2015.05.18 09:23

 ゴールデンウイークに痛めていた左足がすっかりよくなっています。よくなっているという変な表現を使用したのには訳がありまして、要するによくなっていることを忘れている。完全に忘れていた。痛いときはあれだけ意識していたのに、痛みがまったくない現在は痛かった事実さえ忘れていました。何も感じないだけではなく、ありがたいともよかったとも全然思っていないということです。
 感謝することが大切だとつねにブログに書いている自分からしてこうです。もったいないことだと思います。
 
 だいたい人間が身体を意識するのは不調を通してです。頭が痛い、肩が凝る、鼻がぐずぐずする、腰が痛い、熱っぽい・・・そういうとき強烈に身体を意識する。で、症状がおさまったときはーー瞬間的によかったとは思うでしょうがーーすぐに忘れてしまう。今日は頭が痛くなくてありがとうとか、鼻が出なくてありがとうとか心からお礼を言う人はほとんどいないように思います。不調のときだけ文句を言ったり不満を持ったりする。
 それがあたりまえの人間心理なのでしょうが、やっぱりちょっともったいないですね。
 
 日々の生活についても同じですね。不調についてはものすごく意識します。親子関係がうまくいかない、好きな人が冷たい、友だちにからかわれた、先生に叱られた・・・そんなときにネガティヴな感情とともに意識する。そしてふだんーーうまくいっているときーーはあたりまえだと考えています。おうちの人がご飯を作ってくれてあたりまえ、子どもがお手伝いしてあたりまえ、友だち、恋人、周囲の人間がよくしてくれてあたりまえ。
 じつは必ずしもあたりまえでもない。であれば、そのことに感謝しながら生きていきたいものだと思います。
 
 昔の知人に突発的な病気で入院した人間がいます。かなり深刻な状態で、救急車で運ばれ一命をとりとめた。しばらく入院していました。退院後、私は質問してみました。お酒とかタバコとかをたしなむ方だったので、そういうものは懐かしくなりましたか? と。
 すると意外な答が返ってきました。お酒やタバコはそうでもなかったが、コーヒー(も禁じられていたそうです)だけは飲みたくて飲みたくて気が狂いそうだった。自分がこんなにコーヒー好きだとははじめて知ったとおっしゃっていました。
 
 なくなってはじめて大好きだった事実に気づくことさえあるということでしょう。目の前にあるときはこれが大好きだという自覚さえ持っていなかった。
 大好きなのに気づかず持っているものがあるとしたら、それはますますもったいない。ときには身の回りにある「大好きだけど気づかないもの」について意識的に探索してみるのも楽しい経験になると思います。ちょっとやってみたのですが、ものすごくたくさん出てくるような気がします。私たちはじつは宝の山で生活しているということではないですか。
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2015.05.17 00:38

 私たちはーー進学塾ですからーーどうしても点数のことにこだわりがちですが、実際問題として点数「だけ」が伸びるということはまずありません。生活のほかの部分がいままでとまったく同じなのに点数だけがずんずん伸びるというのは、たとえて言えば葉は茂らないのに茎だけがひょろひょろ伸びていく植物と同じであって、理想的な状況とは言いがたいこわさが内在しているように感じます。
 落ち着いて根づき、葉が茂り、茎も伸び、花が咲くという・・・ごくごくあたりまえのバランスのとれた発達がやはり大切でしょう。
 
 生活全体が徐々に整ってきて、比例するように点数も伸びていくというのが健全なスタイルですね。忘れ物をしなくなる。テキストに乱暴に書きこんだりしていたのがきちんとノートにまとめられるようになる。文字が以前より丁寧になる。生活態度で言えば、たとえば過度の間食がなくなる。朝は自力で起きている。自分で娯楽を切り上げられる。脱いだ服を畳めるようになった。周囲の人間にきちんと挨拶ができる。生活全体の向上こそ、最重要課題だと考えています。
 こういうことがあります。たとえば、私は生徒が何か訊いてくるとじつはすぐにわかってしまう。彼らが口に出すまえからわかることもあります。そういうものですよ。
 
