2019.02.27 03:47

 ときどき何かの関係で「うちの子どもはどうしようもない」というお話をいただくことがありますが、私は自分の中学高校時代を思い出して、あの当時の自分よりはるかにまともだと感じます。両親や勉強に対する姿勢なんかですね。
 もっともそこには子どもなりの「理由」というものがありました。その「理由」がなくならないかぎりは、反抗的な態度もあらたまらない。もっともっと悪くなってやるぞ、ぐらいに考えていました。
 
 世間一般の「誰のために汗水流して働いていると思っているんだ」とか「どれだけ教育費をかけているかわからないのか」とかは、子どもの心にはまったく響きません。ありがたいとも何とも思わないものです。少なくとも私はそうでした。当時「私立に通わせてやっている」ぐらいのことは言われましたが、こちらは「私立に通ってやっている」という気持ちしか持ちませんでした。何を言われても聞く耳はもたない。母親には「うるせえ」だけです。父親はこわいのでまったく話をしない。徹底的に無視です。何か訊かれたら「ああ」とか「うん」だけでした。
 
 わかったか? と親は確認したがりますね。自分は「わかったよ」とふてくされてすぐに姿を消してしまうのですが、全然わかっていませんでした。ぜんぶ言われたことのま逆をいってやろうとファイトを燃やしました。
 当時日記をつけていたのですがーーもともと両親に言われてつけるようになったのですーーあるとき私は親が日記を盗み見ていることを知りました。何となく予感があり、短い髪の毛をはさんでおくようにしたのです。するとなくなっている。
 
 毎日ではありませんでしたが、定期的に盗み見られている。日ごろから正直に男らしくしなければいけないと叱られていましたから、日記なんか盗み読みやがってどこが男らしいんだよ! とめちゃくちゃに腹がたちました。そして日記にはわざと「こんな家、火をつけて燃やしてやる!」とか「親なんか早く死んじまえ!」とか、毎日毎日書き続けました。
 両親があるときふすま越しにひそひそと「子育てに失敗したな」と嘆いていた晩があります。私は勝った! と小躍りしたものです。
 
 自分の場合、大人が正直でない部分が許せなかった。何かしら欺瞞がある。ですから、自分は息子にはとにかく正直に接しました。「お父さんは一般的な意味で昔からやる気がないんだ」とか「人と普通につきあうのさえ苦手だ」とか、いわゆるマイナス面も正直に話してきました。「小学生時代万引きをした」「いまも蒸発願望がある」・・・そんなことまで理由や感想を交えて話した。欠陥だらけの人間(私)が、何とか世間並みになろうと悪戦苦闘してきた経緯を息子はずっと聞いてきた。そこにある種の可能性や生きることの切なさや物悲しい応援の気持ちなどを見つけてくれたのではないかと感じます。
 
 少年時代、お前のためなのだからという大人たちの言葉の中に別の要素が宿っていることを私はつねに感じました。やる気のなさを楽しんでいる時期の私に「少しでも上をめざせ」と叱咤激励するのは、完全にそっちの都合じゃないかと考えたものです。
 いずれにせよ、10代は相当なものでした。それがあるところから落ち着いて両親とも話せるようになった。あのころの私よりは、みんなまともだと思いますよ。
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2019.02.26 08:42

 ブログにいろいろな記事を書いてきました。昔の生徒(いまはもう大人ですが)数人から「少年期の女の子の思い出話がいちばん面白かった」という意味のことを言われ、変なものが好まれるものだなと感じたことがあります。
 少年期の自分はーー男子校に通っていたことも関係していたのかーーやたらと異性に憧れ、年がら年中恋をしていたような気がします。またそこには「現実から逃避したい」という感覚が強く横たわっていたようにも思います。
 
 見知らぬどなたかに恋をしたところで、実際に話ができるようになるためにはひと山もふた山も越えなければなりません。けれども、だいたいはそれこそ1つとして山を越えられず、会話するどころか相手の名前も学校名もわからないままというケースが圧倒的に多かった。
 それでもそうした思い出は、現在の私の財産になっています。少年時代に美的な記憶が残っているのは、憧れていた彼女たちのおかげだったようにも考えるからです。
 
