2012.08.31 13:45

 私は勉強の仕方を保護者の方や生徒たちに紹介しているわけですが、本質的なことは「仕方」=ノウハウではないとも考えています。もっとべつの、それこそ魂の部分からしっかりしないと本当の意味で勉強ができるようにはならないでしょう。魂の部分で、などと言ってもわかりづらいので、大人になってください程度の表現を使っています。
 熱意を持つということです。自分自身で熱意を持つ。それは勉強にかぎった話ではないですね。熱意がなければ何もはじまらないですよ。

 ノウハウと言えば、20代から30代にかけて私はいわゆる成功法則に凝った時期がありました。デール・カーネギーが有名ですね。「人を動かす」「道は開ける」・・・どちらも全世界でベストセラーになっています。ほかにもジョセフ・マーフィー、ロバート・シュラー、アール・ナイチンゲール、ナポレオン・ヒルなどという人たちに夢中になりました。当時、国内で販売されていたこの人たちの書籍はほとんど読破したと思いますよ。

 それはそれで面白かった。なるほどと感じることもずいぶんありました。けっこう高価だったカセットテープの教材(当時はまだCDがありませんでした)まで買いこんで毎日聴きました。
 成功という言葉はくすぐったい感じがしますが、当時の私は自分の全能力を発揮して生きたいと思ったわけです。職種だとかそういうことではなく、要するに「ひとかどの」人物にならなければいけないと考えていました。そういう意味で自己に投資していたわけです。

 ところがーーここからは完全に個人的な感想ですーーあるときから何か違うのではないかと感じるようになりました。彼らの教材には成功者だとか富だとか栄冠だとかという言葉が頻繁に出てくるわけですが、自分が本当に探し求めているものはそういうものではないと感じました。
 成功を否定するという意味ではないですよ。成功はありがたいかもしれませんが、それをはじめから「合理的に」「共通するノウハウで」追求する生き方はどうなのだろうと考えたのですね。

 ビートルズとモンキーズの違いみたいなものですかね。モンキーズはイギリスのビートルズに対抗してアメリカ合衆国で合理的に作られた4人組のグループでした。当時ものすごい人気が出ましたし、私自身好きなアーティストですが、ビートルズの存在と比較すると明らかに質が違う感じは否めません。
 いずれにせよ、現在の私はその種の書籍を一切読まなくなりました。最近は荘子の注釈書を読んでいます。「ただ何でもない人になれ、全体とつながれるのはそのときだけだ」と書いてあります。老荘思想のほうが人生の伴侶としてありがたい感じがするのです。
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2012.08.30 14:09

 サルスベリの花が非常に目立ちますね。うんざりするような蒸し暑さのなかで、きれいな花を咲かせています。白かったり赤かったりピンクだったり。乗り物のなかからも「お、あそこにも咲いている」とよく思います。
 この暑さのなかで、げんなりせずに開花できるのはすごいことに思えるのですが、それがサルスベリの宿命なのでしょう。春ではなく真夏に開花する。

 実家の庭に何やら非常に難しい名前の木があります。母によると東南アジアだかどこだかの珍しい木だそうで、何年かに一度しか花をつけません。特別きれいではないのですが、見慣れない種類なので近所の方に声をかけられると言っていました。「これは何という植物ですか?」今年は花をつけなかったようです。リズムがあるのでしょう。不思議ですね。

 梅や桜が真夏に咲こうとしてもむりですし、逆にサルスベリが春先に花をつけようとしてもやはりむりですね。自然な開花というものがあり、それゆえの個性、それゆえの美しさなのでしょう。誰も「サルスベリは春咲けないからだめだ」とは言いませんし、「桜には真夏に咲ける強さがない」とも言いません。自然の摂理みたいなものがあるとわかっているからでしょう。
 ところが、往々にして人間に対してだけはそういう期待をしてしまう。

 どうしてだれだれさんみたいになれないのかとか、どうしてクラスメートの何とかくんみたいに努力しないのかとか。多くの場合、自然の開花を待てなくてそうなるのですが、ほとんど逆効果だと思います。
 私は自分をかなり偏った人間だと自覚しています。家庭にあってはとくにそうです。ですから、息子が偏っていることを責めたりはしませんでした。どうして「普通」ができないとは絶対に言わなかった。普通でない父親が普通でない息子を責めるのはフェアーでないと考えたからです。

