2012.04.29 11:34

 うーむ。昨晩はほぼ徹夜状態でした。そのまま来てしまった。
 遊んでいたわけではないのですよ。いつものように24時ぐらいに帰宅しました。食事の支度はないということだったので、外で簡単に食べてから帰りました。アルコール類は一切とらず。
 今朝は7時に起きるつもりだったのですが、いきなり寝るのも味気ないのでコーヒーを飲みながらインターネットで将棋を指しました。

 4局ですね。2勝2敗だった。まあ、そんなに真剣にやったわけではないのでそれでいいのです。ただ神経が昂ぶったのでしょう。2時すぎに床についたのですが眠れなくなりました。頭に将棋の駒が浮かんだりする。
 私はそういうの焦らないのです。現代人に不眠症が増えているのは、むしろ当然ではないかという気持ちもあります。肉体を酷使して昼間働いているとは限りませんから。

 それならそれでいいやと電気をつけて音楽を聴きながら本を読んだ。そのうち眠くなるだろうと考えて。
 ところが全然眠くならない。4時になり5時になった。ちょっと朝つらいかもしれないと考えて目覚まし時計の設定時刻を7時「半」に変更しました。30分でもだいぶ違います。
 外はだんだん明るくなってくる。まあ、このまま寝ないかなと思っていたら6時すぎにちょっとだけうとうとしました。

 7時半前に予定通り起きました。気分はいい。眠いですが、眠い=悪いではない。眠くてもこうやってきちんと文章は書けます。
 明日から休みになるのでうきうきしているせいもあるのかもしれません。よく思うのですが、休みの日は仕事の日よりハードに身体を動かしている人も多いですね。ゴルフをやったりダイビングをしたり(私はやりませんが)。

 それでもさほどの疲労感はなかったりします。やはり精神的な要素が大きいのでしょう。勉強でも仕事でも何でもそうですが、大変だとかつらいとか一度思いはじめるとどこまでもどこまでも重くなる。そういうものです。
 実際の行為より視点の置き方が大切ですね。寝不足でも目一杯楽しんで働くことにします。渋谷はいい天気ですね。ちょっとくらくらしますが。
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2012.04.28 13:18

 Z会進学教室、明日から連休に入ります。教室自体が閉まるのは4月30日~5月4日。その期間はブログもお休みするつもりです。もしかすると、1日ぐらい自宅で何か書くかもしれません。
 今年、私は若干疲れています。私がこういうことを表明するのは非常に珍しいのですが、ちょっとそういう感じがする。理由はいろいろーー仕事のことや個人的なことーーありますが、だいたいわかっています。

 1人でどこかに蒸発しようと思っています。旅行ではなく蒸発。家族にもそう言ってあります。おれは蒸発するぞ、と。
 1人はいいですよ。何も喋らなくていい。何もしなくてもいい。食べたいときに食べ、飲みたいときに飲み、眠りたいときに眠ればいい。眠りたくなければずーっと起きていてもいい。どこに行っても行かなくてもいい。一切気を遣わなくていいということですね。

 ぼんやりする時間はやはり大切です。今年はここまで非常に神経を遣った。つらいことが多いとか仕事がいやだとかという意味ではないですよ。ただ、ひたすら神経を遣っているのも事実です。
 生徒のことももちろんそうです。先生方から相談を受ける。このままではいけないかなという子が何人かいる。いけないというのは道徳的な意味でも、単純に成績がという意味でもありません。

 少しだけスタイルを変えたほうが本人のためになりそう・・・程度ですね。そういうのは大げさに伝えてはいけない。お説教みたいになっては意味がない。どこかで、自身が「少し成長しようかな」と思うように伝えていかなければいけない。必要な手はつねに打っています。
 渋谷教室、それこそ「おかげさまで」生徒数がぐんぐん増えています。関わってくださる皆さんのおかげです。そしてまた生徒が生徒を呼ぶ。口コミですね。

