2019.07.31 00:59

 私は昔からタバコを吸いません。私が子どものころはタバコを吸っている大人だらけだったのですが(学校の職員室でさえタバコの煙が充満していました)、両親が吸わなかったのでタバコになじむ機会がありませんでした。どういうわけか息子は現在タバコを吸っています。家内も吸っていた時期がありましたが、最近は吸わなくなったようです。いずれにせよ、家族であっても私はーーいいとか悪いとかーー口を出さないようにしてきました。個人主義者なのです。
 
 習慣的には吸わなくても人前で見栄みたいな感じで吸って見せた時期はありました。10代ですかね。もちろん当時から10代の人間がタバコを吸うのは禁じられていました。が、規制は非常にゆるかった。たとえば高校生が喫茶店でタバコを吸っていても、どなたにも注意されたりはしませんでした。
 ゴールデンバットという非常に安いタバコのことが、太宰治の小説の中にちらりと出てきます。私は活字でこの銘柄を知りました。
 
 デートのときに私は女の子の前で洋モクをふかしたりしていたのですが、だんだんそういうのはかえって恥ずかしいことなのではないかと感じるようになりました。むしろ、ゴールデンバットみたいな労働者向けの安タバコを取り出したほうが、おおっ、ホンモノだ! ということになってもてるのではないか? という倒錯した感情が湧いてきて、一時期ゴールデンバットを買っていたときがあります。
 味は全然わかりませんでした。たぶんあまりおいしくないのでしょう。周囲にこのタバコを吸っている人間は1人もいませんでした。
 
 そのゴールデンバットの製造がとうとう今年で打ち切りになるそうです。安価を維持できないという理由らしい。
 私が行くような大衆居酒屋では、まだ喫煙可というお店がいくつも残っています。こういう世の中ですから、皆さん周囲に気遣いながら吸っていて、そのマナーのよさは見ていて気持ちがいい。下町のほうの伝統的な酒場はみんなそうです。喫煙可でも、隣にいる私に「吸ってもいいですか?」と聞いてくださったりします。大丈夫ですよと答えるとうれしそうにそれでも煙を気にしながら吸っている。
 
 完全になくなる前に、そうした居酒屋さんのカウンター席でゴールデンバットを吸ってみたいという変な願望が芽生えています。なぜでしょうね。
 秋になったら・・・ですかね。北千住あたりに出かけて行って、飲みながら1、2本何となく吸ってみようと思っています。
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2019.07.30 00:36

 平熱という言葉があるぐらいですから、だいたいこの程度という目安があります。平熱が35℃であるとか38℃であるとかというのは、やはりどこかおかしい可能性がある。何かしら手をうつべきかもしれないですね。
 同じように私はご家庭で家族が「普通に」会話できないというのは、あきらかに何かがおかしくなりつつある可能性が高いと思います。どなたか一人の責任という意味ではありません。化学反応としておかしくなってきているということです。
 
 私自身は過去必然的に2つの家庭を経験しています。子どものときの家庭と現在の家庭。そして両方の親子関係は全然違っていました。子どものときの家庭ではーーとくに父親とはーーまともなコミュニケーションが成立しませんでした。現在の家庭ではその父親に私がなっているわけですが、息子との会話はごくごく「普通」です。
 昨日も息子が受けた試験のことを話していました。息子は「あまり期待しないでくれよ」と笑い、私は「いい経験になったじゃないか」と返しました。
 
 そのちょっと前、私が洗面所を使っていると息子がやってきたので、私は身体をずらして息子も使えるようにした。そうした1つ1つの行為はごくごく普通の社会的マナーにのっとったものであり、親子関係がうまくいっています! と得意になるようなものではまったくありません。
 その普通のことがどうして子どものときの家庭では実現できなかったのか。それは当時の親子関係が落ち着いたルールに基づいたものではなかったからでしょう。
 
 そもそもが挨拶さえない。おはようもおやすみも行ってらっしゃいもおかえりもない。私は挨拶より「勉強しろ」「点数を上げろ」と言われた回数のほうが圧倒的に多かった。少なくとも小学生のときはそうです。真剣に青臭いことを主張すると、幼稚なことをと親が笑う。嘲笑する。そんなことで食っていける世の中だと思うのか。
  それがどんなに非礼な態度かという認識がない。ですから私は息子がとんでもないことを言い出したときにはあえて「面白い」と話を続けさせました。
 
