2013.09.30 14:09

 保護者会で話そうと思っていることをときどきブログにも書いています。私は基本的にいつでもどこでもどなたかのお役にたてたらいいと思っているので、これはいい話だからしかるべきときまでとっておこうという「けちな」考えは持っていません。勉強のことは経験上たくさん知っていますから、どんなことでも次々と開示(というのも変ですが)して、会員以外の方に対してもお役にたてたら・・・と思っています。
 歳をとったせいか、本当にもう人さまを支えることぐらいしか面白くないのですよ。まあこれは人生観の問題ですから、いろいろな考え方があっていいと思います。
 
 今月、中1のクラスで用言というのをやりました。2週続けてやった。約3時間ですね。用言について説明して覚えるべきことも示しました。受験生の方はご存知でしょう。動詞、形容詞、形容動詞についてです。形容詞の活用は丸暗記しなさいとも言った。「かろ、かっ・く(この2つは仲間)、い、い、けれ」というやつ。それだけですから、この瞬間でも覚えられる。
 みんな真面目に聞いていました。で、問題も解いた。それもできた。あとは自宅に帰って暗記するぐらいですね。
 
 ところが、先日のテストで半分以上の生徒がこの問題ができていませんでした。要するに忘れてしまった。覚えていなかった。毎年毎年こうです。つぎの授業のとき、私はそういうものなんだよとーーもちろん穏やかにーー話そうと思っています。そういうものなのだということにまず気づいてもらわないと。
 もちろんできている生徒も何人もいた。自宅で覚え直したのでしょう。はじめから知っていたとはちょっと考えられません。「かろ、かっ・く、い、い、けれ」と書いて覚えたはずです。3週間まえは全員この分野は白紙だったのが3週間たって20点以上(文法問題は約20点分の配点でした)の差がついた。
 
 彼らは自分より何十点もとれている生徒を面白半分に「だってあいつ天才だもん」と言ったりします。場合によっては、本気で才能が違うと信じこんでいたりする。そうではない。点をとっている彼らは生真面目に「すべての分野で」この「かろ、かっ・く、い、い、けれ」に象徴される練習を繰り返してきたのです。そして残念ながら「あいつは天才だからおれ(私)とは違う」と嘆いているあなたは、これまでは(この先のことはあなたが決めますね?)その訓練を繰り返してこなかったということです。
 秀才というのはそうした集積がどれだけあるか、これからも生真面目さを維持し続けられるかどうかだけで決まります。
 
 もちろん全員が秀才になる必要はないですし、それぞれがご自身の望む生活を送ってくださったらいいとは考えているのですが、ときどき「どうしてできないのだろう?」と本気で悩まれている生徒もいるので具体的に書いてみました。
 ただ、ぜんぶ忘れてしまってももつぎにやったときに「あ、見たことがある!」という要素があるとはじめての人とは大きく違うのも事実です。ですから、すべてはむだになりません。むだにはならないものの、秀才までは届かないということです。
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2013.09.29 11:50

 先週の漢字テスト(中3)の例文に「師の薫陶を受ける」というのが載っていました。「薫陶」の読みのテスト。受験生の方、読めますか? そうですね、くんとうと読む。
 テストはそれだけで一応まるがつきますが、くんとうって何ですか? そういうところをきちんと自分で調べないといけないなあ。漢字や言葉を覚えるのは、あくまでも自分で使いこなせるようになるためです。語彙というのはそうやって少しずつ意識的に増やしていく。瞬間的に「くんとう、くんとう」ではいけません。
 
 薫陶という文字を見てください。薫と書いてある。かおる、いい匂いがするということですね。さらに陶器の陶という字が続きます。
 わざわざ辞書をひいてみました。もちろん私は以前から意味を知っていますが、念のためにひいてみた。いいですか。私だけではないですよ。教える側でもそれぐらいのことはしています。「念のために」辞書をひきます。
 すると、香を焚いてかおりをしみこませ、粘土を焼いて陶器を作るという意味のことが書いてありました。
 
