2014.06.30 13:47

 昨日、中3の授業で面白い古文が出てきました。あ、これから書くことは勉強の話ではありません。
 あるおじいさんが牡丹を大切に育てていました。とくに大事にしていた花があった。ところがおじいさんが留守中に子どもがーーお孫さんでしょうかーー咲きかけた花をうっかり踏みつけて折ってしまいました。おじいさんは帰ってくるなり「咲いたかな?」とさっそく牡丹を見に行った。踏みつけた子どもは生きた心地もしませんよ。おじいさんの大事な宝物をだめにしてしまって、いったいどれだけ叱られることだろう。
 
 ところがおじいさんは何もおっしゃらない。そのまま2日も3日も経過します。こういうのを気にするおせっかいな人というのはいるもので、おじいさんにじかに質問しました。「楽しみにしていた牡丹の花を折られてしまってどれだけくやしくて腹をたてていらっしゃることでしょうね」
 おじいさんは微笑んだそうです。そして、涼しい顔でこう答えた。「私は楽しみのために花を育てているのだから、そのことで怒るわけにはいかないですよ」
 私はこれは人生のことを言っているのだと生徒たちに話しました。花を育てるということが生きることを示唆しているのだと。
 
 もちろんどこかにそう書いてあるわけではないですよ。しかし読もうと思えばある種の教訓として読めますし、そのほうが楽しいですね。
 私たちは楽しむためにーー遊んでばかりと言う意味ではありませんーー生まれてきた。楽しむために生きている。それこそちょっとしたアクシデントも自分を成長させる糧として楽しんで乗り切るべきなのです。だから、自然に起きていることをそんなに怒ってはいけない。腹ばかりたてているのであれば、何かしら生き方として本末転倒の部分が出てきている可能性があります。
 
 子育てなんかもそう。彼らが生まれてくるまえのことを思い出してみてください。私はとにかく生命さえ保っていれば、もうどういう状態でもいいと思いましたよ。五体満足という表現がありますが、それさえ高望みみたいな気がした。とにかく生命体であれば感謝しようという意志を持っていました。私だけではないですね。そういう方はけっこう多いのではないかと思います。
 ところがたった十数年で場合によっては「いちばんの悩みの種」となってしまう。それはちょっと光のあて方に問題があるのかもしれません。楽しみのための子どもなのですから、そんなに怒ってはいけないですね。
 
 このおじいさんは定義しています。「楽しみのため」と。こうした定義は大切だと思います。「楽しみのため」に生きる。「楽しみのため」に勉強する。「楽しみのため」に生活する。「楽しみのため」に働く。「楽しみのため」に人助けをする。もちろん「楽しみのため」に趣味や娯楽にも興じます。
 すべての定義がそうであれば、楽しめなくなってしまう状態こそがおかしいということに気づきます。その状態を招いているのはそれぞれの心なのですから、気づいた時点で気持ちをリセットさせる。そんな工夫ができるといいですね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.29 11:21

 映画のタイトルみたいですね。
 歳をとって現在の私には全人的にあこがれる人間はいません。理想というのもあまり意識しなくなりました。強いて言えばなるべく自然に「自分の普通」を生きることぐらいでしょうか。
 もちろん会社の内外に尊敬する人物はたくさんいます。ただ「全人的」にはなりません。それぞれの方の部分部分しか知らないわけですから当然ですね。部分部分をすごいなあ・・・と尊敬する感じです。
 
 昔はぜんぶを知らないのに、頭から尊敬したりあこがれたりしました。ちょっと子どもっぽいですが、そんな時期がありました。
 太宰治にあこがれたのは10代のときでした。非常にいい加減なことを周囲に言いふらしていましたが、太宰治みたいに生きているつもりでした。最期は絶対に心中してやろうと変なことまで考えていた。本当は太宰治という人を全然知らないわけです。知らないのに小説や随筆を読んですべてわかったと思いこみたかった。勝手にふくらませた「イメージのなかの太宰治」を生きようとしていました。
 
 リッチー・ブラックモアにあこがれていたときは露骨に他人にイヤミを言ったりしました。これまた10代のころです。友人に声をかけられて、あるとき突然無視した。本当に突然。事情を飲みこめない相手は何度も何度も話しかけてくる。私は追い払うように軽く手を振って、おまえとはもう話さないという意志を示した。
 「無視すんなよ、いやな奴だな」と言われ得意な気分になりました。みんなに言いふらしてほしいと願った。これまたリッチー・ブラックモアがどういう人か本当は知らないくせに、自分勝手なイメージで真似していたのですね。
 