 勉強しろとも言いませんでしたよ。逆に「ふつうの父親らしく(?)働きなよ」と息子に言われたらいやですからね。息子は高校3年生で何となく勉強するようになり、不思議なことに大学生のいまがいちばん勉強しています。それが彼にとっての自然な開花だったのかもしれません。
 私自身は大学1年生はアルバイトに精を出したり友だちと遊んだりするものだという先入観があったので、ちょっと意外でした。

 私たちは平均して80年近く生きるわけですね。開花のポイントがどこにあるのか本当に千差万別です。老人になってから膨大な量の「昆虫記」を書いたファーブルみたいな人もいる。入試があるから期日までに何が何でも開花させてやろうと力みすぎると、エネルギーを貯めきれていない貧弱な花で終わってしまう可能性もあります。時期が訪れていないのであれば、むりのない形で先につないでいく知恵が何より大切だと思っています。
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2012.08.29 14:09

 講習が終わってほっとしています。一日だけある先生がほんの少し遅刻したという「事件」がありました。とくに授業に支障は来たさなかったのですが、アクシデントと言えばアクシデントです。
 その日ちょうど私は休みをとっていました。講習中はめったに休めないのですが、その日は私自身の授業が途切れる日でそこで休まなくてどこで休む? という感じで休んでいました。

 朝、携帯電話に報告が入った。先生が少し遅れました。授業は休み時間に延長して無事終わりました。こういうの「ああ、そうですか」ではだめなのですよ。そういう姿勢ではいけない。とりあえずすぐに身支度をして教室に出てきました。とにかく顔を出す。で、最後の授業を受けている生徒全員に手紙を書きました。
 今日はすみませんでした。講習生の方で質問があれば(本科生はいつでも質問できます)いついつ受けつけます。先生には注意しておきますと書いて全員に渡した。

 そんな手紙、べつにたいした意味はないのです。大問題が起きたわけではない。それでも、何かあったときは責任の重い人間がきちんと処理するものだということを見せておきたいと思いました。「先生が少し遅刻したのに教室長はお休みだったね」ではいけないということです。
 休みの日に限ってそういうことがあります。池袋教室時代も、私が社内のほかの仕事で1日だけ新宿のある場所で公開授業をしていたら、先生が突然倒れて来られなくなったという事件がありました。運よく代講してくださる先生がすぐに見つかって何とかなったのですが。

 先日は帰りにふと大井町行きのバスに飛び乗ってしまいました。大井町まで行こうという気持ちはなかったのですが、解放感があるのですね。あの会社のバスは後部座席が高い位置にあって非常に気分がいい。暮れいく街をながめながらしばらく乗っていました。
 もう30年ぐらい昔だな。意味もなくときどき乗ったものです。当時は渋谷駅構内のすごく変なところーー現在埼京線の乗り場に向かう通路ーーにバス停がありました。渋谷から南平台にかけての街並みはすっかり変わってしまいましたが、大学時代短期間アルバイトしていた配送所だけはまだ残っていました。

 結局、大崎広小路で下りました。昔ときどき行ったお店(立ち飲み屋さん)で少しだけ飲んだのですが、酔っ払った若いサラリーマンが大声で「僕はこの店、長いですよ。ここで知りあった人で死んだ人が4人もいます!」と自慢していました。べつのおじさんは呆れたように「おまえは死神か!」と突っこんでいました。
 まあ、夏も終わりだな。秋が来ますね。

 
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2012.08.27 12:04

 わざと軽めのタイトルをつけてみました。いい話ですよ。いまから20年ぐらい昔、ある雑誌に歌手の沢田研二さんの談話が載っていました。ロック・シンガーのポール・ロジャース(フリーやバッド・カンパニーのヴォーカリストですね。バッド・カンパニーは再結成されていまも活動していると思います。フリーを再結成してくれないかなあ)がローリング・ストーンズのミック・ジャガーにこういうことを言った。「おまえはあまり歌がうまくないじゃないか」

 まあ、ポール・ロジャースだから言えたセリフですね。彼の歌のうまさには定評があります。あのリッチー・ブラックモアでさえずーっと彼を賞賛し続けている。スティーヴ・マリオットやフィル・モグなんかとそんなに変わらない感じがするのですが、ロックやブルーズに詳しい方ほどポール・ロジャースの凄さについて敏感であるように思います。
 1人の歌い手としてはおれのほうが上なんだぞぐらいの意味で言ったのでしょう。ミック・ジャガーはどう答えたか。

