2018.02.26 09:13

 いろいろな方がブログを読んでくださっていることを知っているので詳しくは書きませんが、都立高校の中には独自に問題を作成している高校がいくつかあります。すべてトップ校ですね。共通問題では若干物足りないということかもしれません。
 論説文はどこの高校も非常によい文章です。もちろん大人が大人に向けて書いた難解な文章ですが、要するにうちの高校に入るのであればこれぐらい中学生のときから読みこなせるようにしておきなさい・・・という意思表示なのでしょう。
 
 ある高校ではこういうことが書かれていました。グローバリズムという言葉がある。ものすごく簡単に書けば、数値でわかりやすくということです。そうすれば価値観が世界中同じになりますからね。1より10、10より100が常に正しい。だが、そういうものだろうか? と提起されていました。人それぞれのかけがえのなさはどこにいってしまったのだろう。仕事における人間性はどこに消えていってしまったのだろう。さらにひたすら経済成長を目指すことの恐ろしさが描かれていました。
 
 ある高校では、自分とは何かという問題が扱われていた。世界とずれが生じたとき、昔は自分を世界に合わせていったかもしれないが、現在はそういう時代ではないだろうというのです。ずれた自分を安易に世間に同化させずにずれた部分ともっと真剣に向き合い、自分に本当にふさわしい生き方を模索することこそ大切ではないか。
 それこそ数値に合わせる生き方ではだめだということです。こっちのほうが数が大きいから「違和感があるけれども」こちらでいいや・・・では真実のご自身になれません。
 
 また別のある高校ではわからないものや正解のないものが世の中には大量にあって、そういうことを考えられる力がすべてであるということが書かれていました。と同時に、そうであるならばつねにわからないものに向き合う胆力や能力を身につけようと悪戦苦闘していく覚悟が人生には必要であり、わかりやすさにすぐに飛びつくような情けない精神であってはいけないと結ばれていました。難しいからわかりやすく誰か教えてよという精神でははじめから敗北している。初歩的なことから足場を組んで・・・では思考が停滞するとさえ表現されていました。
 
 こうした内容はテスト時に「はじめてぶつかった」では絶対に解けないでしょう。ふだんから哲学的なことに興味がある生活が望ましいということです。高校側にしてみれば明らかにそういう生徒に来てほしがっている。で、あとは個々がどう生きるかその選択だけです。
 自ら考えずに「いい子」でいるだけでは届かないものがある。まあ、人生がそうなのです。いまから自ら思考してくださったらいいと思いますよ。
 とくに中学生の皆さん、あなたはなぜ生きていますか。あなたはどういう人間であろうとしていますか。
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2018.02.25 00:43

 以前も書いたのですが教室の近くの食べ物屋さん、ご飯と味噌汁とキャベツのお代わりが自由になっています。そして、この「自由なサービス」が非常に複雑な悲喜劇(?)を生み出していると感じるときがあります。私はーー自分ではまずお代わりしませんがーーそのあたり興味深くて、ちょくちょくお邪魔するときがあります。
 あ、食べ物ももちろんおいしいのですよ。私のレベルで言えば、あれぐらいのものが出てくれば十分です。
 
 こういうことがありました。たぶんご夫婦だと思うのですが、私からはかなり離れた位置で何かを召し上がっていた。50代後半という感じでしょうか。
 そのうち男性のほうが「すみません」と手を挙げた。ところがお店は大変混みあっている。いつもそうなのですが、そのときは空席がまったくないぐらい混んでいました。お店の方は生返事だけで、ばたばたとひっきりなしに新しいお客さんにできた料理を運び続けました。男性が何度も何度も声をかけているというのは私にもよくわかりました。
 
