2010.04.30 13:20

 Z会進学教室の授業は5月2日の日曜日から8日の土曜日まで休講になります。毎年この時期はそうです。教室自体が閉まるのが3日~7日。教室が閉まっているといわゆる「不測の事態」が起きることもないので、私もかなりほっとできます。それ以外の個人的な休みですと何かの関係で(たとえば先生が急病で自分が代講するとか)慌てて教室に出てこないといけないときがあるのです。
 夏休みや正月も授業を担当させていただいているので、私の最長の連休は毎年この五日間です。

 旅行するときもありますが、だいたい一泊ですね。あとは東京にいます。三年ぐらいまえから連休を使って私は「いつか行こうと思っていたのに行っていない思い出の場所」をうろうろするようになりました。半世紀も生きているとそういう場所がたくさんあります。いつでも行けるからと行っていない場所。
 たとえば高校時代に模擬テストを受けた会場だとか昔一人で住んでいたアパートだとか好きだった女の子が住んでいた街(女の子のことはたくさん好きになったので、あちらこちらにそういう場所があって困りますよ)とか・・・ですね。そして、とくに何をどうするというわけではないのですが、当時のことを思い出して歩きます。

 連休に入ってから一生懸命考えたところで、そうした場所が次々と思い浮かぶものではありません。日ごろからふと思い出したときに手帳に書きとめておきます。
 子どものころほんの何ヶ月かだけ住んでいた場所があり、行ってみると別の建物がたっていました。四十年ぶりぐらいなのでただあたりをうろうろしていたのですが、伝統的な和楽器の教室のものすごく古い木製の看板に何となく見覚えがあったりしました。

 あたりまえですが、思い出の場所というのはくっついていません。五反田だったり高田馬場だったり小岩だったり千駄ヶ谷だったり六本木だったり落合だったりする。一日でそのぜんぶを回るわけにはいきません。またこういうのは効率よく回っても全然意味がありません。何かしら心に残るものを求めているわけなので、スタンプラリーみたいにすばやく移動してはかえって何かが失われてしまうような気さえします。
 しかしまあ、歳をとるのは私にとってはいいことでした。かけがえのない思い出がたくさんあるわけですからね。
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2010.04.28 13:25

 私は人と話すときに非常に頻繁に手を動かします。親しい人と一対一で話しているときもそうですし、大勢のまえでお話するときもそうです。一度なるべく手を動かさないで話してみようとしたことがありましたが、言葉そのものの内容は同じでも全然伝わらない感じがしました。説得力が半減した印象でした。
 ということは、私のコミュニケーションの大きな部分が手の動きのなかにあるということになります。おそらく手だけではないのでしょう。首のかしげ方とか顔の表情とか声の抑揚とか・・・数え上げればきりがないぐらいいろいろあるのだと思います。

 お子さんとコミュニケーションをとられるとき、どうでしょう? 当然、相手は(無意識のうちに)言葉以外の要素でこちらに何かを伝えているはずです。そこのところを積極的に理解してあげようという意志を大人側がもたなければいけないのではないかと思うときがあります。
 たとえば、勉強をうんとがんばりますと言いながらつらいから勘弁してくれという信号を出している生徒がときどきいます。叱られないように仕方なくがんばるという言葉だけを発しているわけですね。私にはすぐにわかります。そういうときは、いますぐやみくもに努力できなくてもいいから、そういう気持ちになれるように生活を整えていこうと伝えます。

 相手の本音を言葉以外の部分から理解してやらないとこちらがダメージを受けることもあります。たとえば、恋愛が壊れていくときの男女関係なんかはそうでしょう。言葉以外のところから相手が自分に興味を失いつつあることがわかるのに、言葉だけにすがりついていて裏切られたと一方的におちこんだりするのはーー気の毒なケースですがーー言葉以外のコミュニケーションに対する洞察力不足という要素もあったのかもしれません。
 恋愛の場合はそれが悪いというわけではありませんが、お子さんとの関係においては大人側の洞察力不足は子どもが可哀想ですね。

 逆にこちらの伝えたいことも言葉だけから伝わっているわけではありません。そのあたりはお子さんに対したとき、効果的に利用していくといいでしょう。あれこれ言葉で散々嘆くよりは悲しげな表情を一つ浮かべた方がよっぽど相手の心に響くという状況だってあるはずです。
 俳優さんと同じですね。人生という舞台で、それぞれ伝えたいことがたくさん出てきます。棒読みのようなセリフ(言葉)だけでは説得力が増しません。工夫していきたいものです。
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2010.04.27 13:20