 他者の話を途中で「ばかじゃないのか」と打ち切るようなマナー違反は親であってもするべきではない。当然、子どもも次第に「うるせえな」と親の話を打ち切るようになります。非礼には非礼で返す。
 中学時代私は、母親に対して「うるせえな」ばかりでした。息子は家内に「うるせえ」などとは決して言いません。それは私と私の母が息子や家内に人間的に劣っていたわけでも何でもなく、ただただ関係性の構築の巧拙によるものだと思います。
 
 うまくいかなくなってしまった部分には強い緊張が存在しているわけですから、ゆるめる必要があります。会話も態度も緊張をゆるめる。あたりまえのことですが、双方の努力が必要です。ただ関係の無意識の破綻は多くの場合、親のほうの非礼さがきっかけになっているものです。そこは少し意識して変えていかれるとよいかもしれません。
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2019.07.29 00:28

 私は渋谷駅から新宿駅まで山手線を利用しています。時間にして約7分間ですね。先日、こういうことがありました。私のすぐ近くにいらっしゃった2人連れの女性ーー20歳ぐらいでしょうーーが突然、いついつ旅行しない? と話しはじめました。それまで全然別の話をなさっていたのですが、どうする? 行こうか・・・ととんとん拍子に進んでいく。
 旅行先まではわかりませんでしたが、遠方の雰囲気でした。片方の子が「じゃあ夜行バス予約するね」とおっしゃった。
 
 ちょっと驚いたのですが、その場ですぐ予約です。スマホを使ってさらさらと予約された。途中でちょっと料金高めだけどしょうがないねみたいな会話が聞こえてきた。そのあとホテルも「ここがいいか」とスマホを見ながらあっという間に予約。新宿駅に着く前に手続きはすべて完了し、楽しみだねー、食べまくろうよと盛り上がっていました。
 まあ、便利な世の中になりましたね。私が学生時代、友人と旅行するときは相当の準備が必要でした。
 
 わざわざ数日つぶしたぐらいです。時刻表で列車を探す。場合によっては乗り換えの時刻を相当注意深く調整する必要が出てきます。友人の中には「時刻表の見方がわからない」などという変なのもいて、そうなるとこちらに全責任がかかってくる。何度も何度も見直してさらに紙に書いて仲間と最終確認しましたよ。
 どこに泊まるかという問題もあります。インターネット情報などはありませんから、これまたホテルガイドや時刻表の広告ページでよさそうな宿を探します。
 
 活字と写真だけだと本当にいいところなのかどうなのかよくわからない。ここはどうだろう? 駅から遠そうだよ、こっちのほうが安いんじゃないか・・・とあれこれ話し合う。やっとのことで決まって電話をかけても、予約がいっぱいでまた一からやり直しなどという状況も多々ありました。
 列車の予約は深夜の駅に並んで朝の営業を待つようなことも何度か実行しましたが、それが当然でしたので不便さを感じることはありませんでした。
 
 そうした手間のすべてが旅行の一部であり、楽しいことは楽しかった。旅館やホテルに電話をかけてあれこれ質問するのも楽しかったですし、場合によっては旅行代理店に行っていろいろ相談するのも楽しかった。移動中7分未満で旅行がセットされてしまう現代は素晴らしく便利だとは感じるものの、あの膨大な準備期間がなくなってしまうのは私にとっては必ずしも「得」ではないような気がします。
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2019.07.28 06:24

 読書感想文の書き方については以前も何度か書いているので、あえて繰り返しませんが、夏休みに何か読まなければならないのであればだらだら読まないで、集中的に3日以内にまとめて読んでしまうことです。書くときに、ある程度爆発力が必要になってくるものですが、だらだら何週間もかけて読んでいると肝心の「熱」がこもりません。1日5ページずつひと夏かけて・・・などというのは計画的なようでいて、じつは非常にまずい読み方です。
 
 熱をこめて読むことで誤解する部分も出てくるかもしれませんが、それもまた読書の醍醐味であり、ずっとあとになって再読してみたら印象ががらりと変わったということはよくあることです。それでいいのですよ。
 感想文を書く前提で読むのであれば、読みながら必ず印をつけてください。そういうアドヴァイスをすると「どこに印をつければいいのかわからない」という嘆きが必出てくるのですが、そんなことに正解はありません。つけたいところにつける。
 
