2018.01.30 09:32

 いよいよ次の日曜日。2月4日は八王子教室でお話する予定になっています。午前10時半から。多少お席は残っているみたいでした。巨大な(?)教室ではないので、渋谷教室ほどは入らないみたいですね。こじんまりとしたいい雰囲気になるのではないかと思います。
 勉強のこと、生活のこと、子育てのこと、国語のこと、読書のこと、文化のこと、愛情のこと・・・いろいろお話しようと思います。私は生徒自身にもやみくもに勉強しろとか、難関校だけを目指せとかは提案してきませんでした。
 
 先日、こういうことがありました。
 1人の見目うるわしき青年がスーツ姿で教室に来られた。この「見目うるわしき」という形容は私だけが感じたものではありません。受付にいた仲間(ほとんど女性)もまた、彼が帰ったあとで「すごくりっぱな感じの男の子ですね」と感想を漏らしていました。
 昔、中3で教えた生徒でした。入会するときに3Kコースの本科の入会テストを受けていただいたのですが、残念ながら合格点に達しませんでした。申し訳ないが講習で頑張れば最終日の確認テストで合格できると思うので、春期講習を受けてくれないかとお願いした。
 
 そして講習後、本科に入ってくださった。ただ高校受験まで1年なかったですからね。内申の関係もあり、いわゆる都立の最上位校は受験されなかった。もっとも黙々と努力して、偏差値でいえば60ラインの上位都立校に見事に合格した。塾の入会テスト不合格からたった11ヶ月でよくそこまで伸びたと思います。
 努力を続けられたのですね。大学はびっくりするほど高いところに合格していました。そのあたりまで、私は把握していました。
 
 今回、就職活動で渋谷まで来たので寄ってくださったという話でした。何だかいろいろとすごい企業に勤めようとされているみたいで、感心してしまいましたよ。
 こうやって1歩1歩落ち着いて自分がいる場所から、自分自身がより心地よいからという理由でーー他人の強制ではなくーー向上していける人間になれるかどうか。その力は非常に大切だと思います。夢みたいなことを周囲に「吹聴する」ばかりではなく、着実に向上していける人間性ですね。
 
 そうした力は、机の上でどのテキストを使ったからつくというものではありません。またどこで教育を受けたからすぐにそうなるというものでもない。
 正直に自分を見る。単に職種だけではなく、自分はどういう人間になりたいのか。できる範囲で頑張り続ける忍耐力。最後の最後は何のために生きるかという哲学も必要でしょう。複合的な力が生きていくためには絶対に必要であり、育てる側(単に保護者の方だけでなく社会全体という意味です)がそうした観点からも子どもを包みこんでやらないといけないですね。そんなお話をしてこようと思います。
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2018.01.28 07:52

 一般的に何で生計をたてているかということで、客観的な呼称が決まってきますね。たとえばバスの運転手さん、動物園の飼育係、中華の調理人、学校や塾の先生、演歌歌手、小児科のお医者さん・・・すべて主だった生活手段がそのまま呼称になっています。
 そういうものなのでしょうが人それぞれ考え方があり、ときどき「自分はこうやって別の職種で長年働いているけれども本当はミュージシャンなのです」という方がいらっしゃったりする。お若い方に多いですかね。
 
 私は20代のころ、やみくもに「成功法則」というものにひかれた時期がありました。先日、ある都立高校の推薦入試でそのころよく読んだ成功法則の祖とも呼べる方(外国人)のある文章が取り上げられていました。それを見て、ふと1980年代の日々を思い出しました。
 当時も私はこの仕事についていたのですが、職種は関係なく「成功」というものに漠然と憧れていました。きっかけはふと手にした1冊の書籍なのですが、どうして加速度的にのめりこんだのかはよくわかりません。
 
 じつはその「成功法則の祖」ともいうべき方の教材を当時私は大金をはたいて入手しています。収入の何か月分もの額でしたから、ローンを組んだ。毎月何万円かずつ何年もかけて完済しました。教材といってもカセットテープ何十本かとテキストだけで、テキストにはカセットテープの内容が書かれていました。
 毎日、テキストを見ながらテープを聴くという行為を繰り返すことになっている。はじめは面白がっていたものの、すぐに飽きてしまいました。これまたそういうものでしょう。
 