 沢田研二さんは自分ならアタマにきて手を出してしまったかもしれないと冗談めかして語っていました。ミック・ジャガーは微笑みを浮かべ、ただひと言こう答えたそうです。「おれはストーンズだ」
 あらまー、かっこいいというのはこういうことを言うのでしょうね。その後、どういうやりとりがあったのかは知りませんが、明らかにミック・ジャガーのほうが一枚上手でしたね。歌がいくら上手でも世界一のロックバンドではおまえなんか通用しないよということなのでしょう。

 同じようなかっこいい話があります。これまた昔読んだある本に出ていました。フォード社のヘンリー・フォードがある都市で安ホテルを予約しようとした。係の人はびっくりして「あなたはあのヘンリー・フォードさまではないですか。どうしてまた安ホテルなんかを希望されるのですか? あなたの息子さんがいらしたときは街一番の超高級ホテルに泊まられましたよ」と言った。
 ヘンリー・フォードは何と返事をしたか。

「息子はまだ若造だからそうやって億万長者であることを見せびらかさないと通用しない。だが、私はヘンリー・フォードだから安ホテルでかまわない」
 おおー、かっこいい! 
 私も長いこと生きてきて、ときにはこういう人生でよかったのだろうかと考えることがあるわけですよ。少なくとももっと稼ぐ手だてはあった。もっと名を売る手段もあった。もっと楽をすることも可能だった。冷静に考えればそれはわかります。

 しかし、やはりこれでいいという結論に達するわけです。どうしてか? 何よりも感性みたいなものが違ってきてしまっては、生きることにべつの印象を抱いてしまうからです。べつの人生観になってしまう。
 路地一本違っただけで見る景色が変化します。それにともなって感じる気持ちまで変化してしまう。見知らぬ海辺の朝焼けではなく、この都会の夕焼け空を見続けたからこそいまの自分になったということですね。
 自然の開花に自信を持ってください。その道でいいのです。
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2012.08.26 11:32

 昔も同じテーマで書いたような気がするのですが、いちいち調べるのは面倒なのでそのまま書いてしまいます。この季節のことを英語でdying summerと呼ぶのだそうですね。
 私がこの言葉を知ったのは高校3年生の夏でした。ある英語の教材にそう書いてありました。「物悲しい季節ですね」と。その教材を使って勉強したわけですが、私が覚えている唯一の内容はdying summerという言葉です。それほど印象に残った。

 それからことあるごとに私はdying summerを自分の大切な何かに使用してきました。バンド名にどうだろうと考えたり、小説のタイトルにしたり、メールアドレスの一部にしたり。
 おそらくいちばん好きな言葉ではないかと思います。夏の終わりの寂しさというのは本当に格別で、まさにdyingという感じがします。この感じはどなたにも伝わるでしょう。

 少年のころ、夏休みにあるところで女の子とグループ単位で親しくなりました。私の人生はそんなことばかりなのです。グループのなかのある女の子のことを私はとくに気に入って、夏の終わりにもう一度1人で会いに行きました。特急列車で2時間ぐらいかかったのかな。すると彼女はーー2人きりで会うのがいやだったのでしょうーー友だちと一緒に来ました。
 いろいろな娯楽施設(?)をうろうろして、喫茶店で話をして夕方さよならをしました。

 帰りはーー理由ははっきり覚えていませんがーー普通列車に乗りました。ゆっくり話せなかったことがとてもつらく、もう学校も勉強もぜんぶ投げ出して思い切り不良になってやろうぐらいに考えました。いや、冗談ではないですよ。私は本質的にそういう人間なのです。もうどうでもいいやとすぐ投げやりになる。そういう人間だからこそ、投げやりになりがちな一部の生徒の気持ちがすごくわかるのです。
 目の前に少し年上の女の人たちがいて、私のはいているジーンズについて何か話しているのがわかりました。くすくす笑ったりしている。