 少年期はうまくいかないことも多く、私は自宅にいることが苦痛でした。学校もこれまたあまり好きではなかった。勉強そのものはともかくとして、周囲の仲間が将来の展望を闊達に語っているところに溶けこめないことが苦痛でした。
 彼らはーーいま思えばじつにしっかりした少年たちでーー大人になったら銀行に勤めるとか、海外に長期留学(留学自体がまだ珍しかった)して帰ってきてから大企業で偉くなるんだとか話していました。
 
 長野は? と水を向けられても、私はせいぜい吟遊詩人になるか逃亡者(テレビドラマの影響です)になるかロックに関係した何かをしたい・・・ぐらいしか希望がなかったので、みんなのように大きな将来の設計図が何一つ描けなかった。
 私の学んでいた高校は全員が大学進学する進学校だったのですが、ある時期の自分はもう大学に行かずに何とか遊んで暮らせないだろうかということも夢想しました。
 
 高校時代のあるとき、こういうことがありました。
 1つ年上の憧れていた美少女が通っていた学校がある年の春突然(でもないのでしょうが)なくなった。いわゆる「経営難」というやつですね。5月のある日まったく偶然、別の高校の制服を着た彼女にバス停の前でばったり会いました。彼女はさっと走っていってしまったのですが、別の制服姿を見られるのがいやだったのでしょう。見かけてしまったことを後悔しましたが、どうしようもない。47年たちますが、あの瞬間のことは克明に覚えています。
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2019.02.24 00:43

 去年のこの時期に同じタイトルで書いています。受験が一段落したという方も多いでしょう。受験だけではないかもしれない。何かしら大きな出来事が一段落したときの心構えですね。
 いろいろあると思います。第一志望校に受かった受からなかった。進学が決まった学校があるものの、いまひとつ乗り気になれない。
 ある私立高の先生から「入学式のときこの学校には来たくなかったと泣いている子がいてとてもつらい」というお話をうかがったことがあります。
 
 ただ先生はこうおっしゃっていた。そういう生徒が3年後、塾なしで(こちらはちょっと困るのですが)すごい大学に合格していく。そうした教育を私立校は心がけている。するとだいたいの生徒が「この高校に入っていなければうまくいかなかったと思います」と満面の笑みで報告してくれるので、やっと責任を果たせた心境になる。
 人によって考え方は違うのが当然なのでどうとらえるのも自由ですが、私はつねに生徒には「前後際断(裁断)」の心がけを(四字熟語はどうでもいいですが)伝えたいと考えています。
 
 簡単に書くと「前のことはもうどうでもいい」ということです。どうでもいいと書いてしまうとちょっと誤解されてしまいそうですが、とらわれない姿勢は大切です。
 仮に第一志望ではなかったとしても、金輪際勉強してはいけないと言われるわけではない。一生の夢を捨てろと強要されるわけでもない。おいしいものを食べたりオシャレをしたりということを全面的に禁じられるわけでもない。ましてや完全に自由を奪われたり殺されたりするわけでもありません。
 
 それなら昔のことにはとらわれず、いまからの生活を完璧にやっていけばいいではないですか。昔にとらわれずということは、昔のやり方でやる必要もない。いま考えつくかぎりの完璧なやり方を心がければいい。そこは妥協しないでください。もはや「前例なし」ですからね。
 さらに後のことを考えすぎるのもよくない。どうせあの学校に進んだって・・・などという予断を持たずにまっさらな気持ちでぶつかっていく。すべり止めの学校に進んだにしても、そこでトップをとればどこの学校の秀才とも同格です。
 
 前も後もないのだからいましかない、ここしかないという思想ですね。もともとは禅から来たものらしいのですが、1つの境地ではないかと感じます。じつはうまくいったときも、あまり余韻にひたっていてはいけないものです。喜びに引きずられすぎてはいけない。ありがとうと感謝してここからのベストをつくす。うまくいかなかったときも生命までとられたわけではなかったことにありがとうと感謝してここからのベストをつくす。前後際断の気持ちで頑張ってくださるといいと思います。あなたの人生を決める人間は、いまのあなたしかいませんからね。
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2019.02.23 09:01