 歳をとっていく過程で、本当の自分を少しずつ見つけていくものなのでしょう。しかし特定のスポーツ選手や芸能人なんかをご自身の分身みたいに考えていらっしゃる方がぜんぶお若いとは限りません。
 昔、場末の立ち飲み酒場(また出た!)でこういうことがありました。けっこう歳をとった男の人に後輩らしき人物(男性)が「先輩、本当にキムタクそっくりですねー! 」と大声で告げた。隣にいた私はあっ! と思いました。たしかに髪型だけはそっくりなのです。と同時に、そんな皮肉みたいなことを口走ってしまって大丈夫なのか? と心配になりました。
 
 髪型はそっくりでも顔が・・・あまりにも違う。ケーシー高峰さんによく似ている(ケーシーさんが悪いという意味ではありません)。それまでの相手の話しぶりがちょっと乱暴だったので「皮肉か?」と怒り出すのではないかとはらはらしたわけです。
 ところが突然様子が変わり「おまえねー、はっきり言っちゃう?」と大喜びで照れているではないですか。後輩はその後も褒め続け、適当なところで「ではお先に」とお金も払わずに帰ってしまいました。残された男の人は髪をさかんにかきあげながら「本人に言っちゃうもんなー・・・」といつまでもうれしそうでしたよ。
 
 私は昔、ある人に「スズメに似ている」と言われたことがあります。空を飛んでいるあのスズメです。熊に似ているとかネコみたいとか言われる方はときどきいらっしゃいますが、スズメに似ていると言われた人間はきわめて珍しいのではないかと思っています。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.28 13:10

 私は基本的に花を愛でるタイプの人間ではないのですが、花を愛でる人間をいいものだなと感じるタイプの人間ではあるのです。自宅に花を飾ることはありません。ちょっとやってみてもいいなとは思いますが、必然性がないような気がしていまのところーーたとえば私の部屋の机のうえにーー飾ろうとは考えていません。
 ただときどき教室に花を買ってきて飾ってもらうことはあります。受付のあたりですね。週末、催し物のあるときなど。できるだけ花を用意しておくようにしています。
 
 こういうのは個人の趣味の問題であり、会社からお金が出てそうしなさいと言われているわけではありません。教室ですからね。必ずしも花がなければ成り立たない空間でもないでしょう。
 たとえば今日は講演会がありました。会場は9階の高校部をお借りした。そこに勝手に花を置くわけにもいかないので、7階の受付に用意しました。ちらりと寄ってくださった方が見てくだされば十分です。大騒ぎするほどのことではありません。
 昨日買ったものです。昨晩、生徒がきれいねと言っていた。それもまたうれしかった。もちろん気づかない生徒もいます。
 
 先生のなかにも「花があるとほっとします」とおっしゃってくださった方がいました。ああ、気づいている先生もいるなと思う。
 これはやはり造花ではだめなのです。いつもいつも同じ雰囲気では感動がない。そのあたりは難しいものだと思います。盛りがあり、散りどきがあるから価値が出てくる。そういうことなのでしょう。
 花は2箇所で買っています。昔はおじいさんが売っているお店で買っていた。そこは微妙に高いということに、新しいお店を見つけて気づきました。
 
 新しいお店はびっくりするほど(?)きれいな女の人が売っています。値段も安い。おじいさんのところより何もかもいいのですが、何となく長いこと買っていたおじいさんに悪いような気がしてくるから不思議です。
 じつはお香もそうなのです。長いこと買っているお店がありました。べつのいいお店をある先生から教えていただいた。そこのお香のほうが格段にいい香りがする。4種類、非常に気に入ったものがあります。しかし、なぜかばったり行かなくなってしまうと以前のお店に申し訳ない気がする。
 
 買うだけ買っておこうかと変なことを考えます。
 お香は絶対にいちばん気に入ったものを焚きたいという気持ちになります。2流の、安ものですませてしまおうという気分にはなかなかなれません。
 そこが昼食なんかと違うところで面白いなと思います。昼食だと「今日はさっとすますか」と2番目3番目のお店をあえて選択することがあります。ところがお香はそういう気分になりません。それだけこだわりがあるのだと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.27 13:55