 では、例文の「師の薫陶」というのはどういうことでしょう? 辞書のさきのほうを読んでいくと、徳をもって人を感化すると書かれていました。感化とは? これまた大人ならどなたでも知っていますが、「念のために」辞書をひきました。すると「影響を与えて心を変えさせる」と出ていた。
 そこまでやってはじめて完成。何だか知らないけどテストがあるので瞬間的に「くんとう、くんとう」では身につかないということですね。そういう姿勢は得をしているのではなく、損をしているのだということに気づいてください。
 
 私は生徒たちにあまり偉そうな概念は伝えないように気をつけています。全然言っていないと思いますよ。演説みたいなことはしない。これは息子に対してもそうです。
 それでもせっかくなので、何かしらいい影響を与えられたら・・・という希望は持っています。先生は皆さんそうだと思います。それこそ薫陶みたいなものが与えられたらいいということですね。現在私はけっして強く生徒を叱らないのですが、そういうところも本当は学んでほしいと思ったりします。全体の空気を率先して和やかに保つ努力ですね。そうした努力を1人1人が心がけてこその世界平和(?)ですよ。
 
 科目としての知識はもちろん大切ですが、それはテキストにもぜんぶ書いてある。伝え方の工夫こそが大切ですね。授業でなくても・・・すべてにおいてそういうものだと思います。
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2013.09.28 12:59

 東京の中学生はちょっと疲れすぎているのではないかなあと感じるときがあります。朝早く起きて学校に行く。ときには部活の朝連がある。何時間も何教科も授業を受ける。放課後はまた部活の練習。かなりハードに身体を酷使する場合もあるでしょう。そして宿題。
 そのあとでやっと塾に来る。授業を受けはじめるとついこっくりこっくりしてしまう。もちろん毎回寝るわけではありません。しかし、ついつい・・・眠ってしまう。疲れているのでしょう。見ていると突然がくっとなります。
 
 つい最近もそういう場面を見た。真面目な生徒です。ノートをとっている最中にがくんとなった。隣にいた友だちがびっくりして「寝ちゃだめだよ」と言った。その生徒自身、意識を失ったことに驚いたらしく、苦笑しながら再度ノートをとりはじめました。
 そういう感じで突然意識を失う子がたくさんいます。で、また突然意識を取りもどす。悪気はないのです。悪気はまったくないのに身体が言うことをきかない。やる気の問題ではないように感じます。
 
 しかし、そこまで疲れているということに対してはちょっと考えなければいけないですね。と言うのは、寝ない生徒は絶対に寝ない。余力が残っているのです。残っているのではなく残していると表現するべきなのでしょう。優先順位みたいなものがあり、放課後塾に来るとどれぐらいエネルギーを使うかということまで(無意識のうちに)逆算して生活を構築している。それぞれ気力も体力も違いますから、だれかの真似をしてもうまくいかないこともあります。個々人で考えなければいけない。
 
 じつは私は昨晩あまり寝ていません。家内がいわゆる「ブラック企業」のテレビを見ていました。それを何となくながめていた。そのあとで読みたい本があり、4時ぐらいまで読んでいました。結局、4時間ぐらいしか寝ていない。授業中は座りませんから、問題を解いてもらっているときにうっかりうつらうつらすることはないでしょう。しかし、椅子に座ってほかのことをやっているときはーー波状攻撃のようにーー著しく能率の悪い瞬間があると思います。仮に私が中学生であれば、今日は少しだけ寝てしまうでしょう。
 
 そのあたり、生活の質の向上のために何ができるかということですね。そちらの作戦のほうが細かい勉強方法云々より大切ではないかと思います。頭のいい悪いではないのですよ。きちんと塾の授業、通信の課題、学校以外の勉強に向かえるだけの気力と体力を残しているかどうかの違いなのです。
 もし、そんな余力ないよというのであればとくに受験生の方は何か間引いて勉強に対する気力体力を復活させないといけません。それができなければ実行しているライバルに勝てる道理がないからです。
 
