2019.03.30 00:14

 何かのタイミングで昔の生徒から相談を受けることがあります。「いまの場所で出世する気持ちはないので、会社をやめようかと思っているのですが」
 昔だったら「うん?」という話なのですが、聞いているうちになるほどと納得できる部分も出てきます。彼らは変わり者というわけではなく、上昇志向がないわけでもありません。ただ、現在の組織内で偉くなることが彼らの本音の「上昇」と乖離している。地位が上がっても、本質的に向上したとは思えないという迷いを抱いていたりするのです。
 
 最近では「忖度」などという難しい言葉が流行ってしまいました。忖度・・・たとえば政府などの偉い人が望む方向に合わせて書類を整えないといけない。用意する過程で事務方が場合によっては偽造までしてしまう。その見返りに地位が上がり収入も増える。よかったよかったと無邪気に喜べる人もいるかもしれませんが、こんなこと本当の正義ではないなと不安や不満を覚える人もいるでしょう。
 これ以上は続けたくないので、責任のある地位につくのはよそうと考える若者が出てきても不思議ではありません。
 
 基本的に、人間は正義を実践しているときは気分がいいものです。おそらくそういう動物なのでしょう。ところが場合によっては正義を貫けなくなってくる。それどころか悪質な「忖度」さえ必要になる。
 すると地位が上がろうが収入が増えようが、鬱々として楽しめない。自分はこんなつまらぬことを続けるために長いこと学んできたわけではないし、生きてきたわけでもない。いっそのことまったく別の生き方を模索してみようか。
 
 学校でも会社でもあるいはもっと大きな組織--国家のようなーーにおいても、特別な問題を起こさないかぎり個々の人間が自由に良心から物を考え行動する権利を有しています。思想や信条などの自由ですね。
 その信条に抵触するものが出てきた場合、妥協するかしないかはそれぞれの選択であるでしょう。ですから、精神のバランスが崩れるほどつらいのであれば歯を食いしばって耐え続ける必要はないと自分は常にアドヴァイスしています。
 
 それこそ部活でさえ安易に「怪我させる気持ちでつぶしてこい」などと乱暴なことは指示しないほうがいい。正義ではないからです。同じく上司の方が「うちだけ儲けてライバル社のやつらは家族ごと路頭に迷わせてやれ」とか「適当に言いくるめて何が何でもぶんどってこい」とか「こっそり経費で落とせばばれっこないさ」とか、純真な青年が「こんな発想は正義ではないな」と感じるようなことを連発していたらどうでしょうか。
 水清ければ魚住まずとは言うもののそれもまた程度問題で、多くの人間はじつは本音では「せめて」正しく生きたいと思っているものなのですよ。
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2019.03.29 06:26

 あちらこちらで10連休に対する困惑の声を耳にします。お休みが多いことは悪いことではないと思いますが、よく言われているように万が一ATMのお金が底をついてしまったりすると混乱が生じそうで心配です。
 Z会進学教室は例年とまったく同じで、教室は4月の28日~5月3日までが休室日(教室が閉まっている日)になり、あとはすべて開いています。授業そのものも、この期間と5月4日のみ休講であとはいつも通り実施しています。
 
 とくに飲食店でどうしようかということになっているみたいですね。お客さんが来ないかもしれない。ビジネス街なんかではそういうものかもしれません。会社が軒並み休みになってしまって、いわゆるサラリーマンの方がランチを食べに来ない。会社帰りにふらりと飲みに来ない。材料をたくさん仕入れアルバイトの方にお金を払って開店休業状態ということであれば、いっそのこと閉めてしまおうかという迷いは出てくるでしょう。ただそうなるとひと月の三分の一の売上げをあきらめることになりますから、痛手は痛手でしょう。
 
 こういうのをビジネスチャンスととらえてさまざまな動きを見せている業界もあるみたいですね。連休ですから確かに旅行に出やすいと言えば出やすい。元号が代わる日々何をしていたかというのはあとあと思い出にもなるでしょうから、ここはひとつツアーを組んで・・・という企画を目にしたりします。まあ自分はもともとあまり関係ないですけどね。
 行ってみたいけれども行っていないところというのはつねにあり、6連休あればうろうろできそうではあります。
 
