2019.05.30 08:45

 コメント欄に「告白したいけど・・・」という書きこみと恋愛関係のご相談の書きこみがありました。その種のコメントをいただけること自体「恋愛研究家」(私のこと)として誇らしく感じます。昭和生まれのじじい(これまた私のこと)なんかに相談してもどうにもならないやと見捨てないでくださったわけで、ありがとうございます。
 最近は同性同士の恋愛なんかも話題になりますが、まあどなたかを好きになることはよくあることです。
 
 ただ好きになったからといっていきなり相手を縛りつけるような姿勢だとあまりうまくいきません。告白という形態はーー私も未熟なころ失敗に継ぐ失敗を重ねましたがーーその奥深い部分に「受けいれてくれるのであればそれなりの覚悟はしてほしい」と圧力をかける要素もあり、十分気心が通じる以前に恋人としておつきあいしてくださいと宣言してしまうと、逆に親しくなれる芽を摘んでしまう可能性があると思います。
 たとえば、学校でいきなり「親友としてつきあおう」と宣告されたらどうでしょうか。
 
 親友という定義の中にいろいろ束縛が入ってくる感覚はどなたでも感じますね。それなりの責任を果たさないといけない。場合によっては、ある程度の自己犠牲も必要かもしれません。友だち関係にきちんと序列をつけ、親友という特殊性を演出しないわけにもいかないでしょう。
 それはちょっと面倒だし自信がないという場合もあるかもしれません。親友だとか恋人だとかという用語や概念が先に来てしまうと、どうしてもある種の息苦しさが出てくると思います。
 
 それよりは、はじめはひたすら小さな接触を積み重ねる工夫がよいと思います。何人かで活動するときに参加する。面白い経験をしたら写真や動画をごくごく自然に「見てください」と相手に送る。ときにはご自身のことを相談してみるのも信頼感が伝わっていいと思います。
 ただこれは恋人や親友に限りませんが、人生において人は本当にその人にふさわしいものだけを受け取ることになっています。受け取るものの価値はじつは受け取る人間の価値が決める。重要な法則です。
 
 あなたがお相手にふさわしいかどうか。あの人ならふさわしいと周囲も納得できる存在であるかどうか。少なくともそこまではご自身を磨いていかないといけないでしょう。人を好きになることがご自身の向上や進歩成長につながるわけで、恋愛はそれなりに価値のある行為だと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.29 09:47

 独立していた息子が一時的に(?)もどってくることになりました。彼なりにいろいろと考えるところがあるらしく、転職したいということで何か資格試験の勉強もはじめるようです。私はそのへんの事情は家内経由で聞いています。私自身は息子が中学生のころから彼の生き方になるべく口をはさまないようにしてきたので、基本的にはつねに「賛成」という立場ですね。
 彼は高校も高校時代の塾も大学も就職も、ぜんぶ自分の意志で決めています。いいこともそうでもなかったこともすべて自身の選択なので、落ち着いたものです。
 
 犬がいちばん喜ぶと思います。私も家内も60代で何となく勢いがない部分がある。そこに20代の若者が帰ってくるわけで、散歩のときなんか全力で走ってもらえるぞ! ぐらいに期待しているかもしれません。以前も書きましたが、私にいたっては一緒にベンチに座らせたりしていますからね。座っている犬にあれこれ話しかけてみる(あそこの花を見なさいとか)のですが、犬にしてみれば全然楽しくないでしょう。
 ただ横顔を見ていると目を細めたりしているので、何となく伝わっているのかなと感じるときもないことはない。
 
 息子の荷物が早い時間帯に届くというので昨日はーー邪魔にならないようにーー早めに家を出ました。あんまり非常識な時間帯に教室に来るのもどうかという気がしたので、いつもと違って吉祥寺から井の頭線の各駅停車に乗りました。現在450ページを超える少し分厚い書物を読んでいて、井の頭線の各駅停車はすいていて読書に非常に都合がいいのです。
 さらに神泉駅で下車し、渋谷までひと駅歩いてみました。神泉駅でわざわざ下車するのはたぶん20年ぶりぐらいです。
 