 これは人間として立派かどうかなどということとは関係ありません。私が仮にボランティア活動に日々忙殺されているとして、それはりっぱな行為ではあるでしょう。ただそちらがあまりにも忙しいので仕事中によく寝ているということになると・・・会社に置いておいてもらえないですよ。いくら「人間として」立派なことをしていても、方向性がちょっと違っているからです。中学生が委員会とか部活とかを一生懸命やるのは確かに立派なことだと私は思っています。ただしバランスの問題は残ります。そこは意識してくださるといいですね。
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2013.09.27 13:13

 私は基本的に電車内では座らないことに決めています。だいたいはドアにもたれかかって外を眺めている。子どもみたいですね。いちばん前で運転席から外を見ていることもあります。ありますどころじゃないな、今日もそうでした。じーっと見ていたら途中でブラインドを下ろされてしまいましたよ。見せてくれてもいいのに。
 空地ができたとか新しいビルができたとかぼんやりと考えています。最近、あれ? と思ったのは竹下通りの入口ですね。
 
 入口の左側に少し大きなビルがありました。たて替えられています。いつなくなったのか正確には覚えていない。毎日毎日、左側のドアにもたれかかれるわけではないですからね。
 あのビルには20代のころ入ったことがあります。当時、書店が入っていた。音楽誌でイアン・ギランのインタビューを立ち読みしたことを覚えています。そのときイアン・ギランはダイエットしていて、甘くない飴を舐めているというようなことが書かれていた。ほかの内容は覚えていないのに、そんなことだけ記憶に残っています。
 
 原宿の竹下通りが静かな住宅街だったときのことも私は記憶しています。当時、小学生でした。日曜日ごとに進学教室に通ってテストと解説授業を受けていた。その会場が原宿にありました。大学を借りていたのですね。進学教室も大学もいまはなくなっています。進学教室はつぶれたのかな。大学はどこかに移転しました。
 角のお宅も覚えている。現在ビルがたて替えられている場所にかなり立派な木造2階建ての家が建っていました。表札の名前まで覚えています。
 
 竹という文字が頭についていた。万が一差し障りがあるといけませんのでこれ以上は書きません。そんなことをなぜ記憶しているのか。
 毎週毎週、私は進学教室の帰りにいろいろなお宅の呼び鈴を鳴らして遊んでいました。いわゆるピンポンダッシュというやつですね。仲間がいるときもあったし私1人のときもあった。それで表札の名前まで覚えてしまいました。竹なんとかさんのお宅の呼び鈴もおそらくーーこんなことを覚えているぐらいですからーー押したと思います。申し訳ないことをしました。
 
 ピンポンダッシュでは自宅近くでつかまったことがありました。この話は以前書いたような気がします。同じころ、つかまったご家庭の近くの神社のご神体をひっぱりだして遊んだことがあります。友だちと一緒でした。無人の神社。開けると鏡のようなものが入っていた。取り出して反射させて遊んだりした。どうかと思いますよ。
 その神社のことを先日、池袋教室時代に教えていた生徒に伝えました。神社の近くの私立高校に特待生として進学された。神社はまだ残っています。いろいろなことがあります。まあ、生きられるだけ生きてみますよ。
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2013.09.26 13:41

 ときどきそういうことがあります。以前はまったく気づいていなかったなということが。
 たとえば「高校に入ってからは頑張るぞ」と強く思う。いまは中学生だからこんなものだけど、いずれ高校生になったらおれ(私)はものすごく頑張る。本当の自分を自分自身にも周囲にも証明してやるぞと意気ごむ。
 それなりにりっぱな考え方ではあると思うのですが、すると中学時代の現在のあなたの人生はどういうことになりますか?
 
