2010.07.19 01:00

 家内が新しいパソコンを買ったので、自宅で書いています。私は相変わらず自分のパソコンは持っていません。たぶんこのまま買わないと思います。そういえばテレビも来年でしたかアナログからデジタルに変わるそうですね。じつはそのときにテレビも人生から捨てようと考えています。こういうのは趣味の問題で、深い意味があるわけではありません。私ぐらいの年齢になってくると、何となくシンプルに生きたい欲求が出てくるのです。

 明日はーー正確に言うと今日ですねーー三島にあるZ会の本社ビルで中学生や保護者の方を対象にした講演会をやる予定になっています。東京から三島までは新幹線で一時間ぐらいなので、とりあえず朝池袋教室に顔を出してから移動することにしました。本社ビルは新しくてとてもきれいだという噂をしょっちゅう聞くのですが、じつは私はまだ一度も足を踏み入れたことがありません。ちょっと緊張しますね。

 生徒から試験のときあがってしまうのですが・・・という相談を受けることがあります。どういう場所でもすぐに緊張してしまうと彼らは嘆くのですが、私はべつにいいじゃないかと答えます。私がそうであるように、どこでもすぐに緊張してしまう人間として生きていけばいいのです。それはそれで非常に面白い経験がたくさんできます。そのあたりはいい意味で開き直ってしまうことですね。
 
 中学時代、私は友だちと映画館で待ち合わせたものの中に入れなくて帰ってきてしまったことがありました。大人ばかりだったので何となく気おくれして入場券を買えなかったのですね。館内のロビーで待ち合わせたものですから、先に来た友人はすでに中にいました。現在みたいに携帯電話で連絡をとることもできず、結局私は入るのを断念して帰ってきてしまいました。友だちは怒りましたよ。「どうして来なかったんだ?」と。映画館の建物が見つからなかったんだと私は嘘をつきました。

 それでいいのです。ただ明日はーーいくら何でも駅の目の前に建っている大きな本社がわかりませんでしたとは言えないですからね。どきどきしますが、覚悟を決めてとにかく一時間お話してきます。
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2010.07.18 11:40

 講演会やブログや保護者面談などを通して難しいご相談を受けるときもあります。その場ですぐにどうこうできないお話もたくさん出てきます。
 ただ、基本はこういうことですね。「よりよく生きる」これは大人でも子どもでも同じことで、昨日よりは今日、今日よりは明日と「よりよく生きる」しかありません。よりよく生きる方向に自分自身を向けていかないといけません。活力が湧き、明るくなる方向に進んでいく努力をするということですね。

 生徒にもよく話すのですが、人間の数だけ道はあるわけなので(必ずしも他の人の通った道を自分の道にする必要はありませんし、そうしたければそれも自由です)、他者の大きな迷惑にならないかぎり自分のことは自分で決めることができます。
 たとえば学校に通う通わないも、究極的には自分の好きで決めることができます。ご自身の気持ちが明るくなる方向で(単純に楽になる方向と書かなかったことには注目してください)考えてみてください。

 以前、池袋教室にも公立中学に行けなくなってしまった方がいらっしゃいました。ただ勉強だけは大好きで、それなりの実力を持っていました。学校には行っていなくても困らないように自分でこつこつ勉強していたのですね。入会テストは合格点をとりました。私はおうちの方やご本人と面談して十分にやっていけると判断したので教室に通ってもらいました。勉強そのものは好きなので、学校には行けなくてもここの授業は(おそらく)一度も休まなかったのではないかと思います。内申はもらえませんでしたが、テストの点数のみでそれなりにいい都立高校に合格しました。
 日々、明るく頑張っていましたよ。そういう道もあるということです。

 落ち着いて自分の生活を見直してみましょう。あなたの混乱はどこから来ているのか。つまずいてしまったとしてもそれは「将来のために他に見ておくべきことがありますよ」というありがたいアドヴァイスにすぎないと考えてください。今日はどれぐらい笑いましたか? 笑えること、好きなこと、楽しいことも毎日必ず実践しましょう。光源の方に向かう努力だけは続けてほしいと思います。
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2010.07.17 14:22

