2015.10.31 01:30

 昔のほうがよかった・・・的な感慨は私にはないのですが、いろいろと昔と現在を比較して面白いなと感じることはあります。
 10年以上昔、Z会進学教室にも「皆勤賞」というものがありました。無遅刻無欠席、振り替えなどもしなかった生徒を表彰していた。1クラスに3人ぐらいはいましたよ。1年間無遅刻無欠席である。当然できる生徒ばかりです。
 彼らだってもちろん忙しかった。部活も定期テストもありました。それでも塾通いを最優先させていた。
 
 現在は便利な世の中になって「皆勤賞」など塾で作っても取得しようとする生徒はいないと思います。定期テストのときはお休みする方が多いですし、振り替えも学年によっては非常に便利にできるようになっています。
 時代の要請からすべてが便利に便利にという方向に流れています。いいことなのだと思いますが、失っているものがないだろうかということはちょっと意識してみてもいいかもしれませんね。振り替えればいいのだからととくに用事がないのに遊んでしまった・・・という形であれば、あきらかに便利さがご本人の真剣味をそいでしまっています。
 
 授業の遅刻についてはいろいろと考えてしまうことがあります。もちろんやむをえないものもある。おうちの方からこれこれこういう事情でというお電話をいただく。だいたいは学校行事ですね。「30分ぐらい遅れます」とおうちの方がおっしゃって本当に30分程度遅れて「どうもすみません」と教室に入ってくる。こういうケースは全然気になりません。私はページ数だけ告げてそのまま授業を継続します。
 問題なのはしょっちゅう5分ぐらい遅れて駆けこんでくるとか、とくに理由がないタイプの遅刻ですね。
 
 まずかったなと反省してくださればいいのですが、それでかまわないじゃないかと信じている子もいます。私に対してはどうでもいいですよ。失礼な子だと腹をたてることはまずありません。私も歳をとってーーそこはマイナス面かもしれないのですがーー生徒のことは孫(?)みたいに可愛く感じるだけで腹がたつことはまずありません。
 ただ世の中に出たら(この場合、学校だって世の中です)、遅れてあたりまえではまずいでしょう。ほんの1つ年上の先輩に対してだってまずい。相手は怒るかもしれないですよ。むだにした自分の時間を返してくれと。
 
 ゆるい世の中ということで、おうち全体が「少しぐらい遅れたっていいよね」という発想である可能性もあります。「遅刻はご家庭の文化だ」とおっしゃっていた私立高校の教頭先生のお話は以前もどこかで書きました。ご兄弟が揃って少しだけ遅れてくる。保護者会ではおうちの方がやはり少しだけ遅れていらっしゃる。連鎖を食い止めたいと先生は必死になるのですが、おうち全体でやってくださらないとなかなかうまくいかない。
 私が高校のときはいかなる理由であれ遅刻者は教室に入れないという先生がいらっしゃった。体調が悪かった? 甘えるな! で終わりでした。それで文句が出たりすることは一切ありませんでした。時代の変遷ですね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.30 09:26

 葛西教室のA先生からまたまたご連絡をいただきました。千葉県立を受験される方のために次の催しを開催されるそうです。よろしかったらぜひご参加ください。
 
http://www.zkaiblog.com/z-shingaku/56439
 
 東京都、神奈川県、埼玉県、そして千葉県と近隣ではあるのに高校受験の仕組みがそれぞれ違うので混乱しますね。また仕組みを完全にマスターしても、年度によってまったく変わってしまったりもします。次年度の都立高校もそうです。たとえば内申による実技教科の比重が格段に重くなりました。
 
 地域によってやり方が違う、また同じ地域でも時間の経過とともに仕組みが変わるのは人生と同じで、なかなかベストのものがわからないからでしょう。わからないのであれこれやってみる。大きくは変えられなくても、何もしないよりは少しでもいい方法を・・・ということだと思います。うまくいかない部分が出てきたらさらに変えていくということですね。
 ただ、過去にどうしてこういう変え方をしたのだろうと不思議になる変化もないではなかった。たとえばもっとずっと大きな枠組で遠い昔、学習指導要領が大幅に改定されたことがありました。難しいことは教えなくていいという時期があった。
 