 私は人間の心配はすべて「漠然とした死の不安」に結びついていると考えています。ですから、死についてある種の考察を経験しない限り、心配はついてまわる可能性があるとも思っています。
 考察と言ったところで、避けられないという覚悟、正体のわからないものを知りたいという好奇心、ものすごく悪いものという先入観からの脱却・・・そんなところですかね。私は昔から「死」について読書したり考えたりするのが好きだった(人には暗いと言われます)のですが、そうした経験のおかげで、日常生活における心配は著しく軽減したように感じます。
 
 私は息子のことをほとんど心配してきませんでした。学校の先生に呼び出されても成績が悪くても、私が悲観することはありませんでした。
 つねに穏やかに柔らかく話をした。家庭が暗くなったことはまったくありません。中学校のときある教科の内申で5段階の2(!)をとってきたときも、私たちの関係はーー家内も入れてですーーきわめて良好でした。こんな成績をとってきて! と怒鳴ったりしない。事情だけは聞きましたよ。先生と対立しているというので、尊敬しようという意志は持つべきだよぐらいは話しました。あくまでも明るく。2を取った中3生の家庭のなかではいちばん明るいぐらいでしたよ。
 
 もちろん2があると不利ですね。たとえば私立高校なんかはちょっと探しました。2を取っている生徒は不可という私立高校もたくさんあります。大丈夫なところを見つけなければ。しかし「不出来な息子がいて苦労する」とはまったく考えなかった。それこそ「心配するな」と言った。
 さかのぼって小学生のときはとにかく暴れん坊で困りました。家庭では穏やかなのになぜか学校で暴れる。窓ガラスを割ったこともありましたよ。先生が優秀な受験生(息子の小学校にはたくさんいらっしゃった)から息子を遠ざけたがっているのがよくわかりました。しかし私は心配しなかった。
 
 夏休み、小学校の廊下のメダカにエサをやる係が息子になった。皆さん中学受験をされるのでそんな暇はありません。それでぼんやりしているうちの息子が毎日エサをやる係になりました。不公平といえば不公平ですが、私はいい経験だと思いました。
 ある朝、息子と夏休みの小学校に行ってみました。無人の廊下のメダカに息子は慎重にエサをやっていました。窓から斜めにさしこんでくる朝日がくっきり見えます。夏なのにあたりはひんやりしていました。エサがぱらぱら落ちてメダカが集まってくるのを確認すると、息子は小さな声で「これでよし」と呟きました。私は頭を撫でてやりました。
 
 現在、息子は「普通の」大学生です。あたりまえのように大学に行き、適当に勉強もしています。
 これからも就職だとか結婚だとかいろいろ出てくるでしょうが、相変わらずまったく心配していません。心配しない磁場みたいなものができているのですね。
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.25 14:34

 土曜日の講演会、まだ少しだけお席が残っているみたいです。よろしければどうぞ。
 本当は直接中学生(小学生・高校生)に話したい気持ちがあります。「よい受験生に」なるのは彼ら自身ですからね。ただ学校だとか何だとかでお忙しいようでしたらおうちの方が伝えてくださるといい。今回は簡単なメモもお配りしようと思っています。ときどきアンケートにお子さんにどこまで伝えられるか・・・というコメントが残されているので、手がかりみたいなものをと考えました。
 まあ、こういうのはご縁ですからね。私は保護者の方にも自分の生徒にも、聞きに来てくださいとは一切お話していません。秘密の会合みたいなところが楽しいのです。
 
 生徒と私とのあいだには微妙な距離があります。これは私自身が意識して少し距離をとっているのです。
 遠すぎてはいけない。しかし、近すぎてもじつはいけない。そういうことが長年やってきてわかってきました。昔はーー人間関係というものはーー近ければ近いほどいいものだと思っていました。「親身」という言葉がありますが、そういうのがいちばんいいと思っていた。
 いまはそうは考えない。微妙に距離をとったほうがお互いにほっとできたり成長できたりする部分があるのです。
 