 先日、母親が倒れた話を少しだけ書きました。個人的な話題なのでこれ以上は何も書かないでおこうと思っていたのですが、何人かの方から「大丈夫ですか?」と温かい言葉をかけていただいたのでもう一度だけ書きます。この件はこれで最後にします。
 文字通り倒れたのでいろいろ骨折していることが判明しました。大きな手術をすることになり、今日入院したはずです。妹がつきそっています。

 母は高齢ですから手術がうまくいかない可能性ももちろんあります。私はそのあたりは冷静に考えています。おととい実家に行き、母と話しました。骨折している部位の関係で、起きて家事などはできていました。頭もしっかりしているので楽しく笑いながら昔の話をしました。それから私はーー万が一のことを考えてーー手術結果がどういう形になるにせよ、育ててもらったことは感謝していると言葉に出してはっきりと伝えました。母は意味を察して静かにうなずいていました。

 私は自分の死生観を一切他者に押しつけるつもりはありません。こういうのは完全に個人的な問題です。ただ現実問題として80代の両親がいずれいなくなるのは自然の摂理です。そのときやみくもに動揺するだけの人間でしかなかったというのでは、育ててくれた彼らに対しても世間に対しても申し訳ないと思っています。
 私の息子が私の歳でそうだったら私は「半世紀も生きてきて他者の死にきちんと向き合う覚悟もできていないのか。そんなことで自分の死に際してどうするつもりだ。無意識に生きるのをやめて、もう少し生死について考える内省的な生活を送ったらどうか?」と言いたくなるかもしれません。

 生きる意味を考えるときには常に死についても意識しています。生のなかに死が包括されているとでも表現すればいいのでしょうか。つねに死を意識しているなどと書くととてつもなく暗い人みたいな感じがしますが、普段の私は決して陰鬱なだけの人間ではないとも思っています。
 私の周囲でいろいろな方が亡くなっています。亡くなってはいますが、私自身は彼らとのつながりが途絶えてしまったと感じたことはありません。そのあたりは・・・説明の難しいところですね。
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2010.04.26 13:10

 夜中に歩いているとき、闇のなかから16歳の自分が出てきたらいまの自分の姿を見てどう思うだろう? というようなことを考えるときがあります。こんなになっちゃうのかよーとがっかりされるのか、それともこうなるのだったら歳をとるのも悪くはないなと思えるのか。
 私は変な人間ですが自分では満足しているので、16歳の私もそうは失望しないのではないかと思ったりします。私は16歳のとき「人間見た目がすべてだ」と考えていました。そして54歳の現在もじつは「人間見た目がすべてだ」と十代のときとは全然違った意味で考えています。

 16歳の自分は混迷のなかにいましたから、現在の私に人生のアドヴァイスを求めるだろうと思います。何に気をつけたらいいのか、どこに行ったらいいのか、どうすれば安全に生きていけるのかーーそういったことを知りたがるだろうと思います。何しろ未来の自分ですから、遠慮することは何もありません。
 私の方も16歳から現在まで生きてきた過程で「○○という人が出てくるけど相手にしない方がいいよ」とか「××という仕事場は楽しいから早めに勤めた方がいいよ」とか「△△という人とささいなことで喧嘩別れしてしまわないように気をつけろよ」とか「○月×日は事故に合うから自宅にいた方がいい」とか、いろいろなことを教えることは可能です。

 しかし、それをしてしまったら結局現在の私とは全然違う人間になってしまうでしょう。○○とつきあわず、××にいきなり勤めて、△△を大事にして、○月×日に家でじっとしている人生は、現在の私とは違います。
 結局私は「まあ、いろいろ苦労してみなよ」としか言わないのではないかと思います。相手は冷たいなあと恨むでしょうが、受験に失敗したり失恋したり希望が打ち砕かれたり、また逆に思わぬ僥倖がころがりこんできたりして現在の自分になったわけですから、細かい指示は一切出さないですね。

 教育にはそういう要素があります。何もかもお膳立てしてやって・・・などというのでは本物になれないということですね。自分なりの苦労をしてごらんよと(あくまでも愛情を持って)ある程度つき放してやる勇気は絶対に必要だと思います。
 
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2010.04.25 11:45

 毎日の新聞に暗い記事が載っています。自分のお子さんを虐待してしまう親御さんが次々と問題を起こしているみたいですね。
 どの状態を「虐待」と定義づけるのかというのはなかなか難しい問題ですが、だいたいは我を失って過度に暴力的な行為に出てしまう状況を虐待と称するのではないかと思います。ポイントは「我を失う」ことにありそうです。