 ただ遠いところは実現していないですね。利尻島、弘前、能代、金沢、小倉、福岡、長崎と思いつくところはいろいろあります。どうなっているのだろう? という場所があるのですが、ちょっと日帰りというわけにもいかないので実現していません。こういうのは行かないまま終わるのかもしれません。
 近場で見ておきたいところというのもないことはなく、10連休ならぬ6連休でちょっと行ってみようかなと考えています。近場だと駒込、新小岩、馬込あたりですかね。これまた行けるのに行かなかったりするんだな。
 
 
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2019.03.28 06:30

 先日、こういうことがありました。ある商業ビル内にとんかつ屋さんが入っている。私と同じぐらいの年齢のご夫婦(だと思います)が、食べ物屋さんを探していた。そしてそのとんかつ屋さんを見つけるなり「なんだ、ここに◎◎があるじゃないか!」とうれしそうに声をあげた。
 ◎◎というところには屋号(店名)が入ります。東京中のあちらこちらに支店を出している。教室の近くにも支店があり、私も何度か入ったことがあります。とんかつより、カキフライやエビフライを食べています。
 
 ただーー私はあとで調べてわかったのですがーーそこは◎◎の前に別の言葉がつくのです。昔、日本に「東京ビートルズ」というバンドがあったそうですが、ビートルズと東京ビートルズは全然違うグループですね。そういう違いがある。
 じつは私はどちらでも食べた経験がありました。はじめに◎◎で食べた。次に支店の支店ぐらいに思って頭にもう1つ言葉がつく◎◎で食べた。すると同じカキフライでもまるで違いました。どちらがおいしいかは人それぞれだと思いますが、カキ自体の大きさや個数が違うので不思議でした。で、別の店かもと気づいた。
 
 ネットで調べてみたところ、まったく違うお店だということがわかりました。と同時に、ちょっと騙されたような気分にはなりましたよ。間違えるのが当然だよなあ・・・という感じでしょうか。
 同じような例はシブいお弁当屋さんにもあります。こちらは屋号がほとんど同じで両方とも似たような味(どちらもおいしい)でほとんど問題はないような気はするのですが、別々のお店だということ自体、ひょっとするとほとんど認識されていない可能性があります。
 
 どちらもレベルが高い場合は何も問題は生じないのでしょうが、差異があるときは微妙に問題になりますね。
 また同じチェーン店なのに全然違うこともあります。カレー屋さんでそういうことがありました。ある支店に入ってコロッケカレーを頼んだら、そのコロッケの臭いこと臭いこと。脂が劣化しているのでしょう。あまりにも脂臭くてカレーをつけてもとても食べられたものではなかった。私には珍しく、残してしまいました。直後にその支店自体がなくなりました。
 
 Z会進学教室は首都圏にいくつかありますが、基本的にはみんな同じです。それでも少しだけーーあたりまえですがーー違いは出てきてしまうものですね。私は自分の色みたいなものを出そうとはまったく考えませんが、できるだけ温かみを・・・というようなことは常に意識しています。自宅も学校もいやになってしまったときに、あ、でもまだ塾があるじゃないかと思い出せるような場所ですね。
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2019.03.27 01:14

 あなたが何かなさるときは、いちいち声に出さなくても言葉を使っていますね。たとえばお腹がすいたとする。外に行って何を食べるか決めていく過程で、さらには何か買ってきて食べたほうがいいかなと気が変わる過程で、言葉を使って考えているはずです。理由も一緒に考えていると思います。(ひとりでお店に入るのはちょっと緊張するかな)とか(買ってきたほうが安くあがりそうだぞ)とか。
 だから会話とは関係なくても、言葉を豊富に持つのは大切なことです。
 
 あるいはどなたかから意味の深い何かを伝えられた。微妙なニュアンスをつかめない人がいますが、言葉の体験が貧しければそうなります。それではすまされないとなってくると、言葉を豊かにして場数も踏まないといけません。
 少年時代、自分は好意を抱いている女の子に「嫌いじゃないの」と言われたことがありました。何とかなるかもしれないと期待したのですが、やんわり断られているという正確なニュアンスをつかめなかったのは自分があまりにも未熟だったからです。
 
