2016.08.31 08:05

 おとといの記事の続きが書きたくなりました。ひょっとするとお若い方の参考になるかもしれないので。
 30代で停滞したという話を書きました。仕事に対して情熱みたいなものがなくなった。お金さえもらえればいいやという気持ちになりかけました。当時もいくつかの塾で教えていたのですが(Z会にお世話になる以前です)、どこでも手抜きをしている先輩が私より時給がよかったりする。それが面白くない。
 
 正直なところ、生真面目にやりすぎてはかえって損をするという意識さえありました。メチャクチャになってしまうのはまずい(単年契約ですから続きません)ものの、一定の水準が保てれば全力は尽くさなくてもいいという気持ちでした。
 もっともそういう時期は人生全般に深い迷いがあるわけで、ずいぶんいろいろな書籍を読み考えました。とくに禅関係の本や宗教関係のものをたくさん読んだ。何を求めているのかじつは自分でもよくわからない。ですから答があるのかないのかもわからない。
 
 ペンネームで書いていた小説がぽつりぽつりと活字になったりしたこともーーとてもうれしかったのですがーー若干混乱する原因になりました。どこに重心を置くべきなのかわからなくなってきた。
 いろいろ心を打つ話や出来事もありましたが、いちばん印象に残ったのは次のエピソードです。この話が単独でどうこうではないですよ。流れの連続性の中で、何かしらぴんとくるものがあったということです。
 
 それまでの蓄積がなかったらこの話を知ったところでどうということはなかったと思います。まず大きな迷いがあり若干の苦しみがありたくさんの体験や読書があり、その果てにこの話があらわれてこちらを触発したということです。
 エピソード自体は以前も書きました。ある悟りを開いた聖人に質問した男がいる。「悟りを開く前は何をなさっていたのですか」聖人は答えます。「木を伐り水を汲んでいた」
 
 男は「それでは悟りを開いたいまは何をなさっていますか」と質問した。すると聖人の答は「木を伐り水を汲んでいる」でした。
 はっとしましたよ。その場でということではなく、時間をかけてはっとしてきた感じでした。行為の内容ではなく意識の持ち方に秘訣があるのか!
 しだいに私は何かをやっていてうまくいかないとき、行為の対象が悪いとは考えなくなりました。
 
 たとえば洗濯をしますね。あるいは掃除をする。洗い物をする。食事をする。お酒を飲む。通勤する。音楽を聴く。仕事をするのも行為は行為です。私は凡人ですから悟りは大げさにしても、つまらないとか真面目にやっていたって認められないとかどうせ安い時給だからとかは考えなくなりました。行為の中に美しさがあり、行為そのものに没頭することに喜びや救いがある。
 そして、少しずつ復活したという感じでしょうか。
 
 
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2016.08.29 10:18

 昔、ある教室にいたときアルバイトの大学生の方がしょっちゅう休んで困ったことがありました。体調が悪いという。あきらかに仮病なのですが。
 面接のときは頑張りますとおっしゃっていたそうなので、おそらく採用されるためだけだったのでしょうね。ただ私はとくに腹をたてたりはしませんでした。他人が原因で私が不快になるのは利口ではない気がします。ですから困りはしましたが、怒りはしませんでした。
 
 学生時代、えらく手抜きをする先生に習っていたことがあります。はじめから終わりまでずーっと座っている。で、課題を与えて作業させる。ご自身は本を読んだりうつらうつらしたり。教室が騒がしくなって安眠が妨げられると「うるさい!」と怒鳴ります。
 あとは生徒に発表させておしまい。黒板はまったく使いません。静かにしてさえいればずーっと遊んでいられるので、私はこの先生が好きでした。
 
 個別の塾で教えていた若いころは、こっそり外出する先輩がいました。生徒に課題をやらせてどこかに消えてしまう。終わるころに帰ってきます。働きたくないのでしょうね。先生をなさっていたぐらいですから、もちろん学力も学歴もあるのですよ。
 ときどき「勉強をやりたくない」という生徒がいます。私は頭ごなしに叱らないので、正直に話してくれます。やれば出来るなんて周囲にいくら言われても、やりたくないんですからいい迷惑ですと苦笑したりする。
 