 特別な内容というわけでもないのですよ。「目標を持つ」だとか「計画をたてる」だとか、あたりまえと言えばあたりまえのことばかりでした。
 ですから、しばらくたって教材に文句をおっしゃっている方たちがいるらしいということも知りました。ただ私個人は騙されたとか、損をしたとか考えたことはありません。
 それどころか「成功とは何だろう?」と考えるいいきっかけになったといまでも感謝しています。
 
 自分はひたすら散文ーーそれもむしろ詩に近いものーーを書きたいのです。それがいちばんの希望だということに気づきました。詩だけを書いて日本の社会で生計が成り立つことはなさそうですから、本職は「散文詩人」のつもりであっても何かでお金を稼ぐ必要が出てくるな・・・冷静にそんなことを考えるようになりました。
 成功の概念みたいなものが変化してしまったのでしょうね。つねに「いま現在満足できる生き方なのか」ということが大切だと思っています。
 
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2018.01.27 02:14

 コンビニエンスストアーで100円のコーヒーを買って飲むことがあります。あれは大変売れているそうですね。コーヒーの消費量が年々増えているのはそのせいだという記事を何かで見ました。ただ本格的なコーヒーショップのものと比べてみるとーー値段は倍以上違いますがーーやはりそれなりの味ではあるような気がします。若干薄くないですか?
 私はコーヒーは自分でも入れて飲むのでぎりぎりわかる感じです。ちゃんとしたコーヒーを飲みたくなったときはやはり専門店に行きます。
 
 自分がもっとはっきりわかるのはビールですね。これは相当飲んできた。いわゆる場数を踏んでいるので、うまいまずいがすぐにわかります。ビール風の(安い)飲料もいろいろ試してみたのですが、残念ながらこれならビールの代わりになりそうだというものは見つかりませんでした。
 これが息子なら完全にビールだと騙されると思います。彼はふだん飲みませんからね。ビール風飲料とビールと何が違う? ということになるでしょう。その場で教えたところで本当はわからない。
 
 このあたりのことはすべてに言えるでしょう。飲み食いだけということはないですね。場数だとか経験値だとかは非常に大きいと思います。
 勉強と書いてしまうと大きすぎるので、文章としましょうか。ふだんまったく文章を読まない人にひとまとまりの文章を見せて「面白いかつまらないか」と問いかけても上手に答えられないと思います。つまり面白い文章を読んで興奮して眠れなかった経験がない。またあまりにもつまらない文章で、うんざりしてしまった経験もない。するとご自身が未知の文章を読んだとき、どれぐらいの気持ちであるかがわからない。
 
 そこまで極端ではないにしても、教科書ぐらいしか読んだことがなければ教科書と比較してどうかと考えるしかないですね。そんな浅い価値観で大人の小説、随筆、評論などが読みこなせるわけがありません。
 高校入試では大学入試と同レベルの大人の文章が何題も出ますから、要するに14歳15歳の時点で相当数「大人の文章を読んだ経験値」を持っていなければ、少なくとも読解で高い点数をとれる状況にはならないでしょう。うちの息子のビールと同じで、その場でレクチャーした(授業)だけでは本当はわからないのです。
 
 せめて好きな作家が1人でもいらっしゃれば、その作家の文体と比較してどうかということが手がかりになるかもしれない。そういう意味で、とりあえずは1人でいいですから読みやすい作家の本を見つけて読まれるといいと思います。面白そうだと思ったら、必ず連続で読んでみることです。
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2018.01.26 01:13

 先日の大雪はなかなかすごかった。結局、授業は休講になってしまいました。その後処理が大変で、水曜日は休みですが教室に来ていました。あれこれ手配する必要が出てきたのです。
 基本的には翌週と翌々週で補講する感じになります。人それぞれで都合のつかない生徒もいらっしゃるでしょうが、こちらもそのへんは配慮して授業を進めます。来られるところにいらしてくだされば十分です。人生はそういうものです。そのときそのとき、できるだけのことをやれば十分です。
 
 雪の翌日はお休みをいただいた。渋谷教室には教室長代理の俊才S先生がいらっしゃるので、私みたいな老人はいてもいなくても大丈夫なのです。まあ、現役で教えている生徒が数十名いることはいますから、突然消えてしまうわけにもいきませんが。
 貴重な休みの昼間、私はバスと電車を乗り継ぎあるところへわざわざ出向いて行った。場末感(?)きわだつ立ち飲み屋さん。ここはすごいお店で24時間営業されています。24時間営業なので、少し荒れた感じにもなってしまうのでしょうね。
 
