2010.12.31 09:46

 私は病的に自意識過剰なところがあります。ずいぶんよくなってきたと思うのですが、十代のころは病的どころかホンモノの病気でしたね。まず顔を見られるのが苦痛。変な顔なのではないか(まあ、変な顔なのですが)という恐怖と、逆に注目されているのではないかという妙な焦燥感の板ばさみに合って、不必要に苦しんだものです。
 
 外出する母親に「近所の銀行でお金をおろしておいて」などと頼まれる。当時は窓口でおろすので、きれいなお姉さんとやりとりしなければなりません。さあ、大変! まず服。普段着をぜんぶ着替える。シャツは胸元を開ける。白いジャケットをはおる。身体つきを見られたくないような気もするので、寒くもないのにトレンチコートを着ます。その時点で白いジャケットを着た意味はなくなっているのですが、狂乱状態なので気がつきません。

 さらに安物の大きなサングラスをかける。顔を見られたくないのですね。真っ黒でこちらの瞳の動きがまったく見えないやつです。あまりにも暗すぎてこちらからも向こうがよく見えません。だが、そんなことは言っていられない。小さなバッグも持ちます。何も入っていない。持っていた方が重々しい感じが出るのではないかと考えたわけです。

 銀行までくわえタバコで(十代の方、真似しないでください・・・ってこんなばかな真似するわけないか)緊張してロボットみたいに歩く。アラン・ドロンが映画のなかでそうしていたので真似をしているのです。タバコの規制がいまほど厳しくなかったので、そのまま彫刻みたいになって銀行に入っていきます。
 帰ってくるとへとへとですよ。あまりに疲弊して寝こんだことさえありました。母親に「誰もあなたのことなんか見ていやしないんだから」とよく笑われました。いやいや、じーっと見ているんですよ。自分が自分を。

 今日から正月特訓がはじまりました。けさ、教室のまえのお店でコーヒーを買いました。大きいのを買おうとしたら、LではなくTと書いてある。「トール」と発音するのが恥ずかしくて、お姉さんに「大きいのはTでいいの?」とわからないふりをしました。十代のころの自分がまだ生きています。
 皆さま、よいお年を。
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2010.12.30 11:08

 息子はこのブログを読んでいないので(父親のブログなんか興味がないのが当然でしょう)正直に書いてしまいますが、昨晩、私は珍しく息子を叱りました。叱ったといっても、大声で怒鳴りつけたとか思わず手が出たとかというレベルではありません。ただあまりにも彼のしていることに失望を覚えたので、強く責めました。「そんなことをやっていて将来どうするつもりだ」という話になり、息子は黙って聞いていました。

 私にしてみると非常に珍しいことです。叱ったあとで自室にこもり音楽ーーCHARのサイケデリックスでのライブ盤ーーを聴きながらしばらく飲んでいたのですが、これまた非常に珍しいことにそのまま息子には一切声もかけずに寝ました。よほどのことがないかぎり、私は叱ったあとでは声をかけるようにしています。昨晩は自分にとってそれぐらい「よほどのこと」だったのです。

 けさになって冷静に考えてみると、やはり自分がしっかりしていないだけですね。これではだめです。私が感情的になったのは彼の生き方を見て私自身が傷ついたからです。またそんなことをして、という感覚です。
 人が傷つくのはだれの責任か。その本人が傷つくという選択を受け入れたからでしょう。感情はどうにでもコントロールできるはずなのに、情緒的に傷つく状態をよしとしてしまった。私がしっかりしていれば、感情的にならない状態でアドヴァイスすることだってできたはずです。

 何から何まで責任は自分にあり、力も自分にあります。子どもにかぎらず、学校が、会社が、親が、夫が、妻が、友だちが、世間が、過去の記憶が・・・と自分を傷つけるものを列挙して自分は被害者なのだと言い続けていたら、こちら側に原因も力もないわけなので、いつまでたっても何も変えられない、救われないと自分で宣言しているのと同じです。
 息子がどうであろうとそれは彼の人生であり、彼がその責任を負えばいいことです。私としてはなるべくいい方向に行くように協力だけしてやればいい。

 自分の人生は自分が築いている、自分がコントロールしているという自覚をもっと強く持とうと思いました。事実、だれでもそうなのですよ。それを忘れてしまってひたすら無力だと思っている。
 こういうことを考えさせてくれた息子はいいやつだと思いました。親も子ども(あるいは子どもとの関係)から学ばないとだめですね。日々、勉強です。
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2010.12.29 11:41

 昨晩コメントをいただいた方のお名前(?)を拝見して驚いたのですが、私がときどきうかがう名居酒屋に通っていらっしゃるようでした。以前も同じことを書きましたが、そのお店は本当に空気が澄んでいて、ちょっと神社仏閣みたいな空間なのです。変な例えですが、おわかりいただけると思います。