 紫色のはでなジーンズをはいていたのですね。女の子と会うのでオシャレをしてきたつもりでした。とても暑い日なのにうえは白いジャケットを着ていた。全体的に、ちょっと漫才か何かをやる人みたいなかっこうでした。
 悲しみのうえに怒りが加わって、私は自分のような惨めで愚かな人間は生きている意味がないのだというようなことを繰り返し繰り返し考えました。
 dying summerという言葉を見るたびに、あの夏を思い出します。
 
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2012.08.24 13:31

 子どものころ、私はよくこういうことをやりました。ときどき祖父母が訪ねてくる。すると一家4人+祖父母2人で食事をとることになります。基本的に同じものが出ます。ご飯、おかず、味噌汁などですね。私の母は非常に料理に凝る人間だったので、いろいろなものが出ました。
 食べる順番で誰かの真似をしました。祖父、祖母、父、母、妹と真似をしてみました。

 ご飯⇒おかず⇒味噌汁⇒ご飯・・・という感じで真似ていくと、すぐに「うん?」という瞬間が生まれます。面白いので一度やってみてくださいよ。「ここでご飯か?」とか「いったいいつまで噛んでいるんだ?」とか、とにかく違和感だらけでした。
 家族でさえこうですからね。血のつながらない仲間と食事するときはもっと変な感じがしました。修学旅行などで食堂で同じものを食べますね。そういうとき黙って真似をしてみます。するとある人はお茶ばかり飲む、ある人は途中で遊び出す、ある人はあまりにもスピードが速すぎてついていけないといった具合に、落ち着かないことこのうえないですよ。

 と同時に、自分が当然だと考えている(というより意識していない)食べ方も他人にとってはひどく不自然な感じになるわけでしょうから、そのあたり不思議と言えば不思議です。自分自身はこの順番しかないという感じがするのに。食べること一つとっても人間にはそれぞれのリズムがあり、乱されると不快になるのですね。ほんのいたずら心でやったことですが、いい教訓になりました。
 
 私はときどきエンドレスで音楽を流しながら寝ることがあります。静かすぎると寝にくい日があるのです。何となくリズムがそうなっている。そこで音楽を流し続けて落ち着いて寝ます。とくにちょっとした心配事があるときは、そのほうがいい。
 歩くスピードなんかでも自分にちょうどいい歩調というのがある。だれかと一緒に歩いているとき、歩きにくいなという感想を持たれた経験はどなたにもあるのではないでしょうか。

 そうしたことの積み重ねのうえにそれぞれの人生は構築されているわけですから、けっこう繊細ですね。
 勉強についてもそうです。息子は図書館で勉強していますが、自宅だと落ち着かないそうです。中学生のころはまだ自分の机に向かってやっていたのですが、高校3年生のときはほとんどそとで受験勉強していました。現在もーー必要なときはーー大学の図書館を利用しています。私は他人に見られていると落ち着かないのですが、息子は逆に孤独だと調子が狂うのでしょう。

 自分のリズムを見つけていくことは大切なことだと思います。逆に言えば、人と同じでないことに不安を抱かなくてもいいということですね。大リーガーで大活躍された野茂投手が日本のプロ球界入りするとき第一条件に「フォームを矯正されないこと」をあげられていてなるほどと思ったのですが、ほかの人からは不自然に見えてもご本人にとってはいいリズムというのもあるのだと思います。
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2012.08.23 09:11

 最近個人的に考えていることです。
 幼いころから私は「愛情を持つのはいいことである」と教えられてきました。教えてくれたのは親、先生、周囲の大人でしょうか。しかし、かなり偏った愛情であったような気もしています。あくまでも一定の枠のなかだけで働く。枠のなかだけで表現が許される。自然は大切に、でも害虫は徹底的に駆除しましょう的な愛情とでも言えばわかりやすいでしょうか。すべてを等しく愛してはいけないということです。

 選択した相手にしか愛情を抱いてはいけない。この仕組みを自覚してから私自身は変わりましたが、それまではそうした考え方にまったく疑問を抱きませんでした。
 身内を愛することはものすごく大切であるが、隣人を愛することはそれほど大切ではなく、まして他人を愛することはどちらでもいい、場合によっては損になるかもしれない。

 身内に対しては、いつでも愛情深く振舞う義務があるという圧迫も感じました。親子でも夫婦でも兄弟でも何でもいいのですが、愛情を感じませんとは言えない。しかし、現実に人間はのべつまくなしに他者に愛情を感じていられるものでもありません。
 すると「愛情を感じているふり」をすることになります。お互い微妙にウソをつく。そして、ウソをついているという後ろめたさがあるものだから、逆に芝居がかった絶対色(?)も出てきます。家族ほど、恋人ほど、仲間ほど尊いものはないぞ! という盲信的態度ですね。