 たとえば授業中うつらうつらしてしまう生徒がいます。昔はすぐに怒ったり注意したりしていたのですが、いまはただ見守っています。いずれ目を覚まします。で、何ごともなかったように授業に参加する。
 授業が終わってから謝りに来る生徒もいます。「今日は寝てしまってごめんなさい」みたいなことを言う。私は「いい気持ちだったろう?」と答える。自分の声は鎮静作用があるので、ゆっくり休めたはずだよと皮肉ではなく答えます。少し眠ってしまった程度では困らないように授業そのものは組み立ててあります。中学生がうとうとしたぐらいで、いちいち過敏に反応することはなくなりました。それぐらいの精神的距離は保っているということです。
 
 人間関係、一体化しすぎると非常にわずらわしい面が出てきます。これは親子でも夫婦でもそうでしょう。
 熱愛中の恋人同士なんかだと相手が何をしているのかいちいち確認しないと落ち着かないみたいなケースもありますね。相手が秘密を持つことが許せない。しかし、人間というのはご自身でも自分のすべてがわかっているわけではありません。だから救われる部分がある。ぜんぶわからないから頑張れたりもする。見えないから可能性に賭けられる。
 他人のすべてを把握しようとするのがはたしていいことなのかどうか。ペットではないのですから、すべてを管理しようとすると病的な干渉が出てくるかもしれません。
 
 逆にすべてをさらけ出すのはじつは無責任ではないかと思うこともあります。ぜんぶ投げ出して秘密はありませんからあとはよろしく・・・という形で他者に依存する。秘密はないと言っても本当の心の中までは把握できていないわけです。自分自身が完璧にわかる人間はいませんから。その複雑な部分を「なし」にしてしまう。あるいは見なくていいことにしてしまう。そういうのはちょっと成長の機会を阻害するようにも感じます。
 息子に対しても私はほとんど干渉しません。秘密を持てないような人間では将来大成しないとも思うのです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.23 13:29

 私はいまでもC&Cのカレーをよく食べています。以前も記事に書いたことがあるので繰り返しませんが、40年間食べ続けているわけで仮に月に2食ずつ食べてきたと仮定しても(もっと食べているのは確実なのですが)、24×40=960回は食べたことになります。要するに1000回食べた。1000回食べて相変わらずおいしいと感じるわけです。
 ところが「そんなにおいしくないよ」という方もいらっしゃる。べつのチェーン店の名前をあげられて、そちらのほうがずっとおいしいでしょうと言われました。試しに食べてみたのですが、私にはC&Cのほうが格段においしく感じられました。
 
 これはカレーそのものに原因がありますか? 人間のほうに原因がありますか?
 当然、人間のほうですね。ですから同じC&Cのカレーを食べてもすごくおいしく感じるときとそうでもないときがあります。昔、大きな心配事を抱えながら(人間なので私にもそういうときはありました)とにかく食事だけはすませておこうと横浜のC&Cショップ(いまはなくなったと思います)でカレーを食べたとき、非常にまずく感じて残してしまったことがあります。1000回食べて残したのはそのとき1回きりなのでよく覚えています。
 あれはもちろん「私」に原因があった。カレーのほうに責任はないですね。
 
 私はしかし、今日はカレーのおいしさ比べのお話をしたいわけではありません。
 人生すべてがじつはそうなのだということをーーとくにお若い方にーー気づいてもらいたいと思って書いています。
 あなたがきらいなこと、いやなことは必ずしもその物事自体にきらいである原因が内在するわけではありません。科目の好き嫌い、人間の好き嫌い、趣味の好き嫌いーー本当の理由はこちら側にあるということです。
 学生時代異性にもてない男がいて、恋人にかくまわれていた犯罪者の事件を知って「犯罪者にさえ恋人がいるのにどうしておれにはいないのだろう?」と嘆くので笑ってしまったことがあるのですが、そういうことですね。どんな相手でも「こちら側」の姿勢次第で大好きになることもある。
 
 しかし、だからこそ希望が出てきます。わかりますか? 
 こちら側の態度や見方を変えることで好きになったり意味を見出せたりする可能性が十分にあるということです。カレー程度であれば「嫌い」でもすみますが、世の中それだけではすませられないことも出てきます。
 そのときは楽しもう、面白がろう、明るく見てみよう、おおいに笑おう・・・という意志を持って接してみてください。勉強に、お仕事に、練習に、人間関係に。
 ものすごく大きな枠で示せば「人生」そのものもそういうことです。生きていてもいいことなんか1つもないという嘆きをときどき耳にします。それは「人生」そのものがそうなっているのか、嘆くほうの見方が悪いのか。いろいろ壁にぶつかっている方もいらっしゃるかもしれません。すべての鍵はこちら側にあるのですから、どうか勇気を出してください。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.22 10:58

