2018.08.31 02:04

 どのような言葉を遣うかというのは、その人間がどういう文化圏に属しているかということの証明になりますね。同じ日本語の会話でも全然噛み合わないことがあり、要するに背負っている文化が違うのだなと感じるときがあります。そこには微妙な優劣が出てくる可能性がありますが、普遍的なものではないのかもしれません。つまりたとえばいい成績をとるためにはとか、上流階級として生きるにはとか、限定した枠内での好ましい言葉遣いというものはあるということなのでしょう。
 
 野卑な言葉遣いに憧れた時期がありました。そもそも私はしつけの厳しい家庭に育ったので、子どものころ自分のことを「おれ」と称すると両親に叱られました。そんな言葉を使用してはいけないというのです。「ぼく」とか「わたし」とか言いなさいと言われました。わたし・・・小学生の男子ですよ。
 周囲にはもちろん「おれ」がたくさんいます。1人だけ「わたし」などと称していたらどれだけ軽蔑されるかわかりません。
 
 現在、私は親しい人間には「おれ」と自称しています。これはいろいろ考えた末いちばん自分にふさわしいと感じたからで、40代からは公式の場以外はすべておれです。息子に対してもそう。ぼくやわたしは使いません。
 ですから小説なんかでも主人公が「ぼく」を使っているとちょっとだけ違和感を持ちます。「わたし」や「私」はそうでもないかな。私小説の伝統がありますから自然な感じを受けるのですが、「ぼく」は少し抵抗がある。
 
 先日、あるところで非常にかわいらしいお嬢さんを目撃しました。大勢の女の人が歩いていたのですが、その子はひときわ色白で人目をひく存在でした。20代前半ではないかと思います。日傘をさしている彼女と私はすれ違う形になりました。彼女はーーどういう仕組みなのか私にはわかりませんがーー最近は機器を耳に当てなくても電話で話せますね? そういう状況で笑顔でどなたかと会話をされていた。すれ違うとき彼女のセリフがはっきり聞こえてきました。「でも、くそビッチでさぁ・・・」そのあとは笑い声。
 
 個人の感想ですが、大変可憐な印象だっただけにちょっともったいない感じはしました。言葉が仲間を決めるという意味もありますが、もうちょっと拡大して考えると言葉は人生を決めてしまう面もあります。
 きれいな言葉を遣いましょうという道徳の結論にはしたくはないものの、無意識に言葉を選んでいるのであれば無意識に人生を選んでいるのと同じことになりかねないとも思うのです。服を選んだり食べ物を選んだりする程度には言葉も選んでいくといい。個々の幸福のために必要なことなのではないかとも思います。
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2018.08.30 08:06

 先日、全国学力テストの成績とご家庭の環境との相関がいろいろ発表されていました。まあだいたいは予想通りなのですが、世間一般では「衝撃」みたいなことにもなるのでしょうか。そういう類の副タイトルがついている記事を目撃しました。
 ご家庭の蔵書が多いと学力が高く出るという項目がありました。しかも国語以上に数学で点差がつく。そういうものだと思います。何となく周囲にいつも読むものがあるという環境は、学力増進にとてもよい影響をもたらす印象があります。
 
 父親が不在のほうが点数が高く出るというのは、面白いと思いました。帰宅時間が遅いほうがいい結果が出る。父親が単身赴任されているご家庭の点数が高かったりする。
 これは私にはよくわかりました。私は小学生のとき、父が自宅にいるとびくびくしっぱなしで落ち着きませんでした。父が「勉強を見てやる」と言い出すときがある。見てやるも何もできないと突然怒鳴ったりひっぱたいたりするだけなので、こっちにしてみれば迷惑きわまりない。いなくなればいいのにと本気で祈っていたら、本当に単身赴任になってしまいました。
 
 願いが叶った! とただただうれしかった。たまに帰ってくるときは気がめいりましたが、精神的には本当に救いになりました。父は私が10代のときに2度単身赴任しています。その時期は比較的落ち着いて生活していたように思います。同居していると何かにつけて過干渉で、たとえば深夜の2時に私がラジオの深夜放送を聴いていないか突然確認に来たりする(信じがたいのですが事実です)ので、うっとうしくて仕方がない。その「小物感」が情けなくなるのですよ。
 逆に母親が単身赴任をされていると、若干点数が落ちるという結果も出ていました。
 
