2014.09.29 13:34

 おおげさなタイトルになってしまいましたよ。
 現代人ーーとくに日本に住んでいらっしゃる方ーーの不安の根源は、とにかく「損をしたくない」というところにあるような気がします。少しでも得をしたい。絶対に自分だけ損をしたくない。かつて勝ち組負け組などという用語が流行ったことがありましたが、そういう意味で絶対に勝ちたい。
 選択肢は無限に出てきますからね。どちらに進んだら少しでも得かということを考えに考えてしまって夜も眠れない。むりもないことかもしれません。
 
 私はこう考えています。損をしたくない、少しでも得をしたいというおびえた発想そのものがそもそもその人にそれこそ「損」をさせている。おれが(私が)進んでいくかぎり、すべて得でしかありえないのだという気迫が人生には大切です。「生きる気迫」です。あなたが主役、あなたが主人公、あとは学校だって職場だって家族や友だちだってみんな背景(?)でしかないのです。
 仮に私が1万円で買ったものを他の方たちが5千円で手に入れていたとしますね。「何だ、半額で買えるのか! 5千円ドブに捨てたようなものじゃないかー」ではない。主役の私は他の方より世の中に5千円も多く流したのです。積極的に5千円分社会を豊かにしたぞと言い切る。
 
 こういうのは自分がつねに主人公であるという考え方を心がけていれば当然のようにそう思えます。自分のしていることはぜんぶ自分や世の中の得にできるはずだという信念を持たれるといいと思います。
 逆に少しでも損をしまいとしてすくんだ状態になっていると、どちらに進んでもやっぱり損をしているのではないかという不安しか出てきません。自分が主人公になってべつの道ーーひょっとするとあなたが選んだ道よりはるかに困難かもしれませんよーーを堂々と歩いている他の人間が、あまりにも輝いて見えるからです。
 
 幸福感というのは個人的なもので数値で決められるものではありません。それこそ偏差値や収入に比例するものでもない。偏差値40だから幸福になれない・・・なんてとんでもない誤解です(偏差値を上げてくださったほうが入試は楽ですが)。現に自分も非常に収入の少なかった1年間がかつてあるのですがーーいろいろ事情がありましたーーそのとき幼児期の息子といつも一緒にいてやれたので、お互いのあいだにたくさんの貴重な思い出が残っています。ああいう1年間があったからこそ親子関係もうまくいった。不幸かと言われたら、不便ではありましたが感情的には幸福でした。
 そしてまた忙しくなれば忙しくなったなりに「自分の人生の主人公である」私は幸福です。世の中はそういう仕組みになっているのですね。
 
 自信というのは条件から生まれてくるものではありません。自分が進んで行くところにはすべて花が咲くぐらいの気迫を持ってください。あなたの周囲の人間はすべてあなたから恩恵を受けます。油断なく、主人公として世の中を明るくしてくださったらいい。そういう方が増えれば増えるほどあちらにもこちらにも花が咲きます。
 
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2014.09.28 10:56

 昔の教え子(女性)が陶芸作家になっています。先週は銀座の有名デパートで個展を開いていました。銀座のデパートで個展というのはなかなかすごいことではないでしょうか。
 毎回案内を送ってくださるのですが、最初はグループ展でした。私鉄沿線の小さな会場などで、美大のお仲間数人とグループ展示会をやっていた。それがついに銀座の高級デパートで「個展」です。たいしたものです。案内をもらうと毎回出かけていって、何かを買って帰ります。わざと彼女のいない日に行ったりする。会うのが気恥ずかしいのです。
 
 先週も休みの日に行ってきました。マグカップとご飯茶碗を買った。帰りにどこかで少し飲もうかなと思いました。銀座で飲むというのはいい感じじゃないですか。居酒屋さんをいくつか調べてありました。ところが、どうも敷居が高い感じで入りにくい。ふだん私がうろうろしている十条だとか北千住だとかとは根本的に違う。思い切ってあるお店に入ったのですが、ご予約は? であっけなく撃沈です。おじさーん、予約もなくよろよろ入ってきちゃ困るよーという感じでしたよ。
 有楽町駅まですごすご戻ったのですが、そこで「おおっ、ガード下があったじゃないか!」ということに気づきました。
 