 「北斗の拳」のお話ではありません。私はあれ全巻持っていますが(「酒のほそ道」も全巻持っています)。
 先日、神童のお話を書きました。今朝の新聞で見るかぎり、残念ながら神童は予選で敗退してしまったようです。応援していたのですが・・・
 どうしたら神童になれますか? と質問されても私には答えられません。ただどうしたら勉強ができるようになりますか? と質問されればーー30年以上もこういう仕事についているわけですからーーそれなりのことは答えられます。
 
 いまもそういうことを頻繁に生徒から質問されるのですが、じつはあなたはもう知っているはずですよ。「とっておきの学習方法」というカテゴリーにすでに130本以上の記事を書いています。いつも言うように私が発明したものではありません。私はただの目撃者でしかない。30年間に渡る数え切れないほどの「秀才たちの目撃者」です。彼らがやっていたことをなるべく正確にわかりやすく書きました。1割でも実行してくださっていれば、すでに相当できるようになってきているはずです。
 ひょっとするとあなたは「もっともっと楽な方法」を求めるばかりで(気持ちはわかります)、せっかくの先輩方の積み重ねてきてくださった遺産をまったく利用していないのではないですか?
 
 先日のZ会進学教室の保護者会で英語の先生がいいお話をしてくださいました。英語は音読や暗記も大事ですし文法ももちろん大事ですね。ある高校生がその先生に非常に高度な文法的質問を持ってきた。先生は細かく解析して長い時間をかけて説明しました。高校生も深く納得して帰っていった。ところが同じような問題が出てきたら、その高校生はあっさり(?)間違えていたそうです。
 先生は笑いながらこうおっしゃった。「とにかくはじめは理屈をこねくりまわすより、覚えてしまうまで徹底的に音読したほうが間違えないですよ」
 
 私は20回という回数まで書いています。すごくできる子に何回音読するの? と質問したら「20回です」とおっしゃっていたのでそう書いた。先生によっては20回ではまだまだ甘い、覚えるまで繰り返しなさいとおっしゃるかもしれません。
 知らなかった? 本当ですか? 学校の先生だって「家で繰り返し読んでおきなさい」とおっしゃいませんでしたか? 「繰り返し」というのは2回や3回ではないでしょう。まして目で字面を追っただけなどというのは1度も読んでいないのとたいして変わらないでしょう。
 
 何回も読みなさいと言われたことが1度もないという中学生(高校生)はお1人もいらっしゃらないと思います。でも、あなたは「何回も」は読んでこなかった。
 これは「知らなかった」のですか? 「知っていたけどやらないことを選択してきた」のですか? 今日は英語のことだけを書きましたが、どの教科も同じです。勉強のできる人というのは特別な秘密を知っている人ではなく、皆さんも知っているあたりまえのことを単純に実行している人にすぎません。だから、あとはあなた次第です。少しでも現状から進歩していく気持ちを持ちましょう。応援していますよ。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.21 15:48

 将棋のアマチュア竜王戦に小学校3年生の代表選手が出場するというので話題になっています。香川県代表に選ばれた。
 県代表というのはーーだいたいの目安ですーーアマチュアの段位で非常に強い四段~五段(わざと漢数字に)ぐらいです。相当強いですよ。その県代表に将棋をはじめてからわずか2年ちょっとで到達した。決勝戦の相手はいつも教わっている「先生」だったそうで、とうとうその先生まで負かして代表の座を射止めました。
 
 たった2年で・・・というところがすごいですね。私は将棋をはじめてから40年以上になりますが、いちばん熱中していたときでさえせいぜい町道場の三段がいいところでした。県代表の方とでは大駒(飛車とか角とか)を落としてもらっても勝負になるかどうか・・・というところです。
 要するに天才児ということになります。ここまですごくはなくても、私は昔からときどき(道場で)将棋の天才児を見てきました。それこそのちに奨励会(棋士になるための少年少女の養成機関)に入った少年もいました。
 
 あきらかに集中力が違います。それからーーこれは大きいと思ったーー将棋を指していないときも彼らは将棋のことをずーっと考えています。頭のどこかに将棋が巣食っている。マス目みたいなものを見るとすべて将棋盤に見えると言っていた中学生(生徒ではありません)がいました。彼もほんの半年ぐらいで4級から四段に上がった。大変な早見え(手がすぐに読めること)で、最後は私はまったく勝てなくなりました。
 まず好きでないとだめですね。いやいややっていてはだめです。将棋の天才は将棋が好きであり、数学の天才は数学が好きであり、絵画の天才は絵画が好きである。すると勉強は? 
 