 そうしたものの延長線上に組織だとか国家だとかが存在しているような気がします。愛情を感じないようでは「人間として失格」であるというすりこみがある。本音はそうでもないのに、繰り返し唱えているうちにいつのまにか第二の天性のようになってしまった。
 熱烈なナショナリズムというのはーー場合によってはーー自身の人間関係における愛の脆弱さへの危機感からさらに高まる要素があるようにも感じます。

 だれのことも等しく愛することを許されず、身内のみを義務的に愛することを強制されて成長した人間がすがるべきよりどころは、言葉のうえでの、あるいは見せかけの絶対性だけでしょう。関係に対する執着と言ってもいいかもしれません。そこだけには確信的な「愛」があると信じたい。
 近隣諸国とぎくしゃくしている様子を見ていて、ふと感じたことです。裁判みたいなものだけでは、なかなか解決が難しいのではないでしょうか。
 
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2012.08.22 08:54

 毎日毎日、漢字テストにコメントを書いているのですが、それを読んで変化してくれる生徒がいるとうれしいですね。点数がよければよいなりに、悪ければ悪いなりに励ましています。とにかく励ます。本人の元気が出るように書く。もちろんすべっているケースも無数にあるとは思いますよ。1時間も2時間もかけて書いているわけではない。さっさと書かなければ毎日何十人ものコメントを書けません。そこは我慢してもらう。

 でも、とにかくがっかりさせないように心がけています。この先生は見てくれているのだなという事実に気づかせる。人間、だれも注目してくれなければ寂しいものです。そういうものでしょう。オリンピックの個人競技(勉強は個人競技に近いと思っています)だってそうですね。どなたも見ていない閉鎖された空間でひたすら一人で高く跳んでもはりあいがないと思いますよ。やはり歓声だとか拍手だとかがないと。元気をもらって頑張るという要素がないと。

 そうした元気を注入する(?)のが大人の役目だと考えているのですが、うまくいっていないことも多いですね。大人がひどいことを言って子どものやる気をそいでしまう。サイアクなのは、日々やる気をそいでいることに気づかないことです。「点数が落ちる一方だな」「やる気があるようにはとても見えないね」「遊んでいるときだけだな、集中しているのは」「そんな態度じゃだれも認めてくれやしないさ」「結局後悔するのは自分だよ」・・・そんなことを言われてはりきる人間がいたら見てみたいと思いますよ。

 点数がとれていないときは、たとえば「このままで終わるとは思っていない」と書く。「今日できていなくても明日のきみとは関係ない」と書く。点数がとれているときは「すごいじゃないか」と書く。「毎日こういう点をとれる人間になってくれ」と書く。
 しかも全員違うことを書きます。そこはこちらだって楽はしません。満点をとった全員に「よくできました」ではーー何も書かないよりましだと思いますがーー手抜きじゃないかと思われてしまう。

 真剣に励まさないと。そちらが頑張ってくれている。こちらだって頑張っている。そういう空間を作っていかないと。それが大人の務めですね。塾だからやっているというだけでもないのですよ、私は。
 つい先日「毎日コメントをありがとうございます」とわざわざ書いてくださった生徒がいて感激しました。伝わるものはやはりあるのです。ご家庭でも、真剣に励ましていただけたらと思います。
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2012.08.21 10:47

 昨日はお休みでした。休みの日もいろいろと忙しくしているときが多いのですが、昨日は時間があったので近所でDVDを借りてきました。そういうとき見たいものを借りる、見ても悪くなさそうなものを借りる・・・というのは当然ですが、ときどきあえて「思い切りばかそうなものを借りる」ということを実践しています。
 だいたいは酔っ払って一人で見ているわけですから、どうでもいいと言えばどうでもいいのです。

 どうせばかばかしいものであれば、徹底的にばかばかしいもののほうがいいと考えるわけです。中途半端な「失敗作」程度では納得できません。ここまでばかか? いったい何を考えているのだ? と唖然としてしまうようなもののほうがいい。で、思い切って借りてくる(100円です)のですが、だいたいはただつまらない映画というのが多いですね。有名な作品のスケールをものすごく小さくしてなぞっただけのようなものが多い。