 高校入試は(大学入試と違って)小説の出題もきわめて多いですね。問題もそれなりに面白いのですが、どうしてこの作家のこの作品のこの部分を出題したのか? というあたりに自分はいちばん興味を覚えます。
 それこそ夏目漱石だとか志賀直哉だとか、大御所の作品を目にする機会もあります。それはしかしそういうものかなとも思う。文豪の有名な作品の一部を出題するという発想は、ごくごく健康的なものに感じます。
 
 それをちょっとだけひねった作品を出してくるところもありますし、どちらかと言えばあまり読まれていない作品を出してくるケースもあります。
 以前、私はいちばん好きな日本の作家は梅崎春生かもしれないとブログに書いた記憶があります。ちょっと変わった作家で、つねに「陰気な感覚を前向きに楽しんでいる」ような要素があり、人間としても関心を持ちました。実際、全集でほとんどの作品を読みました。皮肉な感性とでもいうのでしょうか、独特の感覚が絶妙です。
 
 作品では「幻化」という遺作が有名です。幻化という碑があったような気がします。あと「ボロ屋の春秋」という作品が直木賞を受賞しています。さらに「桜島」という出世作がよく知られていますが、自分は「蜆」という小説が強く印象に残っています。
 終戦直後、扉のない電車に乗っている男が周囲の弱者を守ろうとしてドア側に陣取り、結局は守りきれなくて線路に落ちてしまう。当時は実際、似たような事件があったのでしょうね。どうした誰か落ちたのか? と大騒ぎになりかけたところで誰かが「明日の新聞読めば判るよ」と呟き、どっと笑いが起きる。
 
 人間の深層心理に潜む悪意みたいなものを訴え続けた。作風は違いますが、遠藤周作なんかとも共通する何かがあるかもしれません。
 よく「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、そうした傾向は私たちは深層部分でーー程度の差こそあれーー持っていることが多い。そのことを意識しすぎるというのもなかなか複雑なもので、梅崎春生はその闇を積極的に肯定する作品を書くことで、じつは超克の道を模索していたのではないかと思うことがあります。
 
 その梅崎春生の「突堤にて」という小説を今年の入試問題(外部)として出したのが、東京学芸大学附属高校でした。この高校は毎年毎年含蓄に富んだいい小説の「いい部分」を出してきます。数年前は梶井基次郎の作品でしたが、梅崎春生と梶井基次郎には共通項を感じるので、おそらくそうした傾向を好まれる先生がいらっしゃるのでしょう。そして、そのあたりの作家や作品に日をあてたいというお気持ちもあるのでしょう。少しでも受験を考えていらっしゃる方は、ぜひ読んでみてくださいよ。
 
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2019.02.21 01:19

 きみが私をすごく好意的に見てくれることをうれしく感じている。きみのような少年(少女)は珍しいかもしれない。いまの私はなるべく目立たないようにしているから仮に自分に僅かなよさみたいなものがあったとしても、伝わりにくいと思うんだ。
 私がどうしてこんなことをきみに向かって話そうと考えたかというと、1つだけ誤解されては困ることがあるからなんだ。私はいわゆる気ままな世捨て人に見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。
 
 ここは明確に表現しておくが、私はいつでも「偉く」なろうと考えている。私には私なりの理想があり、そちらに向かってひたすら「偉く」なりたいと思ってきたし60代のいまも思っている。
 何か肩書き的なもので偉くなることを目ざしていたかというと、それはあまりなかったかもしれない。さらに物質的な豊かさという意味では、私はほとんど何もしてこなかった。その一面だけを見て、きみがあれでいいやと誤解するといけないとも思ったんだ。
 
 いい加減に見えていても、私は理想に向かっていた。理想といってもいまはもう抽象的なレベルになってしまって、人間名ではあげられなくなってしまった。若いころはニール・ヤングだとかヘルマン・ヘッセだとか太宰治だとかに憧れて、それこそ彼らの服装を研究したりもしたが(ヘッセ風の丸メガネを作ろうとしたら特注品で高くなりますと言われて断念した)、もはや彼らのような偉人でさえ「目標」としてはいけないのだという感覚がある。
 安易に人真似をしてはいけない。自身の形でベストなものを見つけていかなければ、自分である意味がないからね。
 