 しかし、その物わかりのよさがじつは彼らのためにならないこともありうると思っています。あくまでもきちんと相手に説明させるべきではないか。「あの、あれ・・・どうすれば・・・あれ、テストの、受けられない・・・」みたいな会話が小中学生の方はけっこう多いのですよ。そのときついつい先回りして「テストの振替えだね? 何日の何時。すぐに変更しておくから心配いらないよ」ではいけないのであって、どなたが聞いてもわかるように説明させる訓練を本当は考えるべきでしょう。これは意地悪ではなく、そうした機会を通して少しでもしっかりした大人になってもらたいたいという親心(?)のようなものです。
 
 塾でまごまごしている程度であればもちろん困りませんが、学校に行って大勢の仲間や先輩後輩、先生のまえでそれでは通用しません。そのまま社会に出てしまったらもっともっと困る。
 推薦入試の面接練習なんかももちろん「面接練習」として単体で実施していますが、いちばんいいのはふだんの生活の中で少しずつしっかりする訓練を積むことです。いくらでも機会はある。ひとつでも多く場数を踏んでくださったらいい。
 世の中という大きな意味での勉強の場で私たちは生きています。生徒だけではなく歳をとった私自身も同じです。生きることがそのまま勉強になるぐらいの気合いで、日々の生活を送ってください。目が覚めてからのすべてが勉強です。
 
 
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2015.05.16 01:12

 私の手帳にはくだらないことばかり書いてあるので、こんなものを落とした日にはご先祖さまに申し訳なくて(?)切腹ものです。
 確認したい場所というのがいくつも書いてあり、実際に行けたところは順番に斜線で消してあります。ゴールデンウイークのおかげでずいぶん消化できました。具体的に書くと野沢銀座(先日の記事に書きました)、目黒、五日市街道(これも書いた)、中井→東中野(これも!)、竹下通り。
 
 行っていないところは五反田→高輪台の裏道、駒場東大前→大橋、亀戸、市ヶ谷のある地域・・・ぐらいでしょうか。
 街の様子がどんどん変わっていきます。母が入院している総合病院の近くに、非常に古い洋館がありました。はじめて通ったときはまだ小学校の低学年だったと思うのですが、あまりにもオシャレな建物なのですごいインパクトがありました。
 父と建物のまえを歩きながら私はこういう質問をした。そんなことを覚えているのは建物の印象が強かったからです。
 
 お父さんは教会というところはだれでも入れると言っていたけど重い伝染病(具体的には天然痘と言いました)の人は入れるの? と訊いた。すると父は入れるけど病院に行きなさいと言われるだろうなと答えました。重い病気だから病院に行きなさいと指示されるだろうと言った。何だかよくわからないものの、なるほどと感心しました。
 あるとき、昭和の風景みたいなのをたくさん撮影したどなたかのブログを偶然見ていたらその洋館の写真が載っていました。あ、あそこだ! とすぐにわかりましたよ。
 
 4月に母を見舞った帰り、そうだあの洋館はどうなっているのだろうと思ってわざわざ訪ねてみました。すると残っていた。空きアパートみたいな感じになっている。しばらく足を止めて見上げましたよ。同時に、確かにシャレた建物ではあるが、現在ここに住めと言われたらいやだろうなとも思いました。とにかく開放的なのです。その気になればどなたでもふらりと入ってしまえる感じがする。昔の中野界隈はそれだけ治安がよかったのでしょうね。
 ところが先日ーー5月11日ーー建物はもう跡形もなくなっていました。
 
 洋館だけでなく、あたり一帯が更地になっていた。夜中だったので細かいところはわかりません。再開発ということなのでしょうね。
 運よくほんのひと月の差でーー十年ぶりぐらいにーー目撃することができたということになります。こういう事件があるとやっぱり気になるところはぜんぶ見ておかなければという気持ちになりますね。
 大橋のとあるマンション。すごく気取ったひらがなの字体で書かれているので「まんしょん」が「みんくぉん」と読めてしまう。次はそれを1人で確認に行きます。単独行の美しさですよ。
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2015.05.15 00:22