 生活が規則正しいとうまくいくというのはあたり前と言えばあたり前でしょう。長い休みのときでも、好きなときに寝て好きなときに起きるというような気ままな生活が認められてしまうこと自体が若干問題なのです。
 ときどき長期のお休み期間、昼夜逆転したりしている生徒がいて「それで勉強は大丈夫なのかね?」と軽く問いかけることがありますが、例外なくご本人が「だめだと思います」と即答しますよ。楽しい毎日ではあるものの、勉強には向かないということでしょう。
 
 昼夜逆転生活自体を私はまったく否定しません。自分自身ある時期はそうやって一晩中FEN放送を聴いていてロックやポップスにずいぶん詳しくなったわけですが、どうしても成績を上げたいということであればやはり長期休みでも規則正しい生活が前提になってきます。できれば朝から勉強するべきですし、そのあたりは仕方がないですね。
 新聞は効果があると今回も書かれていました。新聞をとっていらっしゃるのであれば、今日からでもすぐに読めるのですから読んでみてください。どの記事でもいいですが、少なくとも15分ぐらいは読んでください。
 
 
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2018.08.29 00:56

 夏期講習が終わりました。これからは土日を除いて、教室は基本的に14時に開けることになります。実際はその1時間ぐらい前から開けているのですが、公式には受付は14時からということになっています。
 講習中は朝から来ていなければならないわけで、はじめはずいぶんのんびりできるようになったという気分になります。毎年そうです。9時とか10時とかでなく14時というのは、本当にのんびりできる感じになります。
 
 それがひと月もたたないうちに感覚が麻痺してきます。それどころかときにはいろいろ事情があって、14時の5分前にやっと到着というような日も出てくる。クリニックに寄ったりすると他の患者さんの様子によって正確に時間が予測できないので、ぎりぎりという場合もあるのです。
 同時に、ゆっくりになってよかったという安堵や感謝の気持ちまでなくしてしまう。いろいろなことができるぞという余裕もなくしてしまう。
 
 人間はそうやって「よかった!」とはじめは感動していたことにだんだん無感動になっていきますね。はじめのころの感動こそが喜びの源泉だったのに、いつのまにやらそんなことあたりまえじゃないかとなってしまう。
 それだけならまだいいのかもしれません。持っている貴重な何かに対して無感動になるだけならーーもったいないですがーーまだいいでしょう。それだけではなく、次は持っていないものに対して不満や怒りを爆発させることもある。
 
 毎日が面白くも何ともない・・・という表現をよく耳にします。やりたいことがある。ところがいまはできない。ほしいものがある。いまは持っていない。するとそれだけで大きな不満の気持ちが高じてきます。なぜいますぐ手に入らないのかといらいらする。
 そのへんはいい悪いではなく、もったいないですね。幸せというのは条件ではなく(人によって条件は違ってくるので)心理状態です。ということであれば、調整を意識的にしないのは本当にもったいない。
 
 持っていないものは気にせず持っているものを喜ぶのが上手な生き方の秘訣だと思うのですが、逆に持っているものは忘れて持っていないものを意識していらいらするという形になってしまうとなかなかうまくいきません。
 裏返しに服を着ているような感覚でしょうか。どんなにいい服でも違和感が出てきますね。おととい東京はすごい豪雨と雷でした。教室の窓から雷の光る様子をずっとながめていました。それはそれは壮大な光景でしたよ。帰りたいが帰れないという事実は忘れていました。そのあたりですね。
 
 
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2018.08.27 00:18

 先日、ちょっと腹のたつことがありました。自分が腹をたてたと表明するのは珍しいことなのですが、私個人の体験がどうこうということではなく人間の本質みたいなものを感じたので、みっともない話ですが書き残しておこうと思います。
 あるJR駅のタクシー乗り場でのことです。遅い時間でバスはもうなくなっていました。疲れていたのとかなり暑かったので、その日は歩かずにタクシーに乗ろうとはじめから決めていました。
 
 タクシー乗り場はーーすいているときもあるのですがーーけっこう混んでいました。十数人の人が並んでいて、タクシーは1台も来ていない。タクシーが次々姿を見せているときは混んでいてもすぐに乗れるのですが、1台もいないときはけっこう待つことが多いですね。
 あたり前ですが、最後尾に並んだ。列からかなり離れた場所で周囲を見ているおばあさんがいることには気づいていました。
 