 だれもが天才になる必要はまったくないと思いますが、大きらいでは天才にはなれないどころか平均値にすらたどりつけないかもしれません。努力しなくてよさそうに見えるので天才はうらやましいという人がいますが、少なくとも大好きになる努力や工夫だけは必要です。
 大山康晴永世名人は、天性の将棋の才能以上に継続的な努力のほうが大切だとも書かれていました。お弟子さんなんかを見てきて感じたそうです。才能のある弟子が油断して努力家に追い越されていくのを何度も見てきた。
 
 これは私もちょっと感じることがあります。小学生のとき、やたらとひらめいてよくできる子がいます。20年以上昔は小学生、中学生、高校生と見ていましたから変遷ぶりもよくわかる。抜群によくできる小学生でも雑だったり学習習慣が身についていなかったりすると危険です。
 中学2年生ぐらいからふっと下がってくることがある。丁寧にじっくり取り組むことができないからです。練習の単調さ、復習の丹念さーーそれこそが大切になってくるのですがーーうんざりしてしまう。かたや何回も練習するのがあたりまえという子もいて、じりじりと追いつかれ追い越されてしまう。我流の限界に気づかせないといけません。
 
 ご自身が神童でないことを嘆く必要はありません。逆に「自分はすごい」と思っていても油断はできません。
 こつこつ努力できるかぎり、必ず道は開けます。人生そうなっているのです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.20 13:26

 世の中はワールドカップの話題でもちきりですね。私はとくにサッカーファンというわけではないのですが、生徒たちが話しているので何となく状況は伝わってきます。また日本代表が勝つと彼らが喜ぶので、自分も応援する気持ちを持っています。こういう仕事をしていると、やっぱり生徒の幸福は自分の幸せでもあるのですよ。
 ただ周囲は本当にサッカー一色で、ちょっと心配だなと感じることもあります。もっとも私は政治についてはまったくのシロウトなので、少しとんちんかんなことを書くかもしれません。
 
 憲法改正ではないものの、その解釈がどんどん変わってきそうですね? 私は民意がそうであればそれは仕方がないと考えているのですが、民意はそれこそサッカーに夢中でそのあいだにどんどん話が進んでしまうのはよくないと思っています。
 万が一戦争みたいなものに巻きこまれたら、戦場に赴くのは憲法に新解釈をつけた大人たちではなく息子や生徒たちです。平和憲法に縛られているからこれからも絶対に戦地で他者を殺すこともないし、自分の生命を落とすこともないと安心していて大丈夫なのかどうか。
 
 校則なんかもやはり明文化されているということは、個人の意志があまり強く入りすぎると心配だからでしょう。たとえば「中学生らしい髪型」と書かれていたら、まあある範囲内におさまってきます。いくら個人の解釈とは言ってもトミー・ボーリン(どなたもご存知ない?)みたいに長髪を7色に染めて登校することはできません。
 逆に生徒にしてみれば、この時代中学生らしさ=坊主頭と考える先生はいないだろうという安心感もありますね。ところが環境が変化してきて学校の先生方の顔ぶれが変わり、これからは坊主頭こそ中学生らしいのではないかとある時点から「解釈」されたらちょっと困るでしょう。
 
 その場合は、やはりきちんと校則を変えるべきだと思います。そのために生徒や保護者や世間の声を広く聞く。民主主義の世の中ですから坊主頭にしたいという声が多数であれば、改めて頭髪は短く刈りこむという校則を作る。
 それがワールドカップが終わったらふと「中学生らしい髪型」が坊主頭に変更されていたというのではびっくりですね。ずるい大人であれば、サッカーに夢中にさせておいてそのあいだにぱっと決めてしまおうと考えないとも限りません。
 