 あるいは「お友だちとしてならおつきあいします」などというのもありました。これまた喜んでいてはいけないのであって、異性としてはとてもおつきあいできませんとはっきり拒絶されているということが理解できなかったのは私の落ち度でした。なんだよ、友だちと言っていたじゃないか・・・と不満を持ったりするのは、あきらかに上手に受け取れなかった自分が悪かったということは、大人になるにつれ理解できるようになりました。
 
 すべての行為や伝達の土台になる言葉の力はそれほど大きい。乏しければ、それこそ白か黒かの判断しかできません。白に限りなく近い黒だとか、真っ黒に見えても比べてみれば少し明るめとか、「伝える」「伝わる」の両側面で言葉の豊かさの恩恵は大きいものです。
 ・・・というようなことを、イチロー選手の引退の記者会見を改めて活字で読んでいて考えました。言葉が乏しければつらいときに「少しずつ限界を超えていこう」とは考えられず、それこそ「もうだめだー」で終わってしまうかもしれません。
 
 イチロー選手の偉大さはあちらこちらで伝えられていて、肉体の強靭さ、ストイックな生活ぶり、頭脳の明晰さ、尋常ではない努力、いちいちその通りでしょうが、底の底の部分には全生活を支えている概念があるはずで、それは言葉によってつねに再生され続ける類のものだと思うのです。
 あんな風にして人生を語れますか? あなたの夢やあなたの主義主張やあなたの好みを静かに、ときには優雅に語れますか? 勉強しない理由は何ですか? 乱暴な字を書くのはどうしてですか? ケアレスミスというのは何なのですか? そう質問されたら何と答えますか?
 
 冷静に上品に語れないのであれば、言葉の貧しさがひとつにはあるのかもしれません。あなたが何かの世界で大成功を収めたければ、その成功を支えるにふさわしい言葉や概念をここから鍛えていく必要がありそうです。仮に内面だけでも自由に言葉を操れるようになれば、自由にご自身を動かしていける可能性はぐんと高まるでしょう。言葉の豊かさは人生の豊かさの鍵になるはずです。
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2019.03.26 08:23

 バーニー・トーメというギタリストが3月17日に亡くなりました。誕生日の前日だったみたいですね。昨年の11月ごろのステージをYoutubeで見ることができたのですが、きわめて元気そうに見えます。66歳ですからもちろんそれなりの感じはあるものの、半年もたたないうちに亡くなるようにはとても見えません。
 彼はイアン・ギランのバンドにしばらくいて、その後瞬間的ではありましたがオジー・オズボーンのステージを助けたりもしていました。その後は自身のバンドを続けていた。
 
 正確な記憶ではないのですが、彼は以前3つぐらい年齢を若めに公表していたように思います。この世界ではよくあることで、3つどころか10歳近くごまかしているなどというケースもあるみたいですよ。当時私は、彼と同い年だと思いこんでいました。そしてそれだけの理由ではないものの、彼を応援する気持ちになりました。
 私は彼の音源をいくつか持っていますが、厳密に言えばすごく好きな音というわけではありません。比較的単純なロック・ソングが多いのですが、自分はあまりそういうのは得意ではないのです。
 
 彼はジミ・ヘンドリックス・フリークでした。同い年でそうなるかなと思ったのですが、3つ年上であればよくわかります。エレクトリック・ジプシーズのLPレコードは(聴ける環境にはないのですが)いまでも持っています。元ガールのフィリップ・ルイスとバンドをやっていたときの映像も海賊版(ビデオ)で入手しました。画面がちらちらして落ち着かないのですが、これを入手できたこと自体当時は奇跡みたいなものだったので何となく捨てずにとってあります。
 
 彼をジョン・サイクスやポール・ギルバート、ジェイク・E・リーなどと比較する記事を読んだ記憶がありますが、明らかに一歩遅れていました。「華」が足りない部分があり、そこがよかったと言えばよかった。
 1993年に私は紆余曲折あってある文芸誌にはじめて小説を発表させていただきました。アマチュアのライターにすぎませんが、そこまで来るのでさえ20年近くかかりました。才能も何もないのにひたすら頑張ってきた自分をバーニー・トーメと重ねる気持ちが少しありました。
 
