2017.12.11 08:53

 結局人間社会でいちばん大切な力は伝達能力ではないか。伝達能力と表現すると難しい感じがしてしまいますが、簡単に書けば「好かれる力」「わかってもらえる力」みたいなものでしょうか。極端に緊張したり迎合したりすることなく、あ、この人の話はいいなと感じさせる力ですね。
 ベテランの先生が推薦入試で合格していくような生徒ははたから見ているだけで(具体的な内申がわからなくても)予想がつくとおっしゃっていたことがありますが、ある意味そういうものかもしれません。
 
 逆に書くといくら学力が高くても伝える力がある程度優れていないと誤解されてしまう可能性があります。ですからとにかくコミュニケーションの力は意識的に鍛えていかないといけないですね。
 必ずしもお喋りで発言回数の多い人がコミュニケーション力に優れているとは限りません。無口でも上手に伝えられる人がいる。それこそ言葉以外でも大きな感情が伝わることがよくありますね。
 
 1つには距離感の取り方でしょう。相手の状況をよく観察、理解しているかどうか。あなたにも都合があるように相手にも都合がある。いつもいつも「ねえ、聞いて聞いて!」では場合によっては迷惑をかけてしまうかもしれません。また暇そうに見えても、相手は話したくない状態であるかもしれない。つらいこと気になることが山積している状態なのに、それこそテレビのバラエティ番組の話題を持ち出されたりしたらどうでしょうか。
 表情だけでいまの相手がどういう状態であるかということを読み取る能力は、ある程度必須だと思います。
 
 たとえば生徒が質問に来るときに、その種の能力にはかなり差があると感じることがあります。遠慮しすぎてもよくない。遠慮されてもこちらは困りませんが、生徒自身が気疲れしてしまう。いずれは質問はあきらめようというスタイルになってしまうでしょう。逆にこちらの様子を全然把握できないでわーっと来られるのも困ります。こちらが忙しくて困る以上にその「空気の読めなさ」は確実に矯正していかないと、世の中でなかなか認めてもらえる人にはなれません。
 
 ご本人の意識も大切ですし、周囲の協力も必要です。ご家庭できちんと物事を伝えられない人が、外で他者と円滑にやりとりできるはずがありません。
 日ごろのやりとりで大人側が、要するにこういうことなのだろう? と先回りしすぎてしまうとご本人はいつも楽をしてしまいます。「要するにこういうことなのだ」という部分こそご本人がまとめて表明しないといけません。人と人とのやりとりは、日々訓練です。生きるというのはそういうことなのだと思います。
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2017.11.28 03:32

 現在受験校を決めていく面談の時期で、三者面談になることもあります。ご本人が参加したいという場合、それなりに遅い時間で設定します。
 するといろいろ感じますね。ご家庭なりの文化がある。いい悪いをいちがいには決めつけられないでしょう。ただこれは・・・と感心することもあります。そういうご家庭の生徒はだいたい優秀なのですが、優秀だから保護者の方が落ち着いているのではなく、落ち着いたご家庭で育ったからご本人が優秀になってきたのではないかと感じます。
 
 三者面談のときはーーあたりまえですがーー保護者の方と生徒と両方に向かってお話します。先日、こういうことがありました。よくできる子なのですが、第1志望校は極端にレベルの高い高校でした。都内でも屈指の難関校です。都立高校は1校しか受けられませんから、危険は危険です。模試などの判定を見る限り、五分五分より少しだけ危険かもしれません。
 よくできる生徒ですから、多少志望を下げればそれなりの高校に確実に入れそうです。どうするか。
 
 ご本人はわかりました、考えてみますとおっしゃった。私は隣にいたおうちの方にも「どうお考えになっていらっしゃいますか?」と質問してみました。このままではちょっと危険性が高いところをお子さんが受験しようとなさっている。親としてはこうしてほしいという希望が出てくるかもしれないと思ったのです。
 ところがお母さんの答はあっさりしたものでした。「すべてまかせています」と笑顔を見せる。それだけではなかった。「本人が難しいところを受けたいというのであればその判断を支持しますし、仮に落ちてしまっても私には何も不満はありません」
 
