2017.04.29 07:45

 先日ちょっと書いたのですが、明日4月30日の日曜日から5月5日の金曜日まで私の勤務しているZ会進学教室は連休のため閉まります。記事のほうもお休みしますが、例年どこかで1~2回は更新していますので、今年もそんな感じになってくるかと思います。
 ブログ右側をクリックしていただけると入れる応援メッセージ「どうしたら勉強ができるようになるか」はもう62回分記事を書きました。こちらは無限にネタがあるわけではないので、どこかで終わりになりそうです。
 
 私は明確に招待をいただいた会合以外には参加したくないのです。もちろん比喩ですよ。何かみんなでごちゃごちゃやっていて楽しそうだから、自分も参加させてくれという発想を持ちません。
 幼いころ、私が誰かと遊んでいる輪の中に「いーれーてー!」と突然入ってくる子がいました。よくある光景ですね。そのとき、心の狭い私は内心ちょっと邪魔だなと感じることがありました。誰かが入ってくると空気が変わる。せっかくいい感じで盛り上がっているのに・・・という気持ちでした。
 
 ということは、私があとから入っていくのを不快に感じる人間もいるはずです。そこで明確に招待されなければ入っていけない人間になりました。ブログに関しては日々たくさんの方がいらしてくださるので、招かれているという安心感があります。
 文章を書くのが大変ではないかと質問されることがありますが、そうでもありません。言葉はひとりでに湧いてくる感じです。何を書いていてもそう。先日も観念的な小説を1本完成させた(趣味でそんなものまで書いているということですね)ので、ある地方文学賞に応募してみました。
 
 地方文学賞というのは中間小説的なものが求められるでしょうから、観念的な作品はかすりもしないでしょう。それはそれでいいのですよ。何かしら目標があったほうがはかどるかも・・・程度のことでした。
 報酬や賞賛が得られなくても何かを一心に完成させたくなる。人間のそうした側面はある種の救いに思えます。現在の自分が本当に興味のあることは、個々の魂の進化です。生活の発展や経済的、社会的な成長よりもっと本質的な部分がどう変わっていくかに関心があり、文章を書くことは深いところでそこにかかわってくる気がしています。
 
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2017.04.28 00:25

 今年も生徒たちが合格体験記を書いてくださいました。保護者の方が書いてくださったものもあります。ある生徒、私は教科は教えたことがなかったのですが面接の練習をしただけですばらしい人間だということがよくわかりました。
 本人にも告げましたが、話していて半端ではない温かみを感じました。優秀な子はたくさんいます。それで十分でしょう。ただその生徒は、加えてものすごく温かい。具体的なことは書きにくいのですが、こんな子がいれば日本も安心だと感じました。
 
 彼のおうちの方が書いてくださった体験記を読んで、なるほど・・・と思いましたよ。勉強はそれなりに大変だったということが書かれていた。それは全員同じだと思います。そのあとがいい。
 食卓でその日の授業内容や先生方の話を楽しそうに話していた。友だちのすごさを自分のことのように楽しそうに話していたとありました。
 私が感心したのはそうした空間を構築された保護者の方の手腕です。その温かみがそのままその生徒の温かさにつながっていったわけですね。
 
 話の途中で、腰を折らないことはとても大切です。徹底的に聞く。話が少し矛盾していてもとにかく聞く。「しっかりやらなければだめだ」とか「ところで、点数はどうだったのだ」とか「ちっともやっているように見えないぞ」とか、こちらの主観に基づいたことを口にする以前に、とにかく徹底的に聞く。
 それだけの度量が必要で、話の途中でこちらが怒り出したりしたら彼らはもう2度と話そうとしないでしょう。
 
 どんなアドヴァイスよりも話を聞いてあげられる、闊達に自由に喋れる場を作るということは大切なことだと思います。
 うちの子なんかいまでも、夜遅く帰ってきて深夜食卓であれこれ家内に会社のことを喋っています。愚痴が出たり文句が出たりする日もありますが、家内は楽しそうに聞いているだけで、雰囲気が悪くなることはまずありません。
 