 もう一つ、これは一時期やはり一緒にバンドを組んでいた元トゥイステッド・シスターのディー・スナイダーの言葉なのですが、バーニー・トーメのことを「彼はLONERだ」と定義していました。だからバンドを続けていくことが非常に難しいと。辞書をひくと「孤独を好む人」とあります。自分みたいだなとも思った。
 バーニー・トーメが頑張っているうちは自分も創作活動を頑張ろうと考えていた四半世紀前のことを思い出します。
 
 
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2019.03.24 00:55

 別れという行為がありますね。悲劇的なものではなく、です。あとでよくよく考えて、あれは「別れ」だったなと思うことがよくあります。どちらもさよならは言っていない。積極的に別れようという意志もなかった。けれどもあれきりになってしまった・・・という類の別離がよくあります。
 これは人と人との関係だけに限りません。ここにはまたしばしば来るだろうなどと考えていたのに2度と行かなかったという「場所」との別れもある。
 
 対人関係で言えば、私は友人知人を「キープ」しておくタイプの人間ではありません。定期的に連絡を入れる勤勉さはないということです。何か用事があれば連絡しますが、何もなければ何もしない。やがて半年たち1年たち3年たち・・・ああ、これは別れたということだなと気づく。そのことに特別な感傷があるわけでもありません。
 過去を少し思い出してみると、そういう別れは非常に多かったと思います。昔の職場の仲間なんかですね。
 
 物と人を同じに考えるのはちょっと乱暴かもしれませんが、たとえば5年間まったく聴いていないCDであればもう聴かない可能性が高いですね。5年間1度も読み返さなかった本もこれから改めて読む可能性は低いと思います。身辺を軽くしたいのであれば、整理してしまってもいいのかもしれません。
 同じように5年間、電話でもメールでも1度もやりとりしていない相手であれば、特別な用事でも出てこない限り、おつきあいはもうないと考えていいような気がします。絶交とか何とか大げさなお話ではなくてですよ。
 
 そうやって住所だとか電話番号だとかがわからなくなってしまって自然に途切れた知人がたくさんいました。ただ喧嘩別れではありませんから、何かしらつながっていればーー年賀状だとかーー長い長いおつきあいになっている方もいます。
 私がいちばん長く年賀状をやりとりしている女性は知り合ってから今年で47年目になります。高校生のときに知り合った。それ以来特別親しくなる機会はありませんでしたが、年賀状はくださるので知人のままでいます。
 
 君子のつきあいは淡きこと水のごとしと言います。私はいわゆる君子ではありませんが、人間関係に限らず蜜のような関係よりは水のような楽なおつきあいを好んできたかもしれません。執着はなるべく減らしたほうが楽ですからね。
 じつは今日は教室の卒業パーティーがあるのです。自分が生徒だったらはたして出席するだろうか(おそらくしないかも)と考えているうちに、こんな記事になってしまいました。出席されなくても、私とはいつからでも必ず話せるので安心してください。
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2019.03.23 06:59

 ここのところちょっと忙しくて西荻窪に歩いて行く機会がありませんでした。ここのところというのは、ひと月ぐらいですかね。バスばかり使っていた。帰りは西荻窪側から歩く晩もあるのですが、なぜか行きと帰りとでは違う道を選びます。不可解な心理ですが、行きに帰りの道を歩くのは抵抗があり、帰りに行きの道を歩くのにも抵抗があります。決まった道しか歩きたくないのです。
 クリーニング屋さんに寄る関係で、先日久しぶりに行きの道を歩きました。するとあちらこちらで光景が変わっていてびっくりしました。
 
 ひとつは古いアパートのあったところでした。少し前までどなたか住んでいた。ドアの外に唐辛子のようなものが干されていました。その後、唐辛子がなくなっていたので住んでいる方が変わったのかなと思っていたのですが、アパート自体が取り壊しになる予定だったのですね。隣の古い民家もいつのまにかなくなっていて、かなり広い敷地が見えました。大きなビル(マンション?)でも建つのかもしれません。
 べつのあるところは、もとが何だったかなかなか思い出せなかった。これまたけっこう広大な敷地です。
 
 しばらく歩いていて、あ、ガソリンスタンドがあったんだと思い出しました。最近は営業しているのかいないのかよくわからないような状態だったのですが、さら地になっていました。
 車道に沿っている場所なので、そこもマンションでも建つのではないかという気がします。さらにもう1つはちょうどアパートを取り壊しているところでした。これまた古いアパートで、少し前までは確実に人が住んでいたのですが、いつのまにか無人になっていたのですね。
 
