2015.07.31 01:27

 いちばん印象に残っている年は1972年です。ある意味で人生の方向性を決定した年でした。16歳から17歳、高校の2年生になった。とにかく芸術方面で生きていきたいと考えました。音楽関係か文学関係、ちょっと絵やマンガの世界も考えたりしました。それ以外の仕事は・・・あまりピンときませんでした。父のように会社というところに行って机に向かってみんなと何かをするというのは、自分には不可能だと考えたのです。その能力がない。とにかく集団生活は苦痛でした。
 
 若い感性は独特で、何にでも衝撃を受けました。また結果的にーーいま考えてみればーーやっていたことはぜんぶバカみたいでした。詩をたくさん書いた。言葉と言葉がわざとつながらないような詩をたくさん書いた。全体の印象のために意味を犠牲にすることを思いついたのです。
 どういう評価になるだろうと思い、誰もいない教室の黒板に2行だけ書いておいたことがあります。授業に来られた先生が不思議そうに「これを書いたのは誰だ?」とおっしゃった。誰も何も答えずにいると、先生は無表情にさっと消してしまいました。
 
 ある友人が「あれを書いたのはきみかい?」と質問してきた。ひとまず否定したあとで「なぜそう思った」と訊いてみました。「何となくそんな気がして・・・」それで終わりです。
 日曜洋画劇場でテレンス・スタンプの映画(「世にも怪奇な物語」第3部)を見た翌日、1日中学校でもテレンス・スタンプの真似をしていて(太陽を見ながらしゃがみこんで顔を大げさに覆ったりした)級友に「具合が悪いのか?」と質問されました。「保健室に着いていってやろうか」
 日本の10代にはこの美学がわからないのかとがっかりしました。
 
 ある先生の授業はまったく聞かない勉強しないと決めていて、テストで10点(100点満点です)をとった。通信簿は10段階で2がつきました。2だけ赤字で書いてありましたよ。私はそれを非常に名誉に感じた。落第はさすがにいやなのであとでこっそり勉強したのですが、友人には「10点だぜ、2だぜ」と自慢しました。ところが周囲は(きちんとした私立校でしたから)大丈夫かよといらぬ心配をする。塾に通ったほうがいいんじゃないかと提案する者まで出てきて、またまたがっかりです。この無頼が山の手育ちにはわからないのだなと。
 
 ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」が大ヒットした年です。才能のある友人が「この曲はひょっとすると20年後30年後まで残るかもしれないぜ」と言った。いいことを言うなと感心しました。30年後どころか43年後のいまでも有名ですね。歌詞がいい。自分で訳しましたよ。また1人だ、やっぱりね・・・というフレーズが心に深く残りました。
 唯一よかったと感じるのは、あのときの感性をいまでも少しだけ保持していることです。社会に出ようが家庭を持とうが身体や心にちりが積もろうが、失われない何かが確実に残りました。それだけですね。それだけです。
 
 
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2015.07.30 00:04

 読書感想文についてはもう何度か書いてきましたが、夏休みということもあるので同じ内容になりますがもう1度書いておこうと思います。
 中学生の方だと短くて400字、長くて2000字といったところではないでしょうか。平均すると800字ぐらいなのかなと思います。作文用紙2枚ですね。これがなかなか埋まらない。私も中学生のときはそうでした。あらすじを書いてとても面白かったと書く。すると400字にもいきません。困りましたよ。
 
 書き方にコツがあります。コツなんか教えてもらわなくたっていくらでも書けるよという方は、そのままのやり方でけっこうです。どうしてもマス目が埋まらなくて困っている方だけ参考にしてくださったらいいと思います。
 まず作者について徹底的に調べてみてください。それを書くだけで相当の分量になります。作者の生い立ちだけではなく、感想文で取り上げる以外の作品についても調べてみる。たとえばーーどなたでもいいのですがーー太宰治の「走れメロス」について感想文を書くことにしますか。そのときほかの作品についても少し書くのです。
 