 これは絶対に数年で元に戻る(つまりまた難しくする)という予感がありました。そこで塾の入会説明会(当時は三鷹教室にいました)では、いずれ「不勉強な世代」みたいに言われる可能性があるので、学校だけではなくぜひ塾も利用してほしいとさかんに力説したものです。
 はたしてそうなりましたね。学力の高い上下世代にはさまれて、学校の勉強だけで終始した方はちょっと苦労されたかもしれない。どう考えても勉強する内容をあえてしぼるという方向性はよい結果を生むとは思えません。前の世代の知恵はありがたく継承していくのが正しい生き方であるように感じます。
 
 勉強という名称にするから億劫な気持ちになる。知らないことを知るというのは基本的には面白いことです。楽しいはずなのですよ。小さなことでもそう。最近台風がやってきますね。見ていると南から北上してきてほぼぜんぶ途中で右に曲がる。理由がないわけがない。教われば、へええと感じるはずです。
 植物の葉っぱがなぜ真夏に鮮やかな緑になるか。夏の光を浴びて植物が喜んでいる? とんでもない! 紫外線と闘っているそうですよ。はじめて知って「そうだったのか」と驚く。先入観さえもたなければ楽しいことだらけです。
 
 漢字だってそうでしょう。「靴」という字、なるほどよくできている。「盛」という字、皿の上に成るですよ。「明」日と月がいっぺんに出てくれば明るいはずです。面白がりながら自然に自然に難しいほうに近づいていくのが正しい姿勢ですね。「勉強しなければ叱られる」という強迫観念(?)みたいなものを1度忘れてしまうといいと思いますよ。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.28 04:37

 ときどき、自分は難問は解けている。やさしいものをうっかりミスするだけだから本当は秀才だと言い張る生徒がいます。まあ、小中学生がそんな風におっしゃるのは仕方がない面もありますが、親御さんまで固くそう信じているケースがある。
 この子はとりこぼしが多いだけで、本当はできるのですとおっしゃる。しかし、お気の毒ですが、とりこぼしが多いということはできないということです。能力がないという意味ではないですよ。ただその傾向を「本当はできる」と認めてくださる学校はありません。
 
 確かにひらめく子というのはいます。ひらめく。ときどきいいことを言う。気分が乗ると結果を出す。ただ何しろ気分屋でご本人も周囲の大人もそれでよしとしてしまっているので、本番には弱い。本番の入試というのは独特の雰囲気があり、地道な努力をしてきた生徒でないとなかなか実力を発揮できません。どこかにご自身でも(自分は能力が高いと過信して地道な努力を怠ってしまった)という意識がある。すると試験場で(自分はとにかくこつこつと実直にやり続けた)と考える子にせり負けてしまうのです。
 
 じつは私自身にもそういうところがある。過去の私という意味ではなく現在の私自身ですよ。この文章を書いている私がです。だからこわい。
 私はよくインターネットで将棋を指すのですが、強い方に勝ったあとですごく点数の下の相手ーーつまり客観的な棋力は私のほうがずっと上だという意識を持ってしまうーーにころりと負けることがあります。挑戦されたときにはこれなら楽勝だと思う。いまずっと上の点数の方と対戦して勝ったばかりなのでそう感じるのですね。
 
 途中であれ? というミスが出るのですが、まあどこかで挽回できると楽観している。ところがどんどん悪くなる。もっと考えればよかったと後悔しても取り返しがつかない状況まで来て、おいおいこれは本当に負けるかもしれないぞ・・・と青ざめる。
 いちばんいけないのは実際に投了したとあとも(じつは自分のほうが上だ)などと思おうとしていることです。そうではない。負けたのであれば、明らかに私が下です。しかし、それを認めたくない。それで「うっかりミス」と自分自身に言い訳をする。
 
 間違えたのであればそのレベルということですよ。簡単なテストができなかったのだとしたらそれだけの実力であり、相当上げていかなければならないというだけです。その自覚が持てるかどうか。そこが大切だと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.27 03:41

 ばたばたしたことが続いています。ついこのあいだまで母親が入院していたリハビリ病院の同じ階に今度は父親が入院することになりました。何だか・・・ところてんみたいですね。こんなことを書いていて、次は自分がひっくり返ったりしないように気をつけようと思います。
 その病院は西荻窪駅近くにあって便利ではあるのですが、一切洗濯はやってくれないのです。洗濯物は身内が洗えということになる。週に2回火曜金曜に家内や息子が洗濯物を取りに行ったり届けたりしてくれていました。それもまた何だか申し訳ないような気がする。本当は実の息子の私が黙々とやればいいのでしょうが、今週もまた1回しか休めません。
 