 閉まっている古い飲食店もありました。平日の昼時はいつもランチタイムで開いていたのですが、なぜか閉まっていました。一時的なものなのか閉店してしまったのか、現時点ではよくわかりません。貼紙みたいなものは何もありませんでした。
 私はいまの場所に住みはじめてから約20年になります。いままでまったく変化がなかったところがここひと月で激変してしまいました。ちょっと不思議な気もします。同時にあちらこちらで変わらざるをえない状況が起きているのかもしれないという不安もある。
 
 いろいろ言われていますが、私は現在の日本の社会は十分うまく機能しているとは言い難いように感じます。理由はいろいろあるでしょうが、その根本原因は方法論や政治思想や信条、社会構造によるものではないのかもしれません。本当の原因は、人間のあり方や育て方の拙劣さにあるのではないか。
 真に豊かな人間を生み出していく努力が大切ですね。1人1人の価値をとことん高めることで、社会全体の価値もまた高まるはずです。個々の責任は大きいように思います。
 
 
 
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2019.03.21 00:29

 優先席でなければ座った者勝ちという発想があります。そういう世の中になってきている気がします。損をしないということに関して、現代人は昔の人より何倍も敏感になってきていますね。損をしないということに全力を尽くす。それだけぎすぎすした状況も起こりやすくなっているのかもしれません。
 先日、小学生の男の子2人を連れた男の人と女の人が電車に乗っていました。普通に考えて親子ですね。電車の中で男の子たちはお互いを蹴る真似をしていました。武術を習っているのかもしれません。
 
 多少は気になりましたが、問題が生じるほどではなかった。私は例によってドアにもたれかかって外を眺めていました。自分が知る限りでは毎年いちばんはやい開花を見せる桜の樹にしっかり花がついていました。月曜日の時点ではまだ咲いていなかった。ところが水曜日には開花していた。
 ある駅で1つだけ座席が空きました。向かい側に立っていた中年のご婦人が網棚の荷物を下ろしてそこに座ろうとした。ごくごく自然な流れでしたよ。
 
 そこに離れていたところで武術の真似をしていたさっきの男の子が「空いた!」とすっとんできた。文字通りすべりこむように座るともう1人の男の子に向かって「おれの勝ちー!」と笑顔を見せた。座りそこねたご婦人は荷物を持ったまま一瞬うろうろして少し移動しました。何となく気恥ずかしかったのかもしれませんね。
 私はただ見ていたのですが、ご両親は男の子の前に移動してきていまのはすばやかったなと笑顔を見せていました。
 
 私は自分がそうしつけられていたので、息子が小学生のときよほど空いている車内以外では座らせませんでした。お年寄りどころか大人になるべく座ってもらうものだということも話していた。子どもも弱者と言えば確かに弱者ですが、本人のためにもそういうイメージを植えつけないほうがいいだろうと考えたのです。ですから「子どもは元気だから座らなくても大丈夫なんだ」と伝えていた。
 これは道徳の話ではないのですよ。席を譲るスタイルとすべりこんでぶんどるスタイルのどちらが優雅であるかという美学の問題です。
 
 まあ人それぞれ、ご家庭それぞれでしょう。選択の自由がもちろんあります。そこがいいところですね。
 
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2019.03.20 01:13

 昨日ゲームのことについて少し言及しましたが、私は自分の息子にはゲーム禁止などの措置をまったくとりませんでした。1つには家内もゲームをよくやっているということがあります。もう1つはーーゲームという軽い名称を使ってよいものかどうかわからないのですがーー私自身ネットで将棋は指しているので、息子だけ規制するのはどうかという心理が働きました。
 ただ自分で指していてわかるのですが、あきらかにゲーム類には依存性があるようには感じます。
 
 あるいは依存しやすい体質というものもあるのかもしれません。私は昔から自分は非常に何かに依存しやすい体質だと感じています。子どものころからそうでした。幼稚園のころ、叔父からプレゼントされたあるゲームを指の皮がめくれて血が出るまでやっていて両親から呆れられたことがありました。お前は、バカかと。血が出ているのになぜやめなかった?
 昔のパチンコに似た親指ではじくゲームでした。内容的には野球形式になっていて、ホームランを狙って私はひたすらはじいていたのです。
 