 私自身、30代の一時期まるで勤労意欲の涌かない時代がありました。心の姿勢ですね。他者のことが気になっていました。要領よく稼いでいる仲間を見て、手間をかけるのがばかばかしくなった。先輩から「そこまでやらなくてもいいんじゃない?」と言われ、それもそうだなと考えました。
 姿勢が転換したのは、仕事云々とは全然べつの理由でした。詳しくは書きませんが、根本的な哲学的宗教的(?)要素がありました。
 
 つまり仕事のことだけを考えていて、仕事が一生懸命やれるようになるわけでもないということです。人間に対する理解、生きることの哲学、恵まれた境遇への感謝の念などが複合的に押し寄せてきて、再度真摯に取り組めるようになりました。
 そうした側面支援はじつは何より大切です。仕事側からだけアプローチしてもうまくいかない。いくら反省してもだめなのです。
 何が言いたいかというと・・・勉強にうんざりしているお若い方は、人生観を広げてみてくださいよ。
 
 偉人のーーどなたでもいいと思いますがーー伝記を読んでみてください。一流選手のエッセイを読んでみてください。世界中で起きているさまざまな出来事を調べてみてください。
 そんな作業の積み重ねの中から、これは勉強しなくてはという気持ちがわきたってくる可能性は十分あるでしょう。視野を広げてください。勉強できるということ(=自身の手で世の中をよくできるチャンスを持っているということ)が、とてつもない幸運だという事実を思い出されるといいと思います。
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2016.08.28 06:52

 講習中に生徒がいろいろなものを忘れていきました。文庫本がありました。図書館から借りたものなので返さないといけませんね。ただどなたかわからないので受付で保管しています。
 その文庫本が太宰治の「人間失格」だったのでほほうと思いましたよ。いいものを読んでいますね。
 じつはいまから20年以上昔、私は太宰治はあまり読まないようにしようと思ったときがありました。
 
 太宰治と村上春樹さんですね。どちらもものすごく影響を受ける。ただごとではないような影響を受けます。文体だけではなく、物の見方まで変わってきてしまう。当時は自分も文章による創作活動に励んでいましたから、このお2人だけは手に負えない感じがして大好きではあるけれども封印しようと考えたのです。
 だいたい私が全集というものを集めた作家は2人だけですが、そのうちの1人が太宰治でした。全集はまだ保管しています。
 
 ぱらぱらとめくって20年ぶりぐらいに読んでみたら、やっぱりすごく面白い。歳をとってかなり客観視できるようになっています。私は評論家でも研究者でもありませんから単純に感じたことをそのまま書いてしまうと、この小説はやはり相当ギャグ的な要素が強いと感じました。
 少年時代はそう思わなかった。もっともっと深刻にとらえたいという気持ちがあったのですね。いわゆる世に言う「下降志向」とか。当時と印象が変わりました。
 
 何と言うか・・・たとえば授業中消しゴムがころがり落ちたとしますね。そのとき「消しゴムがころがるなんて、もう私は生きた心地もいたしません」なんて言ったら笑われます。そういう要素がいたるところにちりばめられている印象を持ちましたよ。一部抜粋します。
 
「アパートの窓のすぐ近くの電線に、奴凧が一つからまっていて、春のほこり風に吹かれ、破られ、それでもなかなか、しつっこく電線にからみついて離れず、何やら首肯いたりなんかしているので、自分はそれを見る度毎に苦笑し、赤面し、夢にさえ見て、うなされました」
 
 読点だらけだなあ。内容的に「そんなわけないじゃん」なのですが、それでもすごくおかしいことはおかしい。
 少年の日、自室で一気にこの小説を読んだたそがれどきを思い出します。西日が射していた。あの日の自分に会いたい気持ちはありますね。
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2016.08.27 00:23

 書店で私はなるべく露骨な立ち読みをしないように心がけていますが、買うか買わないか決めるために中をのぞくことは当然あります。けっこう迷う。書籍に関してはあまりにも衝動買いが多いので、あとで後悔しないか少し考えます。
 これからお話する本はまだ買っていません。買っていませんが、今後買ってしまう可能性がある気がします。この本を発見したのは北区のある書店でした。他ではあまり見かけないな。
 