 当然、お客さんもその覚悟で来ます。大声を出したり騒いだりする人は一人もいません。また団体客もいない。年齢層も高いですね。
 基本的にご家族経営のようで、女将さんとその娘さんらしき方が中心になって働いています。女将さんはけっこう厳しい方で、若いお客さんが汚く食べ散らかしていたりすると丁寧な口調ながら注意しています。いいことだと思います。

 神社や寺院という場所は何となく心が休まりますね。そういうところは本来一人で行くものだと思っていますが、一人で静謐な空間を歩いていると自分を反省するいい機会になります。地方に旅行したときなど神社仏閣を見つけると必ず寄ってみるのですが、雑踏を歩いているときとは全然気分が違う。浄化された場の力とでも言うのでしょうか。

 たとえば公衆便所とか駐車場とか病院の廊下とかに一人でじーっとたたずんでいても、神社仏閣にいるときのような気持ちにはなれません。何となく落ち着かない。神社仏閣ではこれまで数え切れない人間が祈りを捧げてきたはずで、その総量がありとあらゆる空間に漂っているのでしょう。人々の祈りの集積のシャワーを浴びているわけですね。

 飲食店にも同じような感覚のお店がある。大衆的ないいお店はたくさん知っていますが、飲みに行くときですら今日は何か精神性の高いエネルギーがほしいという日は、そのお店を選んでいるような気がします。
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2010.12.28 10:49

 ときどきお店などで、この人がいなかったらここはもたないだろうという店員さんを見かけることがあります。ただ有能であるというだけではない。あるいは特別地位が高いというわけでもない。高給取りでもなさそうです。いわゆる「やり手」というのとはまったく違った特質を持っています。それでもこちら(客)から見ると、この人がいるからこそいい店と感じるのであって、この人がやめてしまったらもう来ないと思わせるものを持っている。

 歴史の教科書を見るとーーいちいち実名はあげませんがーーこの人が存在しなかった方が世の中にはよかったのではないかと思われる人物名が出てきます。考えようによってはけっこういますよ。人類史に残る数々の悲惨な出来事の指導者などですね。
 私たちはそういう人のことを勉強します。悲劇を繰り返してはいけないという意味で学ぶのでしょうが、有名人は有名人なわけで、人によって印象は違ってくると思います。

 そしてまた、教科書には先にあげた「お店で欠かせない人」についての記述は当然ありません。ですから、学校でも先生からそういうことを学ぶ機会はない。そこにある種の倒錯が起きる可能性があります。つまり、市井の善人なんかくだらない、おれは何でもいいから教科書に出てくるような大物になりたいんだという感覚ですね。大物にもいろいろあるということを忘れてしまう。で、ひたすら「大物」を目指す。

 この世を実際に救っているのは、じつは名もない市井の善意の人々なのではないかと考えるときがあります。どこの国のどういう体制下でも、そういう人たちは他者と全体のことを考え行動しています。世界中にーーとくに連携もとらずにーー存在している。徒党を組まない(力を誇示しない)姿勢が彼らの優しさの源泉でもあるので永遠に一致団結という形にはならないでしょうが、彼らの存在がある限り、世界はそう絶望したものではないと考えることがあります。
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2010.12.27 10:44

 どうやら今日の記事が500回目になるようです。1回分どこかでお知らせのようなものが入った記憶があるので、厳密に言えば私が書いたのは499回ということになりますね。昨年の六月の下旬から約一年半。最近ではいわゆる「各種ランキング類」でも高い順位をいただく日もあり、読んでくださる皆さまには心から感謝しています。

 ずいぶんたくさんの記事を書いてきました。原稿用紙に換算したらどれぐらいになるのでしょうか。大切だと考えていることはすべて書きつくしてしまった感があります。とくに伝えたかったのが、親子関係を良好なものにしてほしいということでした。親子関係は基本中の基本ですからね。
 もちろん私は進学塾で働いているので勉強のことはいろいろ考えるのですが、だんだん大きくなってくると、親子関係が良好なのに勉強だけができないというケースはほとんどないように感じます。良好であれば「勉強しなさい」という親の意見を子どもが素直に聞いてくれます。

 500回も書いてくると何を書いたかということを忘れてしまいます。昨日も「年賀状」という記事を書いたあとで、ふと以前にも同じタイトルで書いたことがあるような気がして探してみるとやはりそうでした。そこで(二回目)と追加しました。
 ときどき読んでくださっている方の声を直接うかがう日もあります。先日もあることについて私の記事をずいぶん探したというお話をうかがいました。結局見つかってお役にたてたそうでしたので残っていてよかったなと思いました。

 続けられる限りは続けていこうと思っています。今後ともよろしくお願いします。

 
 