 父親もそこを出てからはどこかの施設に入れていただくことになると思います。それを現在妹が探しています。母親は奇跡的に非常にいいところに入所できたのですが、そこに入るまでにどれだけ妹一家(もう一家ですよ)が大変だったかということは身近にいるのでよくわかっています。
 どう考えても運みたいなものも左右する。ですから、そういうこともある程度真剣に考えないといけない。どうしたら運が向いてくるか。迷信みたいですが、生きていく過程で運という要素は大切だと思っています。運が向くように生きるべきであると考えています。
 
 先日、近いうちに主婦と生活社の編集者の方にお目にかかるかもしれないと書きました。「励ます力」の販促活動についてお話することになっています。
 つい10日ほど前もアマゾンのカスタマーレビューというのですか、書いてくださった方がいらっしゃった。7人目の方ということになります。私はぜんぶありがたく拝読させていただきましたが、どの方も非常によく書いてくださって感謝しています。
 もともとこんな(?)性格なので大ベストセラーを狙うぞとか続編を出そうとか、とんでもないことは考えられませんでした。ただ書籍を出しましょうとおっしゃってくださった出版社に大迷惑をかけるとか、不評で渋谷教室が困るとかという事態だけは避けたいと思っていました。
 
 こうなるとぎりぎり両親が元気なうちに出版が間に合ったなという感慨も持っています。本当に1年違っていたらーーとくに母親はーーきちんと理解できなかったかもしれません。
 まあ、刷っていただいたものだけは完売できるといいのだがという気持ちがあります。
 枕元に置いて眠ると安心すると直接おっしゃってくださった方がいらっしゃった。なるほどそんな効用も出てきたかと我ながらうれしくなりましたよ。それこそ運も強くなりそう。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.26 09:23

 グローバル化が加速する現代は・・・みたいな文言があちらこちらで散見されます。そういう世の中になっていますね。
 だから日本人も変わらなければならないという考え方が圧倒的多数を占めています。私はそれはそれでいいことなのだろうとも思っています。ただそれによって失うものがあるかもしれないということも、ちょっとだけ意識しておいて悪くはない気はします。声高に訴えることはしませんけどね。
 
 たとえばこういうことがあります。
 中学生が意見をと言われて「びみょー」と答える。日本人はこれだからだめだということで、それでは伝わらない。「びみょー」という発言を細かく説明しなさいとやる。子どもですからそういうものかときちんと指示に従うでしょうし、いずれは「びみょー」ではなく、これこれこういうところはよさそうに見えてもいくつかの欠点が考えられますとか、よさそうにも感じますが自分は生理的にその考えを好みませんとか、詳しく説明できるようになるとは思います。その結果、当然他者の「びみょー」にも何だ、それは? と批判的になりますね。
 
 私はたとえば生徒たちに何か投げかけて「びみょー」と答えられたら、そのニュアンスを全力で理解しようとしますし、それが理解できなかったときは相手の落ち度というより自分の洞察力の欠如であると判断します。「びみょー」という表現の中にこめられたそれこそ微妙なニュアンスを読み取れない先生でどうするのだという気持ちがある。
 いつものことですが、あくまでも「私は」という話であって、人さまに提唱しているわけではないですよ。
 
 日本人はそうやって昔から相手の表情や気配みたいなものを読み、気持ちを汲んできました。いやがっているなという感じがあればむりに誘わない。いやがる理由を問いただしたりもしない。それが読めない汲めないときは、こちらが悪いぐらいに自己反省した。そのこと自体が非常に穏やかで美的な文化を作り出していたとは思いますよ。
 それが一切きかなくなる可能性もないではない。お孫さんに「おばあちゃん、行きたくないなら行きたくないとはっきり言わないと伝わらないんだよ。言わないほうが悪いって教わったよ」と言われたら、やはり一抹の寂しさは感じると思います。
 
 世界に通用するしないは別のお話であり、そうした素養も大切なものだと小さな声で訴える人間がいてもいいのかなというぐらいですね。得るものが大きければ失うものも大きいかもしれません。満車状態の駐車場に大きな車を止めるということになると、同じぐらい大きな車にどうしても出ていってもらわないといけない。価値観にもそういう部分がありますね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.25 00:20

