2012.08.23 09:11

 最近個人的に考えていることです。
 幼いころから私は「愛情を持つのはいいことである」と教えられてきました。教えてくれたのは親、先生、周囲の大人でしょうか。しかし、かなり偏った愛情であったような気もしています。あくまでも一定の枠のなかだけで働く。枠のなかだけで表現が許される。自然は大切に、でも害虫は徹底的に駆除しましょう的な愛情とでも言えばわかりやすいでしょうか。すべてを等しく愛してはいけないということです。

 選択した相手にしか愛情を抱いてはいけない。この仕組みを自覚してから私自身は変わりましたが、それまではそうした考え方にまったく疑問を抱きませんでした。
 身内を愛することはものすごく大切であるが、隣人を愛することはそれほど大切ではなく、まして他人を愛することはどちらでもいい、場合によっては損になるかもしれない。

 身内に対しては、いつでも愛情深く振舞う義務があるという圧迫も感じました。親子でも夫婦でも兄弟でも何でもいいのですが、愛情を感じませんとは言えない。しかし、現実に人間はのべつまくなしに他者に愛情を感じていられるものでもありません。
 すると「愛情を感じているふり」をすることになります。お互い微妙にウソをつく。そして、ウソをついているという後ろめたさがあるものだから、逆に芝居がかった絶対色(?)も出てきます。家族ほど、恋人ほど、仲間ほど尊いものはないぞ! という盲信的態度ですね。

 そうしたものの延長線上に組織だとか国家だとかが存在しているような気がします。愛情を感じないようでは「人間として失格」であるというすりこみがある。本音はそうでもないのに、繰り返し唱えているうちにいつのまにか第二の天性のようになってしまった。
 熱烈なナショナリズムというのはーー場合によってはーー自身の人間関係における愛の脆弱さへの危機感からさらに高まる要素があるようにも感じます。

 だれのことも等しく愛することを許されず、身内のみを義務的に愛することを強制されて成長した人間がすがるべきよりどころは、言葉のうえでの、あるいは見せかけの絶対性だけでしょう。関係に対する執着と言ってもいいかもしれません。そこだけには確信的な「愛」があると信じたい。
 近隣諸国とぎくしゃくしている様子を見ていて、ふと感じたことです。裁判みたいなものだけでは、なかなか解決が難しいのではないでしょうか。
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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