 列は1列で、私の後ろにも人が並びはじめました。わーっと来る感じではありません。ぽつりぽつり来る。見ていると思ったよりテンポよくタクシーが来ます。これなら10分もかからないなと思っていると、さきほどのおばあさんが私の前の若い奥さんの隣にすーっと来た。知り合いかと思ったのですが、どうもそうではないらしい。奥さんは前にいる旦那さんとだけ話しています。
 私にはおばあさんの考えていることがよくわからない。まさか横入り? いくらなんでもこんな露骨なのはあるわけないなと考えた。
 
 するとおばあさんは「さっきから私はここに並んでいるんですよ。私のほうが先ですよ」と文句を言ってきたではないですか。唖然としましたよ。確かに私より前にタクシー乗り場近辺には到着していたのでしょうが、彼女は離れたところできょろきょろしていただけです。あれを並んでいたとは言わないでしょう。
 私はこういうことを考えました。「なぜ私を選んだのか?」つまり私の背後にも人はいます。私の前にも人はいる。それがなぜよりによって私の直前に入ろうと考えたのか?
 
 自分が腹をたてたのはその1点だけです。完全に舐められているなと。私が大人しそうに見えるので、こんな男なら気弱に譲るだろうと甘く見ているなと。
 一瞬ーーこれは事実ですーーいい加減なこと言うんじゃないよ! と怒鳴ってやろうかと思いました。その日はちょっと難しい事件(?)が2件あり、私はそのことをずーっと考えていたのです。考えても結論は出ないのですが、かなり神経は疲弊していた。そこにいきなりこのめちゃくちゃなおばあさん登場です。
 
 そうしなかったのは単に習慣上のことだけで、倫理的な何かではまったくありません。あなたは列に並んでいましたか? と私は改めて訊いてみました。「ずっと並んでましたよ」平然と言い張る。「では前に入ってください」私はおばあさんに順番を譲りました。後ろの方たちには申し訳ないと思いましたが。
 世の中のさまざまな矛盾にめったに腹はたたないのですが、特定の誰かにピンポイントで狙い撃ちされると、対象がくっきりしすぎるがゆえに腹がたちますね。いまになってみるといい経験をしたと思っています。
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2018.08.26 07:33

 私の両親は90代である介護施設に入っています。ときどき会いには行くのですが、私自身の気持ちとしては「行きたくないのに義務感から行く」という形は避けたいので、平均すると月に1回か2回といったところでしょうか。行っても会えなかったりしたときもありました。どこかで何かをしているのでしょう。そういうときはむりに探したくないのでぼんやりとしばらく部屋で待ち、そのまま会わずに帰ってきてしまいました。
 先日、こういうことがありました。
 
 そのときは妹がいました。たまには来なさいよと彼女のほうから連絡があり、両親と妹とーー要するにもとの家族全員が揃ったわけです。
 父も母もいろいろなことがちょっとわからなくなる日とけっこうわかっている日があるのですが、先日の父はだいぶ混乱していたようで、妹に私のことをこの人は自分と奥さんとの子どもか? みたいなことを質問していました。夏期講習が忙しくてひと月以上行っていなかったので、忘れてしまったのでしょう。
 
 妹がそうだと答えると子どもにしては大きくないか? とさらに変なことを訊く。イメージ的な問題なのでしょうね。私たちが苦笑していると父は直接私に、
「豊橋の海には行った?」と真面目な顔で質問してきました。
 私が「行った」と答えるとやっと納得したみたいでした。さらに私が「田原」とか「浜名湖」(海ではありませんが)とか父と泳いだことのある場所をあげると、そういうのはすべてわかるらしくいちいちうなずいていました。
 
 柳生橋、小池神社、渥美線・・・なじみのある地名に対する記憶はくっきりあるらしく、面白いものだなと思いました。
 田舎は豊橋駅から豊橋鉄道渥美線で2つ行ったところにありました。1つ目の駅が柳生橋で2つ目が小池でした。小池神社というのはーー現存するかどうかわからないのですがーー小学生時代によく行った近所の神社です。
 まあ私にとっても懐かしい話なのですが、幼い私を連れてうろうろした記憶が残っているということでしょう。
 