 大人でもそうです。何かしら本当にやりたい仕事がある。ミュージシャンになりたい。俳優になりたい。もっと大きな仕事をしたい。
 ただいきなり夢は叶わないから、とりあえず資金調達のために働いている。会社で、工場で、現場で。いまはこんなつまらない仕事に追われているが、これは本当の自分に進化していく過程であって本気を出すまでもない。本気を出すのは夢の舞台に立った瞬間からでいい。こんなのはあくまでも腰かけのアルバイトだ。
 
 そうやって何年も何年もときには何十年も「本当の自分ではない」日々を送る。それでいいのかという問題はありそうですね。
 私がこういうことに気づいたのはいまから15年ぐらいまえでした。いくつかの禅の本を読んでいてはっとした。禅を歩くという言葉が説明されていた。何かの目的のために歩くのではなく、歩くことそのものが禅だみたいな解釈でした。すべての行為が目的のためになされるという考え方はおかしいと書いてありました。行為そのものに価値があることに気づけと。
 
 瞬間的に納得したわけではありません。ただ「ここには何かあるな」という感じは強く残った。悟りを開いたり超人的な力を獲得したりするために座禅をするのではない。座ること自体にとてつもない価値があり、それはあくまでもそこで完結する。食べることも歩くことも話すことも、それこそシャワーを浴びたり笑ったりすることも、完結してこそのかけがえのなさがあるというのですね。
 私もまた若いころいろいろな塾で働いていたわけですが、完全に「アルバイト」だと考えていた時期がありました。詩人として、小説家として生計をたてていくことができないから仕方なく働いているのだという意識ですね。
 
 それこそ10年以上そう考えていた。仕事が面白いことは面白かったのですよ。だから続きはした。しかし、どこかでこんなのは本当の自分ではないとつねに思っていました。
 もったいない日々を送ったなという後悔は残っています。もうちょっと意識的に生きられたはずでした。それこそ「高校に入ったら頑張る」と考えて、何となく中学時代を過ごしてしまった感覚でしょうか。
 いまの自分は自宅で食器を洗うときも何かになったりどこかに行ったりするためでなく、食器を洗うために行為するという気持ちになっています。食器を洗っている自分が本当の自分だということですね。
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2013.09.23 13:11

 家内のパソコンが壊れてしまって自宅ではとうとう記事もコメントも書けなく(&読めなく)なってしまいました。よくわからないのですが、煙が出てきたそうです。いずれ修理することになるとは思うのですが、当分は教室に来たときのみ更新いたします。
 息子も何か持っているのですが、私は息子のパソコンを触るどころか見たことさえありません。いわゆるマックのものだそうで、将棋は指せるのか? と訊いたところ、指せないと言われたのでまったく興味を失いました。
 
 自分のパソコンを持とうかなともかすかに思うのですが、どっちみち将棋を指すぐらいなのでばかばかしいような気持ちもあります。
 インターネットで将棋を指しているとちょっと中毒みたいになるときがあり、私は世のなかの子どもたちが深刻なゲーム中毒になるという話がとてもよくわかります。やめられないのですよ。やめられないので憎しみみたいなものを感じながら指し続ける。一睡もせずに次の日の昼間まで16時間ぐらい続けた日もある。当然、ひどい将棋になりますね。角という駒をただでとられて4手で投了した。初心者でも絶対に犯さないミスです。それを複数回やった。
 
 毎日そういう状況になると困るので、自分のパソコンは持たないほうがよさそうですね。個人的な文章を書くときはいまだにワープロを使っています。昔の海外の文豪が古い愛用のタイプライターで最後まで記事を書き続けたというような話に憧れるので、とにかく新しい機器に移ることに抵抗があるのです。
 インクリボンを入手するのが大変です。わざわざ注文して取り寄せてもらう。お店の方に「いまでもときどきそういうお客さんがいらっしゃるのですよ」とまじまじと顔を見つめられる。
 
 若いころ、ある作家の「1行ごとに感動させたい」というセリフを聞いて非常に感心したときがあったのですが、歳をとってそういうものでもないと考えるようになりました。疲れるだけではないですかね。
 安心して読んでいるとところどころはっとするというのが現在の自分にとっては理想です。芸術作品だけではなく、人間もそう。ずーっとすごい人(というのがどういう人なのか私にはよくわかりませんが)より、何かの瞬間にはっとさせられるような方とおつきあいしたいと感じます。
 
