2011.05.31 13:23

 私は今日、うっかり一つだけボタンがとれそうなジャケットを着てきてしまいました。以前、気づいていてボタンをつけ直してからまた着ようと思っていたものです。5月から会社(教室)では上着を着用しなくてもいいことになっているのですが、私は真夏でも必ず上着を着るので、同じようなジャケットをいくつか持っています。で、勘違いしてボタンがとれそうなやつを選んでしまったのですね。

 原宿駅を過ぎたあたりでそのことに気づき、ずーっと気にしています。記事を書きながら何度も何度もとれていないか確認したりする。ちょっと強迫的な感じですね。気にしないでいようと思うと余計に気になる。
 昔、ある生徒が黒板に消し忘れがあると集中できないと言っていたのを思い出しました。先生が板書したものを消したときにちょっとだけ線が残っていたりする。切れ端みたいなのがところどころに踊っている。そうするとそれが気になって授業そのものに集中できなくなるというのです。

 こういうのはどなたにも多少はある話ですね。ある一点、そこだけ見つめてしまって人生全体がうまくいかなくなる。でも、本当に原因は一点だけだったりするのです。気持ちを切り替えたらいいですね。
 学校で何かいやなことを言われた。でも、その一点だけなら何とかなりませんか。家族は優しい、趣味も楽しい、勉強だってそれなりにうまくいっている、身体は元気、友だちも何人かいる・・・衣食住の心配はまるでないばかりか、精神的にもある程度満たされているじゃないですか。

 であれば、視点を変えてみましょう。私もブログを書いたあと採点したり面談があったり先生方の5月度の書類を確認したり入力するものがあったり、いろいろやるべきことがあります。どんよりした気分ではよくありません。
 ボタンが一つとれるとれないは自身の本質とはまったく関係ない話なので、前向きにいこうと思います。視点の転換の技術は、ある程度意識的に鍛えないといけないのかもしれません。
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2011.05.30 16:34

 繰り返しになりますが、このブログに書いていることは私が一人で考えたことではありません。知恵ある先人の教えや、勉強法で言えば非常によくできた生徒の方法論をご紹介し続けてきているので、内容にはそれなりに自信がありますが、それはその方たち全員の手柄(?)であり、私個人とはあまり関係がありません。

 ですから、いいことを書きながら自分ではうっかり逆のことをしている・・・などというケースもしょっちゅうです。これではいかんなと反省したりします。
 生徒が読解問題をやっているとき、彼らは自分の人生と関連づけて読み考えます。たとえばバスケットの部活の話題だったりすれば、偶然バスケットをやっている中学生なら当然自分の活動を強く思い浮かべるでしょう。

 そこまではいい。ところが、どんどん自分の世界に入ってしまう可能性もあるのです。とくに部活が大変だという内容だったりすると、自分の部活動のことばかり思い浮かべてしまう。去年の先輩は強引だったよなあとか、後輩をもっときちんと指導しないと夏の大会は大変なことになるぞとか、問題文とは全然違う世界に入っていってしまう。

 そうなると読解どころではないですね。文章の表面部分をざっと読みとばしながら考えていることは自分の部活動のことばかりです。少なくとも半分以上は自分をとりまく状況を考え、あれこれ心配したりしています。
 昨日も書いたように「いま」「ここ」が大切なので、そういう状態では何を読んでも十分に理解できないことになりますね。

 私は今日自宅でサンドイッチを食べてきたのですが、家内のパソコンで西荻窪近辺のことを調べながら食べていたので、サンドイッチの中身についてほとんど記憶がありません。何だかおいしかった、何かの肉だったのかな? 情けないことにそれだけです。
 たかが昼食であっても、こういうことがだんだんクセになってしまうので注意しないといけないと思っています。生活の場から正していくべきだと思うのです。すべての行為が生活の一部なのですから。
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2011.05.29 10:44

 中学生にかぎらないと思うのですが、それぞれ事情があり、勉強や仕事にやる気が出たり出なかったりという波が繰り返し来ます。それでいいと思います。勉強(仕事)はもちろんしなければならない側面が強いわけで、ずーっとやる気がないままではまずいでしょう。
 ただ、そんな人はめったに見かけないですね。誰でも何かのきっかけで頑張りを見せるようになります。