 数年前も合格体験記に「母の明るさに救われた」と書いていた生徒がいました。応援というのはそうしたものだと思います。極論すれば、私たちにできることは相手を明るくするか暗くするかだけなのでしょう。どちらがいいか、わざわざ書くまでもないことですね。
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2017.04.26 01:28

 はじめのうちはそうでもないのです。中には最初から若干雑な生徒もいますが、中学生になりたてのころは名前ぐらいは丁寧に書いている子のほうが圧倒的に多い。ところがある時点からーーとくに男の子ですねーーすごく乱雑に名前を書くようになったりします。
 読めない、続け字、殴り書き、名字だけ、途中までしか書いていない・・・いろいろなケースがありますが、困った答案が出てきます。
 
 毎回毎回漢字テストをやっていますからね。変化の様子はよくわかります。名前というのは要するに顔と同じでしょう。その顔をわざと汚くして他人と会う。本当はもっと整っているのに、場合によっては汚したりわざと表情を歪めたりして対面する。そういうことになると思います。
 そこには非常に大きな「心のすさみ」みたいなものが存在しているわけで、そのすさんだ感情をそのままにして成績だけがぐんぐん上がっていくということはありえないですね。
 
 顔をわざと汚しているような相手に、身なりをきちんと整えて好感を持たれましょうと提案しても効果はなさそうです。
 私は名前を乱雑に書く生徒を責めているわけではありません。まず、気づきなさいということです。名前をきちんと書く気がなくなっているあなたの心の中には何かしら不平不満、怒り、憂鬱、不安などが付着しているに違いない。理由は千差万別でしょう。学校のこと、友だちに対する憤り、部活の不満、先生への反発、親子関係がうまくいかない、漠然とした不安、他のことをしていたいなど色々あるとは思います。
 
 とにかくその不満や不安を解消することが、猛勉強するよりも先です。名前すら丁寧に書けない精神状態で猛勉強をはじめたところでうまくいくわけがないと思いませんか。名前だけではなく、数式も英単語も記述問題も何でも殴り書きたくなるでしょう。
 こちらも名前が非常に乱雑になってきた生徒のことは注意深く見るようにしています。ときどき答案に「あと少しだけ名前も丁寧に書きなよ」程度のコメントはつけて返すことがありますよ。
 
 精神的に落ち着いてくると乱雑に書かれていた名前がまた丁寧に書けるようになってくるから不思議です。気をつけるべきなのは、名前を丁寧に書かせるためにいくら「名前を丁寧に書け!」と叱責してもまったく意味がないということです。少なくとも永続的な効果はありません。
 症状の奥にあるものを察知して、そこに手当てを加えてやらなければいけない。医学と同じことになってくると思いますよ。症状の背後にある病巣をとりのぞくということですね。ご自身でもご家庭でもちょっと意識してみてください。
 
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2017.04.25 00:04

 昔、ヨガだか何だかの不思議な(?)本をぱらぱらめくっていたら、くしゃみを我慢することでエネルギーを温存する面白い技法について書かれていました。詳しくは忘れてしまったのですが、確かにくしゃみそのもののエネルギーはすごいものがありますね。口を覆わないと迷惑がかかることもありえます。
 それを内部にエネルギーとしてためることが本当にできるものなのかどうか私にはよくわかりませんが、発想としてはとても面白いと思いました。
 
 似たようなアメリカのことわざに「汽笛を鳴らす蒸気は機関車を動かさない」(そっくりそのままではありません)というものもありました。こちらは自己啓発の教材で見たものです。もちろん比喩的な解釈が施されていて、威勢のいいことばかり口にしている人間はそれだけで満足してしまって実行力がともなわない可能性があるから気をつけなさいと書かれていました。
 確かにそういうことはあるでしょう。適切に、力をためておく配慮は必要です。
 
