2010.07.31 10:58

 ものすごく暑いみたいですね。今朝、荻窪駅のホームの先端を蟻がたくさん歩いていました。とくに目的がある風でもなく、あっちをうろうろこっちをうろうろという感じでした。彼らにしてみれば生命力のみなぎるいい季節になったという感覚があるのかもしれません。
 暑いとか寒いとか、観念だけにとらわれて「夏は暑くていやだ」「冬は寒くていやだ」と言う人がいますが、ちょっともったいない気がします。「夏と冬とどちらが好き?」という古典的な質問に対して私は「どちらも大変好きです」と答えるようにしています。大前提として、生きている一日の価値は等質であり、季節だとか温度とかで判断しないという気持ちがあるのです。

 昔、品川区に友人がいました。十代のころですよ。当時は「友情」という概念に対して勝手な幻想を抱いていたかもしれません。その友人と三十八年前の今日、五反田駅近くのヴィクトリアというケーキ屋さんの二階でコーヒーを飲みながら長い時間話していました。その晩のことを私は鮮明に覚えています。
 途中、有線放送でディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」がかかりました。「マシン・ヘッド」というアルバムが発表された直後だったのですね。友人は「これはユーライア・ヒープか?」と訊いてきました。「いや、ディープ・パープルだ」と私は答えました。

 私たちは自分たちの周囲の人間を次から次へと批判していきました。高校二年生ーーそういう年ごろだったのですね。あの先生もだめ、この級友もだめ、あの女の子もだめ・・・という感じでした。「本当にばかばかりだな」理由なんかありません。あっちこっちと切りまくることで、相対的に自分の地位が上がっていくような錯覚が心地よかったのでしょう。
 あの夏が幸せであったということは、ずっとあとになってわかったことです。そのときはあたりまえすぎて幸せとは感じませんでした。いつもの友だちといつもの場所でいつもの話。で、いつものディープ・パープルです。

 仮にあの世というものがあり、生きていたときはどんな印象だったかと訊かれたとします。私は「すべてに気づけなかったことだけは残念だが、気づいた範囲においては何もかも非常に美しかった」と答えると思います。間違いなくそういう世の中に生きている。あとはどれだけ気づけるかだけだという気持ちがあるのです。
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2010.07.30 11:10

 何を書いたらいいのか全然思い浮かばないので、すごくくだらない話を書きます。しかし、こういう話の方が面白いのではないかとも思います。
 私は自意識過剰の面があり、たとえば高校時代、学校の売店でパンを買うことができませんでした。理由は二つあります。まずパンの名称が恥ずかしい。横文字でばかみたいな名前がついています。それを発音するのが恥ずかしい。「チョコチョコキングください」なんて死んでも言えるか、バカヤロー! という気持ちがありました。

 次に列に並べない。売店の前というのは並んでいるように見えて案外いい加減です。脇からどんどん人が横入りしてくる。私はそういう人間のあさましさみたいなものに絶望していたので、入りたいやつは全員入ればいいと思っていました。するとただ立っているだけで邪魔なので下級生にまで突き飛ばされたりします。ついにはあとで売店のおばさんに「これ」と指さして買おうと考えていたチョコチョコキングが売り切れちゃったじゃねーか、バカヤロー! ということになりました。
 大学に入ってからもこういう性向は変わらず、自分は学食に入れませんでした。学食に行くとみんなが食事をしている。けっこう楽しそうに集団で食べている。私のようにつねに一人で行動する人間にはその楽しそうなところが許せない。相対的に不幸を感じるからです。

 仕方がないので、山手線に乗ってはるか遠くの立ち食いのカレー屋さん(そこは一人でよく行っていました)に行ったりする。行き帰りで二時間ぐらいかかります。戻ってみると午後の授業はもう半分以上終わっている。なんだ、全然間に合わねーじゃねーか、バカヤロー! となります。
 そこであれこれ工夫して、大学の近くでなるべく人のいない店を開拓しようということになりました。でたらめに歩いているうちに場末のスナックみたいな店が昼にピラフだとかカレーだとかを出しているのを発見しました。入ってみると見事に誰もいません。