 豊橋については何度もこのブログに書いてきましたが、何となく失速しているイメージがあります。以前はすぐ近くの浜松市と同じぐらいにぎわっていたものです。愛知県第2の都市と紹介されていた時代もあった。いまは当時とはだいぶ違っているような気がします。デパートなんかがらがらですし。
 Cという有名な飲み屋さんがありますね。有名な太田和彦先生が何かに「わざわざ途中下車して寄る」とまで書かれていました。
 
 連休が取りづらいので泊まるのは無理そうですが、秋になったらふらりと豊橋の海でも見て来ようかなと思います。東京駅からも片道2時間以上かかるので(自宅からだと3時間以上)、なかなか難しいのですが。
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2018.08.25 02:46

 ときどき不掲載希望でコメントをいただく機会があります。そういうとき(あきらかないたずらでないかぎり)は「コメントをいただいた方」という形でお返事をさしあげています。山口県で2歳のお子さんが行方不明になり、ボランティアのおじさんが無事発見して大変な話題になっていますが(快挙だと思いましたよ)、私もまた自分にやれることで少しでも世の中を明るくできたらとは考えています。
 コメントにお返事をさしあげるのは、そうした活動の一環(?)でしょうか。
 
 自分に非常に感覚の近い人間というのはお互いに何となくわかるものです。ある生徒ーー現在40代ですーーが、以前私のことを「マイノリティであるから信頼した」とおっしゃっていたことがありました。10代のときは先生というものはなかなか信用できないと考えていた。ところが私は非常に先生らしく(?)なかった。世の中に居場所がなくてまごまごしている人間の匂いがした。だから信頼したと・・・これはもちろん相手が完全に大人になってから聞いた話です。
 
 私が彼女を主に教えていたのは中学2年生から高校1年生のときまででしたから、その感覚はとても鋭いと思いました。彼女自身がご自分にマイノリティとしての人生へのとまどいがあったという話もされていたので、同朋意識みたいなものが自然と芽生えるのでしょうね。
 ですから、私がたとえば中学生の方に「優等生を目指しなさい」と書くのは、そちらの人生を選択したいのであればということであり、それしか生き方がないという意味ではまったくありません。
 
 マスコミに憧れる生徒がときどきいらっしゃって、字義をたどっていけば「大量の情報を大量の人々に伝えていく」ことに憧れるということになりますね。私個人がやりたいことは、自分が真実だ(間違っている可能性もあります)と感じたことを、興味を持ってくださる方だけにそっと伝えることです。そっとというのは、おしつけがましくはなりたくないのですよ。
 ただ優等生の皆さんの勉強法はそもそも私の考えたことではなく、また大勢の方のお役にたちそうですので、これからも私の趣味や本質とは別に大きな声で発表していきたいという感じです。
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2018.08.23 07:28

 ときどき定期券を忘れることがあります。あ、と駅で気づいて切符を買う。損は損ですが、精神的なダメージはほとんどありません。定期券を持参している(つまり日常の)私と定期券をうっかり忘れてしまった日の私と、自分自身の中で比較していないのです。どちらが賢くどちらが愚かという判断は発動しない。
 世の中の常識から見たら忘れた自分のほうが愚かということになるのでしょうが、その見方を私は広げないようにしています。
 
 教室の生徒たちは大変優秀で、たとえば内申が満点という子もいます。満点というのはすごいですよ。どの教科も最高点をつけられているわけですから。一方、うちの息子は中学校時代内申に2をつけられたりしていました。オール5の子と2がある息子とはえらい違いですね。ただ私はまったく息子を叱ったりしませんでしたし(3にしておかないと私立高校でいやがられるぞと脅かしはしました)、私自身いらいらすることはありませんでした。
 優等生と学校成績の悪い息子と、どちらがどうという比較はしなかったということです。
 
 すべての貧しさは比較の観念から出てきますね。比較するから貧しくなる。たくさん持っている人でも比較し出すと確実にいらいらしてくると思います。もっと持っている人がたくさんいる。別種のよきものを有している人もたくさんいる。より幸せそうに見える人も数え切れません。
 比較というのは他者との関係に限ったものではありません。あのころはよかったとご自身の過去と現在を比べて嘆くケースも出てきます。いまはこんなだけど全盛期はすごかったんだぞ・・・という感じですね。私はそうした類の比較も一切しません。
 