 むりにぜんぶ読まなくてもいいですよ。ちらりと読んだだけで「走れメロス」と「人間失格」ではずいぶん趣が違うということに気づくはずです。そういうこともちょっとだけ入れてみる。この作品は作者のほんの一面をあらわしているものにすぎないと考えましたという風に。
 またその本を読もうと思ったきっかけみたいなものも書いてください。なぜ興味を持ったのか。手に入れるためにどこの書店にどなたといつ行ったのか。どんなことを話しながら買ったのか。帰ってくるとき電車の中でちょっとだけ中身をのぞいたのかどうか。わくわくしましたか? そういうことも日記のように書いてみるといい。読んでくださる方は生身の声を面白がるものです。
 
 さらに非常に感動、あるいは感心した部分を引用してください。大人の書評だってみんなそうです。その書物のことを詳しく語ろうとすれば、どうしたって一部を抜き出して説明を加えるしかない状況に追いこまれるのは大人も子どもも同じです。
 内容の深さに感動することもあれば、難解さに辟易することもあるでしょう。難しくてよくわからなかった部分を抜き出して、ここの部分はいまの私には正直なところよく理解できない、大人になったらきっとわかると思う・・・と書けばそれはそれでりっぱな感想文です。
 
 引用は多すぎても字数稼ぎみたいに見えてしまうので2ヶ所ぐらいにとどめておきましょう。表現の巧みさに感心したなどというものでもいいですよ。巧妙な比喩の含まれている部分を書き抜いてこんな比喩を考えつくだけでもすごいと書く。引用の前後は1行空けてください。
 そして最後はその書籍を読んで自分が何を得たか、成長したか、あるいはこれからどう成長していこうと思うか、そんなことを書いてまとめます。これからもたくさんの本を読んで物事を考えていける大人になりたいという感じですね。
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2015.07.29 06:25

 ときどき、先生でも怒ることがあるのですか? と質問されるときがあります。以前、生徒から「ちょっと怒ってみてください」と言われて苦笑したこともありました。教室内において私がどなたかに腹をたてることはまずありません。これは盲導犬と同じようなもので、訓練されているからでしょう。教室内においては私は全生徒の幸福についての責任を負っているわけで、仮に何か問題が生じたとしても他の生徒のことまで不安にしてはいけないと考えるのです。先生がこわいからすごく落ち着かないという状況を避けたいということですね。
 
 ただ私は「こわいけれどもいい先生」をたくさん知っています。自分が習った先生でもそういう先生は何人もいらっしゃった。ですからこわい先生や厳しい先生を単純に否定するものではまったくありません。それぞれの個性があり、少なくとも現在の私はそう考えているというだけのお話です。
 若いころは感情的になることも多々ありました。生徒が私語を交わしている。指示に従わない。いい加減なことをしている。すると腹がたつ。そういう時代がありました。真剣に教えているのに、という気持ちですね。目の前で遊ばれていたらまあ、腹がたちますね。
 
 現在はそう感じない。仮に眠っている子がいるとします。1回は起こすでしょう。ところがまた眠ってしまった。
 私の声を聞きながら寝るのがいまのこの子にとっては幸せなのだろうとさえ考えます。じつは本当にそう言われたことがあるのですよ。ときどき寝る生徒だったので、授業後にみんなのいないところで注意しました。すると恥ずかしそうにじつは・・・と話してくださった。「先生の声を聞きながらうとうとする瞬間が自分にはいちばん安心できる時間なんです」
 びっくりしましたよ。でも、そんな考え方もあるのかもしれない。かなり張りつめて生きているタイプの生徒でしたから。ほっとできる瞬間は必要は必要でしょう。
 