 私自身、感情的になって自分の子どもを叩いたりした経験が一度もないかと言われれば答はノーです。ほんの二三回だと思いますが、腹をたてて息子を叩いたことがありました。あとで非常に後悔したことを覚えています。私が子どもの時代は家庭だけではなく普通に塾や学校でも体罰がありました。そのときのいやな感じが蘇ってきました。
 あるとき、私はこういう内容の言葉(詳細は忘れてしまいました)を目にしました。どなたか聖人と呼ばれている方の言葉だったと思います。

 腹をたてるということは、他者の間違いにより腹をたてた本人が自分を傷つけているということであるーーまわりくどい表現になってしまいましたが、そういう内容でした。
 わかりますか? つまり誰かが何かをする。そのこと自体が大間違いであったとしてもそれは相手の間違いですね。私のミスではない。だが、その事実に影響を受けて私が猛烈に怒ったとしたら、相手もいやな思いをするでしょうが、私も私自身をとことん乱されたわけですから確かに自分をおおいに傷つけていることになるでしょう。

 その言葉だけがきっかけではありませんが、私はそれから他者の間違いにこちらが巻きこまれることがないように気をつけています。子どもなどというものは未熟ですから当然間違いだらけです。いちいちかっとなっていたらきりがないですね。間違えているところを冷静に指摘してやればいいわけで、感情を動かす必要はありません。むしろ変にこちらが感情的に出ると相手は自己防衛のために反発してくるものです。こちらのエネルギーを押し返そうとするわけですね。

 あるとき息子と話していて、私は「子どものときにもうちょっと可愛がってやればよかったと思うことがある」と言ったことがあります。息子はちょっと考えてから「おれはけっこう大事にされてきたと思ってるけどな」と答えました。
 私がその言葉を聞いてどう感じたかはわざわざ書くまでもないですね。感情的に叱らないように育ててきて本当によかったと思っています。
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2010.04.24 12:40

 見てきましたよ、ウルフマン。封切り初日の昨日、わざわざ休みをいただいて午前の一発目の上映時間に行ってきました。うーむ、衝撃度から言うと1981年の「ハウリング」の方が上でしたが、狼男関係はやはり面白いですねえ。
 あ、この映画は確か小中学生は見られないことになっています。R-15指定でしたっけ? 残酷なシーンが多いからですね。私はとにかく狼男関係は昔から大好きで話題になった映画はほとんど見ていると思います。

 場所が吉祥寺でした。吉祥寺というのが微妙なところで、じつは吉祥寺にはZ会の偉い人がたくさんいます。私は興奮して早めに着いてしまい街中をうろうろしていたのですが、ばったり会ったらどういうことになるのだろうとちょっと考えました。普段着なので休みだということはすぐにわかります。それでも「こんなに早くから吉祥寺で何をしているのですか?」ぐらいは訊かれるかもしれません。「はい! 狼男の映画の封切り初日一発目を見に来ました!」と元気よく答える54歳というのは、うーん、ちょっとどうでしょう。

 おおっ! カッコイイ! と言ってくれるのは、このブログの隠れ(?)愛読者で見事に第一志望のF高校に合格したイケメンのNくんだけではないかと思います。普通の人なら口に出さなくても、このおじさん大丈夫か? と感じるでしょう。
 大行列ができているかもしれないと考えてそんなに早く行ったのですが、場内に十人ぐらいしかいなくて拍子抜けしましたよ。昔元日にゾンビの映画を新宿の映画館に見に行ったことがありますが、そのときも五人組の少年と私だけでした。この手の洋画に夢中になる人間はそんなに多くないのかもしれません。

 真剣に見すぎて終わったらぐったり疲れました。あまりにも疲れたので傘もさせなくなり、雨の中を濡れながら帰りました。全力で見すぎたのですね。
 そういう私の姿を「おおっ! さすがは先生だ!」と言ってくれるのはやはりF高校合格のNくんだけでしょう。Nくん、私のような人間になってはいけないよ。
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2010.04.22 13:10

 以前もこの話題で書いたことがあります。昨年の八月六日ですね。興味がおありでしたら、お読みになってみてください。
 じつは今年度に入って、私立中学から出て公立高校に行きたいというご相談をものすごくたくさん受けるようになりました。例年の倍以上だと思います。