 私の世代の人間を世間では「初老」と呼ぶのではないかという思います。もちろん私自身、昔より体力が衰えたなという実感は持っています。幸い具体的に何が困るということもないのですが、たとえば食事の回数だとか量だとか明らかに落ちてきているなという気持ちはあります。ただ昔はよかったとは考えていません。また逆にいまのほうが成熟してよくなっているとも考えません。比較しない精神の働きに、ある種の落ち着きが伴うのですよ。
 
 そもそも過度の比較は、人間特有の病ではないかという気持ちがあります。月と太陽とどちらが偉大か、海と湖はどちらが役にたつか、関東と関西はどちらが住みやすいのか、北海道と沖縄とどちらに観光に行くべきか、内定が出たA社とB社どちらに入ったほうが得をするか、CさんとDさんとどちらと結婚したら圧倒的に幸せになれるか・・・比較に継ぐ比較で疲弊していく人生は、何かバランスを欠いているようにも感じます。
 
 何も比べない人がいちばん豊かです。それはまたすべてに等しく価値があるということを認めているからでしょう。私はとくにお若い方に伝えたいと思うのですが、勝ち負けも広義的には比較です。ですから、本当はそこも超えていかないといけない。合格不合格、何が起きるかはわかりませんが、真の幸福はそこに宿るものではないのです。ありのままのご自身を何よりも尊重されていくといいと思います。
 
 
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2018.08.22 08:28

 夏が終わりますね。この季節は何となく物悲しい感じがします。何かの統計で10代の方が8月の終わりに自殺されるケースが多いと出ていましたが、自分が10代のときのことを思い出してもその絶望感はなんとなくわかるような気がします。私はそこまではいきませんでしたが。
 15歳になる年ーーつまり中3ですねーー夏休みが終わる日の晩、窓の外をながめながら、明日からは中学で誰とも話すのをやめようなどと決心したことを思い出します。
 
 とくに理由はなかったのですが、集団生活にもどるのがいやだったのですね。気ままにしていたかった。それで変なことを考えた。
 夏のあいだに女の子に恋をした年もありました。あれは高校生のときです。彼女のことばかり考えていた。遠くに住んでいたので、頻繁に会うことは不可能でした。そこで主に手紙をやりとりしていました。相手のご家族の手前毎日書くわけにもいかないのですが、毎日書きたくなるぐらい相手のことは考えました。
 
 明日から学校となると他のこと(授業とか)で忙しくなるので、その分彼女のことを考えられなくなるという危機感を持ちました。それは非常に不純な生き方になってしまうという気持ちがした。そのときもなるべく学校では誰とも話すまいと考えた。
 親しい友人からこういうことを言われたときがあります。その友人のことはとても信頼していました。「きみみたいに年がら年中女の子を好きになっていたら、他のことは何もできないな」
 
 いまになって考えるのですが、私は自分という人間に極端に自信が持てなかったのだと思います。そもそも私自身が自分の価値を全然感じられない。それでもどなたかとおつきあい(と言っても当時は文通程度でしかないのですが)しているときだけは、多少は自分にも価値があるような気がしてきます。そういう自己証明を強く求めていたような感じでした。
 それでしばしば恋(らしきもの)をしたのでしょうね。ただいま冷静に振り返ると、そうやって外にうろうろ探しているあいだは、本当に求めるものは何も見つからなかったということになりそうです。夏が終わりますね。
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2018.08.21 07:31

 はじめにばかばかしい例をあげますが、それが伝えたいことではありません。仮にあなたがうんとかっこいい不良になりたいとしますね。どうしますか? おそらくいまのままでは、うんとかっこいい不良にはなれないと思います。
 いろいろ変えていかないといけないでしょう。悪いことをする? その程度で、うんとかっこよくなるものでしょうか。何かしら悪いことをするだけでなく、服装とか言葉遣いとかもいまとは変えないといけないでしょう。
 
 平和主義だとか博愛主義、早寝早起き健康重視・・・なんかも「かっこいい不良」の日常としては不自然かもしれません。かっこいい不良が「喧嘩は絶対だめ」とか「お酒もタバコも健康を害するので一切敬遠しております」と宣言したら、何となく軽く見られてしまうような気がします。
 要するにかっこいい不良というのは、悪いことをする=不良というだけでなく、全生活全人格を傾けて「本質的な不良としての何か」に進化していかないといけないということです。小手先だけでどうこうできるものではないですよ。
 
 少なくとも「ホンモノ」は小手先だけではない。
 ときどき生徒が、内申をあげたいと相談に来ます。「点数はけっこうとれているのですが」というケースが多い。とれているのに3しかつかない、あるいは4がつく。自分より点数が下の人が5をもらっているのにという相談もありました。
 つまり点数だけはとれていてもあなたはまだ5をもらえるような「かっこいい優等生」にまでは進化していないのかもしれません。かっこいい不良になるのと同じです。その程度の挨拶でいいですか? その言葉遣いでいいですか?
 