 そこで外に広がる銀世界をながめながら静かにビールを飲もうと考えた。こんなことを思いつく人間はそうはいないと思っていたら先客がいらっしゃった。中年の男女。ご夫婦という感じではありませんでした。あっけらかんと話されていたのでご家族かとも思いましたが、記録的な大雪の翌日にわざわざそんなお店で2人きりで飲んでいる「家族」というのもちょっと不自然かもしれないですね。
 彼らの会話に聞き耳をたてていたわけではないのですが、自然にふっと入ってきた。
 
 女性がおっしゃるわけです。細かい表現は忘れてしまいました。とにかく雪がこうやって真っ白なのは神さまの大きな恩寵であるというようなことを思いつきみたいに呟かれていた。男の人はたしかにこれが黒かったら大変だろうなとうなずいていましたが、私は彼らのやりとりになぜかはっとしました。
 自分がここでこういう話を聞いたことの不思議さもありました。同時に桜の花がピンク色なのも海が(まあ空の色ですが)真っ青なのも夕焼けが赤いのも夜の闇が黒いのも、すべて恩寵だという感じが胸にきました。
 
 場末(場末場末と失礼なのですが)感あふれるお店で聞いた言葉だからこそ逆に心に響いたというところもありました。室内は薄暗い。窓の外だけがまぶしかった。恩寵と表現されれば、すべてが恩寵なのですね。人さまに押しつけるお話ではないでしょう。私にとってはそうかもな・・・ということでした。
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2018.01.25 02:00

 中学受験をしない小学生のための授業というコースがあり、今年も私が国語を担当しました。じつはこの講座はもともと池袋教室にいたころ自分がはじめたもの(生徒が集まらないという反対意見があったのですが、上の方が池袋だけでもやってみたらと許可してくださった経緯がありました)で、非常に愛着があり毎年授業を担当させていただいています。
 1クラスは先日が最終回でしたので、生徒にアンケートをとりました。番号に丸をつける簡単なもので、記述欄は自由記載になっています。
 
 毎年、自由記載の欄に何かを書いてくださる生徒は半分はいないですかね。まとまったことを文章にして書くというのはそれなりに神経を使います。テストでもあるまいし、書かなくていいものをわざわざ書くこともないか・・・が普通の小学生でしょう。ひと言も書かれていなくても、全然問題はないと思います。
 ところが今年は大半の生徒が何かしら書いてくれた。アンケートは私たちのいないところで書いていますから想像でしかないのですが、どなたかがかりかり書きはじめたのに皆さん刺激されたのかもしれません。
 
 そういう心理ってありますね。だれも書いていないようであれば自分も書かなくていいかとなるものでしょう。
 自分の授業について、なるほどなーと思ったことがあります。やさしいので安心して勉強できたと書いてくださった方が複数いました。具体的に口調がやさしいと書いてくださった生徒もいた。
 そのあたりは私は意識的に行動しています。仮に何か緊急の問題が生じたとしても、声を荒げたりはしません。場に対する責任を感じるからです。
 
 私にもいろいろ試行錯誤の時代があり、生徒たちに非常に厳しく接していたときもありました。若いころですね。寝ている生徒や集中していない生徒を強い口調で叱ったものです。体罰が平然とまかりとおっていた時代ですから、体罰を避けていた自分はせめて強い言葉を使わないと収拾がつかなくなるのではないかという不安がつねにありました。
 しかし、どこからか変わってきた。ぴりぴりした感じで本当に文化が成熟するものかという疑問を持った。まあ、それぞれの個性でしょうね。私の場合はこのスタイルがよかったということです。
 
 あと「楽しかった」と書いてくださった方もびっくりするほど大勢いました。私はいまは一切ギャグみたいなことは口にしませんからね。それでも小学生に楽しさは伝わるものなのです。勉強そのものの中に、楽しさが隠れているということですね。
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2018.01.22 08:28

 ある雑誌で面白い記事を見かけました。ビール会社の方が最近の若者のビール離れについてコメントされていたものです。ビールから離れていった現在の若者は、幼いころ食卓に瓶ビールが並んでいる光景を見ていないから愛着がないというのです。もちろん理由はそれだけではないのでしょうが、その要素はけっこう大きいのではないかと分析されていました。
 確かにそういう側面はあるような気がします。私の両親はまったくアルコール類を飲まなかったので、私も自宅ではそういう光景を目にしたことはありませんでした。
 