 さらに「安全なところを受けたいというのであれば、それもまた本人が考えた結果でしょうから親としては応援するだけです。都立がだめで私立にということでも私個人は何も文句はありません。すべて本人次第です」と繰り返しおっしゃった。笑顔でゆっくり言葉にされるところは、ご本人にわざと聞かせているのかなとも思いました。
 その生徒は情緒が非常に安定しています。そのときも隣でお母さんの表情を確認しながらうなずいていましたが、安定感はここから来ているなという気持ちがしました。
 
 以前も書きましたが、ご両親があまりにも細々としたことまで心配なさるとなかなかご本人がしっかりしてこない印象を持っています。あくまでも印象ですが、教室長会議のときにどの教室長も「本当にそうだ」とおっしゃるので、そうした傾向はあると思います。
 不安な感じがお子さんのほうに伝染してしまう。受験に例えれば頻繁にご本人が「どちら(どこ)が受かりやすいですか?」という質問をしてくるようになります。どちらが有利か? 倍率は? 今年の流れは? 第1志望が受かりやすさだけで決められてくる。
 
 第1志望がそんなに流動するのであれば、その学校に対する思い入れは薄いということになります。入りたい学校を目指すのではなく、入りやすい学校を目指す姿勢に変わってくる。入りにくいのであれば目指す価値はないということです。
 まあ、大きく構えてあげてください。ことは受験だけではありません。生きることすべてにおいて心配しすぎるのは「悪いことが起きるに違いない」という前提に立っていますから、本当に悪いことを引き寄せてしまう可能性がある。人生のすばらしさは「あなたが何をみんなにプレゼントできるか」なのだと伝えてみてください。
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2017.10.27 10:33

 20代のころ勤めていた大手塾では体罰が容認というよりむしろ奨励されていました。いまの世相からはちょっと信じられないですが、当時は保護者の方も「何かサボっているようなことがありましたらゴツン! とお願いします」ぐらいのことはおっしゃっていた。
 私はーー育ちと関係あると思いますーーとにかく体罰を与えるのは苦痛なので、そういうことをしない。するとまだ若かったので子どもたちからちょっと舐められている感じがするときはありました。
 
 この先生は楽だという印象なのでしょう。遊んでいたって口頭で注意するだけだから・・・というわけです。
 当時、先輩の先生方にいろいろ相談することもありました。特定の生徒が騒いだり宿題をやってこなかったりする。すると予想通り「ぶん殴ってやれよ」という乱暴な返事が返ってきた。「甘やかしているとどこまでもつけあがるよ」と言う。何だか愛情があるのだかないのだかわからなくなってきます。
 そのとき、おれは帰しちゃうよとおっしゃった先生がいました。
 
 何のために来ている? 宿題もやらずにただ騒ぐのなら帰れ! と帰していると言うのです。それは複数の先生も同調されていた。みんなの邪魔になるような生徒は、そもそも塾をやめてもらってもけっこうだという話が出ました。
 この「帰れ」というのは実際に私も使ったときがあります。もちろん2度や3度の何かでそんなことは言わないですよ。ただ度重なると、ほかの生徒まで「やってこなくても大丈夫そうだぞ」と考えたりする。そこで思い切って「帰れ」と帰したことがありました。効果はありました。翌週からは見違えるように真面目になった。
 
 ご自宅から抗議があればきちんと説明するつもりでしたが、とくに何もありませんでした。まあ、ふだんは穏やかですからね。あの先生が帰すということは、よっぽどまずかったのだと感じてくださっていたのかもしれません。
 ただ現在の私はまったくそういう発想を持ちません。そもそも叱らない。する必要がないからです。私語はかすかに「あるときもある」程度。騒いでいていいのだという確信犯的な生徒はいません。
 
 体罰ではなくても帰れというのはやはり暴力的です。暴力的な言動は確実に相手の何かを損なうという気持ちをーー最終的な結論としてーー私は抱いています。あくまでも平和的な手段しか選択するつもりはありません。
 
