2019.05.15 09:26

 丁寧に書きなさいとか声に出して何度も音読しなさいとか紙に書いて繰り返し練習しなさいとかというのは、丁寧に書くことや音読することや繰り返しそのものが目的ではありません。形だけそんなことをしても仕方がないでしょう。
 要するに「心をこめる」ことに目的はあります。心をこめて愛情深く勉強した結果として、丁寧にもなるでしょうし声に出して音読したくもなるでしょうし覚えられるまで練習したくもなるでしょう。目的と手段を取り違えてはいけませんね。
 
 これは勉強だけではありません。何でも同じです。得意にしたいことがあれば、心をこめて接するしかない。あたりまえですね。人と人との関係を考えてみればすぐにわかるはずです。相手が物質の場合でも感情なんかないだろうからと乱暴に扱えば、やはり心をこめて取り扱うときより劣化のスピードがはるかにはやい。こういうことを本当はそれぞれがうんと子どものときに教えるべきではないかとも思うのですが、現代は心をこめるなどというのは古臭い感じで、そんなことより効率重視という大人が増えているのかもしれない。
 
 たとえば私はこの文章を自宅のパソコンで書いています。手書きしているわけではありませんから、文字はすべて丁寧です。丁寧にと意識しなくても自然に丁寧な文字が出てくる。こういうのがこわいところで、そういう感覚に慣れてしまってはいけないとも思っています。文字は丁寧なものが出てくるにしても言葉づかいなんかは意図的に丁寧に書いていくことができるわけですから、気をつけてとにかく「きちんとした文章を書こう」という意志を持つ。それが心をこめることにつながってくると考えています。
 
 そもそも生きること自体、心をこめたほうがこめないよりははるかにいいですね。生きるというのは細かい作業の連続であり、1つ1つの作業が無限に接続して「生活」というものを形作っています。その生活全体をいつかは人生と呼ぶわけでしょう。
 すると細部の1つ1つに心をこめずに心のこもった人生を送ることは不可能になります。原理的にそういうことになりますよ。細部のすべてに心をこめてこそ、人生全体が心のこもった連続体として完成する。
 
 昔、将棋の大名人がホテルの浴室で洗濯していたという話がありました。現在では考えられませんが、昭和のころはそんなこともあったのでしょう。洗濯物を干すヒモ(?)にかすかな皺も見逃すまいという真剣な面持ちで衣類を干されている姿を見て、記事を書いた方はこうした緻密さが盤上でも生きているのだと感心されたそうです。心をこめた将棋を指せる土台は心をこめた日常生活にあったのだと。
 あなたがホンモノになりたいということであれば、心をこめて生活するのが最上の方法です。
 
 心をこめてご飯を食べ、心をこめて歯を磨き、心をこめて服を着替えてください。その延長線上に心をこめて勉強するという行為が見えてくると思いますよ。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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