 これはいいやと食べてみたのですが、そのうちマスターらしき人が気を遣って週刊誌をたくさん持ってきてくれます。どれもこれも女性週刊誌だったりして、こんなもん読んでもどうしようもないと思いながらもマスターに悪いので皇室記事なんかを丁寧に見ているうちに時間がどんどん経過し、やっぱり授業に間に合わねーじゃねーか、バカヤロー! ということになりました。
 この種の話はじつは私にはたくさんあります。本質的にはいまでも毎日こうです。生きにくい世の中だと思いますよ。
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2010.07.29 10:55

 あまり勉強をしてこなかったと胸を張って(?)言える人は現在の成績がよくなくても当然と言えば当然なのですから、これから勉強をはじめてください。やればやるほどわかるようになってきますから、あとはサボらないことですね。心配ありません。
 むしろ、けっこうやっているつもりなんだけど・・・という人の方が心配です。努力しているのに思うように点数が伸びないというケースですね。

 私はていねいさが鍵だと思っています。ひょっとするとやることが多すぎて、雑なのではないですか? 二時間三時間四時間と机に向かっても残念ながら雑にやっていては効果はあがりません。これは大切なことです。
 東大生のノートが見やすくて云々という本が話題になっていました。ああいうのはいまはじまったことではないのです。昔から成績のいい人のノートは非常にきれいです。きれいに見やすくまとまっています。なぜですか? ていねいだからですよ。

 あなたもきれいな字を書くことがありますね? 好きな人に自筆の手紙を書くのであれば、殴り書きはしないでしょう。きれいに書こう、心をこめて書こうと考えれば書けることは書ける。逆に乱雑に書くときもあります。勉強のときに乱雑に書いてしまった瞬間にこれは「心がこもっていないのだ」ということにすぐに気づいてください。気づければ軌道修正できます。
 ノートの美しさだけではありません。英語の音読を雑にする、計算の途中式を適当に書く、長文を大急ぎで読み飛ばす、漢字や英単語練習の文字が著しく汚い・・・すべてていねいではありませんね。そういう勉強を続けていても(何しろ心はこもっていないのですから)点数に実ってこないのです。

 その場その場にふさわしいスピードというのは確かにあるでしょう。先生の板書が速ければノートの文字も乱雑になると思います。あきらめないで、自宅に帰ってから汚いところはきれいに直しましょう。そうしないと気持ちが悪いぐらいまで意識が高まるといいですね。
 この夏はていねいな勉強を心がけてみてください。難しい話ではありません。いまからはじめればいいのです。雑になっていないか常に自問して。まあ騙されたと思ってやってみてください。
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2010.07.28 09:45

 ブログの管理はすべて会社の方がやってくださっているので、私は記事を書くだけなのですが、左下に検索ワードランキングというのが掲載されていますね。詳しいことはわからないのですが、要するにこの言葉で検索してここにたどりついたということなのだろうと理解しています。
 長野先生とか長野正毅とかという「ワード」が出ています。私の名前で検索してくださったのはどなたなのでしょう。不思議な世の中になりましたね。

 私もふざけ半分に昔の友人知人の名前で検索をかけてみることがあります。たまに出てきますね。だいたいはいい方向で出てきます。いい方向というのはーー簡単に言うとーー偉くなってということですね。ああ、彼(彼女)もこんなに偉くなったのか・・・ともう何十年も話していないのですが、こちらまで誇らしい気分になります。
 一度だけ昔の知り合いが犯罪関係で出てきてびっくりしたことがありました。うーむ・・・何十年もたっているわけなので、そのあいだにいろいろあったのでしょうね。

 懐かしく感じても連絡しようという気持ちにはなりません。あちらがそれを望んでいない可能性があるからです。人間は変化しますからね。昔と同じだと思われては面倒だという方もいらっしゃるでしょう。ですから、こちらから連絡することはまずありません。
 私もまた過去の自分を全面的には肯定できない気持ちがあり、いまはあの当時とは違うという自負があります。もちろんいい方向にですよ。一緒にいたずら電話をかけたりした旧友から「おまえ、本当に悪かったよなあ」などと言われても、当時はそれでいいと思っていたとしか答えようがありません。

 ただ、私は古い友人知人に対してねたみだとか嫉妬だとかは感じません。彼(彼女)がどんな立場であっても彼らの幸福を素直に願えるだけの度量は身についたという気はしています。どんなに華やかに見えていても、人間はみんな大変なのだということを私は知っています。それから仮に自分が他者から惨めに見えることがあったとしても、私は自分が幸福だということをまた知っています。
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2010.07.26 11:15