 コメント欄に最近書いたのですが、ある生徒とこの夏飲みに行った。帰りの埼京線のなかで彼がつり革につかまりながら突然「『雨を見たかい』の雨ってナパーム弾のことだという説があるみたいですね」と呟いた。私がその楽曲を知っているかどうかまったく確認せずにです。私は「そうなのか」と言った。このやりとりは非常に強い何かを自分のなかに残しました。
 食事でもずーっとおいしいと逆に疲れるんだなあ。ふとおしんこを食べたらあまり漬かっていなかった。あれ? と思い、そこからメインの味の濃いおかずに戻ったりする瞬間が驚異的においしく感じます。落差。漬かっていなかったおしんこもじつは捨ておかず(?)ではなかったのですね。
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2013.09.22 11:38

 出がけに息子と顔を合わせない日は何かしら置き手紙をしています。うるさいことは書きません。今日は、大きな地震が来そうな感じがあるから意味なく地下深くもぐらないほうがいいと書きました。
 私は複数の地震予知予想サイトを毎日見ています。ここのところちょっとだけ気になってきています。あおる気持ちはまったくないので具体的には書きませんが、年末ぐらいまで油断できない感じです。どの予想もそうなっている。
 
 用心に越したことはないですからね。今週、改めて防災グッズを買おうと思っています。袋に入った便利なセットですね。高いのですが、今回だけは買っておいたほうがいい気がしました。
 もっとも、いくら準備していても運もあります。それはもうどうしようもないですね。それでも心構えだけでもできていると、だいぶ違うでしょう。教室の緊急連絡網も昨晩改めて手帳にはさんでおきました。予想があたるかどうかはわかりませんが、見ていたのに何もしていなかったではばかみたいですからね。雨乞いの儀式に傘を持たずに現われた村人たちの話を思い出しますよ。
 
 ご家族でどこに集まるかという手順は決めておかれるといい。とくに小さなお子さんがいらっしゃる場合ですね。あとは最低限の水でしょうか。教室でも震災のあとミネラル・ウォーターを備蓄していますが、ご家庭でもそうされるといいでしょう。私も自宅に予備のミネラル・ウォーターをある程度用意しています。食料品は・・・ちょっと足りないな。
 ところで、息子の夏休みは今日で終わりです。明日から(祝日だというのに)新学期。先日、息子が「一度、回らない鮨を食べてみたい」と言い出しました。
 
 回らない鮨は高いですからね。何をどれだけ食べるかもよくわからない。ちょっと迷ったのですが、安くていいお店を思いつきました。
 池袋教室長の理科のU先生と立川教室長の数学のW先生と3人で行ったことがある中央線沿線の大衆的なお店です。そのときは「静岡割り」という変な焼酎を飲みまくったわりに安かった。あそこならいくら食べても大丈夫だろう・・・という感じで連れて行きました。彼も飲むのかなと思ったのですが、アルコール類は飲みませんでした。私だけが「静岡割り」を頼んだ。
 
 たいして食べませんでしたよ。安いネタばかり選んでいるので、高いのを食べても大丈夫だよと伝えた。すると「いや、おれはこういうのが好きなんだ」とサンマだとかサバだとかイワシだとか経済的な握りばかり頼んでいました。
 小中学生のころは回転寿司でさかんにマグロを食べていたのですが、大人になって味覚が変わってきたのでしょう。もうちょっと高級なお店でもーーもっとも私自身そういうお店には行かないのですがーー大丈夫だったなと思ったりしました。
 
 最後は、西荻窪の駅からべつべつの道を歩いて帰りました。「おまえはそっちを歩いて行け、おれはこっちから行く」と。どうしてもそういうことになってしまう。「個人主義者家庭」の面目躍如たるものです。
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2013.09.21 12:32

 昨日、中3生のテキストに「考える力、感じとる力をつけるためにはどうしたらいいのか」という文章が載っていました。以前書いたように、私は現在テキスト編成には一切関わっていませんから、おそらく国語科の偉い先生方がこういう文章こそ中学生に読んでもらいたいと考えて掲載しているのでしょう。ありがたいことです。
 哲学者の先生が書いています。その先生はもう30年以上大学院生を指導してきた。哲学科の大学院生ですから、それこそ考えるプロみたいな方たちばかりでしょう。
 