 形だけ日記をつけています。たいしたことは書いていないのですが、昨年の今日のところにブログの読者数が三千人を超えたと書いてありました。現在は十二万七千人近くになるわけで、インターネットというのはすごいものだなあとつくづく感心します。
 ときどき講演会や説明会のあとで「ブログを読んでいますよ」と声をかけられることがあり恐縮します。何となく恥ずかしいのですね。

 この恥ずかしいという感情は不思議な感情で、私にとってとても恥ずかしいことでも他の方にとっては全然恥ずかしくないことがたくさんあります。たとえば私はお昼ご飯を毎日同じ店で食べるのを恥ずかしく感じる人間ですが、他の方からそれのどこが恥ずかしいの? とよく質問されます。
 説明するのは難しいですね。恥ずかしいから恥ずかしいとしか言いようがないのですが、あえて説明をつけるとすると「ここにしか来る場所がない人間なのだ」と思われるのが恥ずかしいとでも言えばいいのでしょうか。

 子どものころもそういうことがよくありました。せっかく友だちができても毎日その子とばかり遊ぶのは他に友だちがいないみたいで恥ずかしい。で、わざとその子と話さない。そのうち相手が誤解して仲が悪くなってしまい、これも人生だとあきらめたものです。
 先生から「好きな者同士で班を組め」などと言われると困りましたよ。私にはそういう友だちがいなかったからです。好きな者同士と認めない友情だったので、私は変に余りました。敵もまたいませんでしたから、どこかの班が「じゃあうちに入りなよ」とすぐに入れてくれるのですが、自分は他者からは絶対に理解されないだろうと絶望したものです。

 こういう私の話を読んで、おかしな人だなあと笑いとばせる方は健全でよかったと思います。心配なのは「わかるわかる、こういうことってよくあるなあ」と感じてくださる方。ひょっとしたらけっこういらっしゃるのではないですか? ただ、こうした繊細な感情は何か世の中の役にたてるものではないかと感じることもよくあります。ですからいまでは克服しようという意志さえなくなりました。恥ずかしがりながらこのまま生きていくことにします。
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2010.07.16 13:55

 私が帰宅すると息子は必ず顔を出して「おかえりー」とか「おかえりなさい」とか言います。友だちとオンラインでゲームをやっているときでも中断して出てきます。高校二年生の男の子ですから、こういうのは珍しい現象ではないかとも思います。
 理由ははっきりしていて、幼いころから私自身がそういう風に彼を育てたからです。彼が幼稚園や小学校から帰ってくると(自宅にいるときは)必ず顔を出して「おかえりー」と言いました。そこには大人なりの考えもあって、万が一トラブルを抱えていれば表情に出るであろうから確認しておこうという気持ちがありました。

 私の父親は昔かたぎの人間で威厳を尊びましたから、私が学校から帰ったぐらいでひょこひょこ飛び出してくることはありませんでした。その種の軽々しい行為をむしろ恥ずべきことぐらいに考えていたのかもしれません。その考え方も一理あるのですが、私はあえて自分の家庭では逆にしてみました。子どもが帰ってくると父親がそれこそペットの犬のようにうれしそうに飛び出してくるわけです。

 このやり方が正しいと言うつもりはないのですが、私と息子との関係は非常に良好なものになりました。お互いのあいだに醸成された温かみは確実に実感できますし、その愛情が連鎖反応を起こしてまた全然関係のない人に対してもやさしく接することができます。不思議な感覚ですが、可愛がられて育ったペットが人懐っこいのと同じようなものかもしれません。家庭内だけの問題ではなくなってくるのです。

 尊敬という感情は偉そうにしていれば相手が抱いてくれるというものではありません。むしろ反発されることも多いのではないでしょうか。
 息子はこういう形が当然だと思っているでしょうから、自分の子どもにも同じように接すると思います。そして彼が自分の子どもから軽く見られてしまうのだとしたら、それは「おかえりー」とあいさつするからではなく、他に原因があるはずです。何かの縁で親子になったわけですから、仲がいいというのはいいことだと思っています。
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2010.07.14 13:30