 3分ぐらいたったところで男性はついに怒って立ち上がった。すたすたとキッチンのほうへ歩いて行く。途中で気づいた女性スタッフが何かおっしゃると「さっきから何度も呼んでいるだろうが!」と荒っぽい感じで声をあげました。
 お代わりだよ、お代わり、全部だよ・・・というような会話がなされて、いよいよお代わりが運ばれてきました。ご飯と味噌汁。キャベツはその場でお皿に足していく感じになります。ところが男性はとにかく熱くなっている。「もっともっともーっと!」という声が聞こえてきた。
 
 スタッフの方も忙しすぎて熱くなっていますからね。はいはいわかりましたよという感じで、とんでもなく大量に盛りつけました。いわゆるキャベツタワーという感じ。意地になった男性はそれを瞬く間に完食し、さらに「お代わり!」と店員さんに声をかけました。もう1度味噌汁とご飯とキャベツ、今回は奥さんまで何かお代わり。
 店員さんはそれならこれでどうだとばかりに盛りつける。男性はそれも全速力で食べ進め・・・と完全にバトル化してきていました。
 
 難しいですね。サービスのはずなのですが、どう考えてもサービスになっていない。サービスするほうもされるほうもかりかりしてしまうのであれば、いっそのことサービスなしのほうがいい。
 サービスというのも案外難しいものです。サービスする側と受け取る側の気持ちがあまりにもかけ離れていると嫌味にさえなってきます。欠けているのは感謝の心なのでしょうね。サービスしてくださってありがとう。サービスを受けてくださってありがとうという双方の静かな感謝の心が必要だと感じましたよ。
 
 
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2018.02.24 00:12

 前後裁断と書いてもいいのでしょうか。そういう言葉が禅にありますね。この言葉を最近たて続けに見かけます。こういうのって不思議なのですよ。見ないときは全然見ない。見出すと頻繁に出てきたりする。
 言葉自体は昔から何となく知っていました。しかし、ここ何年もこの言葉が引用されている文章は目撃しなかったような気がするのです。ところがここひと月で数回ぶつかりました。
 
 将棋の久保王将が将棋を指すときの心得としてこの言葉をあげていました。A級棋士の久保先生はタイトル保持者であり大変強い棋士ですが、何もかも順風満帆できたわけではありません。私は久保先生が17歳で四段に昇段されたときから注目していたので、毎年の成績などはかなり意識してきました。
 1つには久保先生が棋界で珍しい振り飛車党だったからです。現在タイトルを獲得されている棋士で、一貫して純粋な振飛車党は久保先生だけだと思います。
 
 17歳で四段になられたときのインタビューはいまはなき週刊将棋で読みました(横須賀線内で読んだ記憶があります。当時は皆さん電車の中で新聞を読んだものです)が、そのときはもちろん「前後際断」などとはおっしゃらない。少年ですからね。それがさまざまな経験ーー順位戦で上がったり下がったりタイトルをとったりとられたりーーを経て、こうした境地に至った。その経過も含めて私は久保先生のことは現在も応援しています(現時点で次の名人戦の挑戦者になる可能性があります)。
 
 要するに以前のことはいったん切る。くよくよ思い悩まない。あとのこともあれこれ考えすぎない。不安で不安で・・・の以前に切る。そして、現在やっていることだけに全力を尽くす。
 私もまたそういう気持ちで生活したいとはつねづね考えてきました。これはおおげさなことではないのですよ。「自分は忘れ物をよくするから」とか「冬だから毎日寒くていやだなあ」とか「きっとなかなか起きられないだろう」とか、過去の体験や過去の体験に基づく将来の予想でいまの自分を縛らないということです。
 
 忘れ物をしてばかりいたのは事実でも、ここから忘れ物をしなければいい。寒い冬が苦手であっても今日から寒い冬の美しさについて意識するようにすればいい。いつもは起きられなくてもこの瞬間だけはぱっと身体を起こしてみたらいい。
 勉強だとか進学だとかもそうです。先入観に縛られず、ここからすべてが展開していくという気持ちが大切です。ここにいるからこそ次のステップが踏めるのだという前向きな気持ちですね。どうせ自分は・・・というパターン化された無力感こそがいちばんの敵なのです。前後際断で、まったく新しい人生を構築してくださったらいいと思います。
 