 長いこと生きてきて若い時代より多少はいろいろなことを学び自分なりに考えてきたわけですが、現時点でーーこうした感想は変化していくのでしょうし、それが自然だとも思いますがーー人生の究極的な目標というのは「自分自身にくつろいでいられる」ことだと考えています。
 これでいい、という日々ですね。自分に関係していることもそうではないことも、とりあえずは全面的に受け入れられる。受け入れたくないことも確かにありますが、それもまたそこにある事実としてはくつろいで認識する・・・とでも表現すればいいでしょうか。
 
 正しいとか正しくないとかではなく、あくまでも個人的な感想です。個人的にくつろいだ心理状態を保っておく。そうすることではじめて前に進める。私自身がぴりぴりといらだつばかりでは何もできない。何もできないというのは、世の中全体にプラスの要素を運ぶどころかマイナスの要素ばかりをもたらしかねないという意味です。
 自分が存在していることでいやな思いをする人間がたくさんいる・・・という状態が継続していくようであれば、好かれる嫌われる以前の問題ではないかという気持ちがあります。
 
 ですから、何が起きてもーー状況に対してではなくーー自分自身にはくつろいでいる。息子の就職活動の話なんかも自分なりに考えはありますが、それを押しつけたりせずにただふんふん聞いてやる。私自身が落ち着いていることで彼もまた少しずつ笑顔を見せるようになります。生徒との関係も同じです。彼らが教室で悪いことでもすれば私は叱るかもしれませんが、くつろぎながら叱っているわけですから追いつめてしまう心配はありません。そのあたりは若いころと全然違います。くつろげるだけのスペースを常にハートに確保してあるのですよ。
 
 先週身内が倒れました。現時点で意識がありません。難しいのは昏睡状態だからいますぐどうこうというのでもなさそうで、長期戦の様相を呈しつつあります。携帯電話にはしょっちゅう連絡が入ります。頻繁に病院に行かなければならず、残されている人間への配慮も必要になってくる。お金の問題も大きくなるでしょうね。
 困ったことばかりですからこの状況を心地よくくつろげる人間はあまりいないとは思うのですが、私個人の内面は落ち着いています。穏やかに、仕事でも私生活でもできること、するべきこと、やりたいことをやる。光源としての自覚。授業なんかもふだんとまったく同じ(だよな?)ですよ。
 
 息子が就職活動で忙しい中、びっくりするほど協力的なので非常に助かっています。彼はいわゆる「優等生」だったことは1度もありません。まためざましい活動で代表に選ばれたり表彰されたりということもおそらくなかったと思います。ただーーどなたも同じですねーーわが子を誇らしく思う思わないは、そうしたポイントだけではありません。
 彼の快活な優しさを見ていると、この育て方でよかったという気持ちになります。お前がいてくれてよかったよと何度も伝えました。そういうことはまたちゃんと伝えておかないといけないですね。
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2015.05.13 09:05

 ときどき居酒屋関係の話を楽しみにしていますとおっしゃってくださる方がいらっしゃいます。そこでこのあたりで1つ書いておこうと思います。
 ゴールデンウイーク(後)のお休み中にまたまた1泊旅行に出ました。毎年同じようなところをうろうろしているだけなのですが今回左足の足首を痛めていたため、あまり歩けませんでした。目的地までタクシーで行ってタクシーで戻ってくる・・・というじつにつまらない行程で悔いが残ります。
 