 
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2017.10.10 09:41

 昨日、仙台教室にうかがってきました。勉強のことと生活のことをお話した。くわしくは書きませんが、うかがってよかったと思います。お手紙をいただいた複数の方には簡単なお返事をさしあげました。いずれお手許に届きます。
 私はきわめて平凡なおじさん(?)ですが、中学生を教えることに関しては35年以上継続しているので、ある意味職人みたいな感覚があります。ある程度のコツはつかめている。それをお伝えしていく感じになるでしょうか。
 
 直近では11月19日の日曜日の午前中ーーやはり新しくできるーー南浦和教室で同じようなお話をすることになっています。こちらはすでにかなりの方がお申しこみくださっていて、おそらく満員になってしまうと思います。ご興味がおありの方はお早めにお申しこみください。
 毎年お話していて、核心的な部分はじつは変わりません。あたりまえですね。そんなに方法論がころころ変わるものではない。たとえば「たくさん読んでください」というのがある年から「あまり読まなくていいですよ」となるわけがない。
 
 ただエピソードなんかは毎年どんどん増えていきますからそのあたりを多少入れ替える感じになります。たくさん読むということに関して、今年知った生徒のエピソードを入れたりする。私が軽い気持ちで紹介した文豪の小説を、帰り(講習中は昼間授業が終わるので)に買って帰った中学生が複数いたとかですね。感度のよさが彼らの学力向上に一役買っている。全員がそうしなさいという意味ではなく、知的好奇心の強さはひょっとすると成績と連動しているのかもしれない・・・程度に認識していただければ、何かしらご本人の中で動きが出てくるかもしれません。
 
 昔、ある私立高校で入試を受けてきた生徒が憤慨していたことがありました。もう合格しても絶対に行かないつもりだと言う。話を聞いてみると面接でこう言われたというのです。最後に面接官の先生が「きみのほうから何か質問したいことはある?」とおっしゃった。真面目な彼は「どうしたら勉強ができるようになりますか」と訊いた。
 すると担当の先生は顔を見合わせて(お二人だったそうです)笑いながらこうおっしゃった。「ばかとつきあわないことだよ」さらに追い討ちをかけるように「茶髪のね」とおっしゃった。
 
 緊張した生徒をなごませてやろうぐらいのお気持ちだったということは大人の私にはわかるのですが、彼はその答えに心底失望してしまった。大人側の振舞いは本当に大切だと思います。
 講演を終え、新幹線に飛び乗って教室に戻りすぐ授業に入りました。「中学受験をしない」小学6年生の初回の授業。授業が終わったところである生徒(ご兄弟がすでに通われています)にこう声をかけられた。「ごくろうさまでございます」一瞬意味がわからなかったのですが、続けてこうおっしゃった。「お酒が飲めなくて残念でした」
 
 あ! と思いましたよ。昨日の私のブログを読んでから来られたのでしょう。油断できないですね。まあ、せいぜい一生懸命生きていく姿を見せていこうと思います。それがいちばんの「教材」になりますからね。
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2017.10.07 01:19

 その生徒は私が直接教えている子ではありません。ただいい意味で目立つ生徒なので以前から注目していました。この目立つというのは、簡単に書けばひたすら明るいという意味です。彼女が部屋に入ってくるだけでぱっと周囲が明るくなる。そういう人間が世の中には存在するものですね。
 全員がそうなる必要はもちろんないですよ。ただ現実的に貴重な存在で、彼女がいるおかげでとても授業の雰囲気がいいという話を私は先生方から聞いています。
 
 このまえその子が「自分は細胞から輝いている」という意味のことを口にしていたそうです。ある先生が「よほどご両親から愛されて育ってきたのでしょうね」とおっしゃっていた。私もまったく同感でした。
 この愛されてというところが問題で、ご本人に自分が強く愛されてきたという実感が持てなければある意味で愛情は空回り状態とも言えます。それはそうでしょう。伝わらない感情はないのと同じです。私自身、少年期両親とはきわめて冷たい関係でしたからそのことはよくわかります。
 
