2017.01.30 08:01

 ときどき最後に感謝したのはいつだっただろうと改めて考えてみることがあります。生きているかぎり、対象は無限にありますからね。
 たとえば身体に最後に感謝したのはいつだったか。家族に最後に感謝したのはいつだったか。友人に最後に感謝したのは? 会社(=仕事があること)や学校(=勉強できること)に最後に感謝したのは? 趣味の存在に最後に感謝したのは? 自由に、平穏さに、音楽に、食事に、夜明けの美しさに、水が自由に使えることに、表現の豊穣さに・・・最後に感謝したのはいつだったか。 
 
 感謝というのはいちいち世間に発表するというよりは、個人的に噛みしめるべき事柄であると思います。世の中、なかったら大変ということがじつはたくさんあります。
 昨年のお正月、住んでいるマンションの給湯設備が3日間壊れただけでーーお湯が出なくなりましたーー家族3人大騒ぎでした。そんな事件があったおかげ(?)か、お湯が出ることにはいまもときどき感謝します。ただ同じように「電気が通っていること」や「ガスが来ていること」「水がふんだんに使えること」などはほとんど意識せずあたりまえみたいな気持ちで生活している自分を意識します。
 
 そのあたりの鈍感さに問題がありますね。私自身の話ですよ。
 あたりまえと決めこんでいるわけですが、あたりまえではない。最近も教室ではインフルエンザで倒れてしまった先生が何人かいらっしゃいました。私はおかげさまで絶好調で働いている。身体の全細胞が頑張ってくれているおかげでしょう。免疫機構だとか細かいことはわかりませんが、とにかくインフルエンザが大流行している世の中で総合体の私が日々の調和を保てるように身体は頑張ってくれている。それをあたりまえと切り捨ててしまうのは、やはり鈍感ではないかと思うわけですよ。
 
 こういうのは道徳の問題ではなく、いかに幸福を感じるかの方法論みたいなものだと思います。
 世の中によく「何々流成功法則」というのがありますね。書籍が出ていたりDVDになっていたり教室が開かれていたりします。私に言わせればいちばん簡便ですぐにでも実行できる成功法則は、ありとあらゆる対象に対して感謝をし直すということになりますかね。考えれば考えるほど私たちは大成功していませんか? そのあたりから自信を持ってゆっくり進んでいけば、目標にも近づいていけるはずです。「現時点で自分には何もない」というとんでもない錯覚が私たちに妙な焦りを運んでくるのです。
 
 
 
 
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2017.01.29 00:27

 今日は勉強とは関係のないお話です。
 私ぐらいの世代は、渥美清さんの「男はつらいよ」という映画をけっこう見ているのではないかと思います。私も熱烈なファンというわけではありませんが、全盛期に育ったので映画館で数作見たことがありました。その後はテレビやビデオやDVDなど、後追いの感じですがほとんど見ているような気がします。
 ときどきふと気になる話があって、DVDを借りてきて見返すことがあります。
 
 先日、久しぶりに大阪が舞台になっている回を見ました。
 例によって主人公の寅さんは、大阪の芸者さんに恋をします。その芸者さんが寅さんが泊まっていたホテル(新世界の汚い商人宿みたいなところです)に夜中にやってくる。詳しい説明は省きますが、ショックなことがあってすごく酔っ払っている。「ここに泊めて・・・」と言われて断りきれなくなる。
 ただ複雑なことが起きないのがあのシリーズの安定感のあるところで、寅さんは寝入ってしまった芸者さんだけを部屋に残しそーっと階下に下りていきます。
 
 下の帳場でーー宿の一家と寅さんは相当つきあいがある感じですーーホテルの跡取り息子(芦屋雁之介さんが好演されています)に向かって「今夜はお前の蒲団で寝るからな」という意味のことを告げる。
 そのとき帳場の棚にある日本酒の一升瓶を寅さんはごく自然に取り上げて普通のガラスコップに6分目ぐらいまで注ぎます。そしてひと口含んでから話を続ける。ああ、こういう感覚ってあるなと私は感じました。
 