 先日の朝、興味深い場面を目撃しました。あるお店のまえで従業員らしき女性がマネージャーらしき男の人に向かって文句をおっしゃっていた。文句というより嘆いているのです。マネージャーさんは水を撒いている途中だったらしいのですが、ホースからは水が出ていませんでしたから長いこと話していたのかもしれませんね。
 抗議している人の声は必然的に高くなります。「昨日だってあの人のために休憩時間を5分も削って」マネージャーさんの返事はぼそぼそしていて聞こえませんでした。5分さえ譲れないのか・・・と私は思いました。
 
 一般的な話になりますが、ネガディヴなエネルギーはそのまま外に出すより他の形に変形できればそれに越したことはないでしょう。ときどき運動選手なんかでも「悔しさをバネに」大きく飛躍するケースを目撃することがありますが、いくら悔しいからといってわめいたり暴れたりしていてはどうしても消耗してしまうでしょう。
 理不尽なことというのは生活にはつきもので、致命的な事件でなければ(これもまたある種の機会だ)ととらえようと私個人は考えています。あきらめるというより、新しい意識を作る瞬間として活用している感じですね。
 
 するととんでもない遠方から吉報が来たりする。これを理不尽さに腹をたてなかったことと関係ないと見るか関係ありと見るか。私はもちろん密接に関係していると考えています。証明はできませんが、あ、あの分がやっぱりという感覚があるのです。
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2017.04.23 00:25

8b433102d3960c28d9a1900e5ae38ad3eacde38d.jpg タマゴボーロというお菓子がありますね。さすがにこの歳になって積極的には食べないのですが、子どものころはよく食べた記憶があります。ただすごく好きだというわけでもなかった。子ども時代の私にとってタマゴボーロというのは「中途半端な」お菓子で、あれば食べもするけれども、なくてもべつに苦痛はない存在でした。
 そういう存在ってありますよ。唐突な例えを出すといま現在、たとえば「ちくわ」だとか「ひじきの煮物」だとかが私にとってそんな感じです。
 
 そのボーロに犬用のものがあることは知りませんでした。私が昔犬を飼っていた1970年代は、犬にも人間とたいして変わらないものを食べさせていました。おじやみたいな食事。犬専用のものを用意していなかった。
 現在はーー家内と息子が買ってくるのですがーー近所のペットショップから犬用の食べ物を仕入れてきます。お菓子もあるのですが、ぜんぶ犬用なので形だけは人間のタマゴボーロそっくりですが、味はよくわかりません。
 
 ちょっと食べてみようかなとも思う。やたらと犬が喜ぶので、そんなにおいしいのかという気持ちがあります。と同時に、そんなものを食べていてはいかんだろうという気持ちもあります。体調云々ではなく、そういうことを喜んでやっていると道(?)を踏み外すような気持ちがあるのです。
 犬はますます大きくなってきて、ケージから出すと喜んで大暴れするようになりました。息子は「だんだんバカになってきた」と嘆いていますが、はじめ品行方正だったのは単に緊張していただけだったのでしょう。
 
 噛み癖は相変わらずなので、ときどき全身をおさえつけたりしています。すると15秒ぐらいは噛みませんが、すぐに忘れてしまって再度噛みついてきます。力を入れてくるわけではありませんが、歯もしっかりしてきたので痛いことは痛いですね。
 そうやってひとしきり遊んでから突然「おすわり」をはじめる。「おすわり」はいちおう教えたのですが、自分から行儀よくそうする。そして、じーっとボーロの容器のほうを見つめている。
 
 はじめは偶然かとも思ったのですが、視線の先がいつもボーロの容器なのです。で、そわそわしはじめる。そろそろボーロをくれよという合図なのですね。ボーロを食べるか? とかお菓子がほしいか? とか呟くと、その単語だけは覚えたらしく、伸びあがって催促します。
 で、2粒やってケージにもどすという感じです。お菓子を楽しみに感じる心は人間に近いですね。近影をご覧ください。犬らしくなりました。ちなみにここは自室です。右奥に現在使用していないテレビデオがあります。さらに右手には毎日使用しているスチームアイロンが写っています。
 