 ところが、頑張ろうと思っていた最新の決意をすぐに忘れてしまう人がいます。一週間前にあることで強く決意して実際に二三日は整然と努力していたのです。それなのにふと忘れてしまう。
 意図的にやらなくなるというより「忘れてしまう」と表現した方が正確だと思います。長いこと生徒を見ていますから、そのあたりはよくわかるのです。決して悪意はありません。すぽっと抜け落ちてしまう。

 そうなると次に「頑張るぞ」と決意する日までだらだら勉強(仕事)するという姿勢になります。周囲はいらいらしますが、これまたご本人に悪気はないのです。
 もう少し自分を頻繁にリセットできるようにならないといけないですね。もとの「しっかり」「前向きに」「ていねいに」やろうという意志を自分でーー少なくとも一日一回はーー確認するクセをつけてください。

 漠然と考えてもだめなのですよ。私がいつも書いているように「いま」と「ここ」に自分がいるという事実を実感してほしいと思います。昨日のことを悶々と後悔したり、先の予定を憂鬱に感じたりということで、現在をないがしろにしない覚悟を持つ。
 たとえば私は今日、面談、授業、入力・・・とやるべきことがたくさんあります。ただいまはこの文章を全力で書いている自分だけを意識しています。焦点をそこだけに合わせ、授業の準備が完全に終わっていない心配は、ブログを閉じてからすると決めています。さらに書いている途中でも(人手が足りなかったので)電話をとりました。そのときは電話だけに集中しました。

 予定が多すぎて身動きがとれないという人も瞬間瞬間は一つの行為のなかにいるわけですから、そこだけに焦点を合わせてください。リセットの能力は非常に大切です。「いま」「ここ」からスタートです。わかりますね?
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2011.05.28 09:57

 詳しく書くとものすごく長くなりそうです。
 THE FUZZという黒人女性コーラスグループの歌った「Ⅰ LOVE YOU FOR ALL SEASONS」というヒット曲があります。ヒットと言っても日本ではシングル盤さえ出なかったかもしれません。1971年か72年の話です。あやふやですみません。

 私は当時からあちらのヒット曲だけを流すようなラジオ番組を聴いていたので、こちらではシングル盤にならないような曲もチェックしていました。DJの方(おじさんでしたよ)が「愛の四季」と和訳して紹介していました。
 1972年の秋、私は九州に修学旅行に行きました。同じ班にこの曲を聴いている美少年がいて驚きましたよ。

 当時はみんなテープレコーダーで聴いていたものです。私は「こんな曲をどこから仕入れた?」と質問しました。いまでこそyoutubeでも聴けますが、当時知っているのは自分ぐらいじゃないかという自負もあったのです。少年は、ラジオ局に知り合いがいてテープをたくさんもらえるのだというような話をしていました。
 旅行中、ほとんどの行動をこの少年と共にしました。長崎の修道院だったか偶然「愛の四季」というタイトルの書物を見つけ、啓示を受けて買いました。

 聖パウロ女子修道会のユニヴァーサル文庫というやつなのですが、現在このシリーズ自体がなくなっているかもしれません。四十年近くたったいまもこの本は私の本棚にあります。THE FUZZの音源は十年ぐらいまえ70年代ソウルのボックスセットで入手しました(今朝も聴いていた)。
 極端に崇高な意味でも最も低俗な意味でも、広義にも狭義にも自分は愛に生きたという気持ちがあります。他者や世間に対して憎しみの感情ももちろん抱いたことがありますが、要するに愛がマイナス方面に動いただけですね。

 無関心の人生ではなかった。愛の対極は憎しみではなく無関心である、とある人が言っていました。至言だと思います。私は無関心ではありませんでした。
 何だか最終回みたいになってしまいました(最終回ではないですよ)。
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2011.05.27 15:12

 散歩について書きます。見知らぬ街を歩くのも好きですが、よく知っているところを改めて歩くのも好きです。
 先日の大震災の日、私は渋谷から荻窪の自宅まで歩いて帰りました(厳密に書くと南阿佐ヶ谷から荻窪までのひと駅間は地下鉄を利用しました)。十代のころ、私は山手通りをよく歩いたので、そのころのことを思い出しました。ここにこんな家がたっていたなとか。表札の苗字まで覚えていましたよ。