 先生は、考える力を身につけるためには、筋の通った書物をはじめの1行目から最後の1行まで自分自身で考えの筋道を追いながら読み通す「しか」方法はないと自信たっぷりに書かれていました。簡便な方法は1つもない。そうやって自分で苦労して、ものを考えている人の思考を「追体験」するしかない。
 これは無視できないですよ。でも・・・とおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。自分はべつに哲学者になりたいわけではないし、そんな面倒臭い方法をとらなくても・・・
 
 サッカーでもテニスでも囲碁将棋でもなんでもいいのですが、上達したいと強く念じたとき、べつに自分は世界チャンピオンや名人になりたいわけではないのだから、先達の練習方法は役にたたないと黙殺する人がいるでしょうか。皆さん、それこそ学校の部活であっても一流選手のおっしゃっているトレーニング方法を参考になさって一生懸命練習されていると思います。我流で楽に流しているだけでは、絶対にうまくいかないでしょう。
 勉強も同じことです。哲学者の先生は原書を読めとも書かれていましたが、もちろんそこまでは必要ない。ただスケールを縮めて、論説文を毎日丁寧に読むぐらいのことはしてみてもいいと思います。
 
 先生は同じように感性を身につけるためには詩や小説をはじめの1行目から最後の1行まで、その情感を「追体験」しながら丁寧に読み通す「しか」方法はないと書かれていました。
 ときどき「小説の問題が全然できないのでどうしたらいいですか?」と問いかけられることがあるのですが、本当の答えはそういうことになります。薬を1錠飲んでさーっとできるようになりたいというような安易な姿勢に若干問題があるかもしれませんよ。
 先生は「問題を解きなさい」とはひと言もおっしゃっていません。問題意識を持ってじっくり読む行為のなかに、すでに問題を解く意味が含まれてしまっています。わかりますか? 国語のテキストはーーいいものはということですがーー生きるためのテキストになっています。
 
 こういうのは、入試に間に合うかどうかということとはまた別問題でもあります。それこそ一生に間に合えばいいではないですか。考える力、感じとる力をつけたいという方はちょっと意識してみてください。
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2013.09.20 13:14

 昨晩は月がきれいでした。例によって夜中の0時ぐらいに西荻窪のあたりをとぼとぼ歩いていたのですが、非常に高い位置に強く輝く月が見えました。かなり高いので見上げていると首が疲れましたよ。
 けさ、まだ夏休みで自宅にいる息子からこういう話を聞きました。彼は近所のスーパーでレジのアルバイトをしています。昨日は夜まで働いていた。するとおじいさんのお客さんが来たそうです。日本酒の紙パックだけを1本買った。
 
 で、息子に向かって「今日は仲秋の名月だから日本酒だ」と言ったそうです。さらに「ビールはだめよ」とも。
 変なおじいさんですね。笑ってしまいました。息子におまえは何て答えたんだと訊くと「いいですねー」と言ったよと。完璧ですね。そこはやはり「そうですか」とか「はい」ではそっけない。さらりと無視してもいいのでしょうが、それもまた冷たい感じがする。「いいですねー」と同意した息子は偉いと思いました。つまらない会話だって何だってぜんぶ人助けなのです。長野家の人間はそれぐらいの気持ちで生きないと。息子を褒めました。
 
 大学生のアルバイトはいろいろありますね。息子ははじめは家庭教師のアルバイトをしようとしていたようです。収入のことなんかをいろいろ計算していまの仕事にしたそうです。
 私も大学時代はいろんなことをやりました。デパートの配送所、パン屋、家庭教師、小さな塾の先生、お花の展示会の水運び、喫茶店のウェイター、デパートの内勤・・・ほかにも何かやっていたような気がします。家庭教師がいちばん長かったのかな。何人かの中学生、高校生を見ていました。彼らももう50歳近くなるわけですね。
 
 アルバイトはいろいろな人と接する機会があるのが面白い。あるとき、こういうことがありました。中野の喫茶店でアルバイトをしていた。1978年のことです。そのとき私より1つ年下の副店長がいらっしゃった。美男子でダブルのスーツがよく似合った。
 そのお店は大きなチェーン店なのでずっと残っています。それから20年経ってーー1998年ですねーー偶然入る機会があった。目を疑いましたよ。副店長がいらっしゃるではないですか。店長という肩書になっていた。そういうものなのですか? 思わず話しかけてしまいましたよ。
 