 私はたとえば自動販売機の業者さんなんかにもそれなりに気を遣っています。彼(だいたい同じ人です)の様子がおかしかったときには、わざわざ飛んでいって「調子はどうですか?」と声をかけました。彼もこの教室がうまくいくといいと思ってくれているはずです。
 ・・・とまあ、こんなことばかり考えていて、ふと遠くに行きたくなることもあるのですね。
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2012.04.27 14:50

 この仕事をはじめたころ、ベテランの先生ーーと言ってもいまの私よりは若かったーーから、ときどき「なるべく合理的にやってほしい」という依頼(?)を受けることがありました。お互い、同じ条件の時間講師ではないかというのですね。時間給で働いているのだから一人だけ過剰なサービスはしないでほしい、一人がぬけがけ的なサービスをはじめると正当な条件下で働いているほかの人間がサボっているみたいに見えてしまう、仲間のことも考えビジネスとして割り切ってほしい・・・という話でした。

 自分の授業が終わったあとも、私は帰らないことがよくありました。ぜんぶ終わってから質問に来る生徒がいるかもしれない。そう思ってすべての授業が終了するのを待っていた。そういう「サービス」を個人的にやられると、帰ってしまった先生が悪く言われてしまう。
 一理ある考え方だとは思いました。確かに契約内容はそうなっていた。授業が終われば時給は一切発生しない。一秒でも多くいるだけむだであると「合理的」に考える人がいてもおかしくはないでしょう。

 ただ私ぐらいの年齢になってくると、合理主義精神だけで世の中うまくいくものではないということがわかってきます。むしろうまくいかないことのほうが多い。
 大人になればそれぞれ生活しなければならないわけですが、仮に働きと収入がつりあっている場合、これで当然と安心していると何かしら危険な要素も出てくるような気がします。非科学的だと笑われても直観的にそう思えてしまう。

 できるだけ「善性の貯金」みたいなことはしておいたほうがいいでしょう。いくらいいことをしても対価が発生するのであれば、せっかくの行為も相殺されている可能性がある。どこかで何かしら多めに残しておかないと。
 日々の仕事でも、もちろんできるだけのことをしておくように心がけています。たいしたことはできませんが、もし私が生徒や保護者の方とお話するとき、この収入だからこの程度の話・・・などと考えるようになったらものすごく危険な状況だと思います。

 日本語に「おかげさまで」という言葉がありますね。お元気ですか? と訊かれて、ごく自然に「おかげさまで」と答える。自分が元気なのは厳密に言えば目の前の相手のおかげではないかもしれません。でも、おかげさまでと瞬間的にでも感謝する「非合理的」精神は大切だと思います。

 
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2012.04.25 13:33

 本科生の方からご質問を受けました。内容についてはできれば非公開でということでしたので、お答えを含む記事を何とか書いてみようと思います。難しいですが、こういうことはきちんとやりたいと思います。私はそのために生きているみたいなものですから。
 すべての変化を受け入れる気持ちが大切ではないでしょうか。以前のほうがよかったはずという先入観を捨ててください。変化は成長につながります。

 もちろん一見すると成長に見えない変化というものもあります。しかし、ご本人の意志次第で成長の糧とすることができる。そういうものです。
 昔ーー以前勤めていた塾でーー私もまだ若かったので、思春期の少年からさまざまな性的な相談を受けたことがありました。変化していく自分に嫌悪感を抱くというのですね。私はいつもそういう変化は必要なことであり、人間的に大きく成長する過程で自分のなかに溶かしこめるので安心しろと伝えました。また、そこまで「器」を大きくしなさいとも伝えました。

 本当の自分というようなものは中学生ぐらいですとまだなかなか見えてこないでしょう。だからこそ、いろいろな時期があっていい。全然勉強したくない状態に陥って「こんなはずではなかった」と焦りを覚える人もいると思うのですが、たとえば私が少なくともこの仕事をしていてうまくいくのは、自分が全然やる気にならなかったときのことを熟知しているからです。だから、目の前の生徒が仮にまったくやる気がなかったとしても理解できますし、解決策も思い浮かびます。どのような経験もむだにはなりませんし、むだにしてはいけません。