 ガード下で適当に飲んで西荻窪から帰る途中、息子がアルバイトで働いているドラッグストアーのまえを通りかかった。いましたいました、レジにいた。あと数分で閉店です。ふらふら入っていくとこちらを見てにらんでいます。また来たのかと思ったのでしょうね。
 いくつか品物を選んでレジに持っていった。お客さんはほとんどいません。遠くで店員さんが品物を整理しています。息子は礼儀正しくお辞儀をしてポイントカードを受け取り「いつもありがとうございます」と丁寧に挨拶しました。
 
 息子が品物の値段を読み取っていると店内に「蛍の光」が流れはじめました。終わりの合図ですね。「これ、いい曲でござんすねー」とふざけて息子に声をかけてみた。遠くから見たら普通に会話しているように見えたでしょう。息子は警戒するように「はい」と言いました。「ほんといい曲でございますね」とばかみたいな調子で「ほた~るのひか~り、ま~ど~のゆ~き~」と小声で歌ってみました。
 彼は焦りましたよ。顔色が変わりました。「おい」と慌てて私の歌を制止する。押し殺した声で「頼むから帰ってくれよ」と言った。私は「はいはい」と笑顔で店を出ました。
 
 息子の慌てふためく様子はいま思い出しても笑ってしまいます。帰宅後? 彼は穏やかなので、変な歌を歌わないでくれよなと笑顔を見せただけです。ただ家内には、もっと遠くでアルバイトをすればよかったかな・・・と語ったそうです。
 息子の名前の入ったレシートは4枚になりました。すべて自室の壁に貼ってあります。
 
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2014.09.27 12:48

 適当にやりなさいなどと言うと、不真面目な感じでとんでもない! と考える方も多いでしょう。しかし、適当さというのはそれこそ運命を信じていればこそ・・・みたいなところがあり、必ずしも全否定されるべきではありません。弦楽器の弦だって張りつめすぎたら音が出ませんね。現状があまりにもぎりぎりだと感じたら、息抜きしてもっともっと「適当に」生きてください。
 勉強やお仕事だけではありません。趣味だとか人間関係とか闘病生活とか、気楽さの「風」を必ず取り入れてください。
 
 野球に例えてみます。
 野球選手で3割打者といったら間違いなく一流選手です。プロ野球界で生涯打率3割なんていったらそれこそ何十年に1人出るか出ないかの超一流選手です。
 しかしよく考えてみれば、3割ヒットを打つということは10回のうち7回は打てなかったということです。半分も打てなかった。野球の場合、数々の輝かしい記録や伝統がありますからそれでも十分すごいということが皆さんわかっています。ですから、7回も打てなかったと呆れる人はいません。ただもしこの歴史や伝統を何もご存知ない人が突然野球界に入ったら、あるいは7回「も」打てないご自身の不甲斐なさを責めたかもしれません。
 
 こんなに研究して努力して練習しているのに半分もヒットを打てないなんて! そういう仕組みになっているのだということを何も知らずに参加していたら3割打者であるご自身をだめだと決めつけたかもしれないということです。十分すぎる成績を残していることが客観的に見えないからです。
 あなたがいまやっていらっしゃることは必ずしも野球のように大きな規模や長い歴史があることではないかもしれません。個人的なことが多いでしょう。ですから、どのあたりが一流なのかということは冷静につかめない可能性があります。
 
 10割打者を目指しても不可能です。勉強、仕事、その他で10割打者を目指されているかもしれませんがーーそして目指すこと自体は悪くないとも思いますがーーうまくいかなかったときにだめだだめだとご自身をさいなまないように気をつけてください。
 いいのですよ、適当にやって。10本のうち7本はミスっても名選手だぐらいの気持ちでいいのです。私の好きな将棋の世界でも生涯勝率6割という先生は間違いなく超一流です。私が好きだったある故人の棋士は順位戦で最高位のA級まで上がりましたが(それだけでもすごい)、生涯勝率は5割に届きませんでした。半分以上負けていたということです。
 