 
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2010.12.26 10:57

 何人かの方には毎年年賀状を出しています。これ、なかなか難しいと思うようになりました。年賀状を書きたくないという方も増えてきているので、場合によっては迷惑をかけている可能性があります。返事を書かなくてはいけないような気分にさせてしまいますから。ですから、だいたい前年度にいただいたなかから今後も長くお世話になりそうな方に出したりしています。

 毎年出していてもある年で突然書くのをやめるケースもあるでしょう。形式だけのやりとりはやめたいと思いたったわけですね。うちの父もそんなことを言っていたときがありました。相手の方はどう思われるかわかりませんが、そういう方針であれば貫くしかないですね。ですから、本当に出していいものかどうかわからないと感じることがあります。

 年賀状だけのやりとりで30年以上という相手もいます。高校時代の同級生で、それほど親しくなかったのですが、高校三年生のときに席が前後になりました。それ以来、年賀状だけやりとりしている。あちらは私がどういう職種であるかさえ知らないと思いますよ。ただ何となく年賀状が来る。私も書く。突然来なくなったら心配になるでしょうね。

 中学高校生のころ、クラスの連中にくだらない年賀状ばかり書いていました。黒枠にしたり変な和歌を書いたり、墨で塗りつぶしたり、卑猥な文句を大書したり。呆れたものですが、級友はみんな面白がってくれました。そこでーーここからが私のすごいところですよーー私は彼らには延々とその形で賀状を送り続けました。二十代になっても三十代になってもずーっと変わらないところを見せているつもりでした。

 皆さん、困ったのか呆れたのかわかりませんが、一人また一人と返事が来なくなり、現在はその30年以上くださっている同級生ただ一人になりました。家族に説明が困るような年賀状を出してくる人間とはおつきあいできないということなのでしょう。しかし、それはそれでよかったのではないかと私は思っています。
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2010.12.25 10:20

 厳密に言えば冬期講習がすでにはじまっていますが、本格的に忙しくなってくるのは27日からです。
 私個人の年内の休みは昨日が最後で、これから31日まで毎日授業を担当することになります。日によっては朝いちばんのコマと最後のコマを担当する関係で12時間近く教室にいることになるので大変は大変です。

 お正月も「正月特訓」という授業がありますから文字通り元旦しか休めないのですが、こういう状況に不満を感じたことはありません。
 人生、そういうものでしょう。私は基本的には人生には本来備わっている意味などないと思っています。よく言うじゃないですか。「自分の人生には何の意味も見出せない」とか。それは当然のことであって、人生の意味というものは個々人が与えていくものではないかと考えるのです。

 基本的に私は怠惰な人間なので何もしないでだらだらしているのが好きなのですが、それでも他者に対して何らかのことができるのであれば、同じ一時間を寝ころがって過ごすより働いていたいという気持ちは持っています。その程度の意味は自分で自分の人生に与えているということなのでしょう。
 1月1日だけ休みというのも何をしたらいいのか迷うものです。家族も実家に行ってしまって留守ですからね。私も行けばいいのでしょうが、一人でいたいのですね。

 数年前の元旦、何となく近所のコンビニエンスストアーに食べものを買いに行きました。文字通り店員さん以外だれとも会いませんでした。行きも帰りも店のなかも、私以外の人間がいませんでした。いい感じでしたよ。
 初詣? 私はしょっちゅう神社をうろうろしているので、とくに元旦にお参りしなくてもいいような気も…
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2010.12.23 09:50

 こういうことがありますね。たとえばダリの絵をはじめて見てびっくりした。これは面白いということで画集を買ってきました。毎日毎日見ているうちに飽きてくる。退屈になる。そのうちどこかでダリの絵を見かけても(ああ、これか)ぐらいにしか思わない。それどころかときには「わざとらしくてうんざりだよね」などと話したりする。
 この場合、その「うんざり」はダリの絵の特質なのでしょうか?

 また、こういうこともあります。若いときーー何でもいいのですが、自分の場合どうしてもヘヴィ・メタル系になってしまいますーー興奮してAC/DCを聴いていた。アンガスはリフ作りの天才だななどと周囲に話していた。それがいま聴くとたいして興奮しないどころかワンパターンでぜんぶ同じじゃないかぐらいに思う。「若いときはいいと思ったけど、いま聴くとうんざりだな」と感想を漏らしたりする。
 この場合もその「うんざり」はもともとAC/DCの曲に備わっていた特質なのでしょうか?

