2010.11.30 14:05

 先週、JR駅構内で地べたに正座しているおじいさんを目撃しました。おじいさんと言ってもまだ60歳ぐらいでしょう。身なりはとくにみすぼらしいことはありません。すぐまえに帽子(キャップ)を逆さに置き、要するにお金をくださいということで頭を下げています。
 私が小中学生のころはこういう人がたくさんいました。犬を連れている有名人(?)ーー自宅はきちんとした格好で出てどこかでぼろぼろの服に着替え、しばらく物乞いをしたあとまたきちんとした服で自宅に戻るーーの記事を読んだことがあります。

 先週目撃した人は物乞いにはまったく慣れていないように見えました。せっぱつまったので思い切ってやっている・・・という感じで、おどおどしている様子がよくわかりました。遠くからキャップのなかをのぞいてみると百円玉は一枚だけであとはすべて十円玉です。
 明るい通路ですからね。相当恥ずかしいですよ。本人だけではなく、お金をあげる人も恥ずかしいでしょう。通りすぎてから私は自分の財布のなかを見てみました。五百円玉が一枚ある。これをあげたらどうだろう? とちょっと考えました。

 相手はお金をほしがっているわけですからさっさと渡せばいいのでしょうが、何となく抵抗がある。それはなぜなのだろうと立ち止まって考えました。
 まずあまりにも安易に思いついたような感じでお金を乞う姿勢には若干違和感を覚えます。しかし責めるほどのことではないですね。つぎにお金を渡す自分に感心しない。私自身に対しても抵抗がありますし、大勢の人に見られるのも抵抗がある。何だか「偉そう」じゃないですか。

 しばらく迷ってから、しかしこういうのも縁だと考え、私は駅まで引き返しキャップに五百円玉を入れました。彼はちょっとびっくりしたようでしたが、頭を下げて大きな声でこう言いました。「あなたにも幸せがありますように!」
 この言葉は完全に予想外で、私はちょっとくらくらしました。胸を打たれたのですね。道を歩いているときや単純作業をしているときに、ふとこの言葉を思い出す瞬間があります。
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2010.11.28 12:00

 素直な子が伸びます。これは勉強だけではありません。あまりにもクセが強い子というのはなかなかうまくいかない。もちろんそのクセにぴったり合った世界があるでしょうから、上手に見つけていくといいですね。私の言うのはごく一般の勉強の世界で、どんどん伸びていく子は例外なく素直さを持っているという意味です。素直に先生のアドヴァイスに従う。三回書いておきなさいと言われたら三回書いておく。自宅でもう一度ていねいに音読しておきなさいと言われたら音読しておく。やらなくたってばれっこないやなどとは考えません。

 難しいのは、素直そうに見えてそうではないというケースです。素直そうに見えるのですぐできるようになるだろうと期待しているのになかなか伸びてこない。反抗的なところなんかまったくないのですよ。はたから見ているとそれこそ「よく頑張るなー」という感じがする。
 ところが、伸びない理由がある。だんだんわかってきます。素直に聞いているように見えて心のなかでべつのことを考えている。考えているどころかわめいています。大騒ぎです。

 えー、難しいよ。こんなのわかるわけがない。いやだなー。まだ四十分もある。昔から数学は大きらい。このまえだってテストの点が悪かったし。自分は劣等生。また怒られる。授業のあとで残されたらどうしよう。ときには、お腹空いたなーとか○○さんにメールしなくちゃとか次の試合に勝つために後輩をもっと鍛えてやろうなどと考えています。この状態は聞いていないというよりもう少し深刻な何かです。黙ってまえを向いて姿勢だけ正していても成績が上がるわけがありません。

 責めているのではないですよ。自分の状態に気づいていない人が多いので、あなたの心がささやいていることにもう少し敏感になり、授業中もうるさいようであれば自分自身の意志でお喋りを止めた方がいいのではないですか? という提案です。
 じつは私にもこういう要素があるのです。真面目な顔をしてほかのことを考えている。ただ私は自分のクセを知っていますから、大切な場面ではきちんと集中することができます。

 本当の素直さとは形ではなく、受容度の高さということなのでしょう。
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2010.11.27 11:53