 悔いが残るので6月ぐらいにもう1回行って歩き回って来ようかなとも考えているのですが、まあどうなるか。
 そんな状態でも地方の居酒屋めぐりは決行しました。今回ははじめて行ったお店があります。そこが予想よりずっとよかった。場所は静岡です。
 静岡というのはこれまでも何度か行ったことがないわけではないのですが、居酒屋は意識したことがありませんでした。古い居酒屋はなさそうだという勝手な思いこみがあった。ところがありましたよ。四代目がばりばり働いていらっしゃる老舗が。
 
 駅から少し行ったところにあるTというお店です。ビルの谷間に木造の古い家屋が残っていました。16時半の開店と同時に入りました。小さなカウンター席がほんのいくつか空いていましたが、そこは座れない。おそらく常連さんがいらっしゃるのでしょう。そもそも開店前(ということになりますね)にすでに飲んでいらっしゃるお客さんが存在しているぐらいですから、そこはいろいろ老舗特有の約束事があるのでしょう。
 相席でよろしければテーブルに・・・とおっしゃってくださったので、6人がけぐらいの小さなテーブルに座りました。周囲の席のほとんどに「予約席」の札が置いてあった。
 
 5時近くなると満員になってしまい、来るお客さん来るお客さん断られていました。その様子を見ていたのですが、非常に腰が低い。びっくりするほど丁寧にお詫びのセリフを告げ頭を下げていらっしゃった。太田和彦さんや吉田類さんのガイドブック(私自身それで知りました)に掲載されているような名店ですから偉そうにしていてもよさそうなのに、やっぱりそういうところは違いますね。
 飲んでいる途中、三代目のおじいさんに「いらっしゃいまし」と頭を下げられました。お客さんには挨拶を・・・というしきたりを感じました。
 
 かつおのお刺身とはんぺんの揚げたのと、あと何を食べたっけ? 名古屋のDや北千住のO、大塚のEと違って途中でお皿は下げていきます。
 お店を出たときはまだ明るかったですよ。「酒場浴」という造語を見たことがありますが、いい酒場浴ではあったと思っています。
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2015.05.11 08:59

 最近読んだのですが、コーヒーや緑茶をたくさん飲んでいると健康にとてもいいそうですね。罹患率や死亡率が、まったく飲む習慣のない方たちと比べて著しく減少すると書かれていました。相当たくさんの事例を調べたようですから、確かにそういう事実はあるのだと思います。
 で、ここからが面白かった。緑茶やコーヒーの成分の何々が健康にいいというようなことがさかんに話題になっていました。神経を休めるのだろうとか悪い病気を予防するのだろうとか。
 そういうことだけではないと思いますよ。
 
 自分も日に2~4杯ぐらいコーヒーを飲みます。最低で2杯、最高で4杯ということですね。コーヒーを飲む時間は自分にとっては非常に落ち着く瞬間で、行為自体に多幸感と言っては大げさですが何かが宿るように思います。
 あれをそれこそサプリメントみたいに摂取したところでうれしくも何ともないですよ。そもそも安らがないでしょう。コーヒー1杯と同成分の錠剤を手っ取り早く飲む。それで同じ意味を得られるわけがない。
 
 要するにゆっくりコーヒーなり緑茶なりを飲むという発想、その行為自体に成分以上の大きな意味があるのではないかと考えるのです。
 自宅でコーヒーを飲むとき、私はだいたい香を焚いています。音楽も流していますね。ソウル・ミュージックが多いかな。そしてコーヒーを飲みながら占いのカードを引き、さらに日記を書く。大きめのマグカップを使用しているのでゆっくり他のことをしていてもコーヒーは少し余る。余ったものは冷えてしまうのですが、いつまでも残しておきたい気持ちもある。幸せな時間を引き延ばしたいのですね。
 
 愛もまた同じだと思います。愛が大切であるとはあちらこちらで提唱されています。愛という概念について哲学や宗教で難しく論じられ、私たちの多くが愛情深くあるべきであるというそれなりの信条を抱いています。
 それらの「信条」はしかし場合によっては錠剤に近いかもしれません。愛情というのはもっと自然な行為の発露であるべきで、かわいそうだなとかこうしてあげたら喜ぶかなというごくごくあたりまえの思いやりの積み重ねのなかで本来の力を発揮するのではないでしょうか。
 