 いわゆる食通の方というのがいます。私はそういう類の本や雑誌をよく読むのですが、どういうわけか食べ物についてのお話を人と直接するのは苦手みたいなところがあります。気恥ずかしいというか・・・これは私個人の問題であって相手の方には何も問題はないのですが、あれがまずいとかこれがうまいとか、そういうことを話し続けるのは自分には似合わないという気持ちがどこかにあるのです。ロックや将棋の話ならずーっとしていられるのですが。

 二十代のころ、JR中央線の小さな駅(快速が止まらない駅)の近くの塾に勤めていた時期がありました。仕事のあとで先輩講師の方たちと近くの居酒屋によく行きました。「東京中探してもここみたいにおいしい居酒屋はないよ」と言われたのですが、まだ若かったので物の味もよくわからず、こんな小さな駅の近辺にそんな店があるわけがないぐらいに思っていました。皆さんは本当においしいおいしいと言って食べるのですが、偉い先輩がそう言っているから合わせているだけだろう程度に考えていたのです。

 お店は(移転しましたが)いまもその駅の近くで営業しています。今年になって近くを通ったついでに軽い気持ちで入ってみたのですが、これが確かに何でも本当においしいということにいまさらながら気がつき驚きました。私も五十代ですから、あちらこちら(高価なものは食べていなくても)いわゆる雑誌に掲載されているような飲み屋さんに足を運ぶ機会もあったわけですが、ご夫婦で経営なさっているそこのお店は、金額から考えると信じられないぐらいおいしいものばかり出てきます。若いときは価値がわからなかったのだなとつくづく思います。

 ご主人はものすごく腕のいい職人さんなのですが、たぶん欲がないのでしょう。あるいは、マスコミにちやほやされるような生き方はごめんだという気持ちがあるのかもしれません。ですから、お店には昔の私のように料理が特別すぐれていることに気づいていないお客さんもたくさん来ています。もったいないと思いますが、それでいいのでしょう。
 これからはときどき通うつもりです。ずーっと行っていなくて損をしましたよ。物の価値というのは難しいものです。
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2010.07.13 13:40

 見てきましたよ、プレデターズ。これまでもプレデター関係の映画はすべて見ていますが(プレデター2にいたっては劇場だけで四回ぐらい見ています)、第一作に戻った感じでした。
 いつでしたか「ウルフマン」を封切り当日に見に行ったら全然人がいなかったと書きましたが、昨日は午前中の回でも百人以上集っていました。それなりに人気があるのですね。

 九割以上が男性客。男の人の方がやっぱり幼稚なのかもしれないですね。これからご覧になる方がいらっしゃるといけないので内容については書かないでおきますが、日本人のヤクザ役で出ていた俳優がものすごくいい感じでした。この方は実際は韓国の役者さんらしいのですが、静かで凛としていていかにも由緒正しい正統派の(?)ヤクザ者という雰囲気を醸しだしていました。

 私はよく思うのですが、やはり東洋人と西洋人は違います。どちらが上でどちらが下ということではありませんよ。個性の違いですね。ですから、東洋人はやみくもに西洋人の真似をせず、東洋人らしくしているのが似合うのではないかと考えるのです。
 よく先進国首脳会議のような舞台で、日本人の首相がどのあたりに位置取りしていたかということを問題視される方がいます。中央で、たとえばアメリカ合衆国の大統領と堂々と握手していたりすると「今度の首相はなかなか絵になる」と褒めたりするわけですね。

 もちろんそういう見方があっていいとも思いますが、私ならあえてみんなから離れて静かにしている首相であったらもっとカッコイイと感じると思います。握手なんかもどちらかというと恥ずかしそうにする。で、礼儀正しく会釈するような日本人が国の代表であったら、かえって(あの人はどういう人だろう)と注目されるのではないでしょうか。
 昨日の映画でもいちばん静かでいちばん抑制した演技をしていたそのヤクザから大きな悲しみみたいなものが伝わってきました。もっともプレデターズを見ながらそんなことばかり考えているのは、ちょっとおかしいかもしれないですね。
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2010.07.11 10:55