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2018.02.23 01:33

 連休をいただいて何をしているかというと、これが見事に何もしていません。火曜日は両親の施設に行こうと思っていたのですが、こちらの調子が悪いのでやめておきました。靴だけ直しに荻窪まで出かけた。裏を張り替えてもらったのですが、7千いくらでしたよ。よくよく考えてみたらもともと7千円していない靴だったので、ばかみたい。こういうところで正しい判断ができないのが私のいいところ(?)です。
 靴を直してもらうあいだ、やることがありません。
 
 やることがないときはお酒でも飲むかということで、体調が悪いのに荻窪の立ち飲み屋さんに行きました。このBというチェーン店の立ち飲み屋さんは荻窪と西荻窪に支店があります。同じお店ばかり行くと飽きるので、荻窪店と西荻窪店交互に通っています。
 とにかく安い。赤羽にIという有名な立ち飲み屋さんがありますが、値段設定はそこに倣っている感じですかね。いまどき110円とか130円とかでまともなおつまみを頼めるのは、すごいことだと思います。
 
 荻窪店の店長さんはじつにきびきびしていて気持ちがいい。従業員の仲間にも細かく細かく気を遣っています。いいお店の責任者の方は、皆さんそうですね。開店直後の午後3時すぎでまだ半分準備中みたいな雰囲気でしたが、こちらが注文するとすぐに対応してくださる。そういうの、心の中でこっそり面倒臭いなと考えているだけで伝わるものです。それがまったくない。何かを調べたり作ったりしている手を即座に止めて、こちらのことをやってくださる。
 テレビがついているので、何となくぼーっとしていても時間がつぶせます。
 
 翌日はインターネットで将棋を指しました。まあ遊び半分ですが、ちょっとこだわりがあってここのところあえて1つの戦法だけで指しています。夜は用事があり出かけたのですが、帰りいつものように西荻窪で電車を下りた。歩いて帰るつもりだったのがあまりにも寒いので、ふらふらと今度は西荻窪のBに入りました。
 すると何と、昨日の荻窪店の店長さんがカウンターの中にいらっしゃるではないですか! びっくりしましたよ。何かの都合で今日だけヘルプに来られたらしい。
 
 きのうもお会いしましたね! と笑顔で大きく挨拶されて、は、恥ずかしい~。どうして恥ずかしいのだろうといろいろ考えたのですが、こそこそ交互に出入りしていることが発覚したのが恥ずかしいみたいですね。
 ちょうどテレビではオリンピックの女子団体のスピードスケートをやっていました。金メダルの瞬間お店の中が湧きましたが、私はどうして恥ずかしいのかというような観念的なことばかり考えていてよく見ていませんでした。
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2018.02.22 00:18

 価値というのは数値のみではあらわせないものです。犬が来てから来月で1年になります。家内が浜松の山奥(?)から連れ帰ってきたものです。あ、野生ではないですよ。それなりのブリーダーさんから入手した。けっこういい金額だったという話を聞きました。血統書つきの柴犬でした。
 ですが、いま私たちはこの犬をそのときの100倍のお金を提示されても手放す気持ちにはなりません。100倍どころか1億でも2億でも、そうした発想はまったくお話になりません。
 
 なぜでしょうか? 数値以外の何かが価値を持ってきているからです。こうしたことこそ私たちはもっともっと考えなくてはいけない。
 数値ではかれない価値というものがこの世にはたくさんあります。そしてじつは私たちはそのことに気づいていながらも、数値ばかりを気にする生活を送っている。送っているというより送らされていると書いたほうが正確かもしれません。収入であるとか点数であるとか偏差値であるとか・・・まったく気にかけずに生活することは難しい。
 