 しかし、たとえば親戚なんかが集まったとき、卓上に瓶ビールが林立しているシーンというのは毎回のように目撃していました。子ども心に「赤い顔をした大人たちは何かうきうきして楽しそうだぞ」という感情を持ちました。
 その延長線上で、飲み屋さんでも瓶ビールを注文する人間が多かったですね。ある種、無意識の儀式みたいなところもあったのかもしれません。瓶ビールが卓上に並びはじめる=楽しくなってくる、という感覚は確実に存在していたように思います。
 
 ただ今回、私が書きたいのはビールのお話ではありません。
 先日、ある新聞でついに大学生の半分がほとんど本を読まなくなったという記事を目撃しました。私は大学生がアルバイトにかまけて勉強をサボったり飲み歩いたり遊んだりということには批判的な感情を持っていないのですが、まったく本を読まないのはどうなのだろう? と思います。
 生きていくうえでの知恵の多くは、世間や他者との交流の中から徐々に身につけていくものだと思うのですが、読書皆無ではたしてそれが可能なのか。
 
 さまざまな「映像」でダイジェスト版みたいな知識を得ることはできるでしょうが、私たちにとって大切なのはじつは「結論」だけではない気がします。結論に至る過程も非常に大切です。将棋なんかでも最新定跡に至る長い試行錯誤の歴史を調べてみると、単純にここではこう指しましょう・・・以上の深い知恵を得ることが可能です。
 結論を導く過程もできるだけ味わったほうがいいですし、そこで自分も参加して考える経験も大切でしょう。
 
 若者の読書離れの原因はさまざまだと思いますが、私は彼らが幼少時に「大人が没頭して本を読んでいる」姿をほとんど目撃していないことが一因ではないかという気持ちを持ちました。瓶ビールの林立シーンなんて見たことがないよというのと同じですね。
 実際、本が好きだという生徒になぜそうなったのか? と質問するとだいたいが「わからないけれど周囲にたくさん本があった」と答えます。環境的な要素は大きいですね。と同時に、環境的なものを整えていく配慮は周囲にもっとあってもいいのかもしれません。
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2018.01.21 07:07

 人生にはあのときだったからよかったのだということがたくさんありますね。一期一会ということです。若いとき大変な感動を覚えたものでも、現在出会ったらあれだけの衝撃を受けただろうか? と疑問を持つことがあります。
 とくに芸術関係、人間関係でしょうか。たとえば今日はじめて「アローン・アゲイン」(ギルバート・オサリバンのほうです)や「シェリー」(ザ・フォー・シーズンズのほうです)を聴いたところで、あのときに受けた衝撃を感じるかどうか。
 
 いわゆるロックの名曲と呼ばれているような曲がいろいろありますね。「レイラ」だとか「ホテル・カリフォルニア」だとか「天国への階段」だとか「青い影」だとか。今日はじめて聴いてもーーもちろんいい曲だなぐらいは感じるでしょうがーー若いころの鋭敏さはなくしてしまっているでしょうから、当時の感情の規模では受け止められないかもしれません。
 そう考えると、若いときにどんな出会いがあったかということは非常に大きいですね。
 
 少年期に好きになった異性はたくさんいますが、好きになる理由はじつに千差万別でした。ある女の子が早朝洗濯物を干している姿が鳥に似ていたから好きになったということがありました。顔なんか1度も見たことがないのですよ。あくまでも鳥を連想させるから好きになった。洗濯物を干すときの彼女の自由な所作が、こちらの何かを解放させたのです。
 仮に歳をとってからそんなことで人を好きになったら、自分は病気ではないかと心配になりそうです。ああいう不思議なことが何となく許されるのも10代の感性のなせる業なのでしょう。
 
 逆に機会を逃してしまったので、他者からこれがいいと薦められてもあまり何とも感じられなかったというケースもあります。多くのクラシック音楽やジャズ・ミュージックとの出会いは私には少し遅かったのではないかと感じます。
 小説でもあのときに読んだからこそよかったというものはたくさんあり、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説は少年期に出会って本当によかったと思います。そう考えて自分も意識的に若い方にいろいろ薦めてみるのですが、出会いが人それぞれ違うところもその人ならではの運命があるのでしょう。
 