 あなたの方が変化したのですね。人間が変わった。成長ということでしょうから、もちろん悪いことではないですよ。ただ自覚しておいた方がいいかもしれません。
 対象が人間の場合は?
 私は昔からーーまあ、本気でおっしゃっているわけではないということはわかっていますがーー「あの子にはもううんざりなんです」というご相談を受けるときがあります。「親のいやがるようなことばかりして…ほとほと呆れ果ててしまいました」

 はじめから「うんざり」という特質を持った生徒など一人も見たことがありません。もちろんご相談を受けたお子さんも私には全然「うんざり」ではない。
 私自身、自分の息子を「うんざり」と感じたことは一度もありません。私の息子に対する感情はつねに「大好き」です。彼が優れているからではないですよ。彼が彼らしいままで成長してくれているからです。ただし「好き」というスイッチは、私が意識して押し続けているかもしれません。
 このあたりのことはいろいろ考えてみる価値があるような気がします。
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2010.12.22 13:22

 Z会進学教室に通ってきてくれている生徒は基本的に三つの場所を持っています。家庭と学校と塾ですね。彼らがその三ヵ所すべてで幸福であることが理想的です。どこでもいつでも満ち足りている。理由? 不幸には理由がありますが、幸福には理由がないときも多々あります。生きているというだけで自然に滲み出てくる幸福感というものは、どなたにも覚えがあるのではないでしょうか。

 学校は、まあストレスもたまりますね。先生との関係、ほかの生徒との関係。うまくいくこともあるでしょうし、うまくいかないこともあるでしょう。うまくいかなくても徐々に学んでいけばいいので、焦らないことです。学校は勉強するだけではなく、人間関係の修練の場だととらえるといいですね。あなたが高校や大学や社会に出てからなるべく苦しまなくてすむように、数々の矛盾や欺瞞、不正、葛藤などに慣れておく必要があるのです。必ずしも闘う必要はありません。ただ慣れておくのです。

 塾でも勉強以外に学ぶことはたくさんあります。いい塾には当然意識の高い生徒が集まっています。こんなすごい人もいるのかというのがいい刺激になる。あるいはあんなにできる人でも間違えるのかというのが何かしら自信につながる。出てくる話題も学校とはまた違ってきます。
 学校では本当の自分を出せないが、塾では本当の自分になれるという話は相当数の生徒から聞きました。学校は休んでばかりだが、塾は大好きという生徒も知っています。そういう要素があるのですね。

 最後に家庭。家庭にいる時間は長いわけですから、自宅がイヤというのはよくないですね。ほっとできる場所でありたいものです。大人は子どもにそういう場所を提供してやる義務も権利も持っていると思いますよ。
 比喩で書きます。たとえばお子さんの髪に糸くずがついているとします。すぐに取り払おうとしないでください。また彼らが糸くずに気づかなくてもいらいらしない。しばらくじっと見ていてください。そして、いよいよ彼らが外出しそうになったら、最後に簡単に「糸がついているよ」と。うるさくなぜ糸くずがついたのか、今後はどうすればいいと思うか…などと問いつめない方がいいですね。
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2010.12.21 13:23

 今月、十数年前に教えていた二人の生徒から突然連絡をもらいました。一人はメール、もう一人は直接教室に電話がかかってきました。どちらも男の子です。こういう形で連絡をくださるのはやはり同性の方が多いような気がします(ニューヨーカーのEさん、きみは例外だな)。
 電話をくれた生徒と昨日会いました。私がときどきランチタイムに行くお好み焼き屋さん(ランチタイムはなぜか洋食になります)でビールを飲みながらもんじゃ焼きを食べました。

 久しぶりに会ったわけですが、りっぱな公務員になっていました。公務員だからりっぱということではなく、彼全体から社会人としてのりっぱさみたいなものが漂ってきていました。服装も所作も話の内容も飲み方まで、じつにしっかりしています。
 個人情報なので詳しくは書けませんが、彼の中学時代は必ずしもうまくいっていませんでした。それでも本当に輝くような30歳の男の人になっていました。おうちの方も(お母さまとはお話したことがあります)非常に喜んでいらっしゃるという話でした。

 いま、あまりうまくいっていない中学生の方もいらっしゃると思います。おうちがおもしろくない、学校になかなか行けない、悪い友だちに意地悪されている、勉強ができない…いろいろなケースがあると思いますが、いまつまずいているからといって、それが一生続くとは絶対に考えないでください。この先どうなるのだろうという不安はあると思いますが、あなた自身が人間として成長していくかぎり、必ず道は開けます。大切なのは環境ではなく、あなた自身が成長することです。

 私にも不安なときというのがないわけではありません。健康のこと、両親のこと、子どものこと、家庭や教室(会社)のこと、自分自身のこと。何も感じないほど大胆な人間ではありません。ただそういうのは心が弱っているときに出てくるものです。自分がしっかりしているときは、どんな問題が出てきても自分ならすべて対処できると思うものです。ですから、不安なときは問題をごちゃごちゃいじる以前に、自分自身をしっかりリセットするようにしています。
 Aくん、きのうはありがとう。また飲もうね。仕事は大変そうだが、健康に気をつけてくれ。
 
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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