 花を美しいと感じる。ある日、何がこんなに美しいのか研究してみようと思い立ちます。徹底的に部分に分けて分析しても、はじめに感じた美しさはどこにも見つからないでしょう。色素がどうであるとか形状がどうなっているとか水分が何パーセントであるとか、いろいろ数値にあらわしてみても、ではなぜ美しいのか? といった根本問題は説明できません。人体をいくら細かく解剖してみても、心だとか魂とかが出てこないのと似たような理屈だと思います。全体は部分の総量以上の何かを持っています。

 国語もそうですよ。長文全体には独特の何かがあります。魂みたいなものですね。美しいと感じるべきなのか面白いと感じるべきなのかーーいずれにせよ全体としての生命が宿っています。それを切り刻んで分析することだけを勉強だと考えてしまうと、こんなにつまらない作業はありません。美的な感受性に訴えかけてこないからです。すべての語句、すべての言い回し、すべての文法的成り立ちが理解できているのになぜか文章の熱気が伝わってこないということも十分ありえます。

 統合された全体として味わうことが大切ですね。統合された全体のなかには不思議な何かが宿っている。それに気づくのが勉強でしょうし、人生そのものでもあるのでしょう。
 人生が何か壁にぶつかっていてどうもしっくりこないとき、確かにひと通り分析してみる必要はありそうです。健康面はどうか。友だちとはうまくいっている? 学校(職場)はどうですか。趣味はどんな感じ? ただそれだけではいけません。

 もっとも大切なことは、あなた自身の「感じ」ですね。自己イメージみたいなものです。鏡のまえに立ってみてください。うまくいく人に見えますか? 輝いている? 「私だからうまくいく」と自分に呼びかけてください。あなたは統一体なので、部分部分に弱点があってもそれを十分補いうる何かを持っています。あなたが落ち着いていて自分に確信を持てるのであればどういう状態でも何とかなるものです。
 
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2010.11.26 13:49

 ハード・ロックに詳しい人にどのバンドが好きですか? と質問しても、ディープ・パープルと答えられることはめったにありません。これがレッド・ツェッペリンやブラック・サバスだとものすごくたくさんいる。少しひねってシン・リジィやUFOの名前を出す人もけっこういます。
 ディープ・パープルというのは家に例えると玄関みたいなところがあり、家のなかのどこが好きですか? と訊かれて「玄関です!」と即答するのはちょっと抵抗があるのかもしれません。私もリッチー・ブラックモアがいちばん好きだと口にしたことはありますが、ディープ・パープルが「いちばん」好きなバンドだと言ったことはありません。グランド・ファンクなんかもそうですね。

 同じようにわかりやすい音楽でもAC/DCやモーターヘッドあたりになると、好きな家の形みたいな話になってきます。「平屋が好きです!」と宣言しているような潔さがあり、それはそれでありだなという感じがします。一目置かれるでしょう。
 最近、日本でデビューしたオーストラリアのバンドのヴォーカリストが「いちばん好きなのはディープ・パープルだ」と堂々とインタビューで答えていたので、いったいどういう音楽をやっているのだろうと先日CDを買ってきました。

 それがこのELECTRIC MARYというバンドなのですが、いやー、びっくりしましたよ。ここまで70年代のハード・ロックの匂いがするバンドも珍しい。たとえばジ・アンサーであるとかファイヤーバードであるとか、それなりにあの時代の音楽を吸収昇華している優れたバンドはたくさんありますが、その「昇華」は(おそらく)あまりにも70年代丸出しでは若干恥ずかしいという気持ちがあるのでしょう。そこへいくとこのバンドにはそういう部分がまったくありません。真正面から呆れてしまうほどの直球勝負です。

 「ガソリン・アンド・ガンズ」という曲がものすごくかっこいい。youtubeで見ることができますが、間奏でツェッペリンの「イミグラント・ソング」を思わせる部分があります。ルックスがまたオヤジ揃い(デビュー時のサクソンみたい)で、この歳まであきらめずに頑張ってこういう音楽をやってきたのはすげー精神力だなと尊敬してしまいます。インタビューには、もともとレコーディングする気持ちはなかった、とにかくライヴをやりたかったと書かれていました。大々的に売れてやろうという欲もあまりないのでしょう。ここ数年の新人バンドのなかでは自分のベストかもしれません。
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2010.11.25 13:23