 音楽を聴きながら歩くのも好きなのですが、そうすると当然現場の音は聞こえなくなります。街そのものの持つ音。私たちはふだん視覚にかなりの部分を頼って生活していますが、音もまた場所を構成する大きな要素なので、聴きながら歩いた方がよさを深く味わえると思います。
 昔もどこかで書いた覚えがありますが、目黒から白金の近くを通って五反田に出る道が非常に好きでよく歩きました。今度、イケ面横綱のW先生と歩こうぜと話しています。男二人で意味もなく歩くというところがいいんですよ。

 小岩から新小岩まで歩くのが面白かった時期もあります。距離があります。黙々と歩きました。真夏に何度も。何があるというわけでもないのですが、雑然とした感じにひかれたのですね。
 逆にあまりにもきれいに作りこまれた街はあまり魅力を感じません。昔、ある新興都市で授業を担当したことがあるのですが、教室の周囲は行っても行ってもきれいな場所(?)ばかりで息がつまる感じでした。

 新宿四谷間も二十歳のころ、とりつかれたように歩いていました。新宿から四谷に出て、また新宿に戻ってくる。ばかみたいですが、歩きながらいろいろなことを考えたものです。こういう変な散歩は基本的にはどなたもおつきあいしてくださらないので、一人になります。一人だからこそ考える行為があり、そこがいいのでしょうね。

 地方都市に行っても、同じ道をけっこう歩いています。名古屋の金山から熱田神宮までとか。昔、途中の文具店で意味もなくボールペンを買ったことがあります。おばあさんが出てきました。その数年後、再び同じ文具店でボールペンを買ってみました。そのときは、おばあさんと少しだけ話しました。さらに十年近くたって行ったところ文具店は閉まっていました。近くの方から、おばあさんがその前年に亡くなったというお話を聞きました。
 そんなこんなですね。何かが心に残っています。

 
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2011.05.25 14:34

 かつて現在の総理大臣のことを「市民運動の仮面をかぶった立身出世主義者」と評した高名な評論家がいました。批判なのですかね。前後の文脈はわからないのですが、面白い見方をしたものだなと思います。
 しかし、立身出世主義についてはいいも悪いもないでしょう。立身出世したいと考える方はそうするでしょうし、そういうのは苦手だと感じる方はむりに出世を望まれなくてもいいのでしょう。そのあたりは個人の自由ですね。

 私は四十代ではじめて会社員というものになりました。それまでは一度もきちんと就職したことはありません(あちらこちらの塾で時間講師をしていました)。普通の大卒の方より二十年以上遅れたスタートでした。
 数年間、細々と活動していたいわゆる「文筆業」の先が見えてきてしまったというのが理由の一つ、子どもを育てなければいけないというのがもう一つの理由。このあたりが潮時かなと考えたわけです。

 そのとき、立身出世はほとんど意識しませんでした。あまりにもスタートラインが違いますからね。まあ意気ごみと言っても、できるだけ多くの人の役にたとう程度でしょうか。ですから、自分の立場に対する焦りだとか葛藤だとかは一度も感じたことがありません。仮にたとえばいますぐ「教室長」という肩書がなくなっても、私という人間は現在と同じです。

 小学生を教えていた時期は、いろいろ面白い本音を聞きました。彼らは正直ですからね。たとえばどうしても医者になりたいという子がいる。なぜなりたいの? と訊くと「金持ちになれるから!」と無邪気な答が返ってくる。なるほどなと思いました。それもまた立身出世主義の一形態なのでしょう。
 ただどうなのでしょう。その一念だけで最後まで頑張れるものかどうか。ほかの方法で楽にお金が稼げそうであれば、気持ちは移ってしまうかもしれません。

 こういう話を聞いたことがあります。ある人が仕事をーーお店でも何でもいいのですがーーはじめて大成功を収める。それを見て多くの人が(これはいいや)と思い、同じ仕事をはじめてみるもののあまりうまくいかない。私塾なんかでもそういう傾向があるかもしれません。
 はじめの人は仕事そのものが好きだったのでしょう。ところが、真似した人は仕事の成功によって得られるであろう「お金」や「地位」が好きだったのです。そういう差は出てくるものかもしれませんね。
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2011.05.23 14:06

 最近、ある事情から昔の教材の一部を再入力しています。いずれアルバイトの方にお願いできるといいなと思うのですが、とりあえず一つの教材の入力にどれぐらいの労力や時間がかかるのか、何人かの方と手分けしてやってみようじゃないかということになりました。
 いろいろと便利な方法はあると思うのですが、とりあえず一字一句確認しながら入力しています。