 もちろん血が出たということはわかっているのですが、かーっとなっていて痛みを感じなかった。ゲームから引き離されてはじめて「痛い」と自覚しました。両親にどう説明したのかは忘れてしまったのですがその後も同じようなことがあり、とうとうゲーム自体を取り上げられてしまいました。
 現実生活で私はパチンコや麻雀、あるいは競輪や競馬などの合法的なギャンブル類をまったくやらないのですが、自分のそうした性向を熟知しているので近づかなかった面もあります。
 
 将棋についてはじつはいまでもそういう側面があり、最近も休みの日にネットで25局指したことがありました。1局20分ぐらいだとして8時間以上になりますかね。
 息子が小学生のころは夜に指しはじめて止まらなくなり、翌朝息子が起きてくるまで続けていたことがあります。「お父さん、ずっとやってたの?」と質問され、はっとしてそのときは「そんなわけないじゃないか」と教育上(?)ごまかしたのですが、簡単に書くとアツくなって時間感覚がなくなってしまうのです。
 
 25局指した翌日は珍しく頭痛がして、こういうのはほどほどにしないと本当にまずいなと思いました。ただ理屈でわかっていても止まらない可能性があり、物理的な約束は必要だと思っています。
 ですから、自室に持ちこまないとかやるときは他人の目の届くところでやるとか、お子さんにも決まったルールは与えるべきだと思います。やみくもに禁ずるというのもまた大人になれないような気がするので、ルールについてはご本人と話し合われるといいでしょう。
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2019.03.19 09:16

 昔、ある保護者の方が「うちは昔から一切テレビは見せていません」とおっしゃっていました。「いまはくだらない番組ばかりなので、そもそも家にテレビがないのです」
 現在私も基本的にテレビを見ませんが、以前はよく見ていました。くだらない番組ばかりかどうかはそれぞれの判断だと思いますが、そのご家庭は固有の文化としてテレビというものはつまらないものであるという結論に至ったのだと思います。それは他人がとやかく言うことではないですね。
 
 その生徒はゲーム類もまったくやっていませんでした。はじめから禁止されていたのでそもそもやってみたいという衝動が起きないそうです。とても素直ないい子で、第一志望の難関校に余力を持って合格された。
 彼はまた大変な読書家でもあったのですが、直接話したときに「だってみんなと違ってゲームもテレビもないわけですから、本を読むぐらいしか娯楽はないですよ」と照れくさそうにおっしゃっていた。科学関係の書籍をたくさん読まれていました。
 
 こういうことはしかし突然お子さんだけに押しつけてもうまくいかないですね。私が小学生のころ、両親はある日突然テレビは禁止だと言い出しました。きのうまでは見ていたのですよ。それをくだらないからだめだと。まだ白黒テレビのころの話です。
 それはまあいいとしても、それからは奥の部屋にテレビを移動して私が勉強中に両親だけで見ていました。昔の日本家屋ですから風通しもよく、音をしぼってはいても気配は伝わってきます。ふすまだったりしましたからね。
 
 ときどき笑い声が聞こえたりする。私が塾に行っているあいだはもっと大きな音で見ていたと思います。
 こういうのは、もちろん全然うまくいきません。テレビ禁止令が、テレビはなくてもいいという家族共通の「家庭の文化」にまで成熟、昇華していないからです。見てはいけないと言われていたテレビを私は親が留守のときだけ見ていました。時間帯が不自然なので料理番組だとかどうでもいいようなものばかりでしたが、腹がたつので何でもいいから禁を犯してやれ・・・ぐらいの気持ちでした。
 
 文化にまで成熟していないものをお子さんにだけ押しつけるのは気の毒だと思います。ご家庭の全員が洋装なのに、子どもだけだらしない服装をしないで今日からきちんと和服を着ろと命じるようなもので、どうして自分だけという反発しか招かないものです。
 ご家庭で保護者の方が日常的に勉強されている姿を見せているとお子さんの成績がいいという調査がありましたが、当然だと思います。おうちの方がたくさん本を読んでいると読書家が育ちやすいという調査もありました。共通の文化の成熟ということは具体的な施策より大切であるように思います。
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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