 木曜金曜で行ってきました。ホワイトスネイクの名古屋公演。名古屋市公会堂はちょっとみすぼらしい(失礼!)し、お客さんの平均年齢は高いしどうなることかと思ったのですが、非常によかった。1990年代の後半、私は同じようにホワイトスネイク名古屋公演を今回よりずっと大きな会場で見ています(ウォーレン・デ・マルティーニがセカンドギタリストだった時代です)が、そのときよりもよかったような気がします。
 パープルのナンバーはやはり盛り上がっていました。新しいギタリストはけっこう掘り出し物かもしれません。
 
 今回はそれだけを目的に行ったので名居酒屋伏見のDの向かいに泊まったにもかかわらず、Dには行きませんでした。何となく不純(?)な気がして足が向かない。コンサートまではホテルの部屋でうとうとしていました。おじいさんみたいですか? まあ、おじいさんになってきているのだろうな。
 初めて泊まったそのホテルもなかなか快適で、古いのですが風格があって部屋がとても静かでした。けっこうぐっすり眠れました。なぜかいつもの金山のホテルは、7月の時点で満室になっていたのです。
 
 コンサートのあとでちょっとだけ飲みました。1人なので軽く立ち飲みでいいやと思い、昔も入ったことがあるお店に行った。
 おかしいのはここからです。ちょうど大昔の生徒からメールが来ていた。中学生のお子さんがいらっしゃり、いろいろとアドヴァイスを求められることがある。また同時期に飲み友だちからもメールが来ていた。名古屋ではどこで飲んでいるんだ? というような。交互に返事を書いていました。
 ふと見るとそのお店ではレバ刺を出しているではないですか。いまは禁じられているような気がするのですが、堂々と「レバ刺でーす」と出している。
 
 おっ! と思いました。で、さっそく飲み友だちに「名古屋ではレバ刺が出ているぞ!」とメールを送った。送ったつもりだったのですが、間違えて昔の生徒の相談の返事の書きかけにくっつけて送ってしまいました。
 整理するとこういうことになります。途中までは相談の答えが書いてあり、次に突然レバ刺が出ているぞ! という文章が届いた。あちらも80年代から私を知っていますからそんなにはびっくりしなかったかもしれませんが、どう理解したものか苦しんだと思います。すぐに気づいて「すまない、混ざってしまって・・・」と送り直しました。
 
 さすがにこんな間抜けなミスは珍しい。ここまで間が抜けているといよいよ末期的だなとも思います。思いますが、末期的というよりむしろこちらが本質なのではないかという気もします。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.24 06:44

 先日、施設に母親の見舞いに行ってきました。遠い昔、自分が住んでいたところとさほど離れていないので知らない場所でもない。母親はそこで終焉(?)を迎えることになると思います。近くに森があり、鳥の声が聞こえました。静かなーーどちらかと言えばーー寂しい感じの場所です。
 寂しいというのはこちらの心象が反映してしまっているのかもしれません。妹と一緒だったのですが、母は車椅子に乗っていることさえ疲れてしまうように見えました。やたらと眠りたがる。それはしかし、正しいことであると私は感じました。
 
 妹が訊く。実家からここに運びたいものがあるかと。すると何もないと言う。そうなのです。もう何もいらない。
 じつは母親は元気だったころ、なかなか実家が片づかないと嘆いていました。物がありすぎるというのです。物がありすぎると言ったって息子の私の目から見ると使っていないものばかりです。ぜんぶ捨ててしまえばいい。そうアドヴァイスすると、なかなか捨てられないと言うのです。捨てられないものが多すぎると言う。
 
 いよいよ死期が近づいて「何もいらない」ということが明確にわかるのでしょう。わざわざ部屋に運んでくるようなものは何1つない。
 おそらく私自身の人生もそうなのだろうと思います。捨てないで何となくとってある服というのがあります。今年も去年も1度も着ていない。そんな服はじつはもう着ないに決まっている。捨ててしまえばいいですね。リサイクルに出すとか「捨て方」はいろいろあるとは思いますが、要するに私が保管しておかなければいけない理由はない。さらに自分の場合、何年も読んでいない雑誌なんかもあるのですが、それももう捨てようと思いました。
 