 お若い方は年上の人間が強く薦める(紹介する)ものには、何か理由があるかもしれないと考えてくださったらいいように感じます。これ読んでごらんよ、これ聴いてごらんよ、これ見てごらんよという形ですね。食わずぎらいはもったいない。そのうちゆっくり・・・では手遅れになる可能性もあるのですよ。
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2018.01.20 02:02

 以前も何度か同じ話題で書いているのでくわしい話は省きますが、昨日1月19日は私にとってささやかな記念日でした。1979年。39年前になります。その年も金曜日でした。3日後の1月22日の月曜日もまた自分にとっては記念日になったので明確に覚えているのです。
 私は1年間365日をすべて何らかの記念日にしたいという気持ちで生きています。元旦とかバレンダインデーとか誕生日とかだけではなく、365日すべてを記念日にして祝いたいということです。
 
 いつごろこんなことを思いついたのか正確には記憶していないのですが、生きることは祝祭であるという人生観が強くなってからは、ぜんぶ祝えて当然だと思うようになりました。一般的には祝日でも何でもない日ーーたとえば1月19日は何年間か中断していた日記を再開した日でした。非常に美しい音楽をラジオで耳にしてこういう事実は残しておかなければだめだという気持ちになったのです。
 3日後の22日はそれまでどんなに探しても見つからなかった目黒の喫茶店を、これまた偶然再発見した日でした。
 
 ほかにも適当に挙げていくと・・・2月10日は少年時代ある女の子と知り合った記念日、3月9日は中延という街をはじめて歩いた記念日(犬が来た日でもあるな)、5月30日は親友と1度だけ再会した記念日、6月29日は向かいのバスの中から年上のかわいい女の子が手を振っていた記念日、12月26日は名古屋にはじめて1人旅した記念日という感じでどれもこれも個人的な思い出ばかりですが、だからこそ私にとって生きていく意味をあれこれ考える大切な日ということになります。
 当然ながら、365日の中に記念日ではない日はまだまだ大量に残っています。
 
 それらの日々も今後の人生ですべて何かの記念日にできないものかということを考えています。何かの記念日にふさわしい1日になるようこちらから積極的に働きかけていこうと待ち構えているとでも言えばいいのでしょうか。
 ときどき「頑張ろうとはずっと思っているのだけど、きっかけがつかめない」とおっしゃる方がいらっしゃいます。気持ちはとてもよくわかります。天啓みたいなものを私たちは求めていますね。ただそういうのは私の記念日と同じ要素がありますね。
 
 きっかけをつかみたいと考えている今日こそがじつはきっかけなのかもしれないということです。記念日を自分から作るようにきっかけもまた自分から作ればいい。きっかけの日にしようと意識するだけで、十分きっかけではないですか。そうしたものを作れるのは目に見えない偉いどなたかではなくて、じつはご本人なのだということです。別の言い方をすれば、それこそ偉いどなたかが「きっかけがいるんだろう?」とあなたの背中を押してくれているということです。
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2018.01.19 09:39

 ふだんは家内が犬を散歩に連れて行くのですが、事情があり自分が行くこともあります。夕方は息子に頼み、私は朝が多いですね。朝というより明け方です。
 というのも・・・何となく愛犬家の皆さんと顔を合わせるのが気恥ずかしいので、まだ暗いうちにさーっとまわってきてしまう。皆さんが来ないうちにということですね。どれだけ対人恐怖なんだよ! とも思いますが。
 私が連れて行く日は犬も不思議そうな顔をします。あんたと行くの? みたいに。
 
 玄関を出て外階段で下りるのですが、何度も何度も足を止める。用心している感じです。本当に行くの? ということなのでしょう。
 下に着くとあきらめがつくらしく、すたすた歩きはじめます。昔はぱーっと走り出したりしたのですが、いまはちゃんと言うことを聞きます。ちょっと待てというと、足を止める。よしいいぞと言うと再び歩行をはじめます。よほどのことがないかぎり、わっと飛び出したりはしません。
 