 私がこうしてブログを書いたりしているのも、あくまでも私のできる形で少しでも世の中に温かみを増したいという意識的な行動であって、とくに具体的な対価のためにやっているわけではないということも覚えておいてほしい。「書くメリットは? 続けるメリットは?」などとは1度も考えたことがない。きみに例えれば「勉強するメリットは?」みたいな話だな。自分はそういうことを考えること自体きわめて滑稽に感じるので、最後までメリットの計算はしないだろう。
 
 気ままに自由に見えるだろうが、私も自分なりの気概を持ち続けているということだ。きみが「自分も先生みたいにとらわれずに生きていきたい」と考えるだろうから、私は私の理想に「とらわれながら」生きているということだけは伝えておかなければと思ったよ。
 捨てたものはたくさんあるが、それは自分の目ざす偉さとは関係なかったから捨てただけで人生そのものを捨てているわけではまったくない。あたりまえのものを捨てるのは、何かを得るためでもあるわけだからね。
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2019.02.20 08:59

 そう言えば中学校のホームルームの時間、担任の先生から同学年の友だちの名前を「ふたり」書きなさいと指示されたことがありました。この問いかけには非常に困惑したことを覚えています。好きな者同士で班を組めと同じ要素がありますね。
 私には、それなりに親しい友人がいないこともなかったのです。私が通っていたのは私立の男子校でしたから、同性ですよ。ただよくわからないのですが、いちばん親しい相手の名前は書きたくなかった。
 
 そこにはこういう心理が働きました。彼は私の名前を絶対に書かないだろうと想像したのです。彼は私と違ってきちんと部活もやっていますし、それなりに勉強もできました。友人も多いので「ふたり」枠におそらく私は入らないでしょう。
 先生がのちに私やその友人が書いた名前を見て、こいつ(私のことです)は大胆にもあんな人気者の名前を書いて、向こうからは全然相手にされていやしないじゃないか・・・などと笑われたら、屈辱的だと考えたのです。
 
 もう1人比較的親しい友人がいましたが、こちらも名前を書きたくない。その友人のことはあくまでも先の少年より(友情という意味で)下に見ていたので、繰り上げて名前を筆頭に書くのは露骨なウソを書くようでいやでした。
 となると、とりあえずまあ話しているかぐらいの相手の名前を書くしかない。ただもちろん相手は私の名前を書かないでしょう。こちらが名前を書くのだから、面倒が起きないように向こうにも書いてもらいたいと考えました。
 
 そこで作戦をたてて、私は近くの席のいかにも友だちの少なそうな少年に声をかけました。きみの下の名前は何だっけ? 相手は「え?」という顔をしました。それはそうだと思います。挨拶しか交わさない仲なのですから。気分をよくした彼は「じゃあ、おれもきみの名前を書くか」と言いました。
 とりあえずは切り抜けたのですが、自分はこうやっていつも姑息な手段で生活しているという変な感覚は胸の底に残りました。
 
 要するにおおらかな自信がなかったのですね。自分は何についても「ふさわしくない」とどこかでおびえている。きちんとした友情を育めていない。
 これは一般論ですが、たとえば親がわが子に「成績のいい子以外とはつきあうな」というような浅薄な価値観を押しつけるのは、非常に危険だと思います。人間関係は自然に開花すべきであって、とにかく学力の高い子とだけ話しなさい・・・といういびつさは、何かを摘んでしまうと思います。
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2019.02.18 04:20

 犬がチーズが好きで困りますよ。困ることもないのですが、何よりもチーズが好きです。気まぐれに食べさせていたのですが、少し太ったので量を半分に減らしました。半分ずつ朝と晩に食べさせています。
 食べさせていますというか・・・向こうから来るわけです。チーズをくれ。チーズをくれと喋りはしませんが、どう考えても「チーズをくれ顔」なのです。それ以外のことは考えていないぞという決然たる表情で来ます。
 