 感動したところ、面白い表現だと思ったところ、変だなと疑問が湧いたところ、ここは誰かに聞かせたいと感じたところ、笑いそうになったところ・・・そういう場所に印をつけておく。あとで抜粋して使えるかどうかは、まったく考える必要はありません。
 利用しなかったら損するかもしれないからつけないでおく、などというのは情けない読み方で、どうせ読むなら感想文に利用するしない以上の読書にしてやるぞという気持ちは大切だと思います。
 
 長編にチャレンジするのもいいと思いますが、慣れていない方はやはり短編のほうがいいでしょう。短編であればそれこそ1日で読めてしまう。1日で読んで、1日で書いてしまうぐらいの気合いで進めてみてください。
 作者について作品については、すぐに調べられる世の中になりました。だらだら写すのではなく、大事なところだけまとめていくようにしてください。文章を書くとき行き詰まったら、そこでいったん段落を終わらせてしまう。それはちょっとしたコツなので、覚えておかれるといいと思います。
 
 短編ということは短編集を買ってきたわけですから、感想文を書く予定のない短編も読んでみるといい。1度話しただけの相手よりは2度話したことのある相手のほうがよくわかるのと同じ理屈です。何でもそうですが、その作品を通過したことで、ご自身の中にどういう変化が起きているかということを意識してください。「海に行きたくなった」とか「大人になるのがこわくなった」とかその程度でけっこうです。それはなぜか? いろいろ発見があると思います。
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2019.07.26 01:57

 今年の土用の丑の日が偶然土曜日なので、今年から隣で一緒にお仕事をさせていただいている(実質的には副教室長以上のお仕事をしていただいている)Y先生が、いまどきの小中学生だと「土用」を「土曜」と勘違いする可能性がありますねとおっしゃっていました。
 確かにそうですね。土曜日という意味だと思いこむかもしれない。せめて周囲の大人が「辞書をひいてごらんよ」ぐらいおっしゃってくださるといいのですが。辞書をひくと「土用休み」などという用語も出ています。
 
 老人語というのでしょうか、夏休みのことをそんな呼び方をしていた時期があるみたいですね。辞書にはときどき老人語というのが載っています。「よしなに」とか「ひらに」とか例にあがっていました。「~して『おる』」というような表現も、いずれは老人語に分別されていくのかもしれません。死語とまでは呼べないような言葉ですね。
 土用の丑の日にうなぎをたべるというのは江戸時代のうなぎ屋さんの宣伝活動がそうさせたそうで、歴史的な何かではないらしい。
 
 うちはいまでも新聞をとっているのですが、この時期になると新聞と一緒にたくさんスーパーの宣伝広告ちらしが入ってきます。日本うなぎはいまや絶滅危惧種ということで、まあ、どこの安売りでさえそれなりの値段ではあります。私自身、蒲焼は好物ではあるものの、昔ほどの頻度では食べなくなりました。
 以前も書きましたね。渋谷にもそれなりのうなぎを出すお店がありますが、やっぱりちょっとお昼ご飯を・・・というには高すぎるのですよ。
 
 単純に高い安いが問題なのではなく、どうして今日という日に特別高いものを食べるのかという理由がないと、何となくしっくりこない感覚があります。変なこだわりなのですがーー食べ物に限らないかもしれませんーー高いお店を利用するときは、なぜ今日なのか? ということは意識したい。
 つまり、「安い」というのは十分選択の理由になるわけです。安いから買う、安いから食べる。逆に高いものはそれこそ買わない食べない原因にさえなるのに、なぜ今日だけは選択するのか?
 