 昨日、十三万人目の方が入ってくださいました。どうもありがとうございます。
 
 ふだん私はアルコール類を好むのですが、週に一度か二度、意識的に飲まない日があります。身体のためにそうしているわけではなく(身体は大丈夫なのです)、酔った日と酔わない日の意識の落差が面白いので、ある意味で観察のために抜いています。
 酔っていない日の私は寝ていても周囲のことがよくわかっています。昨晩、ある年下の信頼できる友人から夜中の三時すぎにメールが来ました。あ、残念ながら同性ですよ。引き出しの中の携帯電話のかすかな振動音だけで私は着信に気づき、すぐに返事を書きました。

 相手の方は驚いたらしく、こんな夜中にすみませんとさらに返事をくださったのですが、私は「起きてしまった」のではなくて、睡眠中も常に「起きている」のです。変なことを書きますが、正直な感想を述べればそういうことになります。こういう状態を不眠症と定義するかもっと高いところにいるものだと定義するかは大きな違いです。
 そこには何かあるのだと思います。以前、同じ職場で働いている方から、飲まなかった翌日の私は突拍子もないことを喋るのですぐにわかると言われたことがありました。私にしてみれば同じなのですが、話題が違うのでしょうね。変なことをたくさん喋るそうです。脳が余計な方向に働きすぎるのかもしれません。

 酔って将棋を指すとてきめんに弱くなります。インターネットで指しているだけなので酔っていることは相手の方にはわからないわけで、まあ失礼にならないからいいかとも思うのですが、酔って指して十連敗ぐらいしたことが何度かありました。
 そんなに負けるのならやらなければいいじゃないかということになりそうなのですが、意地でもやるのです。本当に将棋の強い人は(伝説の真剣師小池重明さんのように)へべれけに酔っていても強いということを知っているので、自分もそうでありたいと思い、負けても負けてもさらにわざと酔いを深めてやったりします。翌日、指したこと自体覚えていないという日があり、我ながら呆れましたよ。

 将棋にあれだけ負けるところを見ると、酔っていたときの私の全判断がことごとく間違えていた可能性はあるでしょう。あのこともこのことも・・・と考えていくと、思いあたるふしはたくさんあるのですが、結局その程度でよかったのかもしれないですね。
 まったく飲まなくなると自分は全然違う世界に行ってしまうような気持ちもあります。そうした世界に対する憧れもあるのですが、実験をまだまだ続けたい気持ちもあります。
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2010.07.25 11:40

 いろいろと不思議なことが自分の人生に起こりはじめているような気がします。詳しく書くほどの話ではないのですが、何かありますね。何かあります。
 すべての変化は基本的に必要でいいことだと思っているので、そういう波が来たら受け入れるのですが、何年もあとになって「あれは波だったんだな」とわかることもあったりするので、変革期というのはおもしろいものです。

 若いときはどかん! と何かあると人は大騒ぎするわけですが、音が大きかっただけで本当はたいした影響を自分に及ぼしていない「どかん!」もたくさんあります。あれは何だったんだろう・・・というような感覚ですね。その反対に、じわじわしみこむように自分の人生を侵食してきて、いつのまにかすっかり人格が変わってしまったというような出合いもありました。全然「どかん!」ではなかったのに強烈なインパクトがあったのだということが、何十年もあとになってわかります。

 私は昔、とにかく否定的な人間でした。否定的で消極的で破滅型。いいところがありませんね。当時の私を知っている人から「どうして変わったの?」と訊かれたことがありました。質問の意味はわかるのですが、うまく答えることはできませんでした。きっかけが「どかん!」ではなかったからです。
 人生はすべてこのままでいいのだという価値観、行くべきところもやるべきことも何もないのだという人生観、焦らなくてもタイミングは完璧なのだという信頼感、こうしたものは日々の僅かな読書や他者との交流などから身についたもので、どこかでだれかに教えられたわけではありません。

 私は(以前もこんなことを書いたことがあります)、現在自分の周囲が大変美しく見えています。恵まれた場所にいることに感謝しています。晴れの日も雨の日も空は美しいですし、街を歩く女の人はみんなきれいに見えます。そういうなかを通勤しているだけでも幸福です。ばかみたいだなと思うのですが、見えてしまうのはどうしようもありません。
 真実は見る者の眼に宿るということわざがありますね。幸福になるためにははじめから幸福になっていなければいけないというちょっとしたコツはあるのかもしれません。
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2010.07.24 12:55