 朝は決められたエサを食べるまえに来ます。少し食べかけて、おっとー! という感じで私のところにすたすた来る。まずチーズを食べてからと考える気持ちはわかるようなわからないような複雑なところですね。つまらないものでお腹がいっぱいになってしまったらもったいないと考えているような気はします。
 そのあたりは私が人間だから「もったいない」ともっともらしい理屈を考えてしまう可能性もあります。もっと行き当たりばったりなのかもしれません。
 
 大変なのは、私が夜中に帰ってきたときです。犬が寝ている隣の部屋でごそごそしていると「キャン!」と鳴く。「ワン」ではなく「キャン」です。悲鳴に近い感じ。何度も何度も鳴いてなかなかあきらめません。こっちが根負けしてカーテンの内側をのぞいてみると柵に前脚をかけて出てくる気満々ですよ。
 こちらの顔を見て「夜のチーズをまだもらっていないぞ」と訴える。これまた喋るわけではありませんが「夜のチーズくれ顔」なのです。
 
 柵を開けるとすたすた出てきます。人間のベビー用の薄いチーズを半分だけちぎってやるのですが、待ちきれなくなって瞬間的にふらーっと立ち上がったり(?)する。「立てるのかよ!」こっちもびっくりしますよ。だいたい5回ぐらいに分けてやります。量は同じでも、何度も食べたほうが満足がいくでしょうからね。チーズを食べるたびに私の指もぺろぺろ舐める。そうしたことに羞恥心はないみたいです。最後のひとかけを手に「待て」と言うと、大げさに顔をそむけます。見ているとついつい食べてしまうからでしょう。
 
 食べ終わると暗い部屋に戻って行く。満足して寝る。習慣になってしまいましたよ。毎朝毎晩、そんなことをしています。
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2019.02.17 01:27

 以前ブログの記事にも書いたGreta Van Freetの日本公演の模様が、先日読売新聞の夕刊に載っていました。内容的には非常に充実して素晴らしかったと書かれていました。まあ、私もアルバムを買いましたがツェッペリンに似ていますからね。ただ記事の最後にこういうことが提起されていました。
 来ているお客さんは40代50代が多かったらしく、先のことを考えるともっともっと若い世代を巻きこんでいかないといけないのではないかというのです。
 
 40代50代の方は、それこそレッド・ツェッペリンの再来みたいな感覚でとらえているのではないかと思います。ホンモノは凍結状態で、ロバート・プラントが乗り気ではないそうなのでもはや再結成は無理でしょう。そういうこともよくわかっていて、同系列の新人バンドに熱狂しているのではないかという気がします。
 確かに10代20代の方は昔ほどロックを聴いていないですね。私の学生時代は、レッド・ツェッペリンのアルバムが出たりするといちおう誰もが話題にしていました。
 
 アルバムが出たらしいね・・・程度ではあっても、どうだった? ぐらいの話にはすぐなりました。高校時代の遠足のときに、あちらでもこちらでもそんな話が出ていたことを覚えています。そういう意味では、根本的に熱気が違うような気がします。
 昼間から入れるロック喫茶もいくつかありました。私はあまりそういうところへ行かなかったのですが、友人は常連でした。アルコール類だけでなく、普通にコーヒーを頼むことができました。看板にマーク・ボランの大きな写真が使われていたお店が原宿にありましたね。
 
 この教室の向かいのビルの地下にも同じようなロックのお店が2つありました。そのうちの1つは現在も残っています。私は1972年(高校生でしたよ)にはじめて入っています。昼間からウイスキーの水割りを頼んだ。何となく、そういうものを頼むのが礼儀だと勘違いしていました。
 そのとき一緒にいた友人はいわゆるスポーツマンで、ロック好きというわけではありませんでした。それでもストーンズとかツェッペリンだけでなく、ウイッシュボーン・アッシュなんかも聴いていました。それが普通の都会の高校生でしたよ。
 
 若者の興味関心が拡散していっているのでしょう。20世紀の最大の発明はロックン・ロールではないかと言われていた時代を知っている私としては、ロックや文学が勢いを失っている現状はちょっと寂しい気もします。
 
 
 
 
 