 だからと言ってそれらの数値を神さまみたいに考えたらだめなのであって、健康診断の結果程度に受け止めて「さて、どう生きようか」と考えるのが正しいのです。数値に意味があるというより「あなたの数値」にどういう意味があるのかということを他の誰かではなくあなた自身がよく考える。そこがまず第1歩でしょう。
 そして次にあなた自身が(これまた他者の意見はどうでもいいですよ)、本当はどうありたいかということを真剣に考える。
 
 将来どうなりたいか、まだ全然考えられませんという小中学生がいます。珍しくも何ともないですし、悪いことではありません。他者に話したくないだけという可能性だってありますからね。ただ本当に何も考えたことがないのだとしたら、その姿勢があなたの現在の何かしらの不調につながっているかもしれません。
 得意科目不得意科目の話ではないのです。この情報社会に生きていて、たとえば「世界中を見てやろう」「不治の病気の治療法を見つけてやろう」「宇宙には他の生命体がいないだろうか」「次代のスターになってみたい」「世界一強くなってやる」・・・というようなことを一切考えずに生きてきてしまったのですか?
 
 興味のあることがあるのなら、とりあえずはそれが「いまのあなたの将来」でしょう。そちらの方向でわくわくと努力してくださったらいい。理系文系などということはもっともっとあとの段階で考えればいいことです。
 あなたの真の目標は数値ではなく、真のあなた自身になることです。どこかで1番であっても、真実のあなたでなければむなしいだけです。オリンピックに出られるぐらいの選手が、偏差値のために競技生活を断念し仮に偏差値を10上げたとして、それがベストの輝き方なのでしょうか。
 
 なりたい自分になる。それだけが基本です。なりたい自分になるために努力する。それが健全な努力です。勝ち負けは、なりたい自分になれたかなれなかったかだけで決まると考えてください。人生とはなりたい自分になるための旅なのです。数値ではない。そこはしっかり考えてくださったらよいと思いますよ。
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2018.02.19 07:57

 個性的という言葉はいい意味で使われることが多いように思います。逆に個性がないという言い方もある。どちらかというと、それは平凡でつまらない・・・ぐらいの意味で使用されていますね。
 ところがこの個性というのが難しい。将棋なんかで個性的な将棋を指す人がいます。ただ勝負事ですからいくら個性的でも負けてばかりいたらあまり意味を感じられなくなってきます。それはそうですね。
 
 試験なんかも同じ要素がある。個性的な勉強をしている人がいるとして、試験の点数がひどく悪いのであればその「個性的である」ことにはあまり意味がないように感じます。短期的にはっきり結果を出さなければならないものに関しては、むしろ個性を捨てる必要さえ出てくるのかもしれません。みんなと同じであっても、点数がとれたほうが正しいということになってくる。
 難しいのは音楽だとか絵画、文学、映像などの・・・芸術方面でしょうか。
 
 ロックの歴史に名を刻んだようなバンドはだいたい個性的です。独特のサウンドを持っている。大判の国語辞典にさえ名前が出てくるレッド・ツェッペリンというバンドは個性的という意味では最右翼でしょう。ヴォーカルもドラムスも全体のアンサンブルも独特のものがあり、その他多くのハード・ロック・バンドとは決定的に違っていました。副次的要素としてはルックスもそうでしたね。
 時代が流れていく過程で、ときどき「まるでレッド・ツェッペリンのようだ」と称されるバンドが出てきます。
 
 有名なのはキングダム・カムですね。ゲイリー・ムーアに「レッド・クローン」と揶揄されたバンドです。シンガーのロニー・ウルフの声質がロバート・プラントに酷似していた。私は好きでしたが、物真似云々の批判がすごくて一瞬話題になったもののすぐに失速してしまいました。
 これがなかなか面白いところで、たとえばローリング・ストーンズに似たバンドはいろいろいましたが、そこまでは叩かれない。個性という点ではツェッペリンのほうが真似しにくいだけに、似ていると非常に目立つのでしょう。
 