 自分で言えば、たとえば生徒が黒板を見にくそうにしているときは説明の最中でもさっと身体を引いてやるとか、息子が何かで困っているようであれば自宅を出るときに手紙を置いておいてやるとかーーそんなことを仰々しく愛だぞ! とは言わないでしょうーーそれでも自然の行為の中に宿る何かがあるのだと思います。
 コーヒー、緑茶に限らず何でもかんでも成分単位に分析するだけで原因や理由がわかるはずだという盲信は、ある意味本質を見逃す可能性がありそうですね。
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2015.05.10 07:46

 昨日、面白いことがありました。クリーニングを出したくなった。私は毎週月曜日にあるクリーニング屋さんに行くと決めている(これには複数の理由があります)のですが、昨日突然いくつかの服をクリーニングに出したくなりました。
 その際、月曜日に行っているクリーニング屋さんとはべつのお店に行こうという気持ちになりました。10年ぐらい昔にほんの数回行ったことのある店があり、そこに行こうと思いたった。ワイシャツとスラックス程度なのですが。
 
 自宅を出て歩きながら不思議で仕方がない。どうして土曜日の今日、べつのクリーニング屋さんに行こうと思いついたのかよくわからないわけです。つぎの月曜日にいつものお店に行けばいいだけのことであって、ワイシャツにしてもスラックスにしてもどうしても出さなければいけない理由はないのです。
 しかしまた、思いついたということは何かいまは気づかない発見もあるのだろうと考え一瞬引き返したくなったのですが、予定通りクリーニング屋さんに向かいました。
 
 個人店なのでワイシャツもスラックスもいつもよりかなり割高でした。さらにそのお店に来てしまうとバス停が遠くなります。つまりふだん使わない隣のバス停まで歩かなければなりません。距離にしてたいした違いはないのでまあいいかなと。
 しかし、やはり不思議ではありますね。どうしてこんなことをしているのだろうとは感じる。合理主義的な見方をすれば、急いでクリーニングする必要のないものをお金をかけ遠回りして出す行為はどう考えても不自然です。
 
 バス停で5分ぐらい待っていたでしょうか。向こうから大勢の男子高校生ーー6~7人ぐらいーーが歩いてきた。バス停でふと足を止める。彼らも乗るのだなと思っていたら、その中の1人が「長野先生ですね?」と突然声をかけてきました。
 これにはびっくりしましたよ。知っている子なのですが、名前が出てこない。するとあちらから「Aです」と名乗ってくださった。3年前はメガネを使用されていた。それがコンタクトレンズにかわっていたことと、りりしい高校3年生に変身されていたのでイメージが違って見えたのです。
 
 ああ、きみか・・・という感じになりました。お父さまともお母さまともお目にかかったことがあります。息子さんに対して非常に理解のあるご両親でした。彼はある高校を気に入った。偏差値だけでいったら他にもあちらこちら高いところを狙える位置にいました。しかし、ご両親は気に入ったところに入るのがご本人のいちばんの幸せだと落ち着いていらっしゃった。それで彼自身も迷うことなく第1志望校に進学された。
 その判断が誤りでなかったことは、昨日の様子からよくわかりました。穏やかで優秀そうな仲間に囲まれて、のびのび生活されている感じでしたよ。
 
 彼とはいずれどこかで会いたいと思っていました。印象に残る生徒でしたからね。遠回りしたのは彼に会うためだったのかと納得しました。そうなのですよ。人生、あとで理由がわかってくるケースもあるのです。不合理な衝動も、もう少し信頼してもいいのかもしれないですね。
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2015.05.09 08:53