 たしか・・・東京五大というタイトルだったと思います。東京五大ラーメンとか東京五大立ち飲みとかいろいろ出ていました。その1つに「東京五大チャーハン」というのがありました。そこに渋谷で私が利用するKというお店が出ているではないですか。このKは井の頭線渋谷駅近くにあります。つまり教室からは離れている。離れているのに行くのはおいしいからです。ただいくらおいしいとは言ってもそこは盛り場にある24時間営業の大衆中華屋さんですから、五大何とかに掲載されたのは快挙だと思います。
 
 鍋振り技術の素晴らしさについても書いてありました。確かにほかの大衆中華屋さんだとじつはチャーハンはすでに作ってあったりします。形だけ炒め直して提供する。Kの近くにある中華屋さんはそうでした。チャーハンは大量に出るので、いちいち炒めるのは手間がかかりすぎるということなのでしょう。
 しかしKではそれこそ一から作ります。しかも値段は近隣でいちばん安い。渋谷のど真ん中であの値段設定はすごいと思います。
 
 職人さんが何人かいらっしゃるのですが、渋谷教室(私だけではなく副教室長のN先生や教務の方もときどきお邪魔しています)で話題になっているある職人さんは全身全霊を傾けて作る姿勢がーー悪い意味ではありませんーー人間業とは思えない。何しろ大きな中華鍋を両手で振って左右別々の料理を同時進行で作ったりしているのですから。ワープロ操作程度で腱鞘炎になった自分が恥ずかしい。
 先日、改めて「五大チャーハン」だと自分に言い聞かせながら食べてみました。前々からおいしいと思っていたのですが、肩書きがつくとますますおいしい。
 
 そもそも味が濃い。チャーハンだけでなくスープの味も濃い。それがまたいいのです。黄色い古典的なたくわんがふたきれつく。もうちょっとほしいような気もするので、ひと口で食べずに2回に分けて食べたりします。そういう工夫がまたおいしさを倍増させます。
 女性客はあまりいらっしゃらない。お世辞にもオシャレとか洗練されたとかという空間ではありませんからね。味の濃さと相まって労働者階級対象みたいな感じもあります。それがまたいい感じ。書いていて・・・食べたくなってきましたよ。
 
 
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2016.08.26 08:45

 自分自身に確認するために書いておきます。
 どのようなことであれ、責任や原因は自分にあるというのが基本ですね。近しい人間が亡くなった(私の年齢だとしばしばあります)とします。非常に動揺を生じる事態であり、そうした事実に関して自分はまったく無力です。ただ人生の見方や死生観をしっかり構築し続けることで、多少ダメージは弱められるとは考えています。受け止め方という点は、あくまでも私自身の責任です。
 
 自分の人生に起きたことを自分自身でコントロールできるような状態に保っておくことは大切なことですね。さまざまな原因が私以外のところにあるのなら、私は自分の人生に対して徹底的に無力です。いわゆる「どうしようもない」「何もできない」ことばかりです。運命に翻弄されるだけになってしまう。それは避けたいと思ってきました。
 子育てについてもそうでした。息子が小学校でいろいろ問題を起こしていた時期も、私は自分の息子だからという理由だけで大切にしてきました。
 
 その信念は非常に貴重だと思いますよ。筆頭株主(?)の私が彼という会社を大切にしなかったらどなたが大切にしてくれるというのでしょう。家内にもそれは常に伝えていました。交換条件を出さずに、とにかく大切だということだけは伝えておきなよと。
 この話はなじみの飲食店で聞いたお話で、仕事関係ではありません。中年のご兄弟が揃って病気で困っている。さらに高齢のお母さまがもっともっと困っている。お兄さまは最近入院されその奥さんもお嬢さんも困っている。困らないお話は1つも出てこない。
 