 昨日、久しぶりにとんでもなくばかばかしい映画を見ました。ある精神疾患を持つ人間に変な薬を飲ませる(そもそも前提からして「いいのかよ!」ですが)。すると凶暴化する。凶暴化だけではなく不死身みたいになってきます。書いているだけで哀しくなってきますが、その不死身の人間と凄腕の傭兵軍団がいきなり闘うのです。
 いくら薬を飲んだところで人間は人間なのですよ。やたらと吠えたりするのですが、肉体は人間。ところが撃たれても撃たれても死にません。

 傭兵たちが次々と銃を乱射するのですが、かえって怒って向かってくる。「怒って来るぞ!」とびっくりして逃げまどう。そして、最後は傭兵軍団がやられてしまうのですが、ばっかじゃなかろうかと笑ってしまいました。そこにまたヒューマニズムみたいなものを若干滲ませたりしているのが作っているほうは完全にあきらめているわけでもないのだなと感じさせ、べつの意味で涙を誘います。
 しかし、私がいままでに見た最高のおバカ映画はこんなものではありません。

 主人公のかっこ悪いおっさんがどこかのおばさんともう一人セクシー系のビキニ姿のお姉さんと3人だけ(!)で地球の危機を救うという映画でした。海ヘビみたいなのと闘っていた記憶があります。「大変だ!」「地球の危機だ!」と大騒ぎしているのですが、どう見ても海ヘビ程度でしかない。最後はおもちゃみたいな爆薬で吹き飛ばしたのかな。あまりの低レベルさに2回も借りてきてしまいました。
 こんなの、普通お金もらっても見ないですよ。タイトル? 忘れてしまいました。横文字だったような・・・いいのですよ、そんなの見ようとしなくても。
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2012.08.19 11:02

 とくに宗教心は持たない方でも、初詣に行かれたりパワースポットみたいなところでお祈りされたりした経験はあるのではないかと思います。そういうの、ごく自然な人間の欲求なのでしょう。
 私の昔の知人にも「宝くじにあたるように」と特定の神社に祈ってきたという人がいました。ご利益を謳った神社があるそうですね。列車に乗ってわざわざ行ってきた。

 ところがあたらなかったわけです。それで怒っている。手間隙かけてわざわざお参りに行ったのに末等の200円だか300円だかしかあたらないとはどういうことだ、インチキじゃないかと怒っている。旅費だってばかにならなかったというのですね。
 似たような話はときどき聞きます。いい結婚相手をお願いしたのにいっこうにあらわれない。就職を頼んだのにろくな勤め先が見つからない。お参りしたのに第一志望校に落ちてしまった。飲み屋さんなんかで出てくる話題ですから、そう深刻な状況ではないのですが。

 それでもその執着心はどうなのだろうとちょっと思いますよ。何かがほしい。手に入ったらうれしい。それはいいとしても、当然手に入ると決めつけていて手に入らなければ不満に思う。ものすごく不満に思う。場合によっては抗議したいぐらい不満を抱く。あんなに高いグッズ(お守り?)を買ったのに・・・とまで言う。
 高いお金を払ったからその見返りは当然というのは日常の人間社会の商取引であって、お祈りの世界とはべつの話ではないかとも思うのです。

 健康でいられることは当然だと考えている。毎日食べたり着たり住んだりできることは当然だと思っている。病気のときは治してくれと祈るのに、絶好調のときは当然だ、だれに感謝する必要もないという姿勢でいる。
 私は人さまに自分の考えを押しつけようとは思いませんが、仮に息子がそうやって不満を漏らしていたら、その考え方そのものが原因なのではないかと答えると思います。

 まず、感謝ですよ。私も神社に意味なくふらふら行きますが、まず感謝です。何もかもありがとうございますと。存在していること自体奇跡ですと。宝くじにあたりたいという感情はあくまでも遊びであって、「要求」に変化させることはありません。
 そのあたりの発想は大切です。たとえば他者に対してもーー私はいてくれたらうれしいと感じる人間はいても、いなければ不満という人間は1人もいません。そういうところから人は愛情を見失い、ただの執着を持ち歩く・・・しかし、このお話はここで封印しておこうと思います。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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