 受験生の皆さんはこの時期になってくると問題を解く機会が多いと思います。ときどき「最近、国語ができなくなってきました」という相談を受けます。「何かもう一冊問題集をやりたいのですが・・・」心意気はりっぱですが、仮に問題演習の量を増やしてもうまくいかないでしょう。そういうものです。長いこと指導しているので、私にはこの時期の不調の原因が明確にわかっています。

 ずばり愛の欠如ですね。長文に対しての愛情がない。解きすぎているのかもしれないですね。読むまえに何が書いてあるだろうという強い期待をちゃんと持っていますか? 読みながら「面白いなあ」とわくわくしていますか? 読み終わったあとでそのテーマについて自分なりの感想を抱いたり感慨にふけったりしていますか?
 問題文以外に何も文章がない孤島に一人ぼっちでいるぐらいの気持ちになってほしいと思います。それしか活字はないのです。愛情をこめて暗記してやろうぐらいの気持ちで全力で読む。読み終わるのが惜しいという気持ちで読む。

 こちらが愛情を感じなければ対象物からも愛は返ってきません。あんなに親しい二人だったのにいまはなんだかぎくしゃくしている。「あんなに親しい」ころは待ち合わせ場所で相手が来てくれるか心配ではらはらどきどきしていましたね。いまはどうでしょう? 五分遅れて来ただけで「なんで遅刻するんだよ」と怒ったりする。お子さんが赤ちゃんだったころ、小さな手にご自身の指を握らせて、この笑顔を見ているだけで明日からの活力が湧いてくると喜んだものです。それがいつのまにか「あの子がいちばんの頭痛の種だ」と公言するまでになっています。お子さんはお子さんで、お父さんが帰ってくると「パパ帰ってきた!」と玄関に飛び出して来ていたのが、いつのまにか「ちぇっ、もう帰ってきやんの」と顔をしかめるようになってしまいました。

 あなたが苦しんでいるのであれば、たったいまから自分の内側に愛情をわきたたせる以外に方法はありません。文章への、パートナーへの、お子さんやお父さんへの愛情を「何かしてもらってから」ではなく、まず心のなかに復活させないと。あなたが光源にならないと。そうすることによってあなた自身も幸せになれます。その生き方を通じていままでとは違った世界が見えてくるからです。
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2010.11.23 13:25

 両親が厳しかったという話は何度か書きました。中学受験のとき、不勉強だという理由でよく叱られました。いろいろなことを言われ、ときには体罰も受け(そういう時代でした)涙を流したこともありました。父親は「そんなに悔しいのならもっと勉強すればいいだろう」と言いました。成績が悪くて怒られる→涙を流す→悔しくて泣いている、という図式を勝手に描いているわけですね。私は反抗できませんでしたが、自分の涙の理由はそんなことではないとわかっていました。理解がないことへの絶望と反発心で泣いただけでした。

 親が子どもをほかの家のお子さんと比べるように、子どもも自分の親をほかの家の親と比べます。「うちのお父さんは男の子は勉強だけできたってだめだと言っていた」とか「成績が悪くてしょんぼりしていたらお父さんが今日一日好きなことをしろと言った」とか、どういう脈絡から出てきた話かわかりませんが、同級生のうらやましい話題もたくさん耳にします。ひるがえって自分の親は勉強しろ、もっと勉強しろばかり。ああ、○○くんの家に生まれてくればよかったなあと何度も思ったものです。涙を流すことでエネルギーを消費できなければ、私は暴れていたかもしれません。

 ときどき、保護者の方に「やる気がないなら塾も何もやめなさいと言ったら、泣きながら頑張るというのでやる気だけはあるみたいなんです」というお話をうかがうことがあります。ところが担当の先生に様子を聞いてみると、そういう生徒に限って「授業中も寝てしまうので何度も起こしますがやる気はあんまりないですよ」と言われたりします。本当はやりたくないのですね。あるいは言いたいことがほかにもたくさんあるのかもしれません。そもそも親に「やる気がないのか」と訊かれて「ない」と即答できる子はごくまれでしょう。