 
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2017.04.22 06:06

 私は子どものときから洋楽を聴いてきたので、ああこれはブルーズだなとかファンクだなとかカントリーの影響を受けているなとか、それぐらいのことならわかります。洋楽を聴きはじめたのが13歳ぐらいでした。何十年もかけてやっとわかるようになったということですね。
 単純な自慢ではないのですよ。大量に蓄積していかないと、新しく出てきたものに対処できないという話を書きたいのです。同じ音楽でもたとえばクラシック音楽は全然聴きませんから、曲を聴かされてもまったくコメントできません。
 
 いい曲ですねで終わってしまう。だれだれの曲ではないですかとかだれだれの影響を受けていますねとか、何も知らないわけですから比較のしようがない。万が一、クラシック音楽のテストを受けたら私は間違いなく落第点をとると思います。要するにクラシック音楽については何も勉強してこなかったということです。
 文章の読解もそうなのですよ。まったく読んでいない人には目の前にあらわれた文章がどの程度のものなのか正確に判断できません。
 
 内容はわかったとしますね。内容はわかっても「格」みたいなものまではわからない。同じような話を読んだ経験もありませんから、あああの手の話題か・・・と響くものもない。ただ書いてある内容と何も知らない自分と2人きりみたいな頼りなさだけが残ります。
 文芸作品なんかも、この文章はだれだれの影響を受けているなとすぐにわかる人は相当読みこんでいる人です。確かにそういうことはあるでしょう。太宰治の作品を読んで、芥川龍之介にちょっと似ているかなとか。
 
 読まない人にはそういうものが一切ありません。これがどれだけ不利なことだかわかりますか? 私のクラシック音楽は、テストも何もありませんからこのまま放置しておいてもいいと思っていますが、これから国語のテストを何百回も受けるであろう小中高校生の皆さんが、読む気がしないからという理由で放置しておくことの不利がどれだけ大きいか、ちょっと恐ろしいぐらいです。
 
 食べ物に例えるともっとわかりやすいかな。まずいと言えるのはおいしさを知っている人です。これは好きと言える人はきらいという経験を持っている人です。相対的に表現したり理解したりしているものですね。
 食べ物に関してはーー食べないわけにもいかないのでーーそれなりに皆さん蓄積を持っている。甘いか辛いかのテストならどなたでも合格されるでしょう。
 最低限(せいぜい教科書程度)の蓄積のまま進めていったら、多くは苦戦するようになるでしょう。どれだけ読んでいるか、日々確認されるクセをつけられるといいと思います。
 
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2017.04.19 09:04

 難しいですね。数値をことさら重視する世の中になって、私は一般の人間が少しけちになったのではないかと思っています。吝嗇という意味のけちですね。お金を払う払わないというだけではなく、感情の表出についてけちになっている。
 心のどこかで、感情でさえ数値化するクセがついているのでしょう。ですから、けっこう計算はしているような気はします。気づかないふりではなく冷静に計算している。そして、ここは譲らなくていいと結論づける。
 
 譲らなくていいというのは、自分の時間や感情を使わなくてもいいということです。自分だけが親切にするのは、自分だけが支払いするのと同じであるという計算が働くのかもしれません。
 具体的に書くと、ちょっと困っているように見える級友(同僚)がいるけど、みんなだって声をかけていないのだし、まあいいんじゃないかなという感じでしょうか。
 昔よりけちけちした感じになってきたのは、数値による損得計算だらけの世の中の影響はやはりあると思います。
 
 お金を動かす(使う)ことも感情を動かす(他者に優しく接する)こともどちらもじつはすごくいいことです。血液の流れと同じです。いくら大切な血液でも、貯めこむばかりで一切動かさなければ大変なことになってしまうでしょう。
 適切にむりのない範囲で身体を動かして、どんどん循環させたほうがよほど健康的です。そうやって豊かな感情を大きく流せる人間を世の中では「心の広い人」と呼んでいますね。
 