 誤解されると困るので念のために書いておきますが、努力はしましょう。やれるだけのことはやりましょう。目標もたてましょう。ただ頑張りきれなかったとき、あるいは目標ラインまで到達できなかったとき、あるいは他者からあれこれ意見されたとき、「ま、いいか」と思える人生観や余裕、外側のもっと大きな何かを信じられる気持ちが必要であるということです。
 私なんかもーーたとえばこのブログの記事ーー10本中3本ご参考になればいい・・・ぐらいの思いだから続けてこられました。10割打者を狙ったらノイローゼになっていましたよ。
 
 適当力ですね。苦しくなったときは「ま、いいか」と声に出しておっしゃってみてください。どんなお祈りより効果があるように思います。
 
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2014.09.26 13:33

 毎週ーーたいした疾患ではありませんーー耳鼻科に通っています。すごく腕のいい先生で、いつも混雑しています。1回だけ1時間以上待たされた日もありました。クリニックは雑居ビルの上階にあります。エレベーター前に患者さんが並ぶ。今日もそうでした。私のあとに男の方と女の方が並びました。
 先に乗った私が「開」のボタンを押して待ちますね。その流れでクリニックに着いてからも私が同じように「開」のボタンを押して最後に下りました。
 
 すると男の方も女の方も何もおっしゃらずにさっと下りていかれて競うように診察券を出された。皆さんが下りるところを確認していた私は結果的に3番目になりました。私は先に来ていたのですがそういうことになった。
 うん? という感じはありました。私なら順番を守ったでしょうから。しかし、お若い方たちが少しでも早くと考えられたことにはとくに腹はたちませんでした。このやり方で将来困るときがなければいいのだが・・・ぐらいの気持ちです。
 
 幼稚園のころ、私はよく「横入り」されたものです。気が弱かったのですね。ちょっとだけくやしい感覚は持ちましたがそれだけで闘ったりはしませんでした。
 そういう私の姿勢をすごくいやがったのが両親です。男の子がそんな弱虫でどうするというのです。自分の権利を主張できなくてどうする。記憶は曖昧なのですが「武士、軍人の家系なのに本当に情けない」みたいな大げさなことも言われましたよ。そんなものかと思いました。それから自分の気が弱いところを強く憎むようになった。長いこと、自分の弱々しさがきらいだという気持ちと一緒に生きてきました。
 
 太宰治を読んだことがきっかけだったと思いますが、あるときから気が弱いままで十分なのだということに気づきました。自然な自分自身で十分じゃないか。それからは「おれは昔からすごく気が弱くてさ」と平気で他人に話せるようになりました。半ば自慢みたいなものです。こんな気の弱い人間でもすごく幸せだぞという自慢ですね。
 私の息子は私に似て、とても気弱な幼少時代を送っていました。いまはどうなのかな。当時、友だちにいろいろなものーーおもちゃなんかですねーーをとられていた。私も家内もそのことに気づきましたが、一切注意しませんでした。
 
 そうかまたとられちゃったのか、もう1度買ってやろうか? 程度です。自分の特質をきらいにさせないように気をつけたつもりです。気の弱いことだけではないな。のろのろしていることも泣き虫なことも幼稚園に行けなかったりすることも、ぜんぶ「それもあり」として育てた。そのときどき「等身大で生きていけ」ということです。深い意味でそれぞれの人生に矯正すべきところなんか1つもない(歯の矯正だけはさせましたが)ということですね。
 彼は私のように自分を憎んだ時期はなかったと思います。今週は就活用のカバンと靴を買ってきましたよ。勤められたところが最上の会社だぞと伝えています。
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2014.09.24 13:10

 2ヵ月に1度ぐらい、低学年のクラスに10分間時間をあげて漢字を練習しなさいと伝えることがあります。1ヶ月の最後にその月度のすべての漢字をまとめてテストする回があるのです。そのときですね。ぜんぶで120の漢字をテストする。出題されるのは20題だけですが、どれが出てくるかはわからない。そこでーーもちろん彼らは自宅で準備してきてくれるのですがーーあえてテスト直前に10分間だけ時間を与えて見直しをさせるわけです。こちらでマス目が120ある用紙を用意しておく。そして時間を計りながら反復練習してもらう。
 