 少年時代、私は友人とこのあたりをうろうろすることがありました。ふだん井の頭線を使っていたのですが、わざと渋谷の手前で下りる。当時の神泉駅周辺は現在より格段にあやしげな雰囲気で、人通りもあまりありませんでした。そういうところが面白くて、路地裏をうろついたりしたものです。
 あたりまえですが、現在はおおいに開けていますね。下車するお客さんが非常に多いのにも驚きました。普通のお勤めの方が大勢改札口を出ていきます。
 
 それでも昔のように路地をうろうろしていたら、路上で寝ているごく普通の服装の男性を3人見ました。若者2人、中年1人。朝の10時すぎでしたから一晩中ということはないとは思うのですが、まあいまでも若干不思議な街ではあるのでしょう。神の泉ですからね。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.28 07:24

 週に1回、必ずお邪魔している飲食店があります。こういうのははじめから目論んでできることではなく、結果的にそうなってしまったということですね。渋谷教室に来てから8年間毎週食べているので、若干飽きてしまったメニューもあるのですが、ここまで来ると「行かなくなる」という選択肢はなくなってしまうものです。
 人間と人間の信頼関係というか、突然行かなくなればあちらも心配されるでしょうし、こちらもどう思われているか気になります。
 
 ここはまあ、私が渋谷教室勤務のあいだはいままでのペースで週に1回はうかがい続けようと考えていました。ご主人は非常に元気そうですが、すでに古稀を迎えられていて、お若く見えても実際はいわゆる高齢者の仲間に入っています。
 さらにこのお店は個人店で、定休日というものがありません。定休日どころか休憩時間もない。昼にお店を開けたら晩までお客さんがいらっしゃる限りは稼動していました。
 
 そのあたり、昔気質なのでしょうね。ご主人は「お客さんが少なくヒマなので開けていても休んでいるようなものだ」と自嘲的に笑っていらっしゃいましたが、いままで2度(だったと思いましたが)テレビに取り上げられたことがあり、そのときはやはりお客さんが殺到したとおっしゃっていました。ちなみに2回目の番組は私も録画して見ました。若手の一流(なのでしょう)シェフがあちらこちらのお店で看板メニューを食べて点数をつけるという企画番組でしたよ。
 
 そのお店が先週閉まっていました。2回たて続けに閉まっていたので、お店の扉のところまで行ってみたところ、店主が入院のため3週間休みますという告知が貼られていました。先々週行ったときは、とくにどこが悪いというような話はなかったので、何かしら突発的な入院ということでしょう。
 連絡先の番号が書いてありましたが、さすがに電話をかけるほどの関係ではないので、それは遠慮しておこうと思いました。
 
 本当にあたりまえのことがあたりまえではない。あたりまえと思われる状況の1つ1つに感謝を捧げながら生活していこうと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.26 00:05

 先日、自宅マンションでタンク清掃があり長時間断水しました。朝の9時から午後の3時まで。6時間水が出ないというのは、けっこうつらいものがあります。もちろん実際は9時になった瞬間に水が止まるわけではありませんが、いつ止まるかいつ止まるかとびくびくしながら使うのはあまり気持ちのいいものではありません。
 水洗トイレなどもどのタイミングで使えなくなるかわからないので落ち着かず、家内はどこかに出かけてしまいました。私もいつもよりは少し早めに教室に来ました。
 
 ふだんは水道のことなんか何も意識していません。朝起きて好きなときにシャワーを浴び、好きなときに洗濯(全自動なので私でもできます)しています。水が使えることを改めて感謝したり、ましてや使えますようにと祈ったりすることはまずありません。不便さが生じてはじめて、はっと気づくことがあるわけです。
 健康もそうですね。ふだんの私たちは身体のことをさほど意識しません。意識するにしても、健康面というよりむしろ美容的な要素が大きいように思います。
 