 あえて選択するのであれば、やっぱり自身の中で理由がほしい。土用の丑だからというのもりっぱな理由なのですが、以前の経験ではその日はうなぎ屋さんは大忙しで、いつもよりかなりサービスが悪かったりする。アルコール類はお断りしますとかうな重以外はできませんとか。
 まあ、土用の丑の日にはわざわざ食べなくてもいいかな。何か理由を見つけてちょっとずらして食べることにします。
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2019.07.25 08:11

 先日、私の着ていたスーツを息子が見て「お父さん、珍しくいいスーツ着ているじゃないか。◎万円ぐらい?」と話しかけてきました。息子の指摘した額が非常に正確でしたのでちょっと驚きました。四捨五入すればまさしく◎万円です。
 よくわかったなと告げると、息子は鍛えられているうちにわかるようになったんだとあたりまえという感じで答えました。
 つい最近まで息子が勤めていた会社は、きちんとした格好をする必要がありました。
 
 先輩に、お客さまから信用していただくために少し高級なスーツを着るようにとアドヴァイスされていたそうです。で、その年代としては比較的高いスーツやシャツをあれこれ買ったりしていた。ほんの3年間ではありましたが、その生活の中でスーツの値段などは的確にわかるようになったそうです。
 私なんかそうしたことに全然興味がない(わざと興味を持たない面もある)ので、多少高いスーツもいわゆるスーパーで買ったスーツも同列の意識なのですが、見る人が見れば違うということでしょう。
 
 そういえば去年だったか、人と待ち合わせをしていて不自然に時間が空いてしまったときがありました。仕方がないので、高級品ばかりを扱っているデパートに入り、買うつもりはないものの、婦人服や宝飾品の売り場を歩くよりは自然だろうと思って紳士服売り場を1人でうろうろしてみました。ところがどのお店の方も、私には声をかけてこないではないですか。他の高そうな服(?)を着ているお客さんには声をかけても、私には何もおっしゃらない。
 
 感心しましたよ。瞬間的に安いスーツを着ているとわかるのでしょう。この人はぶらぶらしているだけで、うちのお客さんではないと判断されたのだと思います。
 面白いもので同じスーツを着ていても、新宿にある比較的庶民的なデパートだとあれこれ声をかけられます。この程度であれば、うちのお客さんになるかもしれないと期待してくださるのだと思います。
 よくホンモノに接しているとものの価値がわかるようになると言われますが、そういう要素はとても大切だと思います。
 
 勉強にもそうした部分はあり、いたずらに恐怖心をあおったり、偏差値だけで人間の価値が決まるという偏見を抱かせたり・・・ということばかりを原動力とするような勉強は、ホンモノの学問にまではなかなか昇華されません。一時的な効果はあっても永続的なものにはなりにくいと思います。
 楽しいとか気分よく頑張れるとか内容が面白くてついつい引きこまれるとか、そういう形に変えていかないといけないのではないか。
 
 非常に難しい大学に進学したある生徒が「志望理由は単にいちばん難しいこと高度なことを勉強したかったからです」とおっしゃっていたことがあります。就職予備校的発想で大学を選択するのももちろんありでしょうが、学問という本質から見る限り「より難しいこと高度なことを勉強したい」という渇望は、非常に健全なアプローチではないかという気持ちがします。
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2019.07.24 06:59

 先日、ある方と話しているときこういうことがありました。前後はよく覚えていないのですが、その方がいらっしゃった飲食店の話が出てきました。それほど真剣な話ではなかったので、私もいい加減(と書くと誤解されそうですが)に聞いていた。「へええ、そうなんですか・・・」ぐらいです。
 するとその方が「ちゃんと小さな舞台もあって、フラミンゴのショーもあって・・・」とおっしゃった。
 
 ちょっとびっくりして、私は「お店の中でそんなことまでやるの?」と問い返しました。同時に、ある情景を思い出した。
 私はフラミンゴのダンスのショーを1度だけ見たことがあるのです。高校2年生でした。夏の終わりに房総半島のある施設で見ました。きれいだなとは思ったのですが、そのとき自分の心は隣にいる女の子の存在でいっぱいになっていて、まったく落ち着きませんでした。彼女が自分をどう思っているだろうということばかり考えていた。
 
 そして、整然と踊るフラミンゴに申し訳ないという変な気持ちになりました。16歳(私は11月生まれなので)の夏です。そのフラミンゴを狭い店内で踊らせるというのは、どういう趣向なのだろう? いくら何でもかわいそうじゃないかとぼんやりしていたら、相手の方が笑いながら「違った違った、フラメンコだった」とおっしゃるではないですか。
 なあんだ、フラミンゴじゃないのかと拍子抜けしたのですが、おかげで高校生のときのことを思い出しました。
 