 1つの狙いは彼らに10分間というのがどれだけ有意義に使えるかということを実感してもらうことにあります。よく「10分じゃ何もできない」などと嘆きますが、そうではない。10分もあればどれだけのことができるか。その実感がしっかりしてくれば、登校前の10分、休み時間の10分、就寝前の10分ーー勉強に限りませんがーー有意義に使うことが可能でしょう。人生というのはそれこそ10分の集積なのだということを実感してもらう。
 と同時に、勉強ができる子というのは仮に漢字練習のような単純作業であってもどれだけ真剣にやっているかということを全員に気づかせたいというのがあります。
 
 はたしてスピードのある子だとーーつまりそれだけふだんから練習しなれているということですねーー120のマス目をぜんぶ埋めてしまいます。10分間でですよ。一心不乱に漢字や読みを書いていって120のマス目がすべて埋まる。
 そしてここからです。ある男の子ーー漢字テストは毎回満点の生徒ですがーー欄外(!)にまで練習しはじめました。黙々と、時間が来るまで書き続けています。
 
 彼は自分がおそらく満点をとるだろうということはわかっているでしょう。しかし、10分間という時間を漢字練習に使いなさいという指示が出ているのであればとことん努力しようということなのだと思います。そして、こういう生徒が結局は「優等生」になるのです。
 なかには少しだけ書いてあとはぼんやりながめている子もいる。彼(彼女)もまた何度も書かなくても満点はとれるという自信は持っているのかもしれない。それぐらいは自宅でちゃんと準備してきたという自負もあるのでしょう。
 
 読みまでは書かなくてもいいじゃないかという子もいる。「しぐれ」だとか「しゅうとく」だとか、わざわざ書かなくたって「いまは」読めるのは事実でしょう。しかし、それでも一心不乱に欄外まで書き続けるライバルに対する畏れは持っていないといけないと思います。よく小テストでは漢字ができるのに大きなテストだと忘れてしまうという生徒がいますが、そのへんの差が出てくるのがわかりますか?
 たった10分間でそれだけ作業量が違ってくるとなると・・・1時間、2時間、1日、1ヶ月、1年ではどれだけ差がつきますか。
 
 生徒がときどき「自分だって精一杯勉強していますよー」と訴えてくることがあります。精一杯やっているのになかなか点数が上がらないという意味ですね。
 しかし、私ははっきり作業量が足りないと思っています(ご本人には正直にそう伝えます)。「満点はとれることがわかっていても」欄外にまで黙々と練習し続ける愚直なまでの努力は間違いなく不足しているのです。これは勉強だけではないですね。得意にしたい物事は、そうやって一心不乱にできないといけませんね。
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2014.09.22 13:34

 年齢とともに人生観は変わりますね。ですから、昔はこう言っていたじゃないかと指摘されても現在はそのようには考えていないということがたくさんあります。
 10年以上昔、あるところで私立高校の先生をお呼びして説明会を実施しました。有名校ですよ。真夏のある日、偉い先生がわざわざいらしてくださった。きちんとしたスタイルでした。ネクタイをしめ、ジャケットを羽織られている。到着後、流れ落ちる汗をさかんにハンカチでぬぐっていらっしゃったので、控え室では当然冷房をきかせ冷たい飲み物をお出ししました。
 
 会場に移動していただいて説明会をスタートさせた。まずまずの入りでした。会場も当然冷房がきいています。お話がスタートしてしばらくすると一般参加のある男の方が「ちょっと寒いのですが」と挙手されました。見ると短パンにいわゆるタンクトップ姿でした。唱和する(?)ようにべつのやはり一般参加の女の方ーー服装は覚えていませんーーが「冷房を消していただけませんか」と丁寧な口調でおっしゃった。
 私はわかりましたと言ってすぐに冷房を切ったか設定温度をうんと上げるかした(細部の記憶が曖昧です)のですが、あきらかに説明されている先生の表情が変わったのがわかりました。
 
 はたして説明会のあとの雑談のなかで「ちょっと暑かったですなあ・・・」というようなことをおっしゃった。私も夏じゅう上着にネクタイ姿なのでよくわかるのですが、真夏は冷房がそれなりにきいていても内側に汗をかきます。服の内側ですね。その汗を落ち着かせるためにはつねに涼しさを補給する必要があるのです。
 申し訳なかったですねと謝るといえいえ気にはしていませんよという感じで笑っていらっしゃいましたが、こういうのはなかなか難しいですね。
 
