合いが聞こえてきて、おいおいと思って私が起きていったことがありました。何時に起きるという合意事項があり、それを可能な限り遵守するためのやりとりが怒鳴り合いに発展してしまうのだとすれば、それは各々の心の中に蓄積している何かが原因であって、起床が円滑にいっているかどうかが原因ではないですね。
 当時私が息子を起こしたときも何度もありますが、怒鳴り合いになったことは1度もありません。「起きろよ」「うん」「そろそろまずいんじゃないか」「そうだね」程度でした。
 
 私たちが何かでかっとなったときに、本当の原因は「そのこと」ではないのかもしれないという洞察を持つことは大きな進歩ではないかという気がします。私は現在生徒にまったく腹をたてませんが、それは彼らが突如として礼儀正しくなったわけではなく、私自身の中に別の要素が蓄積されてきたからですね。本当に理解しあいたいのであれば、強い思いこみはすべて邪魔になるでしょう。そのあたりの智慧ですね。
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2019.08.19 07:55

 先日、電話で教室への道順を確認されてきた大人の方がいらっしゃって「何しろ、昔の渋谷とは全然違うから」とおっしゃっていました。昔の渋谷というのがいつの時代のものなのかはよくわかりませんが、昔の渋谷と全然違うのはその通りで、私自身も感慨深いものがあります。
 少年時代、私は毎日渋谷に通っていました。当然、渋谷駅周辺を友人とうろうろしたものです。「少年」というのはそういうことをしますね。
 
 うろうろする相手は多くはなかったのですが、うろうろする場所は比較的決まっていました。中学生のころはいまはなき東急プラザによく行きました。大きなレコード屋さんがあってレコードを試聴することができた。
 もっともお店にとっては迷惑みたいなものですね。中学生がLPレコードを試聴したところで「ではこれを」とすぐに買うわけがない。あるとき、友人がある曲を試聴してくれないかと私に言ってきたことがあります。
 
 私はその曲を知っているので、聴きたいのならきみ自身で頼めよと言うと、いやいや作戦があるんだ。聴きたいのは自分だけど、長野から頼んでほしいんだと言われました。気が進まないまま私は店員さんにLPレコードの中のある曲をかけてくださいとお願いした。
 曲がかかりはじめると友人は何度も私に「たいした曲じゃないじゃないか」と文句を言いました。流れが不自然なので理由があるのだろうと思って黙っていたら、最後まで聴き終わってから店員さんの前で私に「こんな曲なら買う気にならないよ」とだめ押しした。
 
 レコード店を出ると彼は笑顔で「うまくやっただろう? おれはいつもこうやって店員を撃退するんだ」と得意そうに胸を張りしました。「ただで聴くいい方法だろ? 大学生の兄貴から教わったんだ。向こうも薦めようがないからさ」と言った。私は複雑な気持ちになりました。
 世の中は、そうしたことに満ち満ちているような気がします。「うまくやる」ということですね。そしてそれこそが「正義」だということになっているのかもしれません。
 
 ただ私自身は「うまくやる」ことにはほとんど興味がありません。もちろんわざとへまをしたいとは思いませんが。試聴はしたいけれども店員さんに気が引けるのでいつも言いだせないーーそんな少年時代で本当によかったという気持ちがあります。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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