 一つ、ちょっとだけアドヴァイスをしておくと、つねに意識的であってほしいと思います。つまらないことはたくさんありますが、なぜつまらないと感じるのか、こんな状況にも面白い何かがあるのではないか、自分はいまどうしてこういう言葉を使ったのか、こうやって自分を韜晦(辞書で調べてみてくれ)させたくなるいちばんの理由は何なのか、つねに意識していてごらんということです。
 現実からの情報量みたいなものをどこまでも拡大しようという意志を持つ。すると「あんなに」つまらなかったことが面白く感じられるようになります。

 いずれにせよ、元に戻そうとは思わないことです。よりよく変化させていく。何が起きても、これもまた自分の大きな人格のなかに溶かしこもうという姿勢ですね。
 自己を熟知しようという意志を持つ人間は強いですよ。世の中勘違いだらけのなかで、いちばん強いのは真実の己を知ろうと努力している人間ではないかと思います。深刻にならず、変化を冷静に見つめてください。大丈夫ですよ。
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2012.04.24 14:16

 教室をお預かりしていていろいろなことを考えます。私がこれまで教室長を務めてきたいくつかの教室は幸い生徒が増えました。Z会進学教室の新しい教室が近くにできて一時的に減ったこともありましたが、それでも徐々にもとの水準以上に回復しました。それだけ多くの方に支持していただけたわけですが、コツはいくつかあるような気がしています。
 そのうちの一つが「ルールをいかに破るか」ということでした。ルールというのは破ってはいけないもの。基本はそうです。

 しかし、ルールは神さまではない。この世に変化しないものはないわけで、ルールもだんだん古くなってくる。そうかと言って無秩序に破ってしまったらメチャクチャになりますから、破るためには相当知恵がいります。要するに頭を使わないとルールを「よりよく」破れないわけです。
 ルールに絶対従うという姿勢はりっぱですが、反面そうした姿勢は人を幼稚にさせます。ルールに従ってさえいればそれ「だけ」でいいという考えに陥りがちだからです。自分で考えずにすんでしまう。

 さらにそうした精神から、じっくり考えたうえでルールから僅かにはずれた他者を攻撃するケースも出てくるでしょう。「ルールを破って悪いやつだ!」という批判精神が強すぎると、どうしてもぎすぎすした感じになります。
 その人のやっていることはひょっとすると新ルールとしてふさわしいものかもしれません。よりよいルールが生まれようとしているのかもしれない。ところが、何が何でもいままで通りで! とひたすら固執する。仮に私がそうであったら、一緒に働く方はすごくやりにくいと思います。

 生徒や保護者の方がどうしてもとおっしゃることは冷静に考えて、ルールから若干逸脱しても通すことがありました。先生方からご提案をいただいたときも、それは絶対にできませんではなくゆるやかに応対してきました。
 生徒の学習に効果があることであれば特別にプリントの使用を認めたり、どうしても今日は解答を配りたいという先生には「先生個人からという形にしてください」と黙認したり。あるいは風邪をひいて喉が痛いという子には授業中飲料水を飲むのを認め、午前中に面談してほしいという保護者のために特別に早く教室を開ける・・・

 そうした人間的な細やかさは周囲にも伝播します。自分が楽だからルールを守らせようというスタイルではなく、生徒によりプラスのことをしてあげられないかと教室全体がーー先生も事務の方もーー一丸となる。そのあたりですね。
 もちろんどうしても変えられないこともたくさんあるのですが、人間的な幅のなかでできるだけ相手のためになろうという視点は、どのような仕事でも大切だと思います。
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2012.04.23 14:57

 毎年毎年、いろいろな生徒がいます。好き嫌いはとっくの昔に超越していますが(生徒に対して好き嫌いを言っていたらお話になりません)、まああれこれ感想は持ちます。
 教科のことであれば細かく指導もするのですが、生き方みたいなものはそれぞれの個性やご家庭の方針を尊重したいと思うので、あまりいじりたくない気持ちもあります。