 かっこよく見えているだろうか? とか、かわいらしく見えるだろうか? とか。それが不調になってはじめて強烈に身体を意識するようになる。高熱が出た、頭痛がひどい、お腹の調子が悪い、痛みで一睡もできなかった・・・そこではじめてふだんはそんなに恵まれていたのか! ということに思いあたる。その恵みに対してほとんど敬意を払ってこなかったことも、はじめて意識します。
 健康があたりまえではなかったということですね。健康であることはこの上ないプレゼントだった。
 
 そもそも持っているものの拡大ばかり考えるから、感謝という意識が乏しくなるのでしょう。千円持っていても増やすためにはどうしたらいいのかということばかり考えて、千円持っていること自体はあたりまえだと決めつけている。本当にあたりまえでしょうか。500円しか持っていない人は千円持っている人がうらやましくて仕方がないと思います。
 相対性の中だけで生きていたらどうなるか。うらやましがることの連鎖は決してなくならない。不満は生きる限り続くでしょう。
 
 そうした生き方はしかし、私たち自身が(多くは無意識のうちに)選択したものです。あれがほしいこれが足りない、もっともっと大量にと渇望して生きる姿勢を「向上心が強い」と評価する向きもあり、ご自身が幸せならまったく問題ないと思います。ただ落ち着かない、不安である、人間らしい感じがしないというのであれば、生き方の転換を図ることもまた問題ないと思います。
 世の中には少なくとも2つの生き方があります。「何をどれだけ得られたら幸せか」という生き方と「何をどれだけ得ているから幸せだ」という生き方です。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.25 00:38

 私は自分の生き方が「正しい」という気持ちはまったく持っていません。単純に心地よいかどうかということを大切に生きていますが、他者に「干渉しない」という姿勢はけっこうはっきりしているかもしれません。余計なことを言わないということですね。それが相手のためになるかならないかわからない場合、余計なことは言わない。場合によっては、相手のためになることであっても黙っている。黙っていることの品格を意識する場合もあります。
 
 家族や生徒に対してもそうです。気づいたけれども言わないでおこうということがよくあります。相手から意見を求められたり望まれている場合は、それなりにお話することはもちろんあります(金曜日の晩もそういう機会がありました)。それでも露骨なことは口にしない。
 少年時代、ありがた迷惑みたいな友だちがいました。いい奴なのですよ。いい奴だけれどもあれこれ干渉してくる。あの時代なのでメールもラインもなく、定期的に電話がかかってきます。
 
 善意から来ていることは私にもよくわかりました。友だちの少ない私を気づかってくれて、みんなでどこそこに行くのだがきみもどう? と誘ってくる。私はほとんど「用事がある」と断っていました。仲間はずれにならないように配慮してくれるのはありがたいのですが、善意の干渉ではあってもどこかしら暴力的な感じを受けました。
 たとえばーー変な例えですがーー口臭のある人に「あなたは口が臭いからすぐに何とかしたほうがあなたのためだよ」と忠告する乱暴さとでも言えばよいのでしょうか。
 
 だいたいにおいて、おせっかいな方は善人が多いものです。でしゃばりだとか何だとか批判されても本来はいい人が多い。そういう意味で言えば、私はいい人ではないのでしょう。よほど信頼関係ができているときだけ、遠まわしに間接的に干渉する程度です。
 先日、10代のころの息子にあてて書いた私の置手紙が何通も出てきたと家内が見せてくれました。すでに記憶にはなかったのですが、口で言うと少しうるさくなりそうなことがさらりと書かれていました。
 
 置手紙ですから相手に通じたかどうかは確認できずじまいです。そもそも彼がそれを本当に読んでくれたかどうかもわからない。私の干渉というのはそのレベルです。ただそれで私と息子の親子関係がとても快適に推移したのは事実です。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.24 09:06