 今日から仕事に復帰します。意識のうえではほとんど変わりません。日々を生きるという意味では休みも仕事も同じように全力を尽くすという感じでしょうか。うろうろするかわりに教室にいますが同じ全力です。
 先日、息子がアルバイト先から聖徳太子の壱萬円札を持って帰ってきました。お客さんが使用したそうです。お店としては規格外でちょっと困った。で、店長さんがだれか両替してくれないかとおっしゃった。息子はーーそういうところは偉いと褒めましたーー両替を申し出た。
 
 大学のゼミ仲間に見せるんだと得意になっていました。私自身聖徳太子の壱萬円札を見たのはおそらく30年ぶりではないかと思います。昔、お金がなかったときにそうそうまだこれが残っていたという感じで使いました。20代だったかもしれません。それ以来、まったく目撃していませんでした。
 きれいなお札でした。どこかにずっと保管されていたのではないでしょうか。私は息子に運気が上がるからとっておけと言いました。補填してやるからそのお札はとっておくといいぞと。
 
 西武線沿線の学習塾に勤めていたころはお給料を現金でいただいていた。封筒に入っているのです。壱萬円札は当然すべて聖徳太子でした。銀行振り込みではありませんでした。給料日が楽しみでしたよ。いい思い出です。
 給料日に友人とどこかで待ち合わせる。今日はおれがおごるよと言う。いざ会計の段になって(あちゃー、給料袋に入ったままだった)と気づく。お店で茶色い封筒からごそごそお札を出すのはちょっと無粋で恥ずかしかったですね。そんなことがありました。
 
 左の足首を痛めました。もともと左足は悪いのですが、歩きすぎたかもしれません。ふだんの私をよくご存知の方ーーつまり生徒ですねーーは気づかれるかもしれない。サポーターを使用しています。そんなにつらいわけではないので大丈夫です。
 左足は3歳のときから悪い。半世紀以上悪いということです。悪いという用語を使用するから悪いということになるのであって、特徴があると表現すればなるほど他者とは違った特徴があるということになります。どういう形であれ生きているかぎりつきあっていく覚悟ですから、恨みみたいなものは一切ありません。
 
 もう1つ、昨日身内の関係でちょっと深刻な問題が起きました。どうしようもないので、私としてはすべての行為により一層生きる意味をこめます。励ます力の連鎖を考える。いたずら電話とピンポンダッシュに明け暮れた愚かな小学生(=私)が何かのご縁で人さまを励ます機会を持てたわけですからね。お休みの日も仕事の日も同じです。足首が痛くても身内に何かが起きても同じ。
 書籍ともども、これからまたよろしくお願いいたします。
 
 
 
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2015.05.07 02:13

 連休なのでうろうろしています。行きたくてもなかなか行けなかったところを見て回る。
 昔、新宿から大森までバスが出ていました。相当の距離がありますね。それがいつのまにか2つの路線に分割されるようになった。野沢銀座のあたりで切断された。私は何度も何度もそのバスに乗りました。野沢銀座からは五反田や大森行きのバスに乗り継ぎました。
 ところが最近気づいたのですが、その野沢銀座までさえ行けなくなっています。新代田で終点になっている。
 
 以前、名古屋在住の昔の生徒からコメントをいただいたことがあります。Z会に勤める以前に教えていた生徒です。勉強ができるだけでなくすごく人生がわかっている子でした。1980年代のことです。10年ひと昔というくくりでいったら、大昔ですね。
 野沢銀座のバス停の近くにネジの会社がありました。私は授業中その話をした。ああいうネジ屋さんで堅実に働くというのは人間生活の美しさだと思うと話した。それができない自分は何なのかということまで話しました。その話を強烈に覚えているというコメントをいただいた。
 
 当時、私はーーこういう話は大げさに書いているわけではありませんーー小説を書いていて、いずれはノーベル文学賞をとろうと考えていました。男一代の目標ということであればやはりノーベル文学賞だろうと。時期も明確に意識していて、周囲には2025年と吹聴していた。
 そういう日々に忽然とそのネジ会社は私の目の前に現れた。遅い時間にどなたかが働いている気配が感じられる。何だかやたらと恥ずかしくなりました。何がノーベル文学賞だよという気持ちになる。
 