 こうした「八方塞り」に見える状況が人生にはしばしば訪れます。そのとき私たちはすぐにちょっと前のことを考えがちです。そしてあそこで左に曲がらず右に曲がるべきだったと後悔します。ああ言うべきだった。断るべきだった。育て方に問題があったかも。助けるべきだった。和解するべきだった。
 そのすべての後悔は、しかし私たちからただただエネルギーを奪うばかりです。変えられない過去を悔やむことに全力を尽くしてもどうにもならない。いま、ここから出発しなおすことでしょう。暗いほうではなく、少しでも明るいほうを見るくせをつけることです。
 
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2016.08.24 07:08

 授業中生徒たちの机の上を見ているだけで、だいたいのことがわかるものです。このお話は以前も書きました。あまりにも散らかっている場合・・・まれに小学生にはその状態でも非常にできる子が混じっていることがありますが、いずれは失速していきます。高校に入るころにはきちんとしている仲間にはかなわなくなる。もちろん個人差はありますよ。
 きちんと整理できているということは、頭の中も整然としているということです。
 
 授業で使用しないプリント類やテキストは「いまは使わない」ということですね。またそんなに大量の筆記用具を持っていても全部を使うわけではない・・・どころか必要なものを探すのに時間がかかります。ノートとテキストをどの程度重ねるのがいちばんスピーディーに書けるかということも経験上わかります。
 そうしたことに敏感になればなるほど、まったく無神経であるときに比べて圧倒的にできるようになっていきます。
 
 外側にあらわれるものは内側にあるものなのですよ。よく身体の中に心があるという表現がありますね。逆かもしれません。その人の心が外部にあらわれたものこそが身体というか「身なり」なのではないか。
 ですからお金はあるのに身なりが極端にだらしないとか他者に不快感を与えるほど不潔にしているとかというのはケース・バイ・ケースとはいえ、心の不調に原因があると言えるでしょう。いや、外見なんかどんなにひどくても心さえ美しければいいという考え方がありますが、心と身体はいわば車の両輪ですからね。
 
 私の周囲のものはすべて私のあらわれということです。私の着ている服、髪やひげの感じ、爪がどれぐらい伸びているか、自宅の部屋や仕事場がどういう状況であるか、教室でどれぐらい丁寧に黒板を消すか、そうしたことはすべて私の心のあらわれ以外の何物でもありません。
 ですからーーあくまでも自分の場合ーー外見では判断しないでくれという気持ちはありません。むしろ見た目でどう判断されても、いたし方ないだろうと思っています。
 
 私は整理魔みたいな人間ではありませんし、適度に散らかっている空間を快適に感じるタイプの人間です。ですから雑然とした雰囲気を責める気持ちはまったくないですよ。
 ただお若い方は外側にあらわれたものはじつはご自身の内側を投影しているのだと、ちょっとだけ意識に止めておかれても損はないと思います。
 
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2016.08.23 07:15

 これまた臨時です。
 昨日台風上陸で流れてしまった分の授業の補講を本日実施いたします。詳しくは「Z会の教室」のホームページをご確認ください。Z会進学教室(首都圏高校受験・公立中高一貫中学校受験)だけに関していえば、昨日の授業がそっくり今日に移動すると考えてくださってけっこうです。私もこれから教室に向かうところです。
 
 
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2016.08.23 06:27

 今年の夏期講習期間は忙しかったですね(今日も昨日の補講があります)。例年より大変な感じがしたのは体力が衰えてきたせいなのか本当に大変だったのか、にわかには判断できません。ただこういうことがありました。
 インディペンデンス・デイの新しい映画を見ていない。こういう姿勢ではいけないと思い、先日夕方の授業終了後新宿の映画館に行きました。夜の7時過ぎ1回しか上映していないのです。翌朝も早くから授業なのでちょっとだるいかなと思ったのですが、どんどん活動が縮小していくような気がしたのであえて行きました。
 
 そういう自覚がある。昔は休日にわざわざ山谷地区に出かけて行って飲んだりしていました。ふだんは活動しないところで、あまりお話する機会のない職種の方と話すと楽しかったりする。
 その界隈に泊まりこんで写真をとっていらっしゃる有名なカメラマンの方と遭遇したことがありました。お名刺をいただいたのですが、ずっとあとになって新聞にその方の大きな写真が掲載されました。海外で拉致されたカメラマンとその方が混同された。実際に拉致されたのはその方ではありませんでした。
 