 ときどき何を言いたいのかわからない中学生がいます(責めているのではないですよ)。こちらとしては助け舟を出して話を聞くのですが、いっこうに要領を得ない。緊張してというより、大人と話し慣れていないのですね。このままでももちろん最後の最後は大人になるものですが、それにはかなり時間を要するのではないかという若干の心配もあります。
 具体的に書くと「あの、これ・・・やってみて・・・でも・・・」みたいな会話ですね。何が何だかわからない。
 
 こういうのは訓練というか慣れが必要なのですが、たとえば作文が上手に書けない子どもたちがほぼ例外なく根本的に読んできた量が足りないように、上手に話がまとめられない子どもたちは上手に喋ってもらってきた経験が乏しい傾向があります。周囲の大人たち(多くはご家庭や先生)がきちんと彼(彼女)に会話を投げかけてこなかった可能性がある。
 コミュニケーションがないという意味ではないのですよ。コミュニケーションはあった。ただそれが整然とした会話体ではなかったのかもしれない。
 
 あれをやれ、これはだめだといった一方的な命令口調、どうしてこんなこともできないんだ! と感情をぶつけるだけの表現、あなたはいつもいつもこうなんだからというような愚痴・・・どれもこれも整然とした理知的な会話ではないわけで、来る日も来る日もそんな会話をぶつけられていたら、大人ときちんと話すことができるようになるわけがありません。
 たとえば、仮に30点をとってきたとしますね。落ち着いて理性的にはっきりと「おいおい、これはどうなっちゃったのかね?」と質問する。
 
 やみくもに怒っているわけではないんだよ、と安心させる。自分も昔似たようなときがあったんだ、とご自身の失敗談も述べる。そのときすごく困ったからお前にはそんな思いをさせるわけにはいかないな、と点数を指摘する理由を述べる。そもそもどうしてこうなったのだろう? とご本人に原因を考えさせる。そのうえで塾の先生に助けてもらったらどうだろう? と解決策を提案する。
 ところどころユーモアを入れていく気持ちも大切です。明るい展望が見えてこそ、大人の会話は続いていくものです。
 
 人間、いろいろなときがあるさと大きな洞察も与えてやってください。なあに、まずかった部分はこれから修正していけばいいだけの話だよ。
 そうやって日ごろからきちんとした「会話」を受けとめて育っていれば、特別なことがない限り必ず落ち着いて話せるようになります。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.22 09:31

 自宅のパソコンの接続が非常に悪くなってきて困っています。いわゆるワイファイですが、自室だとなぜか接続しなくなった。そこでキッチンまで出向いていってブログを書いています。距離にすればほんの数メートルの違いなのですが。
 突然、つながらなくなったので何か変わったことはなかったかと考えてみた。するとこういうことがありました。犬のケージ、檻ですね。かなり大きなものを撤去しました。はじめのころ犬はケージに入れて飼っていたのです。そのうち入らなくなった。
 
 人間と同じようにしていたいのでしょう。私も家内も息子もケージでは生活していませんから、自分だけ入れられるのは抵抗があるらしい。犬のおもちゃはぜんぶケージに入っているので、ときどきそれを引っぱり出してきて遊ぶ。ただケージ内では遊びません。ケージにおもちゃだけ戻したりしていたときもありました。おもちゃ置き場ぐらいに考えていたのかもしれません。
 大きなケージは邪魔だったのですが、何となくそのままになっていた。先日、いよいよ撤去すると家内が言いはじめました。
 
 長い散歩に連れて行ってくれと言われたので近所をのろのろ歩きまわる。そのうち歩くところがなくなり、しばらくベンチに座らせていました。私と一緒のときは大人しいのです。部屋へ帰ってくるといつもあったケージがなくなっている。あれ? とちょっと不思議そうな顔はしていました。
 はじめはここまで人間と同じ扱いはしないつもりだったのですが、飼いはじめると情が湧くものですね。現在、私の部屋にだけは入りませんがあとはどこでものこのこ入っていきます。
 