 はじめは「ごめんなさい。わかりません」と言われたのですが、会計のときに「ひょっとして何々大学に通っていた長野さん?」と思い出してくださった。あちらこちらのお店をまわってその時期偶然中野店の店長になっていたそうです。
 当時、私はすでにZ会の講師(まだ社員ではなかった)でした。三鷹教室で夜夏期講習があり、午後の渋谷教室から移動の途中だったと思います。20年ぶりに思いがけず会うというのは不思議な気持ちでした。
 
 じつは家庭教師をした生徒らしき人物とも奇妙な再会(?)を果たしています。再会まではいかないか。遠い昔住んでいた建物を見に行ったとき、隣に新しいクリニックができていた。そこの院長先生のお名前がその生徒と同じなのです。非常に珍しいお名前なので、ご本人ではないかと思っています。まったくの偶然。住んでいたところがどうなっているか見たくなり、ある日突然出かけていって偶然発見した。言葉を失いましたよ。
 もっとも、確認する機会はないと思います。向こうだってご迷惑でしょう。40年近く昔の家庭教師が突然出現したら。世の中、何かしら面白い法則があるのでしょうね。
 
 
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2013.09.19 13:13

 最近はいちいち意識していませんが、記事が1300回を超えていました。いつもありがとうございます。ランキング関係も好調のようです。お手数をおかけして申し訳ありません。
 いつだったかある生徒にブログを書くと先生は儲かるんですか? という意味のことを訊かれたことがあります。中学生らしい素直な質問ですね。タレントさんのブログなんかはそうらしいですね。私について言えば、ブログを書くことで収入や給料が増えるというようなことは一切ありません。そういう仕組みにはなっていないということです。
 
 なぜ書くのか? 初期のころは書いてほしいという要請があったからでした。しかし、途中から会社の方には「書けるときだけでいいです」と言われました。いろいろと仕事が忙しいということが見えるからですね。毎日ーー仕事に来た日という意味ですがーー必ず書かなくてもいい。朝から説明会や会議が入っていて、夜はそのまま授業という日もあります。実質的に書く時間がない。そんなときはむりして書かなくていいですよとおっしゃってくださった。
 基本的にそういう日は早起きして自宅で書いています。4年間、仕事に出た日で書かなかった日は1日もありません。熱があっても気分が悪くても必ず書いてきました。
 
 なぜ書くのか? だんだん自分のなかでの意味合いが変わってきています。書くべきことーー学習法などーーはだいたい書き終えています。いままでの記事のどこかに書いてある。同じことを繰り返すだけです。突然、効果的な新しい学習法が生まれてくるわけがありません。そういうものです。
 また子どもたちへの接し方もだいたい書き終えてしまいました。これまた同じことを繰り返すだけです。要するに新しい情報はないということになります。それでも続ける理由は何か?
 
 挨拶みたいな気持ちなのです。おはようとかこんにちはとかおやすみなさいとか、言わなくてもいいじゃないかと言えばそうかもしれない。言わなくても生活はできます。しかし、言葉に出して表現したほうがお互いほっとするものがある。人生において、そういう小さな「ほっと」がいちばん大切なのです。
 あ、この先生また同じようなことを言っている・・・でいいと思っています。何も投げかけないよりはそれこそ「おはよう」「こんにちは」がわりに何か書くということですね。
 ときどき思いもかけない方からコメントをいただくときがあります。複数の、闘病中の方からコメントをいただいたりする。私には直接何もできませんが、あなたのことは考えているという意志を「こんにちは」レベルの記事であってもこめていくつもりです。
 
 きのうは仕事を早めに終えて、息子と外で食事をしました。息子が「回らない鮨というものを食べてみたい」と言い出した。そこで、回らないお鮨屋さんに連れて行った。このお話はまたいずれ書いてみます。
 いずれにせよ、1300回です。どうもありがとうございました。
 
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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