 ここで犬の話に移りますが、今回私は飼い犬に徹底的にやさしくしてみました。やさしくというのは、めったに叱らないという意味です。いたずらをしても強くは叱らない。さらにとりあえず撫でてやる。どちらでもいいときは撫でてやる。話しかけてやる。笑顔を見せる。
 家内も息子も穏やかな人間ですから、彼女(メスです)は要するに四六時中かわいがられてばかりいます。するとどうなったか。散歩に行くとわかるのですが、全人類から必ずかわいがられるものだと思いこんでいるふしがある。とんでもなくあやしいおじさんにまで愛想を振りまいて近づこうとするので、こちらが焦りますよ。
 
 生きること自体に肯定的なのです。悪いことはめったに起こらないという思いこみがあるのでしょう。同じ柴犬でも昔飼っていた犬とはずいぶん態度が変わるものだなと感心してしまいます。昔育て方を失敗したので、今回は愛情が伝わりやすいようにしているという側面はあるのですが。
 犬と人間を一緒にするわけではないですが、やはり「どれだけ伝わっているか」ということは大事でしょう。心配している姿を見せるだけでは、愛情は伝わりにくい。
 
 そんなことやっていて本当に大丈夫? お友だちはもっとしっかりしているんじゃない? 全然進歩が見られないんだけど。こんな点数じゃどこにも行けないわよ。いったいどうするつもり? 泣くのもばかを見るのも自分だよ。いつも言われているのにちっともわからないんだから。このままだと絶対後悔するよ。気づいたときには手遅れさ。本当にぐずね。
 すべて愛情から発せられた言葉でしょうが、彼らがこうした言葉で「愛されているなあ」とつくづく実感することはまずありません。むしろいやがらせを受けているような、いじめられているような否定的な感情を持つでしょう。
 
 教室長会議のときに、過度に心配なさるご家庭はなかなか結果が出にくいという話になることがあります。皆さん同じ感想を持っている。心配=愛情であるにしてもそれが伝わらないどころか、むしろ家族からのいじめみたいに受け止められてしまう。そのことで自信をなくし、普通の反抗以上に心がねじれてしまう。そうなってくると「細胞から輝く」どころか「細胞から真っ暗」みたいな状態に陥ります。
 外で「自分は細胞から輝いている」と喜びを持って発言できる幸せを与えていらっしゃるかどうか。伝わり方の検証はつねに心がけられていいと思います。
 
 ただそれこそ手遅れということはありません。少年期「完全に心が折れて細胞が死滅してしまった私」がこういう話を書けるのは、経験があればこそです。何でも気づかれたところから調整をかけていけばいいだけです。勇気を持ってよりよい明日を迎えてください。
 
 
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2017.10.01 00:49

 先日、中1のあるクラスで動物を飼っている人はどれぐらいいる? と質問してみました。ちょうど20人ぐらい出席していたのかな。すると手をあげてくれた生徒が4人しかいませんでした。ちょっと意外です。私はもっとたくさんのご家庭が生き物を飼っているのではないかというイメージを持っていました。
 20人中の4人ということは・・・2割ですね。20%ということです。そんなものなのでしょうか。
 
 ついでに何を飼っているのか訊いてみた。これまたちょっとびっくりしました。犬がいなかった。猫が2人、ウサギが1人、亀だとかトカゲ(あれ? イモリだったかな)だとか、不思議な生き物が1人。それだけでしたよ。
 生き物を飼うのはけっこう勉強になると思います。エサをやったり面倒を見たりいろいろ世話をやく必要が出てきます。そのこと自体が勉強になる。家事などのお手伝いをしている子は間違いなく成績もいい傾向があるのですが、生き物の世話をするのはりっぱなお手伝いだと思います。
 
 最近の新聞にもとても興味深い記事が出ていました。えっ、そんなことが! という内容でしたが、あとでよくよく考えてみるとそれはあるような気がします。親が努力する姿を見せると赤ちゃんが努力するようになるというのです。
 生後12ヶ月~18ヶ月というのですから、まあ赤ちゃんど真ん中ですね。おもちゃを取り出すとき大人が努力して取り出す姿を見せます。別の赤ちゃんグループにはあっけなくおもちゃを取り出すところを見せます。赤ちゃんはどう違ってくるか。
 