 調べてみると、その施設は2001年に閉園になってしまったようです。フラミンゴを見たあとで、私は彼女(と女性がもう1人いました)たちとある駅まで移動しました。そこから私だけが列車に乗ることになっていたのです。
 夕方にはすっかり元気をなくしていたので、まあ1日中ろくに話せなかったのでしょう。男子校で同性の仲間にさえ上手に話せない自分が、異性相手に闊達な会話を展開できたわけがないのです。ただこんなことを客観的に書けるのは、いまだからですね。
 
 最後にどこかのお店(昔風の喫茶店)に3人で入った。そのときはもうすっかりあきらめていて、自分はこれからどう破滅してやろうかということばかり考えてわくわく(?)しました。教科書なんか捨ててやれ。学校もいっそのことやめようか。夜中にこっそり酒飲んでタバコを吸おう。レッド・ツェッペリンとグランド・ファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」をダブルで聴くぞ。もう家出するかな。
 施設の入園券にはフラミンゴの写真が使われていました。その後何年も何年も、そのチケットは自室の引き出しの中にありました。
 
 
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2019.07.22 07:05

 何を読んだらいいですか? という質問はあまりにも漠然としすぎているので、まあ太宰治あたり面白いと思うよぐらいに答えています。何を読んだらいいですかという問いかけはどこの海で泳いだらいいですかに近いものがあり、意地悪でなく「どこでもいい」「何でもいい」というお返事になってしまいます。
 太宰治の何を読んだらいいですか? と質問されたときは、これまで「親友交歓」か「トカトントン」を薦めていました。短いというのも、ポイントですからね。
 
 最近文庫本でこの「如是我聞」を再読して、あまりのはちゃめちゃぶり(これはもちろんいい意味で)に、太宰治の真骨頂と呼べるのはむしろこの作品ではないかとも考えるようになりました。
 如是我聞は小説ではなく、評論とかエッセイの類に入ると思います。誤解を恐れずに書けば、悪口という卑俗的な範疇として分類することも可能かもしれません。芸術的悪口ということです。
 
 評論家や老大家と呼ばれるような小説家をボロクソにこきおろしているのですが、後半はすさまじい。ここまで書くかというレベルの、辛らつな文言が羅列されています。とくに文豪志賀直哉に対する攻撃はすごい。
 志賀山脈という言葉があったぐらいで、志賀直哉は膨大な信奉者を持つ大作家です。単純な愛読者だけでなく、志賀直哉に憧れて作家になったという著名作家がたくさん存在する。その志賀直哉をとことん批判する。
 
 いちばんすごいところを抜粋してみます。
「頭の悪く、感受性の鈍く、ただ、おれが、おれが、で明け暮れして、そうして一番になりたいだけで、(しかも、それは、ひさしを借りて母屋をとる式の卑劣な方法でもって)どだい、目的のために手段を問わないのは、彼ら腕力家の特色であるが、カンシャクみたいなものを起して、おしっこの出たいのを我慢し、中腰になって、彼は、くしゃくしゃと原稿を書き飛ばし、そうして、身辺の者に清書させる。それが、彼の文章のスタイルに歴然と現われている。残忍な作家である」
 
 まさしく悪口雑言ですが「カンシャクみたいなものを起して、おしっこの出たいのを我慢し、中腰になって」のたたみかけるような表現は、志賀直哉の見るからにりっぱそうな風貌(の写真)を前にすると、確かに大作家だってそわそわする瞬間は十分ありうるだろうという倒錯した説得力を与えるから不思議です。この種の洞察力や表現力はやはり天分のもので、他の作家ではなかなかこうはいかない(そもそもやらない)でしょう。
 お時間のある方は読んでみてください。「もの思う葦」という文庫本に入っています。他の作品も大変面白いですよ。
 
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2019.07.21 06:34

 私は古い人間なので、礼儀については多少意識しているほうではないかと思います。ただこうしたことは他者に押しつけるべきではないとも考えているので、批判的な意味ではあまり取り上げる気持ちがありません。失礼な行為というのはときどき見かけますが、私の感じではその方ご自身が「礼を失している」とは考えていないのではないかという気持ちがします。
 ですから、他者に何か指摘されてそれこそはっとする、という状況なのだと思います。たとえばこういうことです。
 