 最近、ある中1生から授業中こっそりゲームをやっている生徒を目撃したという報告を受けてびっくりしました。大人しい生真面目そうな子なのです。たしかに何かやってはいたのですが、私は自信のないところを電子辞書でこっそり調べているのだろうと思っていました。まれにいちいち確認しないと進めない子がいます。
 まだ入ったばかりですからおいおい助言しようと思っていたのですが、ゲームだったとは。さすがに注意しないといけませんね。ソフトに伝えるつもりです。怒っては絶対にだめなのです。

 中2ぐらいになると腕白で落ち着かない生徒も出てきます。落ち着かないというのは要するに内側のエネルギーを上手に流せていないわけですね。外に漏れてしまう。エネルギーに溢れていること自体は全然悪いことではないので、本人の注意を流し方に向けさせるようにします。
 私はエネルギーの横溢する生徒はうまくいくということを知っているので、相手が男子であっても女子であってもまったく悪い感情は抱きません。ちょっと気をつけてくれとアドヴァイスする感じですね。

 また非常にいい子で何でも素直に聞いてくれるのですが、なかなか自分自身で考えられないという生徒もいます。ご両親の管理が厳しすぎるとそういうケースが出てくる。つまり本人「注意されないように」気をつけてばかりいる。その「気」は周囲の大人がどう考えるかということにしか向けられていません。
 こういう状態だとなかなか大人になれない。大人の知恵が出てこないのです。思い切った発想の転換がない。たとえばお金が足りないから転職しよう、とは考えない。ひたすら気の進まない残業を重ね、しかも停滞しているという感じになる。

 授業中、私はときどき変なことを言うのですが、発想の転換みたいなものを促しているのです。かたくかたく考えてしまう生徒に(そんな風に考えるのもありなのか)という感じを与えたい。
 このまえ「座右の銘」について解説しました。「世の中の人はすぐ『努力』だとか『必勝』だとかという言葉を壁に貼りたがるが、『普通』だとか『味噌汁』だとかではどうしていけないのだろう」と話しました。「あ、そういうことってあるよな」と感じさせたいのです。
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2012.04.22 11:49

 間違っても早まらないでほしいという願望をこめて書くのですが、若いころの私はしょっちゅう自殺について考えていました。友人にもそういう死に方をした人間がいて、ちょっと不安定な感じでしたね。
 洋楽でいちばん好きなのはルー・ロウルズの「別れたくないのに」であるという記事を最近書きました。本当に「いちばん」かどうかはよくわかりませんが。

 邦楽という言葉はもう死語みたいなものですが、その邦楽では何がいちばん好きだったか。
 雪村いづみさんの「私は泣かない」でしょう。1972年の第1回東京音楽祭のグランプリ曲です。ここまでスケールの大きいバラードは珍しいと思います。歌謡曲の延長線上みたいなところがまた昭和の雰囲気でいい。

 この曲がグランプリをとった1972年、私は高校2年生でした。雪村いづみさんが涙をこらえながら絶唱するシーンをテレビで見ていて私自身も泣きました。とくに「二人の恋はおしまいね」と崩して歌うところ。あまりの感動に天を仰いでから顔を覆って泣きました。
 そういう人間なのです。そうした感性に誇りを持って生きたいとも思った。ところが周囲はそういう少年に対しても猛勉強して国立大学に入って一流の企業人になれぐらいしか言わないわけです。

 すべての大人と不毛な会話を延々と続けていくことに何度も絶望しました。何人かのーーいまの私よりは若いーー大人から「早く目を醒ましなさい」と同じことを言われる。こちらにしてみれば逆に「目を閉じろ」と命じられているように感じました。「二人の恋はおしまいね」で顔を覆って泣いているような少年には、それなりの生き方があるものなのです。
 その日々のなかで相当投げやりになった。美学に基づいて生きる権利だってあるはずだと思った。けっこう危なかったですね。