 日曜日、お休みをいただいていたのでクリーニング屋さんへ行きました。お店の中に人が複数いらっしゃったので炎天下で待っていた。他の方の洗濯物を見るのは失礼なような気持ちがするので、私はそういうときは外で遠慮するようにしているのです。私以外の方は、冷気を求めてどんどん店に入って行かれますね。
 自分の順番が来たので店内に入ってスーツとワイシャツを出した。すると「工場でトラブルがあり10日以上かかります」と言われました。珍しく腹がたちましたよ。暑い中、さんざん待たせてこれかよと。ではいいですと別のお店に持って行きました。そこではあさってにはできますと言われました。
 
 ・・・という感じで、普通なのですよ。ごくごく普通です。ただ教室内では何が起きても抑制がきいていると思います。訓練は大きい要素でしょうね。
 
 
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2015.07.27 01:15

 コメントを書いていて思ったのですがーーとくに受験生の方ーーこの夏休みは本当に「意識的な」生活を送ってください。勉強だけしなさいと言っているのではありませんよ。ゆっくりするのであれば、あるいは娯楽の時間を持つのであれば、きっちりと「休んでいる」「遊んでいる」と意識しながらそうしてください。
 よくあるケースでいちばん感心しないのが「何が何だかわからないうちに夏休みは終わってしまった」というやつです。忙しい忙しいと言いながらじつは日々その中心にいない。
 
 それでは効果が乏しいということです。
 これは計画的にというのとはちょっと違う部分もあります。計画はもちろんたてます。そもそも何か(受験生の方であれば学力ですね)を増進させるための計画であり、意識的に生きていればすぐ大幅な変更が必要になることもありえます。つまりこれでは学力がつかないと意識すれば、当然計画を変えようという気持ちになるはずです。
 計画をたてたのだからもう大丈夫・・・と計画の中で眠ってしまわない。そういう意志を強く持ってください。
 
 人それぞれだとは思いますが、復習には力を入れて。授業中はだいたいわかるものなのです。場合によってはこんなの簡単だよと甘く見る。ところがテストのときになると間違う。どこかに油断があるからですね。
 復習はしっかりやりましょう。復習の時間というのはじつは計画に組みこみにくい要素があります。すらすらできるようになるまで復習するということになると内容により10分ですんでしまうこともあれば、場合によっては1時間以上かかることもある。そういうところで「意識的に」生きているかどうかが試されるのです。
 
 覚醒、などという言葉を使うと悪い薬を連想してしまう方もいらっしゃるかもしれませんね。辞書をひくと迷いからさめることとか自分の間違いに気づくことと出ています。単純に目を覚ますという意味もありますね。
 そういう状態で日常を過ごしてください。計画をたてたのだからけさもたぶん6時に起きたんじゃなかったかなぁ・・・ではいけない。どんな6時だったのか。雨が降っていたのか晴れていたのか。どんな気持ちで起きたのか。頑張るぞと決意できたのか大変だとひるむ思いを持ったのか。そうしたことを意識しながら毎日毎日を生きるということです。濃く生きるクセをつけましょう。
 どうか頑張ってください。
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2015.07.25 07:20

 先週、15年ぐらい昔に教えていたある生徒から突然教室に手紙が届きました。当時の中学生ですからもう30歳近くになります。拙著を見つけてくださって、その感想みたいなことが書かれていました。裏表紙に使われていた私が黒板を「丁寧に」消している写真を見て、非常に感慨深いものがあったと書いてくださった。
 当時ーー私の授業を受けられていたころーー学校の先生が私ほどは黒板をきれいに消さないので、ちょっと腹がたったそうです。チョークの跡が残るのがいやだった。
 
 じつは私も若いころはいまほど丁寧に消していませんでした。正直に言ってそこまで神経がまわらなかった。鈍感だったのでしょう。書きっぱなしということはさすがになかったと思いますが、ちょこちょこ力を入れずに消していたので確認したわけではありませんが、うっすら跡が残っていたのではないかと思います。
 それがあるときからいまのスタイルになった。どなたかに言われたわけではなく、感性が変わってきたのですね。
 