 涙を流すということは言葉で説明できないから別の手段で気持ちを表現しているということです。「悔しい」程度であればすぐに言葉に出せます。お子さんが叱られて涙を流されたようなときは一方的に解釈されない方がよいと思います。
 優しい子なのでしょう。無理解に対して徹底抗戦することができない。本当なら大暴れしたいところかもしれません。それだけ親を思いやっているのです。親というより人間全体に対しての何か愛情みたいなものがあるのですね。
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2010.11.22 13:59

 ときどきお金さえあれば優雅に生きられるのにというような嘆きを耳にすることがあります。なるほど。私はお金はあまり持っていませんが、非常に優雅な気持ちで生きているので、お金と優雅さとはあまり関係ないのではないかとも思います。
 エスカレーターや改札口、乗り物に乗ったり下りたりするとき、私は他の方に順番を譲ると決めています。せかせかと押しのけたりはしない。ときにはあきらかに横から割りこんでくる人もいますが、譲ると「決めている」ので腹はたちません。そういう自分に無力さどころか誇りを感じます。

 食事をするとき、しばらく眺めてから食べはじめます。しばらくと言ってもほんの数秒ですよ。注文するときはだれにでも食べたいものがあり、注文しているわけですね。ところが料理が運ばれてきた瞬間から手をつけてしまうために、はじめの「これ」が食べたかったという純粋な思いが薄れてしまいます。薄れたことにさえ気づかない。ほんの一秒か二秒じっと見つめるだけで、そうそうこれが食べたかったのだという喜びがこみ上げてきます。立ち食いそば屋さんだってできることですね。

 なぜそのスピードで歩くのか? という問題もあります。5分早く帰宅したところでその5分を何に使っているのか判然としないのであれば、たまにはゆっくり歩いてみたらいいのではないかと思います。夜風を頬に感じる。月が煌々と輝いています。やけに明るい星が見えますが、あれはまえからありましたか? 外国の方が電話ボックスで話している。そう言えば最近ボックス内に日本人を見かけなくなりました。携帯電話を使用しているのですね。気づくことがたくさんあります。気づくことがたくさんあれば、より濃く生きることになるでしょう。

 テレビを見ながら食事をする。あるいはマンガを読みながらお菓子を食べる。テレビも食事もマンガもお菓子もぜんぶ好きなのであれば、それぞれの行為を単独にしたらそれだけ幸せな時間が増えて楽しいとも思います。
 私は乗り物はがらがらでないかぎり座りません。あ、あそこが空いたと大慌てすることもない。外をながめていることが多いですね。雨の日は雨の日で独特の情趣があります。お金はかかりませんが、日々大変優雅です。
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2010.11.21 11:42

 ダイエットに例えます。ある人がダイエットを決意する。ともかく少しでも減らそうと強く強く決意します。カレンダーに赤く大きく印をつけておきましょう。この日から私は徹底的にダイエットに生きるのだという覚悟の印ですね。具体的な方法は何でもいいでしょう。その精神エネルギーで二週間ぐらいすると必ず体重が落ちているはずです。ただし続くかどうか、目標値を達成できたところでリバウンドしないかどうかは別問題です。とにかく真剣にやれば予想より早く必ず体重は落ちます。

 同じような理屈で今日から本気で勉強しようと覚悟を決めカレンダーに赤く大きな印をつけます。どういう形であれこれまでよりは繊細に丁寧に勉強をすれば、とりあえず瞬間的に必ず模擬テストなどの偏差値は上がります。「以前よりやっているのだから」という自負心は非常に大きいものです。昔の自分とは違うというプライドでうんと粘れるようになりますし、細かいミスにも気づけるようになります。そんなのテストの当日だけ注意すればいいじゃないかと考える人もいるでしょうが、自分は変わったのだという意識が芽生えないと同じようなつまらないミスを延々と続けてしまうものなのです。

 偏差値が上がると言ってもせいぜい3~5というところですね。10も20も上がるものではありません。10上げたいのであればやはり長期間に渡ってきちんと勉強を続けるしかありません。それはあたりまえですね。
 私立高校に模擬テストを持っていって相談すると「偏差値があと3上がったらまた相談に来てください」と言われることがありますね。そういうときはこの方法で気合いを入れて二週間勉強し、もう一度模擬テストを受けてみてください。たった二週間で? 大丈夫。精神エネルギーの大きさにびっくりすると思いますよ。