 こういうところで地道に働いてこそ生きるということではないかと直観的に気づいていたのでしょうね。しかし、それを全面的に認めてしまうと10代からの自分の生き方を全否定しないといけない。みんなが当たり前に勉強しているときに「ごくろうさん」などと笑っていた日々が、すべて強がりでしかなかったという事実を認めざるをえないことになる。その不思議な葛藤や矛盾の正体を確認したいがゆえに、あえて何度も何度も野沢銀座に足を運んだ時期がありました。
 
 ネジの会社はもうなくなっていました。周囲を歩きながら、若いころの勘違いを全面的に受け止められる柔らかさだけはまだ残っているなというようなことを考えましたよ。
 そうそう、新代田のバス停のまえで偶然知っている方ーー新宿にある飲み屋さんの女性オーナーですーーに遭遇しました。しかし私は恥ずかしくて声をかけられなかった。歳をとった私が10代の少年少女に少しでも好かれるのは、こういうところだと思います。私はいろいろなことが恥ずかしいのです。しかし、それは罪ではないのですよ。
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2015.05.06 00:32

 連休中なので記事はしばらく休もうとも思ったのですが、4日のページビュー数を確認してみたところ6244と記録されていました。6244というのはーー自分で書くのも何ですがーーすごいですよ。それだけ多くの方が楽しみにしてくださっているのだと感激しました。感激してまあ、少し更新していこうと考えました。
 息子が就職活動をしている話は何度か書きました。私は彼にこういうことを伝えています。基本的な自分の姿勢についてです。
 
 私は過去、何かのリーダーになろうとか社会的に偉くなろうとかあまり考えてきませんでした。そういう意味で、たとえば都立高校のトップ校を目指している方たちとは人種が違うのかもしれません。いい悪いの話ではないですよ。私は彼らのことをもちろん尊敬していますし、私が彼らにーー生徒であってもーー敬意を抱いていることは伝わっているとも確信しますが、私自身はそういう過酷な生存競争に耐えられる人間ではないということです。あくまでも吟遊詩人(?)として生きているのです。
 
 ただ私はつねに概念としての神に近づこうという気持ちは持っています。私個人は何教の信者でもないので特定の神さまを信じることはありません。形式的なものは何も持っていない。しかし、つねに概念としての神さまは意識しています。
 ブログにも繰り返し書きました。迷ったときは(ブッダならどうするだろう?)と考える。これは神さまならどうするだろう? というのと同じ意味です。この発想はどんな小さなことにも応用するようにしています。
 
 生徒がカンニングをしていた、授業中にこっそりお菓子を食べていた、ウソばかりついている、あるいはほかの先生から「あの子は落ち着かないので何とかしてください」と指摘された。
 生活の上でもそうですね。何かの理由で人にご馳走する必要が出てきた、どなたかにお詫びをしなければいけない、健康についてちょっと不安なことがある、あるいは今日の昼はどこで何を食べよう? そんな小さなことも、概念としての神さまならどうするだろうということを意識する。
 
 世の中を少しでもよくしていくことはどうしても必要で、このままでは非常にまずいというのは指摘される通りでしょう。システムをどう構築していくかという問題はつねに存在しますが、私自身は個々人がもう少し根本的に目覚めようという発想が必要なのではないかという気持ちを持っています。と同時に、神さまであればそうしたことを他者に強いることはないとも感じるのでめったにそんな話はしません。
 ただ迷われたときーーひょっとするとこういう発想は何かの役にたつかもしれませんーー全世界で現在もてはやされている何とか先生ではなく、神さまならどうするだろうと考えてみる。
 
 息子? 私には何も言いません。家内には「お父さんはちょっとあれ(あれって何だよー!)なので全然参考にならないぞ」と嘆いていたそうです。
 それはそれです。届かない声のよさというものがある。神さまなら「伝わらないことも伝わっている」とおっしゃると思います。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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