 それ以来、何度か授業アンケートでも「つねに黒板をきれいに消してくれてありがとうございます」というようなコメントをいただきます。なるほどけっこう気にしている子がいるんだなと思いました。やっぱり女の子が多い。
 人それぞれでいいと考えているので、私は自分が絶対に正しいと主張しているわけではありません。ただ黒板を丁寧に消しているときは、なぜ丁寧に消すのかということも説明するときがあります。こうやってどうでもいいようなことを丁寧にできるようになると生活全体の質が向上するよとか、これはある意味で最大のもてなしの感情でやっていることなんだとか。
 
 昔のことですが、黒板を消さない先生がいらっしゃった。私があとの授業を担当していました。私はこれはちょうどいい機会だと思ったので、毎回授業のはじめに黒板を消しながら生徒たちに「こういうことは人生によくあることで、何でもありがたいという気持ちでやらなければいけない」と話しました。
 自分が気づいたことで少しでもいいことをしていくのが人生であるという話もした。ただちょっとだけ言っておいたほうがいいのかなとも思ったので担当の先生に、むりがなければ消しておいてくださいと伝えました。
 
 すると若いころの私のように大慌てで消してありました。悪気はないのですよ。ぎりぎりまで授業されているからですね。チョークの跡はいたるところに残っています。
 丁寧に消し直しながら、きれいになった黒板で得をするのはきみたちだけではなく私自身もそうだという話をした。これはおそらく皆さんの生活でも起きてくることだと思います。
 なぜ自分が・・・ではない。やらせていただけるのはふさわしい人間として選ばれたということであり、大切な授業(仕事)前に精神統一の機会を与えてもらえたということになるのですよ。
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2015.07.24 06:33

 左足が悪いという話を何度か書きました。ぴったり合う靴がなかなか見つからない。ところが数年前、抵抗感のないいい靴を偶然見つけました。それ以来、ずーっと同じ種類を買い続けています。現在仕事の日に私が履いてくる靴は、全部同じです。同じものを次から次へと新しくし続けています。
 大きな靴屋さんなのですがついには顔を覚えられてしまいました。毎回毎回、この靴と同じ靴をくださいと言うので、あの変な人・・・ぐらいの認識になっているのではないかと思います。同じ靴を常時3足用意して交代で履くような感じです。
 
 じつはほかの種類の靴を持っていたときもありました。本当に合うのはいまの靴だとわかっていながらたまには別の種類を履こうと考えたりした。少しぐらい痛くてもいいかなという感じで。しかし、それはもうやめました。
 よりによってあの東日本大震災の日、私はちょっとだけ歩きにくい靴を履いていました。まさかあんなことが起きるとは想像できなかったからですね。本部に行く日でもあるし、ちょっとだけ気分転換しようと考えたのです。そしてほかの靴を履いて行った。
 
 あの日は淡路町→新橋(バスに乗って渋谷に行けるのではないかと考えたのですが大群衆を見て断念)→別のバスで浜松町→渋谷と歩きました。帰りは渋谷→南阿佐ヶ谷まで歩き、ひと駅だけ地下鉄で移動してさらに荻窪から自宅まで歩きました。
 何時間も東京の街を歩きながら、どうして今日に限ってこの靴を履いてきてしまったのだろうと後悔しました。やっぱり毎日が「その日」であるという覚悟を持って生きないといけない。油断してもいい日は1日もないということなのだと思います。それ以来、ぜんぶ同じです。少なくとも現時点でベストの靴を履いています。
 
 服なんかもそうなのでしょうね。
 これは相当昔の話なのですが、電車の中で昔の塾の生徒を見かけたことがありました。とても慕ってくれていた子だったので私にしては珍しく声をかけてみたいかなと思ったのですが、その日はなぜかそろそろ捨てようと思っていた服を着ていました。
 20年ぶりでこういうサエない服で登場していいものだろうかと考えましたよ。あの先生、何だかみすぼらしくなっちゃったなあ・・・みたいに思われるとかっこ悪いかなという心理が働き、懐かしかったのですがとうとう声をかけずに終わりました。ご住所も電話番号も知りませんから、残念ながらもう会うことはないと思います。
 