 当時の私はーーまだ40代でしたからーー参加してくださった方々が説明されている先生の状態を考慮して我慢すべきではないかと考えました。べつにものすごく寒くしていたわけではないのです。上着を着たままお話をなさる先生のコンディションのことだけを考えて、いつもよりは設定温度を低めにしていた程度です。極端に肌の露出が多くなければ、十分快適な室温だったと思っています。
 ところが現在はそうも思わなくなりました。寒いので消してくれもありじゃないかという気持ちが出てきました。こうあるべきだというこだわりがなくなったのです。マナーだとか何だとか、私のほうから他者に要求する気持ちはまったくなくなりました。
 
 授業のときも生徒がプリントを忘れてきますね。必ず持ってくるようにと言ったものを忘れてくる。昔は忘れてきて堂々としている様子に腹をたてて「そういうことではいけない」とお説教したりしていました。恥ずかしいことだぞとか。いまは全然違う。人間はそうやって忘れるものなのだと穏やかに説明(?)して、多めに作っておいたものをもう1度渡します。渡すだけではなく、周囲に対してこういう優しさを発揮してくれと余計なことまでつけ加えている。
 どちらがいいとか悪いとか結論を出す気持ちはありません。ただ変化のなかに、生きてきた重みを意識することがあります。
 
 
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2014.09.21 11:53

 いろいろな方がいらっしゃっていろいろな考え方がある。それでいいのだと思っています。
 いつのころからでしょうね。私は「私」ではあるもののもうちょっと大きな何かの部分でもあるわけで、その全体性を大切にしたいと考えるようになりました。簡単に表現すると我を通そうという気持ちを持たなくなったということですね。
 以前、才能のあるいとこが現在の自分より若くして亡くなった話を書いたことがありますが、大切な寿命でさえ自由に決められるものではありません。
 
 私は自由意志で好き勝手に行動しているような「錯覚」を抱いているだけで、じつは全体の意志が日々の生活に相当加味されているのではないかと感じます。それは仕事のことだけではありませんが、もちろん仕事もそうです。
 いまであれば、Z会進学教室の渋谷教室で生徒や保護者の方を見守りなさいということですね。ここに移ってくる前は当時7年間も勤めていた池袋教室に強い愛着がありました。きのうも偶然当時の生徒がーー高校3年生になっていましたーー渋谷教室までいらしてくださいましたよ。
 
 その前年、上の方に「来年度、あなたはどこの教室に配属になるかわかりませんが希望だけは聞いておきます」と言われたときは迷うことなくこのまま池袋にいさせていただくことが希望ですと正直にお話しました。
 しかし、振り返ってみるとここに来たことはそれなりに正しかったような気がするのです。いい生徒、いい保護者の方、いい先生、いい仲間にめぐりあったという気持ちがあります。ここに来るまでお目にかかったことがない方がほとんどだったわけですから、渋谷教室に勤務することでもたらされた幸福はまぎれもなく全体の意志のおかげであると感じます。
 
 さらにここでこうして働いたりブログを書いたりできるのもこれまでの蓄積があるからであって、過去の経験はみんなむだになっていないと感じます。
 Z会進学教室がすごくいい塾だったので、私は講師として教えはじめた当初はもっと早くここで働いていればよかったと感じることがありました。しかし冷静に考えてみると、夏はあまり冷房が効かずに蛾が飛びこんでくるような私鉄沿線の地域密着型の塾(いまはビルごとなくなり巨大なマンションが建っています)で、お好み焼き屋さんのMくんや釣り好きなHくん(彼らもすでに40代か・・・)を教えた若き日の経験もまたかけがえのないものでした。
 
 志望校であるとか志望する方向であるとかは大切ですからあくまでも個人の意志を尊重したいと思います。
 ただそこに入れなければ何もかも終わりだとまで思いつめるのは危険です。何もかも終わりという個人の意志の外側に、この人をこう活かしてやろうという全体の意志が働いている。ひょっとすると本当のあなたを活かす道はあなた以上に全体が知っているかもしれません。少なくとも自分はそうでした。自分自身以上に私をわかっている「全体」がいた。
 自分が幸せになれないはずがない、世の中の役にたてないはずがないという信頼感ですね。自分への信頼というより人生に対する信頼が大切だということです。
 
 
 