 Z会進学教室では夏期講習中に生徒に授業についてのアンケートをとります。自由記載ですから何も書かなくてもいい。名前も必ずしも記入しなくていい。中学生時代の私だったら(優等生ではないですから)、殴り書くかあえて白紙で出すような気がします。事実、そういうアンケート用紙もいくつかありました。
 かたや記名されたうえにていねいな記載がなされたものもありました。ぜんぶの先生に対して授業の長所とともに「またご縁があればよろしくお願いします」と達筆で書いてくださった生徒がいた。
 
 しかもこの子は中1です。12歳13歳で、強制されなくてもそういうことができる。成績もーーあまり書くとわかってしまうのでぼかしますがーー常に上位に定着しています。服装や挨拶なんかも本当にきちんとしている。要するに生き方全体の問題であり、全人格が「かっこいい優等生」を指向しているということです。
 部分の成果だけで全人生が変えられるものではないのですよ。悪いことだけしてホンモノの不良にはなれないように、勉強だけしてホンモノの優等生にはなれません。
 
 全人格をかけてそちらに傾倒していく愛と信念が必要です。不良に対しても優等生に対しても、なりたいものに全面的に賭けていくだけの愛がないと。愛という言葉は安易に使うと陳腐な感じになりますが、いまの私たちの生活は私たちが心の底で無意識に愛しているものが具現化しているとも思いますよ。怠けることを愛していれば怠け者になるでしょうし、お金を愛していればお金を集める人間になるでしょう。逆にその程度の愛ではたいした変化は起きないということもあります。さて、どうするかということですね。個々人の自由選択ではあると思います。
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2018.08.20 03:22

 じつはこういうことがありました。あるラーメン屋さん、ある種のラーメンの専門店です。私は1度だけ食べたことがありました。おいしかったのですが、自宅と駅との中間地点みたいなところにあり、お店から駅に向かっても自宅に帰っても15分ぐらい歩かないといけないので、とくに夏場は行きにくい感じがありました。やっぱり暑いですからね。
 そのお店が突然お休みになり、扉のところに何か紙が貼ってありました。お休みの日にわざわざ見に行ってみました。
 
 するとしばらくお休みしますとだけ書かれていました。お店はバス通り沿いにあり、私は毎日バスに乗って前を通ることになります。ときどき気にしていたのですが、貼紙が2種類になっていました。営業はしていないのですよ。何だろう? とは思うものの、夏期講習の期間は忙しいので、お盆休みのときにでも見に行こうかなと考えていた。するとーーよほどの事情があったのでしょうかーー貼紙が3種類に(!)増えています。
 これはもう読む気満々ですよ。お盆休みに絶対に行こうと張り切っていました。
 
 休みの前々日ぐらいですね。貼紙が3種類ともなくなっていました。あとは扉だけです。こういうのは本当にそのうち・・・などと考えているとチャンスを逃しますね。いつでも可能だと思っているとチャンスを逃す。
 じつは最近、同じようなことがたて続けに起きています。入ってみようと考えていた専門店が突然なくなったとか、買うつもりでいたシャツがいつのまにか売り切れたとか。事件的には「ラーメン屋さんの貼紙」程度のことばかりですから深刻になることはないのですが、何かの大きな予兆みたいな気持ちもすることはします。
 
 大きなチャンスを見逃したことは、私には何度もあるような気がします。意図的に見逃したときもあった。ただここからはなるべくきちんとつかんでいこうかなとも思います。チャンスと書くと大げさかもしれません。出会い? 邂逅? やはり大げさだな。
 要するに、同じような面白そうなことがもう1度めぐってくるまで生きている確率はそう高くはないかもしれないぞということです。
 と思っていたら・・・昨日の夕方バスから見たラーメン屋さんの扉にまたまた何か貼ってありましたよ。今日の仕事帰りにでも読んでこよう。少し涼しくなりましたしね。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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