 今日がその日である。すべてに通じてきますね。今日がその日である。
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2015.07.22 06:19

 最近、お金のことをよく考えます。以前はほとんど考えませんでした。健康と同じでいろいろ困ることが出てきて少しだけ考えるようになりました。もっとも私は何に対してもあまり執着がないので、深刻になることはありません。ただ何となく考えるという感じですかね。
 お金を大切にするという考え方がありますね。私もまた大切にしているのですが、使うことが大切さの中心にあります。あってもなくても使ってしまいたい気持ち。使うことができるからこそ大切に思うわけです。
 
 しかし、使わないことに大切さの意義を見出す方もたくさんいらっしゃると思います。どんどんたまっていくことに喜びを感じる。その考え方はわかるのですが、お金にかぎらず洋服や書籍なんかでも自分はたまってくるとちょっと息苦しくなるのです。すっきりさせたくなる。持っていることに圧迫感を感じてぜんぶ捨てたくなります。
 書きながら困った人間だなーとちょっと思っています。息子の大学の学費なんかも家内がずーっと蓄えてくれていました。私はその事実さえ知りませんでした。聞いていたのかもしれないのですが忘れてしまった。
 
 ありがたいかぎりですがそれでは改めて蓄えるかというと、全然そう考えない。老後の不安という表現がありますが、私は不安を抱かない体質なので存在しない不安に対処しようという気力が湧きません。
 先日、横浜教室の神奈川県立高校入試研究会にうかがいました。神奈川の公立の入試制度には大きな変更はないので基本的には理解しているのですが、改めて「大きな」お話をうかがってみたいと思いました。教室長のS先生のお話はすごくわかりやすくて勉強になりました。参加して本当によかった。よく知っている曲でも聴いてよかったと思うことがあるのと同じです。
 
 その帰り、こういうのは無駄ということになるのだろうかと考えながら横浜渋谷間グリーン車に乗りました。私はお金に困っているときでも横浜方面から東京に向かうときはだいたいグリーン車です。仮に千円しか持ち合わせがないとして、食事をするかグリーン車に乗るか二者択一を迫られたら間違いなくグリーン車に乗ります。千円を3枚ためて好きなアーティストのCDを買うかグリーン車に3回乗るかと言われたらやっぱりグリーン車。千円を80枚ぐらいためて少しいいスーツを買うか80回グリーン車に乗るかと訊かれたら80回グリーン車。千円を10万枚ためて億万長者になるか10万回グリーン車に乗るかと言われたら迷うことなく10万回グリーン車です。
 
 要するにすべては選択の問題であって、世の中に真の意味での無駄遣いはないのではないか・・・と考えたりするのが自分の基本的な姿勢なので、たまるわけがありません。困りましたよ。
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2015.07.20 07:04

 先週で本科の授業が終わり、今週から夏期講習に入ります。ブログに関しましては勤務している日は必ず更新します。これは読んでくださる方とのお約束であり、これまで1日も欠かしたことはありません。6年間で1日もです。高熱が出ようが身内が倒れようが葬式があろうが、勤務した日は何かしら必ず書いてきました。
 お金の損得が発生する問題ではありませんね。私が記事を書いても書かなくてもーー私を含めてーーどなたも金銭的には損もしないし得もしない。だからこそ、お約束は守るのです。
 
 勤務という形態ではなく(お休みの形にして)面談や授業だけに来るときがあり、そういう日は記事もお休みしています。やはり週に2回ぐらいはお休みをいただいて、何を書こうかと考える時間は大切であるような気がします。1800本以上書いてきているわけで、ネタみたいなものはとっくの昔に枯渇しています。それでも何となく面白いというのがいちばんいいわけで、その空間を演出していくためには「出しっぱなし」はうまくないのですよ。
 今週23日も私は朝に授業があるのですが、お休みにさせていただこうと考えています。夏のあいだはお休みが変則的になりますが、よろしくお願いいたします。
 