 最近、Greta Van Fleetという若いバンドがレッド・ツェッペリンそっくりだということで話題になっています。メンバーはまだ20歳そこそこなのですが、映像で見るかぎりヴォーカルの声質が(ついでにマイクを持っていないほうの指先の動かし方も)まるでロバート・プラントです。ドラムのダイナミックな感覚もあきらかにジョン・ボーナムの影響を受けています。そして何より曲調がツェッペリンに似ている。つまり大変個性的なのですが、「ツェッペリンに酷似しているから個性がない」とも批判されかねない。
 微妙なところです。私は応援していくつもりですが、どうなるか。
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2018.02.18 01:46

 いまも歩いてみたいところというのを定期的に書き出しているのですが、あそこはどうなっているのだろう・・・というところが多いですね。私が子どものころはまだ昔の地名が残っていました。何とか1丁目2丁目ばかりではなかった。同じように西何とか東何とかもあまりありませんでした。
 実家近くに「川添町」という住所がありましたが、川に沿っている街で当時からいい町名だと思っていました。そこは現在「東何とか何丁目」と呼称されています。
 
 わかりやすくすることを悪いことだとは思いません。そういうのもグローバリズム化の一種(?)みたいなもので、数字に類する何かでわかりやすくわかりやすくしていくわけです。1丁目の隣はだいたい2丁目ですし2丁目の隣はだいたい3丁目でしょうから、いきなり「川添町」と言われるよりはるかにわかりやすい。
 ただわかりやすさに必ずしも最上の価値を置く必要はないでしょう。わかりやすさよりも情緒を重んじる考え方もありますね。
 
 すべてを数字に変換してしまえば全世界で通用するという考え方はある意味で浅薄だとも思います。そんなことはない、誰だって5千円もらうより1万円もらえたほうがうれしいに決まっているという意見も出てきますが、成熟した人間にとっては数字以上にどこで何の対価としてどれだけのものをどなたからいただいたのかということが大切なのであって、数値の大小だけを見て大きいほうにすぐに飛びつくのは若干危険を伴う気がします。
 抽象的なことを言い出すとわかりにくくなりますが、簡単に書けばこういうことです。
 
 飼い犬を見ていてつくづく感じますが、主人の年収が低いので別の主人に早く乗り換えたいなどとは考えません。比べることさえない。主人は主人です。この人は自分の主人であるという事実に価値を感じています。
 人間は必ずしもそうではない。もちろん利口だからでしょう。こちらの人のほうが数値(お金?)が大きいから乗り換えようということもしばしば起きます。それは仕方がないにしても、ひどいときには成績という数値が低いわが子を数値の高い他人の子の下に置いてしまうことさえありますね。それがあまりにも露骨なのはどうなのか。
 
 あなたは本当にだめねえ。何とかくんはあなたより20点も上じゃないの。
 しかし、わが子の60点はAくんの80点より何か価値や主張があるかもしれないとはなぜ考えないのか? そこにこめられた数々の主張、痛み、自慢、抑制、ためらいや頑張りにはどれだけの意味が含まれているのかをなぜ考えないのか? 
 大人ならあれこれ説明するはずなのです。昇進してしまうと大切なことができなくなる。これぐらいでとどめておいたほうが健康的に生きられる。じつは他に気になることが出てきたので時間がほしい。いまの体制下ではあえてこのレベルで抑えておきたい・・・
 
 なぜその数値なのかという数々の物語があるのです。それは子どもたちにとってもまったく同じことですから、数字だけで頭ごなしにただ叱るだけというのはちょっと気の毒であるようにも感じます。
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2018.02.17 01:13

 勉強することは人間を成長させることであり、可能性を広げ徳性を深めていくことであると一般的には考えられています。知性と教養という言葉がありますが、ひたすら勉強していればそうしたものがどんどん深まっていき、いわゆる「しっかりした」「豊かな」人間になれるものだと私たちは信じているところがあります。
 しかし、実際はそう簡単ではありません。私はこの仕事を長く続けてきたので気づくことも多いのです。
 