 人間は基本的によくわかっている物事を好きになります。未知のものをルールも何もわからないまま突然大好きだということはほとんどないのではないかと思います。ところが対人関係だけはそうではありません。いわゆるひと目惚れというやつですね。素姓も知らなければ声も聞いたことがない相手に、ある日熱烈な恋をしたりします。これはどうしたことでしょうか。

 自分の中の何かが相手に投影されるのですね。それが鏡のような作用で自身に返ってくる。その過程でいろいろ心理的な葛藤やら何やらが起きる。そしてますます「相手を」好きになります。
 相手のことを何も知らないのに「守ってあげられるのは自分しかいない」とか「この人ならわかってくれるはずだ」とか「自分たちは宿命的な出会いなのだ」とか、とんでもない確信を抱くケースもありますね。すべて自己表現の一種みたいなところがあり、そうやって自身を表現できる舞台を相手の中に勝手に作ってしまうのでしょう。その舞台では自分が間違いなく主人公になれる・・・というわけです。

 もう三十年も昔の話ですが、私にもそういうことがありました。相手の方のことはじつはほとんど何も知りませんでした。それなのにわかりあえる気がして非常に惹かれました。幸か不幸か相手にされなかったので面倒なことにはなりませんでしたが、彼女を好きになった日々のことを考えると自分の中の負の部分をそういう形でプラスに転換したかったのだということがいまはよくわかります。
 じつはこの話には後日談があります。ある下町の非常に大衆的な居酒屋で、昨年私は彼女ではないかという女性と遭遇しました。あちらは男性と一緒でした。

 三十年たっているので、絶対に彼女かどうかはわかりません。相手の方はたぶん私に気づかなかったと思います。こちらも変わりましたからね。非常に幸せそうでしたので、いいものを見たと思いました。
 三十年前の私は別の形で自己を表現したいと思っていました。しかし、いろいろなことがありこういう人間になりました。この道で間違いがなかったという気持ちを現在の私は持っています。この道でなければより多くの方の支持を得られていたかもしれませんが、支持をいただく人数の多寡は私にはあまり興味がありません。これでよかった。そういうことです。
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2010.07.10 12:25

 自負心と言うよりプライドと言った方がわかりやすいかもしれませんね。そういう話です。
 以前、将棋が趣味だという話を書いたことがあります。インターネットで対局しているのですが、昨年のいまごろは絶好調で(アマチュアの)三段に近い位置にいました。一局ごとに点数が上下するような仕組みになっていて、自分の得点は常に把握することができます。2000点を超えた位置にいました。

 当時は若干余裕があり、毎日将棋の研究をしていました。毎日・・・と言ってもせいぜい十五分ぐらいですか。休みの日は三十分以上やっていたかもしれません。棋譜を並べたり定跡の本を読んだりしていました。そんなに真剣にやっているわけではないですよ。ただ毎日というのは確かでーー途切れてしまうとよくない気がしたのでーー何らかのことをやっていました。

 現在、得点は1600点台しかありません。単純計算すると去年の位置から三十連敗ぐらいした棋力ということになります。
 棋力そのものはそんなに短期間で落ちるものではありません。ところが勝てなくなりました。理由は私にはよくわかっていて、じつは私は現在将棋の勉強というものをまったくしていないのです。それにはいろいろ理由がありますが、ともかくやっていないという事実は残ります。

 ひけ目みたいなものがあるのですね。たとえば局面が難しくなったとき、去年なら「自分は毎日きちんと研究しているのだから」という自負心を感じることができたのですが、いまは「そうだよな、全然やっていないもんな」とすぐにあきらめてしまう。その違いは自分にしかわからないのですが、非常に大きいですね。
 やっていない自分、サボっている自分をほかの人にはごまかせるかもしれませんが、自分自身にはごまかせないということなのでしょう。

 今年の自分は精神的に(?)ちょっと忙しい感じがあり、将棋の勉強をする気分になれないのですが、こういう記事を書いたからには今後「毎日」十五分でも勉強しようと考えています。復活するまでに何ヶ月かかかるでしょうが、またご報告できるときがあると思います。将棋がどうこうというより、こういう人間の心理が自分には面白いのです。
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2010.07.09 18:15