 電波が届きにくくなったのは環境的にケージの金属がなくなったせいではないかという気もするのですが、そんなばかなことはないのかな。他の機器はちゃんとつながっているので、私のパソコン自体がそろそろ危ないのかもしれません。ブログ記事は途切れ途切れでも書けるので大丈夫ですが、先日は将棋を指している途中で突然切れてしまいました。負けること自体は問題ないのですが、突然切れるのは故意にやっている(そういう人もいるそうです)と思われないかちょっと気になっています。廃棄されたケージの呪いかもしれないですね。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.21 07:52

 ブログを読んでくださっている方からときどき内容や文体の柔らかさに救われる(は大げさですが)とおっしゃっていただくことがあり、それは私自身ちょっと意識していることなので、うれしく思うときがあります。私個人は本質的にはかたよった人間ではあるのですが、物事に対してとりわけ公式な場では穏やかであることを大切にしたいと現在は考えています。
 場に対する責任みたいなものでしょうか。不安をあおる存在ではありたくないのです。
 
 それぞれ役割があり、どういう形で世の中に貢献するかという意識も違ってくると思うのですが、とりあえず当分この形でいくつもりです。
 好き嫌いというのは当然どなたにもありますね。たとえば食べ物でさえ、自分にはなるべく食べたくない食品があることはあります。ただそこにわざわざフォーカスしない。話題にしない。話題にすれば、どうして嫌いなのか、それがどんなにまずいかみたいなことを書かざるをえなくなります。それは役割ではないなという気持ちがあるのです。
 
 同じように好きではない(露骨に書けば嫌いな)音楽、文学、政治的立場、観念や哲学、生き方があることはありますが、そこにはあえてふれないようにしています。世の中、あれはサイアクだという話題がじつに多く、そのほうが刺激的で注目を集めやすい傾向があるかもしれません。賛否両論渦巻いて・・・という状況を狙って、そうした話題を持ち出す方もいらっしゃるでしょう。
 ただそうするとどうしても否定的な文言をたくさん並べざるをえなくなります。それはやはり避けたい。
 
 たとえば「悪」という概念がありますね。そういった概念も時代や場所とともに変わっていきます。また宗教的な解釈などで大きな差が出てくる場合もあります。ですからどんなにわかりやすそうに見えることも、あえて決めつけたくないという気持ちを持っています。さまざまな紛争でさえある程度操作された情報しか入ってこないと思うので、善対悪という単純化された図式でとらえたくないのです。
 まして「悪を殲滅せよ!」的なあおりは、自分の守備範囲ではないと思っています。
 
 害虫というのはこちらからの一方的な視点であり、あそこに害虫がいるよというのはずいぶん身勝手な表現ではないかと思うとともに、そういう視点に立つ人間の存在も否定はしない。穏健な表現につとめていきたいと考えています。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.19 07:45

 忙しすぎるという状況がありますね。これは年齢に関係ありません。やることが多すぎる。人間、誰でも食べて寝ないといけません。それから最低限の身の回りの世話はしないわけにはいかない。トイレに行くとか身体を清潔に保つとか。
 それ以外のことは必ずしもやらなくてもいいかもしれません。まあ、義務教育期間はなるべく学校へは行ったほうがいいでしょうし、勉強もまるきりやらないというわけにはいかないでしょう。
 
 食べて寝て最低限の生活活動をして、学校に行く。それだけであればそんなには忙しくないですね。つまり忙しすぎるというのはご自身の判断で、そこにいろいろなものをつけ加えすぎた可能性があるということです。 
 その際、何をつけ加えるのかの判断はとても大切になってきます。どちらの方向に進みたいのか、それをできるだけしっかりさせておく。その際、どうしても本当の自分と向き合う必要があります。
 