 
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2014.09.20 13:06

 今日は勉強の話を書きます。これは本当は勉強だけのことではありません。お仕事なんかにも応用できるはずです。
 混乱しているというのがいちばんいけない。落ち着いて1歩1歩進めてください。混乱してしまうのは抱えこみすぎているからです。いらないことは捨ててください。本当に必要なものだけじっくり取り組む。そういう姿勢が大切だと思います。
 覚え切れていない単語がそんなにあるのにまだまだ先に進みますか? 宿題になっている? それならもう少し時間を作らないといけませんね。
 
 やらなくていいことをすぱっと捨ててください。これは量的なお話だけではありません。質的にもやらなくていいことというのがたくさんあるはずです。
 私はこの1週間で500ページぐらいの書籍をついさっき耳鼻科の待合室で読み終えました。コミックみたいなものではないですよ。ちょっと難しい本です。すべて行き帰りの電車とクリニックの待合室と食事を待つ時間だけで読了しました。言いたいことがわかりますか? 私が常に単独行動をとれる人間でなかったらこの本を読む時間はまったくなかったということです。
 
 私は職場の方たちーースタッフや先生方ですねーーときわめて友好的に接しているつもりですが、行きも帰りも食事どきも意識的に1人で行動しています。それで時間を作っている。皆さんに真似してくださいというのではないですよ。
 ただどうしても勉強にあてる時間が足りないということであれば、場合によっては「毎回」友だちと雑談しながら帰る必要はないかもしれません。「毎回」友だちと待ち合わせる必要もないかもしれません。あるいは20分ごとにメールが来ているかどうかチェックする必要もないかもしれませんね。
 
 交友関係だけでなく、テレビだってゲームだって音楽を聴くのだって少しは節約できるはずです。隙間の時間を活用していますか? 以前、忙しいときに私はお風呂のなかで講演会でお話する内容をチェックしたときがありました。自分の教えていたある優等生が、お風呂の中で覚えると楽しみながら早く覚えられる(覚えきるまで我慢してわざとお湯から出ないそうです。もちろんすべて面白がりながらやるのですよ)とおっしゃっていたのを思い出して真似をしてみたのです。
 そうやって隙間と呼べば呼べないこともない時間を「楽しみながら」使う。
 
 よく30点上げる勉強とか偏差値を15上げる努力とか大騒ぎしている人がいますが、「大きな勉強」などというものはじつはありません。世の中、小さなことが集まって大きくなるだけです。暗記して1点上げる努力を継続することで結果的にいずれ30点上がり偏差値も15上がる。そこを勘違いしてはいけません。
 小さなことなんかつまらないという観念を持っていたら、絶対に大きな成果は出ません。人間関係もそう。奥さんに思い出したようにどかんとプレゼント・・・よりは、毎日洗い物でも手伝ってあげたほうがよっぽど感謝されるかもしれません。小さなことを大切にしてください。
 
 以上、①混乱している時はやることをしぼる。②生活のなかで必ずしもやらなくていいことはしないで自分の時間を作る。③隙間の時間を大切にする。④大きな結果を出すためには小さなことを積み重ねるしかないのだと強く自覚する。
 明日からそうするか・・・ではなく、この瞬間からそうされるといいと思います。どうか頑張ってください。
 
 
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2014.09.19 13:00

 私がこのブログを続けている大きな理由の1つに、読んでくださる方の人生をこの時点から好転させたいというものがあります。私はそれを要請に基いてやっているわけではありません。もう少しはっきり書くとどなたかのためにやっているわけでもありません。私は単純に他者が元気を回復していく過程を目撃するのが楽しいから続けているのです。
 つまり私は私の楽しみのために記事を書き続けているというわけです。何だかんだと理由をつけても究極の理由はそういうことになります。他者の人生を好転させたいというのは、自分の数少ない「趣味」の1つなのです。
 
 ただこういうことがあります。私の20年来のある友人は、パソコンを持っていないので私のブログが読めないと言います。高齢の両親も「おまえが書いているものを読んでみたい」と言いながらーー私が印刷したりしないのでーーとうとう何も読めないままここまで来ています。類は友を呼ぶという諺がありますが、私の周囲の人間はコンピュータを持っていてもほとんど活用していなかったりして、私が書いたものを見る機会を持ちません。私たちはしょっちゅう会えるわけではないので、これまでも自分の言葉が身近な人間だけは励ませないことに多少残念な気持ちを持つことがありました。
 