 たとえば仲間の先生ですね。現在私が勤めているZ会進学教室は大きな組織なので、先生の採用を本部が一手に請け負っています。するとまず問題ない。たくさん応募者がいらっしゃって厳しい選考過程が続く。妙な先生が混じってしまう危険はありません。
 ただ昔は中小のさまざまな塾で働いてきましたから、ものすごく高い学歴を持った仲間が非常に「困った人間だった」という例は大量に見てきました。志願者が少なければそういうこともあるのですよ。そして皆さん、学歴エリートではある。超一流大学、大学院を出ています。
 
 そうしたところを出られたのは子どものときから常に高い志を持って勉強され続けてきたからです。専門教科については文句のない知識を有している。しかしたとえば人間関係がまったくだめだったり、世間常識が極度に乏しかったり、過激なまでに反体制的であったり、極端な例では警察沙汰になるような事件を起こした先生さえ存在しました。
 つまり高い学歴、高度な勉強、学問における絶え間ない努力が必ずしもその人間の徳性を高めるとは限らないということです。このことはちょっと考えなくてはいけないと思っています。
 
 おそらく経済や政治の世界でもそういう要素はあるでしょう。世の中を見ているとそちらの方面で高いレベルに君臨されている「大物」と呼ばれる方でも、全員が人間的な徳性に恵まれているとは言い切れないような気はします。
 まだ若いころ、塾の先輩(この先生は医学の研究と塾の先生を兼任していました)が「自分みたいなエリートと話せるだけでも親や生徒は感謝すべき」とーーまあ冗談なのでしょうがーーおっしゃっていて、おいおいずいぶんじゃないかとびっくりしたことがありました。
 
 要するに、いくら机のうえで猛勉強して最高峰に進めても、徳性までは鍛えられていないかもしれないということです。人間としての懐の深さであるとか豊かな愛情であるとか深い洞察力、表現力、指導力、生活力などはまだまだ不足している可能性があります。
 それらは机上の勉強とは別の努力で獲得していかないといけないのでしょう。ホンモノの人間になるということですね。ホンモノの人間にならなければ、高度な学力を有していても、なかなか世の中の役にたてず苦労される場合もあるのかもしれません。
 
 
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2018.02.16 01:13

f01688cf7b790894abf4d84c08c96245180cc57a.JPG 家内に何か用事があるときは、私が散歩に連れて行くことがあります。人に会わないように早朝行くのですが、だんだん夜明けが早くなってきて皆さんけっこう早めに連れて来ている。6時に自宅を出たところ、いろいろな方に話しかけられてまいりましたよ。
 私は社交性がないわけではないのですが(なかったら仕事になりません)、できれば1人がいいという穏健な孤独主義者です。ですからなるべくなら、さっと行ってさっと帰りたい。
 
 驚いたのはうちの犬をじーっと見ていて「こ◎◎ちゃん(犬の名前)ですか?」と声をかけてくださった若い男性がいらっしゃったことです。純白のじつにきれいな犬を連れていました。私のことはご存知ないわけで、犬だけを見てわかったのですね。どこにでもいそうな典型的な「柴犬」を見て、よく個々の見分けがつくものだと感心しましたよ。私なんか柴犬はみんな同じに見えます。さすがに自分の家の犬はわかりますが、他の柴犬は見分けがつきません。
 犬相というものがあるのでしょうね。
 
 あまりにもーー雪のようにーー真っ白な犬なので、どれぐらいの間隔でシャンプーするのですかと訊いてみました。孤独主義者のわりには私の質問は俗っぽいのです。月に2回ぐらいされているみたいでした。さらに土のところはなるべく歩かないようにしているとおっしゃっていました。
 ほかにもいわゆるおばさんに「ひ◎◎ちゃん(犬の名前)?」と声をかけられた。よく似たワンちゃんがいるみたいですね。名前を告げると「ああ、こ◎◎ちゃんのほうでしたか」と笑っていらっしゃった。
 