 ・・・というようなところにもここ数年すっかり足が遠のいてしまっています。
 で、映画のほうなのですが実際に映画館まで行ったら満員ではないですか。残席ゼロなので入れませんと言われました。がっかりしたかというと、じつはちょっとだけほっとしている自分がいる。さっさと帰れるという気持ちになっているのです。こういうところは歳をとったなという気持ちになります。
 家内なんかーー私とたいして歳は変わりませんがーー先日シン・ゴジラとインディペンデンス・デイをいっぺんに見に行きましたよ。
 
 おばちゃん、恐るべし! 
 結局、時間の都合でゴジラだけ見てきたらしいのですが、ゴジラはいい映画だからあれは見たほうがいいとしたり顔で述懐していました。
 現在も授業そのものはーー相変わらず全時間座らずにやっていますーーまったく苦痛ではありません。授業は自分の生命線です。ほかのことはどうであれ、ここが弱ってきて生徒に支持されなくなったらそれは本当に「終わり」だなという気持ちは持っています。
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2016.08.22 09:46

 臨時の記事です。
 本日8月22日首都圏の教室の夏期講習は、台風接近のためすべて休講になってしまいました。あとのことは今夜の9時ごろにホームページに告知される予定です。自習室も開放されていませんのでご注意ください。
 残念ですが自然相手では仕方がないですね。私は教室に来ています。じつはいろいろと忙しくて、今日の夕方分の授業の予習がまだできていませんでした。授業はありませんが予定通りに予習はしようと思います。受験生の皆さんもどうか講習のある時間帯は勉強をなさってください。淡々といきましょうね。また明日の記事でお目にかかりたいと思います。
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2016.08.22 06:23

 たとえば「疲れる」という動詞があります。手許にある辞書には「使い過ぎたため、そのものの本来の機能が(極端に)低下した状態になる」と書かれていました。ただこれをはじめて知った段階で、世間で一般的に使用されている疲れたの用例を聞いてもなかなかぴんと来ないかもしれません。
 たとえば大恋愛をしていたカップルが破局したとしますね。「何となくもう疲れてしまったの」と女の子が呟く。よくあるお話ですね。
 
 あるいはお金儲けに邁進している人がいたとします。その彼が「こういう生活自体疲れてきちゃったなあ」と明るい表情で独白する。
 おそらく生まれてはじめて「疲れる」を辞書でひき、覚えようとしている真面目な小中学生はあれれれ? という感じになると思います。恋愛で疲れるってどういう事態ですか? あるいは儲かっているのにどうして疲れる必要があるのですか? という質問が出てきそうです。
 
 質問した方自身に大恋愛の経験はなくても、恋愛小説を読んだり恋愛映画を見たりという経験でもあれば、なるほど疲れたという感覚も理解できないことはないということになるでしょう。物事の理解には「補強する何か」がどうしても必要なのです。
 先日、几帳面でよくできる生徒が質問に来ました。「社会のコンテキストに置いて考えることをしなかった」というフレーズがわからないというのです。もちろんコンテキストは調べています。「文脈」ですね。
 
 ところが、社会の文脈って・・・だから何? ということになる。それはそうだと思いますよ。場数を踏んでいないとわからない。1回目ではわかりません。
 いろいろ説明したのですが、納得できたようなできないような複雑な表情を浮かべていました。大人の読み物には頻繁に出てくる表現ですね。世界というコンテキスト、現代というコンテキスト、グローバル社会というコンテキスト・・・しょっちゅう出てくる。何度も何度もぶつかっていくうちに、用語の持つ含みや柔らかさが皮膚感覚的に獲得できるようになります。
 
 つまりご自身でたくさん読むしかないということです。3回4回と重ねていくうちに正しいニュアンスがつかめるようになるでしょう。それ以外にじつは方法はないのですよ。読解は経験なのです。解析研究ではなく、大量の経験です。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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