 べつの形で世の中に出せればいいということは以前から感じていました。ただそれは私個人があれこれ画策することではないでしょう。いつも書くように私は「いま」と「ここ」を大切に生きるだけです。その過程で何か出てくれば、同じように「いま」と「ここ」のこととして改めて対処していけばいいですね。
 はたしてある大手出版社から1冊の本にまとめてみませんかというお申し出をいただきました。いまはまだぼかして書きますが、うまくいけば来年のはじめごろブログのエッセンスを凝縮した書籍が本屋さんの店頭に並ぶかもしれません。
 
 記事は1600本近くありますが、そのなかの強力なものを加筆訂正して見やすくまとめるつもりです。非常に優秀で信頼できる編集者の方がついてくださっています。読みやすく、それでいて内容の深いものにまとめられそうです。
 勉強のこと、子育てのこと、人生論ーーすべてのページを肯定的で人生を好転させる内容にまとめたいと思っています。性別も学校も職種も年齢も宗教も人種も関係なく、また「何々を信じれば救われる」的なものでもなく、冷静に個人が丁寧に丁寧に生きていくだけで十分価値がある貴重な一生であると実感できるようなものにしたい。
 
 ちょうど来年はZ会の教室の30周年という記念すべき年にあたります。通信添削はものすごく有名ですが、教室があったということをつい最近までご存知なかったという中学生がときどきいらっしゃったりします。Z会の教室のことをくわしく知っていただくいい機会にもなるのではないかと内心で期待しています。
 このお話はまた途中経過をご報告させていただくつもりです。とりあえず・・・すごくいい本になりそうだぞ、と。
 
 
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2014.09.17 14:28

 いわゆる恋人同士のコミュニケーションを見ていると(じろじろ見るという意味ではありません)、必ずしも言葉によるやりとりが多いわけではありません。公園のベンチなんかに座って「ほら、雲が・・・」とか「暗くなるのが早くなったね」とか、どうでもいいようなことをぽつりぽつり話している。それだけで十分心が通じ合っています。好きだよというコミュニケーションが成立している。むしろ親しい関係なのにやたらと饒舌であるというのは、何かしら背後に漠然とした不安が隠されているのかもしれません。
 コミュニケーションにおいては言葉以外のものが大切であるということです。
 
 以前、映像による保護者の方向けの講座を担当していた時期がありました。テーマが決まっていてカメラのまえで2分半~3分ぐらいお話するものだったのですが、どのテーマも大きすぎてとても2、3分では収まりきれない感じでした。
 親子関係をよくするには・・・というテーマで最大限3分間というのは難しいでしょう。しかしやっていくうちに、これは言葉だけではないなということに気づいてきました。ご覧いただく方たちに伝わっていくものはお話している内容以上の何かであるべきだということです。
 
 微妙な身振りだとか笑顔だとか、そうしたものこそお話の内容以上に大切だということに気づいたのです。撮影のあとであれも話せばよかったとかこの件にも触れておくべきだったとか反省したこともありましたが、よくよく考えてみるとその「何か」はその話だけでも十分伝わっているとも思いました。たとえば「強く叱りすぎないように」と具体的に指摘していなくても、「いつも温かく見守ってください」と穏やかに表現するなかに「叱りすぎない」という具体的要素は含まれていると思ったわけです。ぜんぶ網羅してしまったらかえって殺伐とした感じになってしまうかもしれません。
 
 私は教室でも生徒たちにあまりあれこれ言葉をかけないのですが、自分が彼らから冷たい先生だと受けとられているとは思いません。ちょっとしたうなずきとか廊下をすれちがったときの眼差しとか微妙な部分で私は自分の気持ちを表現しているつもりです。彼らがそれなりに安心感を持ってくれていることは、たとえばふだんは教えていない生徒でもいざというときには相談に来てくださるのでよくわかります。
 逆に私がやたらと「言葉で」激励しはじめたらかえってインチキ臭く思われてしまうかもしれません。このあたりは親子関係も同じでしょう。場合によってはくどくどお話されるより、明るい笑顔や確信に満ちた眼差しなどのほうがよほど効果的な場合もあるということです。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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