 その仕事だけに専念できればいいのですが、保護者会、面談、授業やその準備、電話での相談・・・などと並行して進めているので、あまりはかどりません。はかどらないというより、気持ちが途切れてしまうのです。面談で深いお話が出てきたりすると、あとでそのことについて個人的にじっくり考えたいわけです。ご本人にどう声をかけたらいいだろうとか手紙を書いておくべきだろうかとか、あれこれ考える余裕がほしくなる。

 身体は空いている。三十分なら三十分まるまる空いている。だから物理的には入力できるはずなのですが、心が空いていないような感じがする。入力を再開したものの、やはり気になってすぐに中断してしまったときもありました。
 ただ、あらためて入力していて面白いことをいろいろ発見しました。皆さんの参考になりそうなのでちょっと書いておきます。

 文章を入力していくわけですから内容については音読する以上に細かく読むことになります。すると、問いを入れながら、あ、このことは文章のあの部分に書いてあったなとすぐにわかります。仮に皆さんが読解問題をやるときーー現実的ではありませんがーー入力までしたらかなりの問いがすぐにわかると思いますよ。
 要するに、それぐらいの気持ちで丁寧に舐めるように読むといいということでしょう。

 読点の使い方なんかは本当に人それぞれです。丸写しするしかないのですが、どうにも納得できない読点だとか、気恥ずかしい表現だとかが出てくることもあります。ある種好みの問題ですね。問いが難しいかやさしいかだけではなく、そういうことまで味わいながら読んでみると読み方に広がりが出てくると思います。問題文だからきらいと短絡的に考えるのはもったいない。表現として好きかきらいか吟味してみるといいですね。
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2011.05.22 09:55

 よくできる生徒というのがいます。優秀なのですね。きちんと勉強している。りっぱなことです。
 ところが、受験の希望を聞くと若干実力より低い高校をあげる生徒もいます。きみの成績ならもうちょっといわゆる偏差値の高い高校でも受かるよとアドヴァイスをするのですが、万が一落とされるといやだしそこまで苦労はしたくないから・・・という話になります。

 けっこうありますよ。Z会進学教室は、生徒が選択しない高校を受けさせることはありません。きみは成績がいいから首都圏でも難しいことで評判の〇〇高校を受けて来なさいという指導はしていません。あくまでも生徒が「自分で」行きたい高校を受けてもらっています。
 昨今は塾だけではなく一部の私立高校でさえ、受験料を立て替えてまでトップクラスの生徒に難関校を受けさせ合格実績を稼いでいるケースがあると聞いていますが、そういうことは一切ありません。

 それはそれでいいのですが、実力より低めの志望校を受けたいという生徒に大学はどうする? と質問すると、大学はかなり難しいところに入りたいと言ったりします。さらに将来の仕事は? と訊くとやはり相当競争率の高い仕事を希望していたりする。
 つまりいつかはうんと高い位置に立つ自分を夢見ているものの、現時点ではそういう自分を信じられないという感じなのでしょう。

 その姿勢を責めるわけではないですよ。ただ妥協するくせをつけてしまわない方がいいのかなとは思います。本心でいちばんほしいものをとりにいく姿勢ーー結果的に得られるかどうかはわかりませんーーは自分自身をVIPと見なしているという自己への宣言になり、そのこと自体が非常に貴重な財産になると信じます。
 妥協するクセがついて、まあまあの人生をはじめから望んでいたと錯覚してしまうのはこわくないですか。

 まずまずの高校に進学し、まずまずの大学を卒業し、それなりの仕事にはつき、この人ならまあいいかーという人と結婚し、そこそこの家庭は築く。それももちろんりっぱではありますが、心の中で自分の夢は本当はこんな人生ではなかった、もっともっとやりたいことがあったし非凡に生きられるチャンスもあった、気づかぬうちに自分で自分のスケールを縮めてしまった・・・とぼんやり後悔している「大人」はけっこう多いのです。
 二番目の夢ではなく一番目の夢を生きないと。そのスタート地点はじつはこの瞬間なのですよ。
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2011.05.21 12:59