 構造的に難しい問題というのはいくらでもありますが、基本的に狭い心ではうまくいかない。上の人間がやたらと雷を落とす。いらいらしている。ときにはヒステリーを起こす。国家間の係争でさえ、現在はそんな感じになってきていますね。まあまあ少し落ち着いて・・・と言いたくなります。
 大人が子どもにものすごく厳しいとしますね。すると子どもは命令に従うのみですからちっとも大人になれません。従順なだけで、自分で物事を考えない生活を続けます。
 
 仮に本当に勉強ができるようにということであればご本人を大人にするしか手はないのですから、やたらと厳しくて命令を聞かせるだけ・・・ということでは永遠に進歩がないですね。
 親子関係も組織も国家も同じですね。上に立つものの度量が試されている。まずは愛情の伝達にけちけちしないことです。内にも外にもふんだんに。愛情の「磁場」を個々人が意識的に形成する。そのうえで未熟な者を自立できるように助けていく。道はそれしか残されていないように感じます。
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2017.04.18 08:57

 世の中がわさわさしていて落ち着きませんね。ミサイルが飛んできたら・・・みたいな注意が公になされていました。核爆発があったときはという記述も読みましたが、本当のことを言ってしまえばそんなことになったらもう何をしても遅いでしょう。どこの国がどうこうということではなく、人間の良心的な英知が残忍な欲望に敗れたということになるのだと考えます。
 そんなとんでもないことにならないように政治や科学や教育や哲学、宗教などが機能するべきだと思うのですが、上手く働いていませんね。
 
 いちおう予定だけ書いておくと、本年度私が所属しているZ会進学教室(Z会全体ではありませんよ)の休室日(講義がないだけではなく教室自体が閉まる日)は4月の30日から5月の5日までです。6日の土曜日はやはり授業はありませんが、教室は開いています。翌日からの準備をしておかないといけませんからね。
 とくに何もなければ6連休です。長い連休がとれるのは1年でこの1回きりなので、またぶらぶらしてこようかな。
 
 豊橋市の豊橋は今月渡ってしまったので、さすがに中京地方はもういいですかね。歩きたいところはだいたい歩いてしまいました。もう1度行きたい場所を冷静に整理してみようかなとも思っています。
 ガイドブックなどを見ていて、私はあまり施設に惹かれることがありません。土地というか場所のムードというか、そういうものに惹かれるのです。ですから、あの施設にもう1度行きたい・・・というよりは、あのあたりをもう1度歩きたいという感覚が強い感じです。
 
 大阪にちょっと歩いてみたいところがあります。いわゆる新世界なのですが、ちょうど10年前「最後の真剣師」と呼ばれていた将棋の大田学先生が亡くなられた。大田先生はプロにもならず家庭も持たず、最後の最後までアマチュア棋士としてーー道場の師範などをされーー生活されていました。その大田先生が住んでいらっしゃった簡易旅館のあたりが現在どうなっているのかちょっと見たい気持ちがあります。
 じつは過去そのあたりを見に行ったことが2回ありました。しかし、そうなるとさすがに日帰りはむりそうですね。
 
 そんな平和な連休が送れたらありがたいことです。平和というのは単純に軍事力でどうこうなるものではなく、思想的にも努力して維持できるのだということをつくづく感じています。
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2017.04.17 08:47

 ある生徒がいわゆる「ブラックバイト」について調べたものを見せてくださいました。さまざまな訴訟の例の中に「塾の先生」というのが出てきたので苦笑してしまいましたよ。私自身は35年以上昔から塾の先生をしています。いまは会社員(契約社員)としてお仕事をさせていただいているので、純粋な塾講師とは立場が違います。ですから、いまの一般的な塾の先生の待遇がどのような感じか、ごく近しい方以外はよくわかっていない側面があります。
 
 ただ35年ぐらい昔は確かにそう呼ばれてしまう傾向はあったかもしれません。ある日、突然仕事がなくなる先生というのがたくさんいました。それはどこの塾でもそうでしたよ。生徒に人気がない。あるいは生徒やご家庭から文句が出る。学生講師だと本当にすぱっと切られていました。もっともご本人も本業は大学生なので、あっけらかんとしたものでした。
 やめさせられた学生講師を飲みに誘ったりしたものです。何となく気の毒じゃないですか。塾の悪口を延々と聞かされたりしました。
 