 自分もアルコール類を飲むわけですが、こうした気持ちで飲むことが多いような気がします。多くの方がそうなのかもしれないですね。
 つまり、何らかの精神的な泡立ちを抑える目的で飲む。いい悪いすべてひっくるめてのものです。とにかくちょっとした波風がたつ出来事があり、その動揺と距離をとる意味で飲む。帰宅前に1人で外で飲むこともありますが、狙い(?)というか要点は同じです。区切りをつけるためですね。
 
 ある程度豊かな社会では、飲食は味わうことを求める要素が大きいでしょう。そしてもちろん飲酒に関してもおいしいものを飲みたいという側面はあるのですが、落ち着く目的であればとくにどうということのない普通酒であっても気になりません。というより、むしろ平凡な味のほうが「助かる」印象があるのです。
 以前あの映画を見たときには、こうした発見はまったくありませんでした。まあ、いくつになっても成長なのでしょうね。
 
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2017.01.28 00:36

 先日、夏目漱石の文章を読んでいたらこういうのがありました。漱石家で飼っていたネコが死んだ。庭にお墓を作って埋めることになりました。墓標をたて、そこに漱石がしゃれた文句を書いた。
 ある日ーー窓から見ていたとだけ書かれていましたーーまだ幼い漱石のお嬢さんがその墓標をじっと見つめている。それから手にしていたひしゃくでお供えの茶碗の水を飲みはじめた。何回も何回も飲む。水は供えてあった花にもふんだんにふりかかります。
 
 じつは私はこの随筆を全文読んだわけではありません。細かいところはわからないまま書きますが、お嬢さんの様子をじーっと観察し続けた感受性はやはりすごいと思いました。ふつうだと声をかけてしまうでしょう。声をかけることが子どものためでもあり、自分のためでもあるような気持ちになる。
 少し離れたところからじーっと観察を続けた漱石の中の孤独意識、さらにこの種の感情は子ども自身も味わったほうがいいのだという配慮みたいなものが働いていたのだとすれば、やはりすごい感性だと思うのです。
 
 これは漱石のレベルとは全然べつの話ですが、私もずーっと遠くから子どもを見ていながら、そのことを伝えなかったときが2回あります。あるところまで心配で見に行った。様子を見て変なことをしているなとは思いましたが、そのまま帰ってきました。
 もう1回はゆっくりあとを追ってみました。で、ははあ、こんなことをしているのかとは思いましたが、当人には何も告げませんでした。場合によっては叱るまではいかなくても注意ぐらいはしてもよかったかもしれません。
 
 それをこらえたのは、彼が感じたであろう何かのほうが、親の私がまとめて説明する概念以上の財産になると考えたからです。そしてまた、安易に家族の団欒話にしてしまいたくない孤独さを私自身が好むという事情もあったと思います。
 見られているか見られていないかはべつとして、幼い子どもが1人で考えて何かをしているときにはその行為自体に大きな意味があり、それを安易に世間的な概念で説明してしまうのはーー彼らはそういうものなのかと信じるでしょうからーーちょっともったいない感じがします。
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2017.01.27 00:10

 おとといいたずら電話のことを書きました。まあ、私はどうしようもなかったと。
 教室でもいたずら事件がときどき起きます。しかし子どもたちのことを私は「どうしようもない」と考えたことはないですね。進化途上ですからね。そもそもどうしようもないなどという感慨は自分に向けるぶんにはいいのでしょうが、人さまをあっさり断罪する神経はーーこれまた個人的な感覚ですがーー私には無責任で繊細さに欠ける蛮行に思われます。
 
 ですからいたずら事件が起きたときには、どうやっていい方向に展開しようかということだけを考えます。
 先日は机に強力な接着剤であるものをくっつけるという事件が起きました。これは心情的には大変面白い。面白いと書くと語弊があるかもしれませんが、私も昔自宅で超強力な接着剤を使っていろいろなものをくっつけてみました。テレビなどでどんな力で引っぱってもはがれないと宣伝されています。本当かな? 興味を持つのは当然でしょう。むしろいいことかもしれません。
 