 変な執着心みたいなものはなくしたほうがすっきりする。
 こういうのは心理的なものもたくさんあると思います。どなたかのことに執着している。それは亡くなってしまった方かもしれませんし生きている方かもしれない。憧れ、嫉妬、恨みつらみ、悲しみ、怒り・・・いろいろなケースがあるでしょう。あるでしょうが、残っている原因は相手ではなく私たち自身のほうにある。重荷をあっちこっちに持ち運び、片づかないと嘆く。
 自分の場合は心理的な重荷というのはあまりないのですが、さらにすっきりさせたいと思いました。
 
 忘れてしまうということですね。とくに悪いほうの感情はきっぱりと忘れてしまったほうがいい。それこそ「幸せに生きるヒント」でしょう。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.21 08:07

 歳をとって悪いこともあるのでしょうが、いいこともたくさんあります。人生についてあれこれ考察を重ねられたのは、とても有意義なことだったと感じています。
 たとえば「あそこはいいお店だ」あるいは「あの人はいい人だ」という言い方がありますね。昔はとくに疑問を感じていなかったのですが、最近は固定化した「いいお店」「いい人」というのは存在しないのではないかと考えるようになりました。そう言い切ったのは、精神の怠慢さゆえではなかったか。そう決めておきたかったということではなかったか。あれこれ考えるのが面倒だったのでは?
 
 つねにこちら側も変化しているわけですから、「いい」という価値観に普遍性はないのだと現在は考えています。
 どなたもそうだと思いますが、若いころ「どういうタイプの異性が好きですか?」という質問を受けましたね。どういうタイプと言われても、なかなか返事ができずに苦労したことを覚えています。
 男女関係はとくにそうですが、お互いが共鳴し合う必要があるわけですから本来であれば好きになる対象は「共鳴が起きる相手」だけであって、それが起きるかどうかは実際におつきあいしてみないとわからないでしょう。
 
 それをタイプ「だけ」で決めようとしたから変なことになった。当時はタレントさんの名前なんかをあげたりしていましたが、自分自身でも何だかもやがかかったようなぼんやりした印象を受けました。
 おそらく進学先や職業なんかについてもそうした事情は出てくるでしょう。何々になりたいという気持ちがはっきりしてくるのは、試行錯誤の中ではないかと思うのです。はじめからびしっと決めれば楽かもしれませんが、こちらも変化成長しますからそういうものではない。変化したことで、初心を貫けなかったとご自身を責めるべきではないと思います。
 
 日々の生活が面白いか面白くないかということも固定化して考えるべきではありません。要するにどちらの気分を選択するかだけです。ですから幸不幸を言い切ってしまわない知恵と余裕を持たれるといい。どのような幸福も不幸も相対的なものですから、その中で何をどう糧にしてよりよい日々を引き寄せていけるかという視点が大切です。絶対的にだめという見方そのものが、じつは楽になりたい精神の怠慢であるとトリックに気づいてほしいと思います。
 
 運が悪いという表現なんか、その最たるものではないですか。私が今日幸せであるのは、それこそ「運悪く」たくさんの入学試験に落ちたり「運悪く」生まれつき左足が少し悪かったり「運悪く」たくさんの友人知人と別れたり「運悪く」落第したり留年したりしたからです。では、その「運の悪さ」を幸福に変えたのはだれなのか。
 もちろんすべては自由選択の問題ですから、憂鬱さの中で生きる自由もあります。要するに何もかも掌中にあるということです。
 
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.20 00:09

 うちは私VS家内と息子みたいな感じになっています。私は基本的に仲間はずれですが、それは私自身が望んでいることでもあり、仲が悪いとかそういう状況ではありません。ただ情報が入ってこないのです。
 たとえばお金の管理なんかは家内は息子に相談しても私には何も話しません。私は一切わからないからです。一家の生活費の大半は稼いでいますが、そのあとのことは全然わかりません。そういう意味では社会人失格だと思います。息子の学費などはすべて家内が積み立ててくれました。
 
 家内と息子のところには大きなテレビがありますが、私の部屋には壊れかけたテレビデオ(おおっ!)が1台あるだけで番組はもう見られなくなってしまいました。ときどき昔のビデオを見る機会はありますが、見たいテレビ番組(「真実の行方」とか)があるときは、家内と息子のところまで出かけていってーーと言ってもほんの数歩ですーーテレビを見せてくれと頼みます。
 お、出てきた出てきたと笑われますよ。彼らはりっぱな座椅子を持っていて2人で使用しているので、それに座らせてもらう。
 