 夏休み、あれもしようこれもしようと計画をたてていますね? 長い休みですから毎年いろいろなことができそうな気もするのですが、実際はあっという間に終わってしまいます。
 この夏は一つのことーー勉強とか特定の習い事とかーーに重きを置こうと考えている人もいるでしょう。そういう人たちに言いたいのですが「何をプラスしたらいいか」と悩む以前に「何をしないでいられるだろう」と、そぎおとすことから考えてみてください。それはたとえばより健康に生きるために、食べるより食べない方がいいケースがあるのとよく似ています。
 
 現代人は混乱しています。やるべきことやりたいことがありすぎて、何が何だかわからなくなっている人もとても多いと思います。
 やらないですみそうなものをちょっと考えてみてください。全部やめなさいというわけではないので、正直に数えましょう。テレビ(ただつけているだけということがありますね)、ゲーム(疲れ果てているのに習慣でやってしまいます)、メール(なかなか打ち切ることができません)、インターネット(長い時間見ていませんか)、電話(退屈なのでわざわざ用事を作ってさっきまで話していた友だちにかけたりします)、部活(とっくに情熱を失っているのに惰性で続けている人もいるようです)・・・

 それらの時間をそれぞれ半減させただけで、とてつもなく空白の時間が出てきます。一時間どころではないですね。夏にうんと力を入れたいものがあるのであれば、その時間を好きに使うことができるでしょう。
 場合によっては勉強のなかにさえやらなくてすむことが入っていませんか。英語は得意なのですから少し時間を削っても大丈夫でしょう。個人的にやっている国語の問題集は奇数の問いだけやれば十分だと思いますよ。

 混乱している事実に気づくところからスタートしましょう。いつもついている時間帯のテレビを消してみるだけで、こんなに自由だったのかと驚くはずです。
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2010.07.08 13:20

 ときどき得体の知れない劣等感を抱いてしまう人がいます。これは勉強に限った話ではありません。自分にはこれといってとりえもないし、人に誇れるものもない、何だかすっかり自信をなくして・・・という感じでしょうか。話を聞いていていろいろ感想を持ちますが、相手にどうしたらよいでしょうかと質問されないかぎり何も言いません。基本的に意見を求められていない場面で、私はお説教みたいなことを言いたくないのです。ですから、相手がただ嘆きたい(人間、そういう日もありますね)場合は、ふんふん聞いているだけです。

 ある分野において非凡な人というのは確かにいます。程度の問題はありますが、よくあれだけのことができるなという人。勉強、スポーツ全般、将棋や囲碁や麻雀やゲーム類、楽器演奏の腕前、演説の上手さ、手品やけん玉などの特殊技能、やたらと異性にもてる人・・・その他いろいろ「すごい人」というのがいます。
 この人たちは赤ちゃんのときからそうだったのですか? そんなことはないでしょう。自分の興味の対象に向かってひたすら努力を積み上げてきただけのことです。

 はじめから自分の才能に確信を抱いていたというケースはほとんどないはずです。結局は凡庸であるかもしれない自身に恐れを抱きながらも平凡な努力を重ねてきて、ある時点で量的な積み重ねが質的な変化を起こし、ついに非凡の域にまで到達したのです。
 やりたいことがあるのであれば、他者と自分を比べずに(そもそも出発点が違うのですから意味がないと思いますよ)、自分自身の努力と変化に集中してください。

 夢を持つのはいいことですが、叶えるのは自分であるということを忘れてはいけません。今日のあなたがその夢に対して努力していなければ夢は永遠に叶いません。夢が叶ったときの自分とこの瞬間の自分は同じ人間なのですから、とにかく平凡な努力を積み重ねてください。何をすればいいのかわからない? うまくいっている人の生活を調べてご覧なさい。正直に「あなたのようになりたいから」とお願いすれば、努力の仕方を教えてくれるはずです。努力量の多さにあなたはたじろぐかもしれません。と同時に、やっぱりだれでもこれぐらいやらないと一流にはなれないんだなと納得もするはずです。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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