 私は特定の政治家を批判しているわけではありません(そもそもよく知りません)。ただ日本だけではなく、全世界がどちらかというと戦争を視野に入れる方向に動いていることを、非常に危惧する気持ちがあります。
 人類の歴史を見ると戦争と戦争のあいだにぽつんと平和があるだけで、平和というのは決して「自然の状態」ではありません。つまりじつは「努力に努力を重ねて平和状態にしている」のです。ところがいまの世の中、平和を守る努力が少し面倒になってきている気短な大人が増えてきたように感じます。
 
 私の父も祖父も軍人でした。ですから軍隊に対して何か嫌悪感を抱いているわけではありません。
 ただ人の原点はその人個人の周辺を意識することから出発します。そうなるとどうしても息子や生徒のことを考えてしまう。どういう名目であれ、彼らが戦場に行かなければならないような方向は避けてほしい。政治家や政党に対してというより、世の中全体に対しての祈りみたいな感覚でしょうか。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2014.06.18 14:06

 昨日はお休みをいただいたのですが、昨日6月17日でブログをスタートさせてからちょうど丸5年になりました。2009年の6月17日が初日。この日は少し練習という意味で書いた(当初は7月開始というお話になっていました)記憶があるのですが、ともあれ丸5年たちました。いつも本当にありがとうございます。
 つい最近1500回という記事を書いたばかりです。要するに5年で約1500本書いた。年平均で約300本ということですね。これからも基本的には仕事に出る日は必ず記事を更新していこうと考えています。
 
 ここは気をつけなければいけないところですが、入試制度や入試問題についてどんなに研究したところでご本人そのもののあり方で結果は決まってしまうという事実があります。ご本人が勉強家であれば合格できるでしょうし、ご本人が遊び半分であればいい結果は出づらいでしょう。あくまでもその人が「どうあるか」ということがはじめの1歩であり、制度や問題の研究はそのあとでなされるべきことがらでしょう。
 中学生ぐらいですとご自身が見えにくいということもありますね。本当はどうなりたいのか見えていない。漠然と非常に高い志望校をあげたりするのですが、それがどういう意味を持つのかということまでは考えていない人もいます。
 
 最難関校に進むということはーー簡単に表現してしまえばーー勉学に打ちこむ人生を送る覚悟を決めたということです。面白おかしく勉強を適当に処理しながらふわふわ生きるということはできません。まず頭に勉強を持ってきて、そのうえで余裕があれば趣味や娯楽に時間を割くことになる。勉強すること自体に喜びがある。合格したら思い切り遊ぼうではスタート時点から何か間違えています。
 ですから、私はもし自分が現在中学生であれば難関校は目指さないと思います。それは恥ずかしいことでも何でもなく、自分は生まれ変わったら今度こそ勉強より芸術活動ーー絵や音楽や文藝ーーに打ちこみたいという強い情熱を感じるからです。
 
 ただそれは現在の私の頭で考えるからはっきり宣言できるのであって、中学生ぐらいですと何となく見栄や体裁やときには「自分より成績の低い子でさえ志望校にあげているから」という変な理由で最難関の高校名をあげる人もいます。それが悪いと責めているわけではないですよ。ただいまのままあなたを変革せずに進んでいくのは大変かもしれません。
 なぜなら本当のあなたはもっともっと遊びたい、楽をしたいと考えているからです。違いますか? 予定の勉強が終わったときに物足りない気持ちになりますか? まだまだ何か勉強したいぞという気持ちになりますか? 
 
 自分を見つめるというのはどうしても必要なことで、ご両親の期待通りに生きればいいというものでもありません。たびたび自分のことを書きますが、私は両親の期待通りにはまるで生きてきませんでしたが、だからこそ本当の自分が見つかったと思っています。本当の自分としてこうやって皆さんを応援することができます。
 ときにはこわがらずに「勉強したくない」自分を直視することも必要でしょう。そのうえでやっぱりどうしても最難関校を目指したいということであれば「人生を勉学に捧げる」覚悟に恥じない一瞬一瞬を志すことです。一瞬一瞬。
 全員にそうしなさいと言っているわけではありませんよ。それぞれが間違いのない「自分自身の人生」を送ってくださることを心から願っています。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2014年06月   >>
01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

新着記事

月別アーカイブ