 で、実際に試してみる。何かと何かをくっつける。時間がたってからはがしてみるのですが、けっこう簡単にとれてしまう。がっかりしましたよ。最後に自分の指に何か(何だったかは忘れてしまいました)をくっつけてみたら本当にとれなくなって焦ったことがあります。皮膚がはがれるような感じでやっととれました。私ぐらい愚かだと、そこまでやってしまいます。
 もっとも自宅でやっているぶんには問題ないですね。よそでやるのは本当はちょっとよくない。その判断が小中学生だとまだ曖昧なのでしょう。
 
 じつはいたずらをした生徒はすでに丁寧な謝罪に来てくれています。悪意のある要素はまったくない。接着剤の強力さには驚いたみたいでした。
 机はとりあえず展示しました。「芸術作品」と書いた紙を貼っておいた。するとこれが皆さん意外なぐらい喜んでくださる。「すごい!」とか「感動した!」とか「こんなこと本当にできるの?」とか言いながら見てくれます。正しい方向に展開できたという気持ちがあります。
 
 私にはできるだけよい方向に彼らを育てる義務と責任があります。さらに教室を明るく楽しい場所に保つ義務がある。そのあたりはつねに考えていますかね。
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2017.01.25 10:01

 主婦と生活社さんの編集者の方から、たくさんの方がWEBページにいらしてくださったというご報告をいただきました。「暮らしとおしゃれの編集室」ですね。どうもありがとうございます。こんなおっさん(私のことです)ちっともおしゃれじゃないだろ! みたいな苦情が殺到したら困るなーと心配していたので、とりあえずほっとしました。
 ひぐまあさこさまのブログにも再度取りあげていただいておりました。心から御礼を申しあげます。
 
 私はろくでもない小中学生時代を送ってきました。忘れてしまったことも多々あるのですが、とにかく世間の標準値から見てあきれるようなことばかりでした。小学校時代はいたずら電話の依存症みたいになっていた時期がありました。自宅からも公衆電話からもいたずら電話をかける。友だちともかけるし1人でもかける。四六時中いたずら電話のアイデアを練っていました。
 相手も手当たり次第です。結婚式場に電話をかけて「結婚したい」と言ったら「ぼく、だれと結婚したいの?」といきなり見破られてしまったことがありました。声変わりしていなかったのですね。
 
 どれだけくだらない少年だったのか・・・という気持ちはありますが、だからこそ見えてきた部分というのもあるのですよ。地面に近ければ近いほどいろいろ見えるのと同じですね。
 できそこないが、少しずつあたりまえの道を這いあがってきたという実感はありますかね。まともになるためだけに、私には大変な努力が必要でした。およそ暴力的ではないので、不真面目さやできそこない度が目立たなかっただけでした。息子にも、まともになるためにそんなに苦労する人間も珍しいと笑われたことがあります。
 
 先日もあるご家庭から、お子さんが私と話すと元気を取り戻すとおっしゃっていただきました。じつは私は特別なことはなにも話していません。考えていることをただ心をこめて告げているだけです。
 彼らが心の底で求めているのは浅薄な励ましではないと感じることがあります。私が投げかける言葉で彼らが元気になってくれるのであれば自分はまだまだ頑張るつもりですが、その励ましの言葉はあのくだらないいたずら電話を繰り返さなければ出てこないものなのかと問われれば、やはり微妙な部分で自分にはそうであるように思えるのです。
 
 はじめからまともな人間であったら、私はーーいいことも悪いことも含めてーーいまとはだいぶ違っていたと思います。
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2017.01.23 10:23

 言葉だけではなく、伝えたい気持ちが強いと力を持ちますね。ときどき生徒と話していてそう感じることがあります。
 たとえば現時点ではさほど成績はかんばしくない生徒と話す。やる気もーー勉強に関してだけですがーーあまりなさそうに見えます。それならそれでいいのですが、塾ですからどうしても勉強のことを話す機会も出てきます。相手のほうからあることを相談されたのでちょうどいい機会だと思って、少し長く話しました。
 