 夏休みは相当のことができるものです。学校がない。自由に使える時間が大量に出てきますね。
 本気で勉強するのであれば、午前中の使い方が鍵になるでしょう。午前中、だらだら過ごしてしてしまうとうまくいかなくなる。夜中まで起きていて午前中は眠っているような生活ですね。
 それはそれで楽しいでしょうが、勉強のことを考えるとうまくいきません。夜中に勉強を頑張るというのは人生に例えれば60歳ぐらいから頑張るのと同じです。立派かもしれませんが、小学生のときから頑張る(朝から勉強するという意味です)方には負けてしまうのが道理ですね。
 
 疲れていない状態でこそいちばん大切なことをする。1日過ごしてしまうと疲れていないように見えても五感はそれなりに疲弊しているものです。繊細さが欠けてくるのですね。同じ3時間勉強しても早朝と真夜中では相当違いが出てくる。それは意識しておいたほうがいいと思います。
 結局、うまくいかなかった人は自分をコントロールできていないのですよ。学校がない自由さの中で、ご自身を律し切れない。朝の勉強がいいと理屈ではわかっていても朝の6時には起きられない。
 
 そして7時にも8時にも9時10時でさえ・・・ついには起きられない。
 責めているのではないですよ。私は中学時代長期休みは真夜中にラジオ(FEN放送)で洋楽を聴くことだけに全力を尽くしてきました。昼間はかからない曲がかかる。明け方の5時まで録音しながら真剣に聴き続けます。ですから、午前中はぜんぶ寝ていました。ただそれは勉強を捨てた(受験がなかったせいもあります)うえで成り立つ特殊な生活であり、勉強を志している方がそれではだめでしょう。それぞれの生き方ですが・・・
 はじめの1週間が肝心です。心してください。
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2015.07.19 00:24

 先日、こういうことがありました。昼間、居酒屋さんのまえを歩いていた。ランチの看板が出ていたのでーー食べるつもりはなかったのですがーーちらりと見てからその場を立ち去りました。そのとき、中からお客さんが出てきた。自動ドアが開いて一瞬だけ音楽が聞こえました。本当に一瞬です。
 あ、この曲はどこかで聞いたことがあると思いました。思いましたが、曲名が出てくるほど頻繁に聴いた曲ではないことは確かです。いわゆるロックン・ロールですね。洋楽。
 
 ビートルズではないなということを考えた。ちょっとそんな香りもあったのですが、ビートルズの曲ならだいたい知っているでしょうからそうではないと判断しました。
 歩きながら何だろう、どこで聞いたのだろうと気にはなるものの「あと少しで思い出せる」という状況ではなさそうなのであっさりあきらめました。ずーっと気にしていても思い出せる確率が低ければ、いらいらするばかりでどうしようもないですからね。
 耳にしたフレーズはずっと残っていた。頭に浮かぶたびに「そうそう、知っているよな」と改めて確認する。
 
 昨日の朝、仕事に出るために総武線の各駅停車に乗りました。電車が高円寺駅にすべりこんでいった瞬間に「あっ!」と突然曲名が出てきました。曲名が出てくるという表現はちょっと変ですね。
 もう10年以上聴いていない曲です。さらに聴いた回数も少ない。音源は持っていませんし、通しでは5回も聴いていないでしょう。でもわかった。よく思い出せたなと思います。どういう仕組みになっているのだか。
 「ウッドストック」という映画があります。音楽の映画ですね。1970年に見たものです。
 
 シャ・ナ・ナというグループが出てきた。古いロックン・ロールばかりを演奏する大人数のグループです。日本では一部の方にしか支持されていませんでした。私は「リメンバー・ゼン」というヒット曲にひかれて珍しいデビュー・アルバム(いままでこのアルバムを持っていた方とお話したことがありません)は持っていたのですが、その中には収録されていない曲でした。
 「アット・ザ・ホップ」という曲。踊りながら演奏していましたが、映画全体からして、かなり違和感が残る映像ではあった。正直なところ、スライ&ザ・ファミリー・ストーンやザ・フーみたいな衝撃的な魅力は感じませんでした。
 