 さらに大学教授みたいなりっぱな方が少し大きめの犬を連れて近づいてこられた。何か・・・所作というか雰囲気というか、りっぱな方はわかるではないですか。ここで表現したりっぱさというのは、肩書きがどうのこうのということではないもののきっと肩書きもすごい人ではないかと感じました。何とか大学総長とか。
 そのワンちゃんは私のジーンズに前脚をかけてきました。するとりっぱな方が「だめだよ」と優しくたしなめる。家族の一員ですね。
 
 私は犬に向かってよく話しかけている自分に気づきます。話しかけても意味がないのですが、歩きながら何か小声で喋っていますね。お前、少しは顔を上げて梅の花を見てみろよ。お前の歩き方は文字通り地を這うようであって、そんなことでは風流心は向上しないぞ・・・と文字にするとばかみたいですが、たえず話しかけるのがクセみたいですね。昔、犬を飼っていたときもそうだった記憶があります。
 人が来たからおい、隠れるぞなどとも口走っている。犬に言葉がわかったらあきれられると思いますよ。写真、左下に落ちているのは犬のビスケットです。
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2018.02.15 00:29

 彼女は私より2つか3つ年上だったと思います。私たちは四半世紀に渡る知り合いですが、ここ10数年は1度しか会ったことがありません。年賀状とメールのやりとりだけ続けています。昔は首都圏に住んでいた彼女もいまははるか遠く西日本の地方都市にいらっしゃるので、私たちが会うのはちょっと難しい。
 彼女はーー詳細はわかりませんーー大きな病気をなさったということで、体力が弱っているとメールには書かれていました。
 
 彼女はまた私のブログを読める環境下にはいません。私もいまの仕事から離れたら電話以外の機器(?)は一切持たない覚悟ですので、そういう生活を選択されるお気持ちはよくわかります。
 彼女は洋楽、しかもロックがお好きでそういう部分で私たちは接点を持ちました。フリー、ハンブル・パイ、クリーム、レッド・ツェッペリン、ホワイトスネイクなどの話をよくしたものです。彼女のいちばんの好みはエリック・クラプトンではなかったかと思います。クラプトンのコンサートに行かれた話をしばしば聞いた覚えがあります。
 
 20年近く昔です。彼女からAC/DCというロックバンドのコンサートチケットが2枚送られてきました。当時、パートナーとお二人で行こうと楽しみにされていた。ところが何かしらアクシデントがあり行けなくなってしまったそうです。転売してもよいのだが、非常に苦労して手に入れたものなのであまりにも残念である。せめてロックが好きな人に行ってもらいたいのでよろしければどなたかと一緒にいらっしゃってください、お代はけっこうですという手紙が同封されていました。
 急なことで誰も見つからなかったので、私は1人で行きました。心ばかりのお礼を贈りました。
 
 25年近くやりとりしていても私はじつは彼女のことをほとんど知りません。生まれた土地だけは聞いたことがありますが、子ども時代学生時代のことは何も知らない。何のお仕事をされていたのかも知りませんし、パートナーがどういう方なのかも知りません。会話するときも自然に敬語を使っています。
 彼女がとくにブルーズ・ロックを心から愛されていて、何かの事情で地方都市に引っ越されていったという事実しかわからない。彼女の健康状態に不安があるので、私はどこかで1度会いに行こうと思っています。
 
 最速でも半日かかります。日帰りは難しいかな。しかし、私たちは「友だち」なのでこのまま会わずに人生を終わるという選択はとりたくないのです。負担をかけたくありませんからわざわざ来たとは思われないようにしたい。仕事関係で偶然近くまで来たのだと告げるつもりです。友情のためには多少の不自然さは仕方がないですね。
 友よ、会える日は近い。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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