 「私は泣かない」はつい最近Youtubeに投稿されていました。二人の恋はおしまいね~のところ、やはりいいですね。さすがに泣きませんが。
 結果的にすべてよかったと思っていますが、16歳のあの日から誤魔化さずに、こういう人間として堂々と生きてみたかったような気もします。それはそれでまた面白い人生になったでしょう。
 強く惹かれるもののなかにその人ならではの鉱脈があるから世間の評価はまったく気にするなということは、私自身が息子によく話すことでもあります。
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2012.04.21 17:05

 人生というのは非常に複雑な方程式みたいなものです。人生というより人間と言ったほうがいいのかな。ですから数値が1変わるだけで解答はがらりと変わってしまう。たったの1であってもですね。
 そういう意味で、私はときどきふだんやっている小さな行為を見直してみることがあります。どちらかというとよりよい方向に、ですね。道徳的な意味ではなく、意識の進化の側面で。

 最近は「信号を守る」ことを心がけています。厳密に言えば罰せられてしまうのでしょうが、以前の自分は車がまったく通らない道路の赤信号は無視していました。とくに夜中はそうでした。車だけではなく人通りもない深夜の小さな交差点で赤信号にぶつかる。ぼーっとつっ立っていても何だかばかみたいですから、まあいいやと渡ってしまう。そこを最近はあえて完全に青になるまで待つようにしています。

 昼間でもそういう信号はありますね。どなたも立ち止まらない。安全なのでみんなどんどん渡っていきます。私一人、じっと青に変わるのを待つ。信号を守ることが目的なのではなく、そんなところでも待てる心の余裕みたいなものを確認したい感じでしょうか。
 小さなことがどこかにつながっていく。具体的にどこにどう変化があるのかはわかりませんが、数値を変えたわけで、何かしら確実に変化するはずだと楽しみにしています。

 ほかにもいろいろありますが、たとえば私はある時点から基本的に肉食をやめています。健康のためではないですよ。大昔マクロヴィオティックに凝ったときは健康のことを考えていたのですが。
 肉食に対して悪い感情があるわけではないのですが、現在の自分にはちょっと波長が合わない感じがするのでふとやめてみました。それによって心理的に微妙な変化が起きました。食べるものに対しての感情ですね。

 小さなことが大切ですね。たとえば主義の転換などということには誰しも大騒ぎしますが、スリッパを揃えるクセをつけたかつけないかというようなことは案外どうでもいいと考えていたりします。しかし、そういうことこそ大切なのです。
 以前書いたように現在の自分は台所の「洗い物」を心をこめてやるようにしているのですが、その結果として確実に幸福が増進しました。食器が喜んでいるような気がするのです。

 
 

 
 

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2012.04.20 14:46

 私はーーとくに親戚なんかにはーー昔から少し「あれれ?」だと思われているのですが、わざとそうしている面もあるのです。いや、実際「あれれ?」は「あれれ?」なのですが、うんと誇張しているわけですね。
 中途半端に誤解されると面倒臭いからです。いっそのこと「ありゃだめだ」と切ってもらったほうがすっきりする。こういう気持ちはわかる方にはおわかりになると思います。

 イギリスにUFOというハード・ロックのバンドがあります。かれこれ40年ぐらい活動しているのかな。私はシンガーのフィル・モグが大好きなのですが、彼の言動を見ていると、この人はあえて愚かな感じに見せたがっているなと強く感じます。そういうところに惹かれるのですね。
 見た目はーーもう還暦すぎですしーー植木屋のオヤジさんみたいなのですが、歌はものすごくシブい。シブすぎて上手いのだか下手なのだかよくわかりません。

 歌い方もときどき俳句でいうところの「字余り」みたいになります。たとえば「蛍の光」であれば「蛍の光窓の雪」と歌えばすむところを「蛍の光窓の外も雪だぜー」みたいなことになる。大急ぎで崩して歌わないとスペースに収まりません。
 イングヴェイ・マルムスティーンという天才ギタリストがUFOへの加入を考えてフィル・モグと会ったときの話を読んだことがありました。