 そのライブ音源でしたよ。
 そんなものが一瞬の音だけでどうやったら思い出せるのだろうと本当に不思議に感じます。歳をとって最近では地名や大事な人の名前が出てこないときもあります。ほら、あそこのあの人・・・有名な、ほら・・・ということがたびたびある。けっこうダメージを受けているなと思う。それなのに1970年に見た(その後も何度か見てはいますが)映画の中の曲が思い出せたりする。改めてYoutubeで見てみましたよ。楽しい映像ではあると思います。
 
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2015.07.18 07:54

 現代の日本人(国内に住む方という意味です)は少しまえに比べて、確実に進化しているのだろうか? ということをよく考えます。便利にはなった。便利にはなっていろいろなことができるようになった。個々の力はどうでしょう。個々人として、たとえば30年前の同世代より確実に進化しているのでしょうか。
 私は学生時代だいたい35個ぐらいの電話番号をそらんじていました。これは紙に書いて確認したことがあるので確かです。ほとんどが友人の家の番号でしたが、そんなにたくさん覚えていました。ところがいまはその半分も暗記していません。機械が代わりにしてくれるからです。
 
 実際、自宅の番号さえうろ覚えの生徒がいます。あれ、何だっけ? と言う。入会テストのときーーこちらから合否を連絡しますからーー願書に書いていただかないといけないのです。すると覚えていない。携帯を取り出して「あ、そうか」と確認する。間違えた番号が記入されていたこともあります。慌てていただけかもしれませんが、私が中学生のころ自宅の電話番号がはっきりしない同級生は皆無でした。
 これは善悪の問題ではありません。どれぐらい頭を使っているか検証したいだけですから、中学生の皆さんは誤解なさらないでください。
 
 住所でさえ私はいくつも覚えていました。好きな女の子の住所なんかは暗記していた。手紙を書くからです。メールではなく手紙を書いた。
 好きな子に手紙を書くのに誤字だらけというわけにはいきません。そこで頻繁に辞書をひいて調べました。「鬱」という文字は女の子に手紙を書いているうちに覚えた字です。まだ16歳でした。変換なんかできませんから1画1画確実に暗記していきました。それでもたまに「依然として」を「以前として」などと書いてしまって頭を抱えました。2度と間違えないようにしようと思いました。
 
 やたらと暗算の速い友人というのが何人かいて、皆さんそろばんを習っていました。私はそろばんはやっていなかった(小学校で習った程度です)ので、文章題みたいなのでは勝てても計算では彼らにどうしてもおくれをとります。指先を動かしてあっという間に四則計算の正答を出してしまったりするのを見ていると、本当に人間計算機か! と思いましたよ。現在、そういう生徒はほとんどいません。電卓がどれほど早く打てても、暗算能力はそろばん並みとはいかないですね。
 
 10年ぐらい昔はまだまだ電車やバスの中で勉強している中学高校生というのも多かった。私はこういう仕事をずっと続けていますから、どうしても目がいってしまう。何を勉強しているのか気にするクセがついてしまった。単語帳で英単語を覚えていたり、赤い透明な下敷きみたいなやつで記憶を確認しながらテキストを読んでいたりする子がたくさんいました。ほんの10分15分であっても、集積した勉強量は相当のものになったと思います。
 いまは圧倒的にスマホを見ています。何をなさっているのかはもちろん私にはわかりません。
 
 昔の優等生と比べて圧倒的に実質の作業量が少ない可能性はあります。それが個々人を脆弱にしている。そういう考え方もできるのではないでしょうか。
 スマホのない時代、あたりまえですがスマホには1分間も触れませんでした。するとその時間はまるまる他のことに使えていた。年間で何十何百時間になりますか? どれだけのことができただろうとも思います。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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