 こういう生活を10年以上続けています。
 家内と息子はいつのまにかムアツふとんというのに寝ています。私だけ普通の布団。昨日は天気がいいので干してきました。ところが彼らは干しません。何とムアツふとんというのは干さなくていいそうですね。
 そんなわけないだろうと思っていたのですが、何ヶ月たってもふわふわしています。寝かせてもらったわけではないですが、踏んだ感触でわかる。すごい反発力なのですよ。
 
 お父さんもムアツふとんにすればいいじゃないかと息子に言われるのですが、どうも自分専用のテレビを買う気がしないようにムアツふとんを買う気になりません。そのあたりは気持ちの問題で、どうしようもないですね。
 彼らはよく日本茶や紅茶を飲んでいますが、私はコーヒーしか飲みません。彼らはときどきタバコを吸いますが、私は一切吸いません。彼らは肉食を好みますが、私は基本的に肉食を避ける傾向があります。ですから、夕食のとき私だけが別メニューのことがしばしばあります。
 
 この一見不自然な感じが、自分にとってはきわめて自然なのです。私はどなたと共同生活を送っても最終的にはこういう形になるような気がします。どうでもいいことですが、ムアツふとんは高いものの価値はあるように感じます。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2015.10.19 08:54

 私は渋谷教室ですべてのクラスを担当しているわけではありません。ですからクラスの様子については先生方に日誌というものを書いていただいて、だいたいの様子をつかんでいます。
 何々くんが寝ていたとか、何々さんが宿題をやってこなかったとか、いちおうのことはわかっている。ときどき「そうだよなあ・・・」と感じる記述があります。
 非常にレベルの高いクラスで授業中復習をした。当然わかっているとは思うけれども、念のために復習した。そういうところがZ会進学教室の先生のいいところです。
 
 新しい項目に入るときに絶対に振り返っておいたほうがいい基本事項というのがある。ところがそれが経験値の乏しい先生にはわかりにくい。まさか! と思うような「抜け」がじつは大量にあるのです。抜けがどのあたりに分布しているかという予測がつくかつかないかで、教え方は相当変わってきます。
 すると当然こういうことがある。「そこまでさかのぼらなくてももうわかっているよ」という生徒がたくさん出てきます。それでももちろん黙って授業は聞いてくれます。
 
 なかで黙々とノートをとり始める生徒がいる。それが1番の子だったと書いてある。おそらくクラスの誰よりもわかっているはずのその生徒だけが黙々とノートをとる。どこのクラスの日誌にも、ときどき同じような現象が書かれています。
 わかりきったことでも姿勢を崩さずにしっかりノートしているのは(そのクラスの)トップの子だけ。他の生徒にしてもみんな理解しているのであれば、改めてノートをとらなければいけないとまでは思いません。ただ、なぜかトップにいるような生徒はそういうことをする。
 
 じつは自分のクラスでも先日そういうことがありました。ものすごく簡単なことをおさらいした。黒板を見ているだけでいいと私自身が口に出して言いました。本当に初歩中の初歩のことでしたから。
 それでもノートを開いて書きはじめた子がいました。ものすごくできる子です。私はわざわざ手をとめて、上に書いたような現象について生徒たちに話しました。わかっていることをノートに再度書けとは言わないが、どこでもそうした現象が起きるよと。
 
 結局、こうしたことは精神性につながってくるのでしょう。勉強に対する精神性。あるいは礼儀作法みたいなものですね。たとえばお相撲なんかでも取り組みのまえにあれこれしなくても、土俵に上がるなりいきなりぶつかりあうことだって可能は可能です。塩で土俵を清めもせず、お辞儀も何にもなしに闘うこともできないわけではない。
 ただ面倒臭いからそれでいいのに・・・と内心で考えているようなお相撲さんは、強くなれるわけがないとも思います。他者に対してというより、相撲という競技に対して畏敬の念が足りないように思うのです。同じことが勉強の世界にも言えそうですね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2015年10月   >>
        01 02 03
04 05 06 07 08 09 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

新着記事

月別アーカイブ