 自分が悪いから退屈するのだという気持ちがあります。その行為が退屈なのではなく、私という人間が勝手に退屈を感じているだけです。悪いのは行為そのものの内容ではなく、私自身の精神でしょう。必ずしも退屈が悪とはかぎりませんが、せっかく生きているのですから退屈しながら何かするよりうきうき行為した方が周囲にもいい影響を与えるでしょうし、自分自身のためにもなると思います。

 あなたが勉強(仕事)するときに退屈で退屈で仕方がないというのであれば、気持ちを切り替えるほかはありません。切り替えるというより、色を変えるとでも言った方がいいのでしょうか。学校や職場だけ変えてもそのままではいずれ同じように退屈してしまうでしょう。仮に学校に行けなかったり失業したりという一定期間があれば、どんな勉強でも単純な仕事でも参加できること自体をありがたく思うものです。

 毎年同じように中学生を見ていて飽きませんか? と質問されることがありますが、まったく同じ生徒とまったく同じ授業をやっているならともかく、毎年毎年生徒は変わりますし反応も変わる。必ずしも熱心ではなくても、面白い子もたくさんいます。こちらの話す内容も微妙に変わってきますから、退屈という状態にはなりません。突然まえもって考えていなかったような話が出てしまうときもあり、生徒が誘発したなと感じる瞬間もあります。

 ときどき私は健康のために自宅から西荻窪駅のあいだを二十分ぐらいかけて歩くことがあります。行きに歩く道と帰りに歩く道がどういうわけか自然と違ってきました。行きは広い通り沿いを行き、帰りは裏道みたいなところを歩く。あるときわざと逆にしてみたらものすごく新鮮な感じがしました。同じ道でも昼と夜とでは全然印象が違いますね。
 結局、ちょっとした工夫なのだと思います。自分なりに変化を起こす。好奇心を持って変化を起こすということですね。

 私の好きな将棋の大名人(故人)が定跡に僅かの工夫を加えることが大切だということを語っていました。新鮮さを保つということなのでしょう。勉強(仕事)をする際に小さな工夫を大切にしてください。面白さというのは雪だるま式に増えていきますから、要はきっかけだけですよ。
 
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2011.05.19 13:48

 今年度、私は中1中2中3と3学年の授業を担当しています。例年は2学年だったのですが、渋谷に移動して初年度ということもあり、本部の偉い先生にお願いして3学年とも持たせていただきました。できるだけ生徒を広く見ておきたいという気持ちがあります。
 いろいろと面白いことがありますよ。笑ってしまうような事件(?)もありました。

 中1のクラス。まだ幼い感じの生徒も当然います。先日、私がテキストを見て解説していたところ、ある女の子(非常に聡明な生徒です)が突然「先生!」と声をかけてきました。顔を上げると斜め前の席の男の子を指差し「お菓子を食べています」と言いました。べつの女の子(この子もよくできる生徒です)も「ポケットにお菓子を入れています」と言いました。
 名指しされた男の子は困っていましたよ。ズボンのポケットに飴か何か入れていたのですね。

 こういうとき、私が怒ったら空気が崩れます。「きみ、授業中は何か食べてはいけないよ」と静かに注意しました。こんなのは中1だけですね。いずれは大人になっていくはずです。
 中2のクラスはかなり個性的な生徒が揃っています。単純な子どもではない。そしてーーここが大切なのですがーー成績はともかく非常に能力の高い子が多いので、そのあたりを大切に見ていきたいと考えています。

 つまり、彼らが間違っても「自分はたいしたことがない」と思いこまないように指導したいということです。いまの点数なんかある意味でどうでもいい面があります。それよりは自分に対する印象が大切です。「おれは(わたしは)相当なものだ」という印象。ですから、私が彼らを褒めるときのポイントは人によって微妙に違います。突出しているいい部分を褒めるわけですね。褒めるところのない生徒は毎年一人もいません。

 中3はさすがに受験生で、みんなまじめにやってくれます。ただ、いまはまだほかのことが忙しくて勉強をどう位置づけるか迷っている生徒もいます(私はちゃんとわかっているのですよ)。
 もっとやろうと思えばできる。だけどいますぐ勉強に特化する生活には移行したくない。部活動とか趣味とかいろいろありますから。いずれはぜんぶ勉強に捧げるときがくるかもしれないけれども、それはこの瞬間ではないということです。それはそれでいいでしょう。納得のいくように生きていかないと。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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