 一つには上位の都立高校がかなりりっぱな合格実績を出しはじめたという事実があげられるでしょう。さらに時代が閉塞的で、経済状況がどうなるのかはっきりしないということも大きな理由ではないかと思います。政権が代わった影響もありますね。
 しかしーーここからは冷静に書きますーー私立の中高一貫校としては六年間いてもらえるはずの生徒が途中でどんどん出ていってしまっては経営が成り立たなくなるわけで、仮に表面上は「受験して出ていかれてもいいですよ」とおっしゃったとしても、なるべくそういう生徒が出てこないように引きしめていかれるはずです。

 私立生が不利なのは一つにはカリキュラムの問題があります。高校受験用のカリキュラムになっていないため、はるかに先の方まで学習しているにもかかわらず高校受験の問題でいい点数がとれない。みんな知っている内容であるはずなのにぼろぼろと小さなミスをしてしまう。緻密さをつける訓練が足りないのですね。
 また、私立生の中3時代はイベントだらけで落ち着いて受験勉強に専念できないという事情もあります。学校は(受験できないようにという悪意はないのでしょうが)、これでもかと行事を入れてきます。出席日数の関係がありますから、全部参加しなければなりません。

 さらに学校が内申をくださらないケースも多いのです。公立中学だとオール5という子もいます。オール4なら相当数います。ところが私立ですと(皆さんできますから)オール4でさえ難しいかもしれません。
 この内申というやつが公立高校受験では非常にやっかいなのです。私立生だからそのあたりは勘案してくださるだろうと甘く見ていると必ずしもそうではない。たとえば都立高校の入試ですと、オール5の生徒とオール4の生徒では受験前から何十点も差がついていることになってしまいます。そういう決まりなのでどうしようもない面があります。

 一流の都立高校には内申は関係なく実力だけで入れる枠があるのでは? というご質問もよく受けます。あることはあるのですが・・・その枠はここ二年ですごく狭くなってきました。国立大学の附属高校に外部から受験してぎりぎりで落ちてしまったようないわゆる「地域の秀才」が殺到するようになってきたからです。
 結果的に私立中学→公立高校ではなく私立中学→私立高校になってしまうケースもこれまでいくつも見てきました。勉強をして実力をつけ、あとは天命に任せようという気持ちがあればすごくよい経験になると思いますし、どこかしら進むべきいい高校は必ず見つかります。ただ絶対に公立の○○高校に行けるはずと決めつけてしまうと心配なので、そのあたりは柔軟に考えてくださると安心です。
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2010.04.20 13:15

 毎日、インターネットで教育関係の面白いニュースがないかどうか見てまわる癖がついています。昨日、あるところで「早期教育効果は小学校で消える」という記事を見つけました。いろいろな意味で複雑な気分になりました。自分にしてみれば、こんなことは十年以上前からわかっていたことじゃないかという気持ちもあります。まだ大きな話題になるのですね。

 大昔、ある教育機関で「天才児」というのを何人か見たことがあります。小学校の低学年児童。「天才児」はクラスには入れませんからどうしても個別指導になります。
 どのように天才児であるかというと、皆さん義務教育で出てくる漢字はすでにすべて読めるようになっていました。で、たとえば「松尾芭蕉の俳句を楽しんでいる」「ロシアの文豪の小説を大人の版で読める」「五六年生の算数の問題集をやっている」「百人一首をすべてそらんじている」・・・他にもいろいろありました。その教育機関が早期教育に大賛成でしたので、そういうお子さんを受け入れていたわけです。

 私は担当していて、経験的に彼らが共通して語彙に乏しいことを発見しました。みんな素直なとてもいい子です。私との関係は良好でした。ただ無口というのとは何かしら質の違う語彙の乏しさがある。百人一首を暗誦できるのに、ロシアの文豪の小説を読んでいるのに、自身の状態を正確に表現することが同年代の「普通の」お子さんよりうまくいかないのはどうしたことだろうと当時は不思議に感じたものです。
 昨日の記事で、ある国立大学の発達心理学の偉い先生が、トップダウンで禁止、命令、体罰などを多用すると語彙が乏しくなるとおっしゃっています。統計的にもそうなのですね。

 私は勉強をたくさんして大人から認めてもらわなければならないというストレスと精神的萎縮が原因ではないかと想像しています。
 もっとも私は幼児教育に反対しているわけではありません。宣伝になってしまって恐縮ですが、たとえばZ会の通信教育でやっているような「親子で一緒に遊ぼう」的なものは文化的な体験ができて子どもの心に響くと思います。そこには百人一首もロシアの文豪も出てきませんが、知育という意味ではこれで十分なのです。面白いからもっとやろうとお子さんは喜ぶはずです。何事もふさわしい時期というものがあるのですね。
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2010.04.19 13:00