 発売中の「週刊文春」にZ会進学教室の数学の先生のインタビュー記事が載っています。ご本人の承諾を得ていないのでお名前は出しませんがすぐにおわかりになるはずです。その先生の新刊本が最近文藝春秋社から出版されたので、ちょうどいいタイミングでした。いっぺんに四冊(!)も発刊されるのですが、そのなかの何冊かは以前大評判だった書籍にさらに手を加えられたものだそうです。画期的なテキストなので、今回も話題になるでしょう。
 宣伝みたいになってしまいますが、中学生の方はテキストをぜひご覧になってみてください。私は息子が中学時代「やらなくてもいいからこの先生のテキストはお守りとして大事に持っていろ」と言っていました。一流のものは持っているだけで効果があると信じています。

 自分の書籍を出版するというのはどなたにでもできることではありません。私も以前は発表してきた小説を一つの書籍にまとめたいという夢を抱いていましたが、なかなかそこまではいきませんでした。意志だけでは実現しない運命の☆みたいな要素があるのかもしれません。
 その週刊誌のインタビューに数学者の話が出てきました。ある数学者が何年もかかってフェルマー予想という困難な証明を完成させたという話でした。私もその話を何かの本で読んだことがあるのですが、あまりにも難解な問題なので安易に手を出さない方がいいとまで言われていたそうです。

 ときどきあるテーマで話を書いてみたいと思うときがあります。そのテーマというのはじつは十年以上前から考えていたもので、その昔小説がぽつぽつ活字になりはじめたころからずーっと書いてはやめ、書いてはやめということを繰り返してきました。書く途中でやめるというより、完成させても納得がいかないという繰り返しなのです。たまに夢の中でも「早く完成させてくれ」とだれかから言われることがあります。目が覚めて「ああそうだった」と思う。
 私は職業作家ではないので、自分の納得のいくまでこういうことを探究することが可能です。美の構築に腐心するということですね。ただこういうのはじつは一生かかっても完成しないのかなとも思います。
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2010.07.23 11:20

 基本は復習ですね。習ったときによく理解できたことでもすぐに見直しておかないと自力で解けなくなってしまうものです。どんなに理解できたという自信があっても、必ず自宅で見返しておいてください。仮に予習はできなくても復習さえきちんとやっていれば成績は間違いなく上がっていきます。
 以前、こういうことがありました。数学の授業が終わってから毎回とてもよくできる生徒が自習で残っていました。自宅に帰ってしまうと勉強する気がなくなるので、教室で復習したいというのですね。

 一時間もいなかったと思いますが、そのあいだ先生には「残っていてください」とお願いしていました。しばらくすると「やったばかりのところが解けなくなってしまいました」と質問に来ていました。ものすごく優秀な生徒なのですよ。そういう子でさえやはりこういうものなのだなあと変に感心してしまいました。
 先生が少しだけヒントを出します。すると「あー、そうだった!」と思い出す。一度、そういう思いをしておけばもう大丈夫でしょう。次は最初から最後まで自力で解けるはずです。

 何でも同じだなと思うことがあります。将棋の勉強をしますと私はつい先日のブログに書きました。プロ棋士の自戦記の棋譜解説を読んで、実際に盤に並べてみることがあります。なるほどここでそうなのか・・・と理解したつもりで、今度は見ないで並べ直してみようとするとどこかで必ずわからなくなります。あれ? このあとどうなるんだっけ? という感じです。そういうときにもう一度並べてみると今度はかなり深く記憶に残ります。

 こわいのはこういう仕組みに気づいていない人です。一度理解したのでもう大丈夫と信じこんでいる。ところがテストで類題が出てくると全然解けない。自分は頭が悪いのではないだろうかと自信を喪失してしまったりするのですが、優秀な生徒でも直後に解けなくなることがあるという事実を心にとめておいてください。
 夏期講習に通っている方もいらっしゃるでしょう。今日やってきたものを今日解きなおすか、せめて確認だけはしておきましょう。暑い夏ですが、頑張ってください。
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2010.07.22 11:40