 授業時間ではない待機時間に手当てが出ることになっていたのがある月から突然なくなったり、予習の時間や質問対応などの残業については一切お金がつかなかったり、はては交通費が支給されなかったり・・・ということは当時は半ば常識(?)でした。
 反旗を翻そうとしてやはりやめさせられたりしていた先生を知っています。組合みたいなものを作って一緒に文句を言おうじゃないかと誘われたこともありましたが、私個人はそういう活動自体が好きではなかったので、とくに何かをしたことはありません。
 
 そのへんは個人の感覚ですね。私は放っておかれるのがありがたいぐらいでしたよ。予習についてもお金が出ないからやらない的な発想は持ったことがありません。むしろこっちの楽しみの1つみたいな感じで、苦痛ではなかったですね。
 要するに純粋な「バイト」感覚が徐々に麻痺していったのだと思います。時間が来たらすぐに帰らなければ損をするとは考えられなくなっていった。勤めている塾はかけもちしていることが多かったですね。家庭教師もしていました。
 
 家庭教師センターに登録してあるわけです。面白かったですよ。こっそり教えたらいけないという。センターを通してくださいと。それはそうでしょうね。こっそり教えたら違約金が30万円という契約書がありました。ところがご家庭は必ず(といってよかった)「個人的に見てもらえませんか」と相談してきます。
 理由がだいたい同じで「先生に見てもらったあとは子どもが元気になる」というのです。この仕事で自分には何らかの価値があるのだなとぼんやり考えるようになったきっかけは、そんなことでした。
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2017.04.16 00:38

 味覚というものは、大きな文化的要素だと私は考えています。いいとか悪いとかのお話ではないですよ。高級だとか低級だとかも関係ありません。ただどういう育ち方をしてきたかということは、けっこうーーファッションなんか以上にーーどんな味を好むかという部分に出てくるように感じます。
 ときどき行く渋谷の中華屋さん、以前「東京五大」という書籍に掲載されていると書きました。チャーハンが東京五大チャーハンに入っています。
 
 味が濃いのですが(じつは作る方によって微妙に違いが出るところも面白い)、おいしいことはおいしい。黄色いたくわんが2つつきます。さらにスープがつく。このスープも味は濃いのですが、おいしい。
 ひょっとするとお若い方にはちょっとしつこい感じかもしれません。私は昭和の古い東京人なので(関係ないか)濃い味つけには慣れているのです。子どものころ、そんなものばかり食べていましたから。
 
 ところが、その濃厚なチャーハンにときどき醤油をかけている方がいらっしゃったりしてちょっとびっくりします。余計なお世話ですがただでさえ塩分が強いのに、いったいどうなってしまうのだろうとはらはらしますよ。
 じつはこのチャーハン+醤油という組み合わせは他店でも見たことがありました。池袋教室時代ですね。池袋にはFという有名な中華のチェーン店が何軒もあります。私はいくつかのお店を回る感じでお邪魔していました。
 
 そこでチャーハンに醤油をどくどくかけている方を目撃しました。ぐるーっとまわしがけしていたので、かなり強く醤油味がついたのではないかと思います。好みなのでしょうね。
 渋谷にはKという関西で有名なラーメン屋さんもあります。「3回食べるとやみつきになる」というラーメンを提供していて、外国人とりわけ西洋人の方が大勢いらっしゃっている。そこではラーメンの中にお好みで自由に味つきのニラを入れられるようになっています。
 
 先日、隣の席の方がある程度の大きさの容器のニラをすべてラーメンに入れているところを偶然目撃しました。濃く味つけられた大量のニラをぜんぶ投入した。根本的にラーメン自体の味が変わってしまうと思います。
 逆に極端な薄味を好む方もいらっしゃる。生徒で、とんかつやカキフライに何もかけないという子がいました。レモンをしぼるだけ。ご家庭がそうだというので、まさに文化だと思いましたよ。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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