 トイレは部屋でもできるようにしてあったのですが、室内ではしなくなりました。そのへんは犬なりに気持ちが悪いのかもしれませんね。外でしたいらしい。現代の飼い主の方はお行儀がいいので、おしっこのあとを洗浄しますね。うちもそういうことになっていて、水をかけます。もちろん固形物のほうも持ち帰ります。
 私が以前犬を飼っていた1970年代はおしっこのあとに水をかけたりしている飼い主は見かけませんでしたし、私もやっていませんでした。
 
 フンにしても街中いたるところに落ちていました。ベルボトムのジーンズの裾にくっついてしまって大変だったことがありました。
 自宅マンションの前にある公園をうろうろしているだけなのですが、いつからかベンチや石のテーブルにやたらと飛び乗るようになりました。昔から「ぴょん」と言うとぱっと飛び乗ったりはしていたのです。いまは何も言わなくても飛び乗る。そして「どや!」みたいな顔をしてこちらを見る。
 
 私は知らなかったのですが、家内は台に飛び乗らせてお菓子をあげていたらしい。当然私からももらえると思って一目散に台のところに行き、ぴょんと乗る。ところが私はただ見ているだけです。おかしいなと思うのでしょう。次から次へと手当たり次第に飛び乗っては「どや!」「どや!」とこちらを見つめ続けます。
 こっちはふーん・・・程度でしかない。こりゃだめだと絶望したらしく、さっさと自宅に戻っていきました。家内と一緒のときは1時間以上戻らないのに。
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2018.01.18 06:17

 この時期受験生の方に向かって、何かしらメッセージを表明しなければならないときがあります。文章にするのはいいのですよ。考え考え書けますし、訂正もききますから。
 言葉で直接お話しなければならないときに私自身の中に若干葛藤が生まれます。というのは・・・私は自分の受験について「真剣に」考えたことがないのです。受からなければと必死になった経験がない。そんな自分が話していいものだろうか? と煩悶したりする。
 
 今年のセンター試験の古文の問題文、本居宣長の文章にいいことが書いてありました。中3の方でもある程度わかるでしょう。高1高2の方はーー細かい部分はわからなくてもーー大意はつかめると思います。
 なぜ歌(和歌)には恋の歌が多いのか? 人間、成功したいとかお金持ちになりたいとか偉くなりたい、立身出世を望む・・・いろいろありますね。ところがその手の和歌はほとんどない。頑張るぞー、偉くなるぞー、成功するぞーという和歌がないのはなぜか。
 
 どうしてですか? という問いかけに本居宣長が答えています。私はあながち自分が間違っていたわけでもないのかもしれないというようなことを考えました。
 ちなみに私は中高一貫校に通っていたので、高校受験は経験していません。大学受験ですね。当時、好きな女の子がいました。好きな女の子とおつきあい(時代も時代ですから深刻な関係ではないですが)していたものの、愛だとか恋だとかの観念に縛られてしまってーー少年時代は観念が確立しないと方向性が定められませんでしたーー身動きがとれなくなりました。
 
 春に親しくなったものの夏にはうまくいかなくなってきた。そもそもデートも月1回会えるかどうか。男女交際というものに対して世間が厳しいわけですよ。好きでも「ひたすら考える」しかない。
 どう考えても受験より彼女との仲を成就させることのほうが大事だと思いました。そこで、もう受験はどうなってもいいから全時間を彼女について観念的に考えることに使おうと決めました。
 男子校でしたから異性のことで悩んでいた人間はいましたが、恋愛のために受験をあきらめた人間は私以外には周囲に1人しかいませんでした。みんな「受験が終わるまでそれどころじゃないよ」と言う。
 
 私はそういう仲間をすごく不純に感じた。ちょっと前まで「女の子のことで頭が一杯で勉強も何も手につかないよ」と同調してくれたのに。裏切られたような気持ちがして、こういう不純な連中とはもう口をきかないようにしようと考えたものです。
 自分はいまも、これからも、永遠に永遠に恋愛に生きるんだ! と1人で興奮しましたよ。その結果、受験だけでなくあらゆる世間の成功ーーいわゆる立身出世ーーからは見放されるだろうという予感はありました。恋の歌さえ残せれば、私はそれでよかったのです。
 
 なんて話ができるわけがありません。とは言え私を観察している幾人かの生徒は、私がそういう人間であるということに直観的に気づいているような気がします。そこに妙な信頼関係が成立していたりする。
 ある種の人間にとって・・・確かに恋の歌さえ残せればいいのですよ。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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