 異性の友だちができることがあります。自然ですね。いいも悪いもありません。そのときにちょっとだけ考えておいた方がいいことがあります。
 あなた自身でいるということですね。相手にむやみに合わせない。長く友情(愛情)を保つことだけを目的としたおつきあいにしないことです。関係がこわれてしまうのならこわれてしまってもいいのです。あなたはあなたのことだけを考えてください。あなたが魅力的であれば必ずもっといい相手が現れます。

 人につくすというのはりっぱなことですが、熟知していないしかも未完成の他者の趣味嗜好にやみくもに自分を合わせるのはいいことではありません。相手の言う通りの髪型をして相手の好みの服を着て相手の好きな音楽を聞いて相手の行きたがるところに着いていく・・・そういう状態で、本当のあなたはどこにいますか? 
 相手に他の異性の友だちができてしまったりすると「あんなにつくしたのに」と嘆いたりすることになるわけですが、相手に合わせているだけでは成長の糧にならないので向こうは何となく物足りなく感じるものです。逆のケースを想像すればすぐにわかるはずです。一から十まであなたに合わせることしかできない異性というのは魅力的ですか?

 あくまでも自分中心でいってください。自分を最高度の自分自身に磨き上げることだけを目的に生きていきましょう。その過程で、相手の方に向上心がなければ別れる日がきてしまうかもしれませんが、それは悪いことではありません。つまらない相手だけど私がふってしまうとかわいそうだから的なおつきあいの方がよっぽど相手のためになりません。
 私もどんどん目標に向かって進んでいくからあなたはあなたで自分の目標に向かって進んでくださいと言えるぐらいの友だちが本当は望ましいのです。

 あなたの世界を完成させていきましょう。そのときに悩んだり迷ったりすることがあるかもしれません。異性のアドヴァイスというのはとても役にたちます。
 受験期に異性の友だちができることを心配する方もいらっしゃるでしょうが、要は振り回されなければいいのです。お互いがお互いを完成させていくための存在だと認識してください。そう考えていくこと自体がさらにあなたを成長させていくのです。

 もっとも少年時代の自分はこういう人間ではありませんでした。二人で破滅しようみたいな流れが大好きでした。しかし、それは趣味の問題であり、普通に幸福になりたいのであれば破滅しよう! はよくありません。
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2010.07.21 13:10

 私は元来非常に気難しい人間だと思うのですが、教室において少なくとも生徒にはできるだけそうしたことを感じさせないように努力しています。いつも同じ感じで彼らと接するように心がけていますから、授業中私の機嫌が悪くて困ってしまうなどということは絶対にないはずです。義務だとか責任だとかというのではなく、そういうことは最低限の礼儀だと考えています。

 昔、自分が彼らの立場であったころ、評判のいい先生は気難しい方が多かったような気がします。ある日はすごく面白いのですが、べつの日はやたらと癇癪を起こしたりする。そのリズムは生徒側の努力ではどうしようもない要素もありました。それが当然という風潮があり、彼らの一貫性のなさ(?)は誰からもとがめられることはありませんでした。
 私も気まぐれな先生を嫌いではなかったのですが、やはりやりにくいこともありました。

 勉強をあまりしない生徒というのは私の担当するクラスにもいます。私は勉強をあまりしない生徒と勉強をよくする生徒とのあいだにまったく差をつけずに接しているという強い自信があります。もちろんやってきなさいということは言いますが、それ以外の挨拶とか何かを手渡すとか声をかけるとか、自分は勉強していないからあの先生は何となく冷たいんだ・・・という感想は彼らは抱いていないはずです。教室で何をしてもーー他者の迷惑になることは禁止するしかありませんがーー私に嫌われるということはありえません。

 人間は働かないで生きる自由を持つように勉強しないで生きる自由も持っています。それでも個人としては少しでも勉強してほしいので、そちらの方向にみんなを引っぱっていく方法はつねに考えます。最近は勉強に対する暗示のようなものを与えていくことこそがじつは大切なのではないかと強く感じます。
 考えてみれば、昔の日本の「お父さん」というのも気難しい存在でした。それが一種の「威厳」だという考え方がありました。私の父もそういう人間で、彼が食器を洗ったり洗濯をしたりというところを私は見たことがありません。

 人それぞれですね。ただこういうことを日ごろから考えているのは悪いことではないと思っています。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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