 先日、授業中にある漢字(とくに難しい字ではありません)を板書しようとして、突然書けなくなったときがありました。いつも書いているその字が浮かんでこない。びっくりしましたよ。駆け出し時代に教壇で緊張して小学生でも知っている漢字が書けなくなったときがありましたが、そのとき以来二度目でした。しかも、今回は緊張していたわけではありません。生徒たちはとても熱心で、リラックスして話していたのに突然本当にわからなくなりました。五分もたたないうちに思い出しましたが、我ながらショックでした。

 問題を解くことに関しても私は四十歳すぎたぐらいのときがピークだったと思っています。自慢するのもばかみたいですが、難解な入試問題でも相当な速度で解くことができました。あのころに比べるといまは時間がかかるようになってきています。さらに凡ミスみたいなのをすることもあります。どこか流してやってしまう。何かが確実に衰えているのですね。
 授業中の動きも若いときの方が当然きびきびしていました。私が五十歳をすぎてからあえて絶対に授業中に座らないことにしたのは、そういった部分をいろいろ考えたうえでのことです。

 ただ、共感や理解を示せる心だとか伝える能力だとか相手の気持ちを高揚させる的確な表現だとか重みのある言葉だとかは現在の方がはるかにすぐれているとも思います。そういう部分で科目に対する衰えを補っているという感じでしょうか。ある年代以上の先生ならどなたでもその傾向はあるでしょう。面白いもので、入試結果は現在の方がうまくいっている印象があります。
 私が映像講座や公開授業などにあまり出たくないのは、自身の全盛期ではないということを若干意識するからです。わかりやすく書くと、歳をとってからはじめての写真集を出すのは恥ずかしい的な感覚があるのです。

 ですが、今年の夏は私も映像講座を何かやらないといけなくなりそうです。もしやるのであれば、自分の納得のいくように講義したいと思っています。私の授業はーー受けてくださった方はわかると思いますがーー不思議な間があくでしょう? そうした感じが映像で出せるものなのかどうかよくわからないのですが、まあやるときは目一杯面白くやりますよ。正式に何か決定しましたらまたお知らせします。受験生とか中学生でなくても見たくなるというのが理想だな。
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2010.04.18 11:25

 ついさきほど九万人目の方が入ってくださったようです。いつもありがとうございます。ここのところはだいたい日に平均して三百人ちょっとの方がいらしてくださいます。多いときで五百人ぐらいでしょうか。たいしたことは書けませんが、何かしらご参考になればうれしく思います。
 先日、塾に犬を連れてきた生徒がいました。「すみません、授業中預ってください」と言われてびっくりしましたよー。生きている犬ですよ、犬。

 この生徒は非常にしっかりしたいい子です。すべての面で大変期待できる生徒です。いわゆる非常識なタイプではありません。お願いします、今日だけですと両手を合わせて必死に頼んでくる様子を見て、これはよほどの事情だなということがわかってきました。
 こういうときに規則でだめなものはだめでは配慮が足りません。例外中の例外があっても許容できる度量の大きさが教室そのものにないようでは、教育機関として情けないとも思いました。あとで発覚すれば当然私個人が上の方から注意を受ける可能性がありますが、今日のところは何とかしてやりたいと思いました。

 子犬でしたのでほかの方にはご迷惑をかけないで私一人が見ていることができると判断して「今回だけ預るよ」と言いました。その生徒のカバンに入っていたのですが、息ができなくなると可哀想なので箱に入れ、飛び出さないようにふたをして空気穴をたくさん開けました。私の机の横に置いておいたのですが、すごく利口な犬でときどきクンクン鳴くだけで一切暴れたりはしませんでした。

 こちらの感情を向こうも読んでいるのではないかと考えました。真っ暗な箱の中で不安になるのでしょうね。ごそごそ音がするときがある。そういうときに「大丈夫だからな。もうすぐ迎えに来てくれるから静かにしているんだぞ」と言葉に出して声をかけます。言葉は理解できなくても、声の抑揚などから判断できるみたいですね。クンクンと小さく返事をして静かになります。そんなことを何度か繰り返し、まったく問題なく授業はすべて終了し生徒は犬と帰っていきました。

 この経験は生徒も私も犬も忘れないと思います。犬を連れて帰るまで授業に出てはだめだと言ったり、おうちの方に連絡して生徒が叱られてしまったりするより、よほどいい解決方法だったと思っています。
 ただし、皆さんは真似をしないでくださいよ。日本中の塾を探しても授業中に犬を預ってくださる教室はまずないと思います。
 
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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