 ものすごく高いレベルの難関校に進学したいというのなら、本当にそこまで勉強したいのか心の底をのぞいてみてください。見栄だとか体裁だとかで、漠然といい学校と言っているケースもけっこう多いものです。うんといい学校に進みたいと言いながら、できるだけ効率よく楽をしたいというのはどこかしら矛盾している。合格したらうんと遊べるぞなどというのも、最難関校をめざす人間の心構えとしてどうなのか。合格したらとことん勉強するぞ! であるべきではないか。
 
 忙しすぎるということであれば、何かを削るしかありません。大切なものは削れませんから、本音の部分でまあいいかもしれないと考えているものを削る。必ずしも勉強しているから安心というものでもないのです。人によっては削らなければいけないのはむしろ勉強かもしれません。
 ひたすら芸事や競技の道を目指している。ところが勉強が忙しくてろくに練習時間がとれないという場合は、方向性に疑問があるでしょう。
 
 ご自身のなさることに順位をつけてください。食べるとか寝るとかはあたりまえなのでそれ以外のことですね。本当はどうしたいのか。勉強時間を削らざるをえない活動がそれほど大切なのか。であれば最上位校には入れないかもしれませんが、それが真実の自分自身なら正しい選択でしょう。成績的には勉強を最上位に置く人には負けてしまうかもしれませんが、何も恥じる必要はないと思います。
 
 
 
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.05.18 00:25

 現在の賃貸マンションに暮らしはじめて約20年になります。基本的に私は昔から「住まい」というものにあまり興味がありません。そのときどき快適に暮らせればそれで十分なので、それ以上の要素はまったく求めていないということです。これからも住み続けられるかぎりはここで暮らすのではないかと思います。
 いまは家内と犬しかいませんが、事情があって息子が一時期戻ってくる話が出てきました。それならそれで、私はもちろん歓迎するつもりです。
 
 マンションの周囲はずいぶん変わりました。自宅の前に大きな公園がありますが、来たときはなかった。公園に付随している(逆か)マンション群もなかった。青梅街道まで5分程度で出られるのですが、途中の道筋はいまよりはるかに殺風景でした。
 越してきた当初は青梅街道沿いに商店がいくつか並んでいたのですが、次から次へとなくなっていきました。荻窪と西荻窪のちょうど中間地点なので、皆さんここまでいらっしゃらないのでしょう。酒屋さん、畳屋さん、クリーニング屋さん、スナックなどがなくなりました。
 
 一軒、非常に古い居酒屋さんが残っていました。これがものすごくシブい。おばあさんがやっていました。店名がおばあさんのお名前だったのではないかと思うのですが、何かご迷惑がかかるといけないのでぼかして書くと「おしん」とか「お千代」とか「おみつ」みたいな屋号でした。
 でしたというのは・・・先週、突然看板がなくなっていることに気づきました。あれ? と思ってよく見るとお店自体がなくなっている。
 
 正確には覚えていないのですが、私はそのお店に数回うかがったことがあります。20年間で数回。昔はランチ営業もやっていて、昼間入ったことがありました。ものすごくあたりまえの定食(ご飯、味噌汁、小鉢に焼魚というような)がおいしかったのですが、自宅から数分の場所にわざわざ食べに行くのは何となく不自然な感じがして、その程度の訪問回数になってしまいました。
 お正月の特訓授業のあとにお邪魔したことがあります。
 
 お正月にやっている居酒屋さんも珍しいと興味をひかれ、わざわざ入ってみました。遅い時間帯だったのでお客さんは私1人でした。おばあさんが、お正月も寂しいからお店を開けておいてほしいというひとり者の年配のお客さんがいらっしゃるので、元旦以外は開けているとおっしゃっていた。
 何か食べ物はありますかと言うと、だいたい売り切れてしまってその日はひじきしかないということでした。で、飲みながらひじきだけをむしゃむしゃ食べて帰りました。
 
 おばあさんの姿は比較的最近目撃した記憶があります。お元気だといいのですが。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2019年05月   >>
      01 02 03 04
05 06 07 08 09 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

新着記事

月別アーカイブ