 そういうとき私はあまり些細なことは注意しません。数学の宿題やっていなかっただろうとか、国語の時間うとうとしていただろうとか、そういう末梢的なことは何も言いません。
 私のクラスの生徒ではなくてもZ会進学教室には先生方が書いてくださる「授業日誌」があり、私は彼らがどんな感じで授業を受けているのか知っています。しかしそうしたことは一切言いませんでした。宿題をするしないは大事なことですが、そのときの会話の優先順位から言えばはずしてもいいと判断しました。
 
 私は彼が自分をたいした人間ではないと考えていることがわかっていたので、それは絶対に違うということを伝えました。勉強が徹底的に嫌いであれば、確かに直近の「テストの点数」はとれないかもしれません。ただそのことと個人の能力とは全然べつだということはだれかが指摘しないといけない。
 好きなことをやっても自分はたいしたことはないと思われたら、完全に育てる大人側の失敗です。好きなことを見つけて思い切り上達して、最後に世の中の役に立つ。私たちはそうあるべきだと思います。
 
 話しているうちに彼らのなかに力が充満していくのがわかるときがあります。気づくのですね。そうか、自分には相当の力があるかもしれない。そしてそれはまた真実なのですよ。勉強だけに限定したり他者との比較ばかりを持ち出したりするからおかしくなってくる。
 ときどき話していてーーただ励ましていただけなのにーー涙ぐむ子もいます。いままでどれだけ傷ついてきたのだろう? と思いますよ。私は何もしなくてもすべてうまくいくと言っているわけではありません。何かをすれば相当なものになれる事実だけは確認しながら生きようねということです。
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2017.01.22 07:23

 面接の練習を求められたときは個々の生徒と話すようにしています。するとあることに気づきます。あたりまえですが皆さん、基本的にきちんとしたことしか口にしません。
 勉強します。志望校にいちばん入りたいと熱望してきました。高校に入ったら勉強、部活、生徒会活動に邁進します。将来は世の中の役にたつ人間になりたいと思っています。
 それはそうですね。面接試験で「勉強なんか金輪際やりたくない」などと宣言する受験生はいません。
 
 同じように部活なんかくだらないとか、将来は個人的に楽さえできれば世の中なんてどうでもいいとか、その種の発言で100%落ちると決まっているわけではありませんが、一般的にそんな挑発的なことを言うのは失礼でしょう。皆さんいいことをおっしゃいます。
 世間的な正論を口にするということです。するとあちら(面接官の先生)は受験生の数だけほぼ同じセリフを聞くことになります。
 
 そしてここが問題なのですが、同じセリフでも印象が違うのです。個人の生きざまによって、中学生でも違ってくる。だからこそ、あなたがどうあるかということは大切なのですよ。
 これはどなたでもすぐにわかると思います。どちらがいいではなく、外で活発に大勢と活動することが大好きな人と閉じこもって個人的な何かに没頭することが大好きな人が「人生は楽しい」と同じセリフを口にされても、伝わってくるものは何となく違いますね。人それぞれであり、背負っているものがそのまま相手に伝わるのです。
 
 面接のときにセリフだけを練りに練っても通用しません。勉強がいやでいやで仕方がない方がその場しのぎで「大好きな勉強を頑張りたいと思います」とおっしゃっても、人生経験の豊富な面接官の先生ーー勉強が好きな生徒も嫌いな生徒も何百人何千人と見てこられたでしょうーーには何となくわかってしまうと思います。
 むしろいままで勉強から逃げ腰な面もあったので、高校に入ってからは少しでも面白さを見つけたいという気持ちです・・・ぐらいに告げたほうが好感を持たれる可能性はあるかもしれません。
 