 イングヴェイは音楽の話をしたいと思っているのに、フィル・モグはプールサイドか何かで(正確には覚えていません)肉を焼いている。で、頻繁に焼き加減を訊いてくる。何を話しても肉の焼き加減ばかりなのでこりゃだめだと思ってグラハム・ボネットと組んだと話していました。
 さすがはフィル・モグだと思いましたよ。相手を確認しているのですね。

 アルバムにミュージシャンが謝辞を書きます。長く書く人がほとんどです。奥さんだとかお子さんだとかの名前がずらずら出てくる。ところが、フィル・モグだけは「EVERYONE」の一単語だったりする。
 新しいアルバムを聴いてみました。相変わらずメチャクチャにシブいのですが、一曲目の歌い出しでいきなり声が裏返っています。普通だったら直してしまうところですが。

 Youtubeでご覧になるのであれば「ROCK BOTTOM」がお勧めです。若いころも決してルックスがいいほうではありませんでした。女性演歌歌手みたい。そしていまは頑固きわまりない植木職人。それがまた歌にぴったりでじつにいい感じなのですよ。
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2012.04.18 13:34

 以前、新宿の地下街で天丼を食べていたときのことです。夕方かなり遅い時間でした。いまの私ぐらいの年齢の集団がいた。全員キャップをかぶっていたので、普通のサラリーマンという感じではありません。なかにやたらと威張っている男がいました。その人がお金を出しているのでしょう。特定の2人に向かって「今日もビールを飲みたいか? 飲みたいなら飲みたいでおれに向かってきちんと手を合わせろ」と言いました。

 2人は大人しく合掌する。威張っている男がさらに言います。「お願いしますは?」2人は慌てて「お願いします」と小さく声を合わせました。中途半端な時間なので私以外にお客さんはいなかったのですが、あまり愉快な光景ではなかったですね。
 同じような光景をじつは池袋教室時代もある中華料理店(街のラーメン屋さんです)で見たことがありました。そのときはアジア系の男が日本人の従業員に同じようなことをさせていました。

 お金というのは非常に大切なものだと思います。ただやはりふりまわされてはいけないですね。
 昔のとくに東洋では、いわゆる悟りを開いた覚者のような存在が非常に尊敬されていました。長老ですね。物事をよく分かっていて叡智に富んでいる。死生観なんかもきちんと体系だっているので、病んだ者や死に臨む者に勇気と安らぎを与えることができた。そういう存在は、必ずしもお金持ちではありませんでした。物持ちという理由で尊敬されていたわけではないということです。

 むしろ、いろいろなもの(精神面も含めて)を「所有」しすぎるとかえって悟りの邪魔になるケースもあったのかもしれません。私はとくに仏教徒というわけではないですが、ブッダの伝記なんかを見ているとそういう要素があったのだろうと考えてしまいます。
 いろいろな考え方があるのでしょうが、現代はちょっとお金を持つことに対しての病的な信仰が強すぎるような気がします。百円しか持っていない人間は千円持っている人間にうちのめされ、千円しか持っていない人間は壱万円持っている人間に打ちのめされ、壱万円しか持っていない人間は・・・の連鎖。

 数値でしか価値をとらえられないということになってくると、非常に浅薄な生き方になってしまいます。「お父さんは隣のおじさんより年収が少ないから隣のおじさんほどの価値はないね」などと子どもに言われたら、さすがにぎょっとします。そうした価値体系を安易に与えてしまってはいけない。何よりご本人が将来苦しむでしょう。
 ある尊敬できる社内の人間から、教育の大きな目的は学ぶ人間に「品格」を付与するところにあるのではないかという話を先日うかがいました。そのときふとこうした一連のことを考えました。

 勉強することも働くことも遊ぶこともそれこそ稼ぐことも、すべて品格形成という前提を失ってしまったら、生きる意味そのものが希薄になってしまうのではないでしょうか。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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