 じつは私もこの「瞬発力を使う方法」を勉強や仕事(やダイエット)ではなく、趣味の世界で応用するときがあります。人間は精神の動物なのだなとつくづく感じます。
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2010.11.20 13:13

 昨晩、ブログ村の高校受験(塾・指導)部門で1位になっていました。どうもありがとうございます。一年五ヶ月ただひたすら記事を書き続けていたらこうなったわけで、みなさまには本当に感謝しています。いわゆるランキングの類で1位をとれるとは思っていませんでしたから、非常に喜ばしく思いました。西荻窪から微笑みながら帰りましたよ。

 最近は、思いもかけない方が読んでくださっているのでびっくりしてしまうことがよくあります。今日は妹の知り合いの方からコメントが届いていました。妹と私は普通の兄弟姉妹よりは仲がいいと思っていますが、こういう形で人と人がつながるのは不思議な感じです。つながりやすい世の中になってきたということなのでしょう。

 ブログ村ではいろいろな方のブログを読む機会がありますが、私の知らないこともたくさん書かれていてとても参考になります。それぞれの方がご自身のブログを面白くするためにあれこれ工夫されている様子もよくわかります。面白いなと感じたことはどんどん真似したいのですが、独自性を失わないように気をつけようと思うこともあります。
 初期のころと大きく変えたことと言えば、漢字の使い方でしょうか。たとえば以前は「出来る」と書いていましたが、いまは「できる」です。そうやって少しずつ漢字をひらがなに置き換えてきました。その方が読みやすいからですね。漢字がたくさん混じってくると読みにくいと思うのです。

 ときどき「本にするのですか?」と訊いてくださる方がいらっしゃいますが、現在のところその予定はありません。私はあまり計画をたてない人間なので、そうなればそうなったでうれしいし、ならなければならないで同じように淡々と記事を書き続けていくつもりです。要するに生き続けるということですね。

 恋愛についてもっと書いてくださいとか、酒場の話をたくさん読みたいとか、ときにはもっととんでもない話題(文字にできない)を提案してくださる卒業生などもいるのですが、いくら何でもそんなことまで教育ブログに書けないよー。個人的にお話するので勘弁してください。

 

 
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2010.11.19 13:40

 丸十年、同じ賃貸マンションに住んでいます。マンションのすぐ隣に駐車場があり、そこに巨木が生えています。大人二三人でやっと抱きかかえられるぐらいの幹と表現すればよいのでしょうか。当然高さも二階建て住居の屋根よりずっと上まであります。
 何という種類の木なのかよくわからないのですが、枝葉は高い位置にしか茂っていません。樹齢何年ぐらいなのでしょう。中央に裂けたような痕跡があり、ちらりと見ると二つの木が合体しているようにも見えます。遠い昔落雷があったのではないかと思います。

 住んでいるところのすぐ隣ですから、毎日毎日見てきました。カラスが巣を作っていた時期もあり、そのときは巣を除去するために大きく枝葉を伐られてしまいました。先日も伐採工事をしますという看板が出ていたので、またカラスが巣をかけたのかなと思っていました。ところがおととい、忽然と巨木そのものが姿を消してしまいました。唖然としましたよ。帰ってきたらいつもの木がない。
 いろいろ事情があるのだとは思いますが、私個人のなかには何か痛ましい感覚が残りました。漫然とした憂鬱さとでもいうのでしょうか。

 昨晩遅くふと思いついて私は水を買い、駐車場に入りました。根だけでも残っていないかなと期待したのですが、完全な更地になっていて正確にどこに木が生えていたのかわからないほどでした。私はあたり一面に水をまきました。それがどういう意味を持つのか自分でもよくわからないのですが、そうせずにはいられない感覚がありました。
 さらにこのことはブログにも書いておこうと思いました。とくに若い方に伝えたい。自分があまりにも無力であると絶望的になることは世の中にたくさんあります。ただこうして表現することだけは可能です。

 一人で静かに水をまいた夜のことを私は忘れないでしょう。同時にこういう人間でよかったという気持ちもどこかにあります。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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