 笑顔、まなざし、指先の動き、考えこむしぐさ、迷う素振り、同意するときの深いうなずき、言葉の選択に対する思慮深さ・・・そうしたものがセリフと連動してあなたの印象を作りあげていきます。いくら名文句であっても、芝居のように棒暗記したセリフであれば魅力は著しく減じてしまうでしょう。
 今回の試験だけではないですね。あなたがどう生きてきたのか、生きているのか、生きていこうと考えているのかが何より大切なのです。
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2017.01.21 02:36

 幼児のころ実家で使用していた小さなちゃぶ台がありました。畳の部屋で使っていた記憶があります。2人で向かい合うのも狭い感じでしたから、個人用ということになるのでしょうか。どんな風に使われていたのかよく覚えていませんが、表面の模様というか柄がけっこう好きでした。
 脚の部分ががたがたになってしまい使いづらいので倉庫にしまわれていたのですが、数年前ふといまの自分の部屋に運びこみました。
 
 何度かあえて1人で使用してみたのですが、やはりがたがたして全然落ち着かない。私の部屋はいわゆるフローリング仕様ですが、こんながたがた状態で食事するのであれば、いっそのこと床の上にじかに皿を置いて食べたほうが落ち着きます。
 ということで、やはり畳んだまま何年か放置してありました。いつまでもそうやって放っておくのも情けない感傷にすぎないような気がして、先日とうとう処分してしまいました。
 
 ちゃぶ台がちゃぶ台として役にたたないのだからと割り切ったのですが、シブい紅色に黒い縞模様の柄の印象が脳裏に焼きついていて、ちょっと気の毒なことをしたかなという気持ちにもなります。私には非常にウエットなところがあり、そういう自分を許せないような変な意識も働きます。
 これまでも大切にしてきた日記やら書籍やら洋服やらを、ある日思い切って「えい、や!」と捨ててしまい後悔したことが何度もありました。感傷的な自分を持てあまし気味なのかな。
 
 つい最近、よく行く飲み屋さんの柱時計が昭和24年のものであることを知りました。あ、もちろんその飲み屋さんが昭和24年に買ったというわけではないですよ。古道具屋さんで見つけられたそうなのですが、裏にどなたかのお名前ーー達筆すぎて読めないそうですーーとともに昭和24年にいくらで買ったということが書かれていた。
 時計はとても静かにぼーんと鳴ります。それが、完全に「生きている」感がある。時計なのに自意識のようなものを持っている感じですね。
 
 Z会進学教室の国語のテキストにも、少年が修理から戻ってきた大きな古時計を背負って夜道を歩く詩が出ています。時計はときどきぼんぼんと時を告げる。今回はこうやって直ってきたけれども、この時計ももうあまり長くはないと考えて少年は寂しくて仕方がない。そういう詩でした。
 幼児期の私はこういう話を聞くとすぐ涙ぐんだりしていました。その本来の感性と「男のくせにめそめそするな」と周囲から叱責された経験が、自身の中でぶつかりあう感じが残っています。
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2017.01.20 00:49

 先日、教室長代理のN先生が都立高校推薦入試の集団討論対策の練習会を開いてくださったので私も見学させていただきました。こういうのは私なんかがやらないほうが、活発に意見が出てきていいのです。
 いろいろなことを感じました。しっかりしている子は本当にしっかりしています。話すときにつねに笑みを浮かべられるという精神力だけでもたいしたものです。声の通りもいい。内容はもちろん申し分ない。
 
 ふだんの生活でも気づくことですが、お話が上手な方はこちらの話をぜんぶ聞いてくださるうえに、お返事が遅れることがありません。相手の話を聞きながら頭の中で編集が進められているのです。
 わかりやすく言うとこうなります。仮に相手がすごく困窮しているとしますね。話を聞いている時点ですでに「単純に激励するか」「とことん慰めるか」「深刻にならないようにしたほうがいいのか」決めはじめている。
 