 エレベーターに乗る。先に乗っている方がいらっしゃる。私はビルの上階にあるお店をめざしている。どうやら他の方たちもそうらしい。よくある状況ですね。最後にエレベーターに乗った私は、下りてから後ろの方を無視していちばんにお店に乗りこむようなことはしないようにしています。順番からいって先に乗っていた方が優先されるべきだと思うのです。
 しかし、そういうことをまったく意識されていない方もいますね。さっさといちばんにお店に入っていく。
 
 とくに人気店なんかですと、並んで待たなくてはいけない。より慎重に順番というか秩序を守る必要があるような気がします。そういうところはじつはお店の方もよくご覧になっていて、こちらに気を遣ってくださってありがとうございますとお礼をおっしゃったりします。
 あるとき模擬テストの業者さんの塾向けの説明会がありました。早々と予約を入れていたのですが、どうしてもという保護者の方(ふだん日本にいらっしゃらない)の面談が入ってしまって、行くことができなくなりました。
 
 そこで業者さんにお電話をした。申し訳ないということと、資料はどうしてもほしいので御社まで取りにうかがってもよろしいでしょうかと訊いてみました。お送りしましょうか? と言われたのですが、こちらが予約を取り消すという失礼なことをしたわけですから、直接うかがうべきだと思いました。
 私にしてみればそのあたりの風物や景観にもちょっと興味があり、休みの日にうかがってぶらぶら歩いてみるかとも考えていました。
 
 するとーー驚いたことにーー業者さんがわざわざ説明会当日に教室(当時は池袋でした)までじかに届けてくださったではないですか。恐縮してお詫びとお礼をお伝えしたのですが、そこまでしてくださったのはこちらも失礼がないように事前にできるだけのことをさせていただいたからではないか。無断欠席だったらそこまでしてくださったかどうか。以前も書きましたが、司馬遼太郎先生のエッセイに「礼は心の花」とあります。自生する花ではありませんから、自分から意識的に創らないといけないですね。
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2019.07.20 06:12

 世の中を見ていて自分があまり好きではない生き方(?)がありますね。これは善悪とは違う意味です。たとえばすごく卑近な例で言えば、ご飯は食べずにお菓子だけで生きているような方がいます。私はあまりそのような食生活は好まないので、その方がどうこうではなく自身はそういう生き方を選択しなかったなと実感することができます。
 そして私自身が「間食よりは、きちんとした食事をしたい」人間であるということに気づきます。
 
 つまり自分とはまったく相容れない(だからといって嫌いであるとは限りませんが)他者の存在が、私がどういう人間であるかということを思い出させてくれる。これはすごくありがたいことだと考えています。
 そうした他人の存在なしでは、ひょっとすると自分のことが十分理解できなかったのではないかとも考えます。ああはなりたくないとか、ああはとてもできない、やりたくないという行為や言動を意識することで真の自分がわかる。
 
 私にもあまり好きではないタイプの音楽というのがあるのですが、それがどうしてなのか考えると、いろいろ面白いことに気づいたりもします。世の中で、ものすごく売れている。何十年も何十年も売れ続けている。ところが、自分は1回もいいと思ったことがない。音源を買ったこともないし、試しに聴いてみようという好奇心さえ湧いてこない。
 そこまでかたくななのは異常であるような気もします。かたくなになるところに何かしら「自分」の秘密があるのでしょう。
 
 小説やタレントさんや政治家なんかでもそうです。あまり好きではないタイプが存在する。作品やその人物に非があるのではなく、私の中のおかしな部分が発動してあれは好きではないと思わせる。その発動する部分に何が隠されているのか。
 だからこそ私自身が気をつけなければならないことも少しずつ見えてくる。自分にはとてもできそうにないので、どこかに嫉妬心があるのではないか? というようなことも反省する。
 
 自分自身を知ることは大切ですね。生きてきて、とうとう自分のことがよくわからないまま何となくふわふわ過ごしてしまう一生もありえます。みんなと同じようなことをやってきた。何となく「人並み」ということだけで安心していた。勉強や仕事もそれなりにした。楽しいこともそれなりに経験した。だが、本当に「私」になりきっただろうか? ということですね。
 自分の苦手なものを観察することで、得られるものはとても多い。単純に目をつぶるのではなく、よく見てみるとよいと思います。
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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