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2019.02.16 02:11

 これから若干仕事の上でも煩雑さが増すかもしれません。いろいろ事情もあり、個人ですべて何とかできるわけではないですからね。あれこれ考える部分がなくはないのですが、予断を持ちすぎるのも問題でしょう。
 結局私は私の人生を生きているのですから、うまくいくいかないは自分がどうなのかなのだという気持ちもあります。うまくいかないのであれば、それが自分なのですから仕方がない。うまくいかない私という結論が出る場合、ごまかす必要はないと思っています。これは仕事に限らないですね。
 
 最近はブログによく徳性や善性のことについて書いています。それは非常に自然な心境の変化で、それこそ10代20代のころはロックン・ロール的スタイルにかぶれたりもしていましたが、ふと気づいてみるとそうした枠からはほとんど脱落してしまっている自分を意識します。
 そうやって歳をとったことを「堕落」であるとは考えていません。こういう表現もあまり好まないですが、どちらかと言えば進歩や成熟に近いのではないかと思います。
 
 先日、好きな者同士で班を組みなさいと言われた少年時代の思い出を書いたところ、驚くほど反響がありました。そうした自身の本質的な気質はそれほど変わっていませんね。ただ、昔だったらその惨めさから何でもいいからめちゃくちゃなことをしたいという破壊的願望を抱いたのですが、いまはみんなの中で余るところが自分のよさ(?)であると淡々と受け止められるようになり、どうして自分だけ? と動揺しなくなったという変化はあるように感じます。
 
 昔、将棋の谷川浩司永世名人がまだお若くてあれこれ悩んでいらっしゃるとき、関西棋界のある重鎮から「弱ければ負けてしまえばいいだけだ」という意味のことを言われ、啓示を得たと何かに書かれていました。
 弱ければ負ければいいというのは非常に含蓄のある表現で、弱いのに強いふりをしたりしていてはいけない、まだ実力が足りないのだから素直に努力を続けよという意味でしょう。原因があって結果がある。ただこうしたことは、あくまでも自戒の範疇だけにとどめておきたいとも思っています。
 
 
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2019.02.15 09:01

 世の中、情報化機械化が進んで昔のような職人さんが必要とされなくなってきたというお話はいたるところで見聞きします。数年前、あるベテランの大工さんが「おれみたいにぜんぶの工程を熟知している人間が必要とされなくなった」と自嘲気味に嘆いていらっしゃるところに偶然居合わせたのですが、その大工さんは私とだいたい同じぐらいの年齢の方でした。
 レストランでもときどきそう感じることがあります。本店は由緒ある天麩羅屋さんのチェーン店に入ったときなんかですね。
 
 期待して天丼を食べてみるとあまりおいしくなかったりする。揚げ方の巧拙の問題なのだと思います。いくら何でもそういうお店では機械で揚げているということはないでしょう。職人さんが揚げているはずですが、冷静に判断して機械で揚げているお店のもののほうがからっとしていておいしかったりする。
 いつでもどこでもそうだというわけではもちろんないので、人間のやることにはむらが出てしまうのでしょう。
 
 何年後かにはAIに人間の職が次々奪われるという話題もさかんに出てきますが、人間側も創意工夫をこらさないと機械にとって代わられる可能性はあると思います。回転寿司で寿司ロボットが作っているところがありますが、あれはまだ人間のほうが勝っているような気がします。寿司そのものの味がどうのこうのは私にはよくわからないものの、職人さんが動いていると何となく楽しいという要素はあります。新幹線みたいな器で寿司だけ出てくるのは・・・子どもならうれしいのでしょうが、ちょっと大人にはね。
 
 私はこうして塾の先生として生きてきました。教える仕事ですね。おそらく死ぬまでーー教えることが不可能になるまでーー続けていくと思います。天職という意識はないのですが、ほかのことをするよりは慣れたことをしていたほうが人さまのお役にたてるのではないかという気持ちがあります。また生活するための収入は、自分が得意なことで得るのが自然だろうとも思います。
 とくに最近は、自分にしか話せないような話をしたいとよく考えます。教える内容は同じでも、そういうことは可能なのです。
 
 人間にたとえると所作みたいなものですかね。いい意味で伝染していくものもある。今日も何か一つ心に残ればという気持ちはいつも持っています。
 
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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