 相手の話が終わったときに、さてどうしたものかと困惑することがない。これは中学生にはなかなかできないことです。場数を踏んでいないと難しい。大人ーーきちんと知的な会話ができる人間という意味ですーーとの会話経験が豊富でないと、呼吸がつかめないでしょう。語彙も豊富でなければいけませんし、感情も豊かでなければいけません。
 会話の際にもっともしてはいけないのは、相手が伝えようとしている最中にさえぎって話すこと(テレビの討論会なんかは、面白がらせるための演出だと思います)ですが、そういう場面は1度もありませんでした。
 
 参加してくださっていた全員さすがだということにはなりますが、正論を次々と披露していく彼らが将来的に現実社会で傷つくことは確実なので、たくましく生きてほしいとずっと考えていました。
 正しい意見が通らないものなのです。あるいは正しい意見がどなたかの損になることがある。そんなでたらめが・・・という意見だけがとりあげられることもあります。どの世界でもそうです。正しく本質を見るクセがついていればいるほど、いったい世の中どうなっているのだと絶望的な気持ちにさいなまれるかもしれません。
 
 そのとき「これはいい悪いではなく、根源的な人間の弱さのあらわれなのだ」とうんと高い視点から見ることができるかどうか。先生なのにちっともわかってくれない、目上なのに何も助けてくれない、上司なのに気づかぬふりばかりしている・・・というだけでは最後は前に進めなくなります。
 おおげさに書けば私たちは神の視点を持つ必要があります。世界中で人間が殺しあったりしていますが、それでも忍耐強く神の視点を持って少しでも世の中をよくしようとしている人間は相当数残っています。
 
 正しければ確実に傷つくでしょう。ただその傷は、たとえば他者への慈悲心に変容させることも可能です。すべての傷をべつの何かに昇華させる。その何かは個々が責任を持って見つけるべきであるのかもしれません。討論を聞きながら、ずーっとそんなことを考えていました。
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2017.01.18 00:06

 先日のセンター試験国語を解いてみたのですが、古文の問題を読んでいたら自分みたいな主人公が出てきたので笑ってしまいましたよ。菊君という男。
 こういう話です。ある屋敷に泊まりにいく。隣に粗末な家がある。そこに50歳ぐらいの尼さんが住んでいるのです。私が非常に共感を覚えたのは、花を入れる皿に庭に出てきた尼さんの数珠があたり音をたてそれが男の心に強く残るところでした。その時点で(何だか自分に似た感じの男だなあ)と思いました。
 
 ここからですよ。
 その尼さんには20歳ぐらいの娘さんがいた。で、この娘さんはすごくかわいらしいのになぜかやはり尼さんになっている。若い尼さんに恋するのではなかろうかと心配になりました。私に似ていたらそうなりますから。
 するとやっぱり恋をした。ここが重要(何が?)なところなのですが、男は相手が尼さんだからよけいに惹かれたのだと思います。成就しないことがわかっているからこそ恋する意味がある。ただのかわいいお嬢さんだったら、そもそも興味をひかれたかどうかさえわからないですよ。
 
 手紙を書きます。直接は渡せませんから、使いの子どもに渡してきてくれと頼みます。昔のことですから歌だけ書きますね。あなたは本当に魅力的だ・・・みたいな歌を送った。普通そうやって恋の歌を渡すと同じように歌が返ってきます。男は返事が待ち遠しくて仕方がない。このあたりもそっくりですかね。
 結局、返事はお母さんのほうから来ました。あっさりふられてしまう。尼さん相手に何を考えているのだ! みたいな歌が書かれていた。しかし、自分が男にさらに似ていると思ったのはここからです。
 
 男はその晩、眠れないのですよ。仕方がないと思いながらも(ああ、きれいな人だったなあ)みたいな気持ちでいつまでたっても眠れない。
 じつはどこかでほっとしている部分があるに決まっているのです。私ならそうですから。好きになって騒ぐものの、じつは何も起きなくてほっとする。ほっとしてはじめて余韻にひたることができます。若いころ、そういうことがあったような気がします。
 今年の古文は比較的点がとりやすかったみたいですね。主人公に似ていたからそう感じたのかな。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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