 ボタンつきのおもちゃを渡された赤ちゃんは何度もボタンを押さなければならないのですが、はじめのグループの赤ちゃんはあとのグループの赤ちゃんの2倍ぐらい繰り返しボタンを押していたそうです。つまり努力が大切であると知っている。努力が報われるものだと気づいた可能性がある。
 子どもは親の背中を見て育つと言いますが、これだから大人は気をつけないといけないですね。相手が赤ちゃんだからということで、大人が寝ころがってテレビばかり見ていたら赤ちゃんはじーっとその様子を見て、こんなものでいいのかとなりかねない。
 
 ご両親が読書家であると一般的に子どもも本を読むようになります。読書家になったきっかけを訊いてみると例外なく、うちにあった本をただ何となく読んでいたという子が多い。要するにいろいろ読むものを選択できる環境で生活していたということですね。
 何もかも気づかれたところから調整していくので十分だと思います。どれだけ即効性があるかはわからない。ただより正しく振舞うことは、確実に周囲によい影響を与えはじめるものですからね。
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2017.09.15 02:06

 私は池袋教室に2004年~2010年までいました。丸7年間ということですね。そして渋谷に2011年に来て2017年度の現在までこうしてお仕事をさせていただいています。同じく丸7年間になろうとしているところです。
 池袋時代は非常に長く感じるのですが、おそらくゼロからのスタートだったからだと思います。新教室ができ、そこで教室長として働かせていただいた。ゼロからのスタートといっても生徒までゼロ人では困るわけで、あれこれけっこう気を遣ったような記憶があります。
 
 渋谷は既存教室ですでに生徒が大勢いました。そこに移ってきた形でしたから生徒が集まるかどうか、ものすごく心配な要素というのはありませんでした。
 物事にはいろいろな「方法論」があり、何が正しく何が間違えているとは一概に決められない要素もあります。ただ何をするにもより愛情深いほうが好ましいのは確実であり、現在の私はそういう人間として生きたいと日々を送っています。生徒の指導(というほどのものではないのですが)についても、高圧的な形は避けるようにしています。
 
 昔、ある生徒が他の生徒に迷惑をかけたことがありました。迷惑をかけられたほうから訴えられ、私はその加害者らしき生徒にそういう事実はあったのかねと訊きました。するとそんな事実はまったくありませんと明確に否定した。あまりにも率直な「いったいどういうことなのですか?」的な反応だったので、それならそれでいい、噂を聞いただけなので気にしないでくれと伝えてそのときは終わりました。
 ところが、やっぱりそれはウソだったということがあとになってわかりました。
 
 ウソがどうのこうのはともかくとして、注意する必要は出てきます。他の生徒にも再度迷惑をかけたりするとよろしくない。
 こうしたときに「大人にウソなんかつきやがって!」という大人げない感情を私は持たないようにしています。意識的に選択していますから、腹なんかたたないですよ。ごまかさざるをえなかったことを気の毒に思うぐらいです。
 ご本人を呼んで穏やかに話しました。ウソをつくことになった流れを特別異常なことだとは考えないとも告げました。
 
 どうして迷惑をかけたのかということもぽつりぽつりと話してくださった。ちょっと嫉妬心があったらしい。感覚的にはわかるよと言った。ただそこは人それぞれだから、きみはきみのベストの生き方を追求してくれたらいいと思う。
 それぐらいですね。もちろん保護者の方に、これこれこういうことでは困りますなどと告げたりもしませんでした。包みこむやわらかさは非常に強靭な何かであると考えています。いわゆるキレてしまったら終わりなのです。未熟な子どもならともかく、成熟した大人のほうがキレてしまったら・・・それはもう戦争を仕掛けるのと同じなのですよ。
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2017.08.18 07:17

 動物が寄生の意味ではなく他の動物を意識的に「飼う」ということはあるのですかね。他の動物を飼うのは人間だけであるような気がするのですが、どうなのでしょう。よく狼に育てられた人間の話を聞くことがあります。あれは狼が人間を飼っているというより何かの関係で自身の子どもだと勘違いしてしまったのだと認識しています。
 いわゆるペットとして飼うのはどうしてなのか。犬が来てから改めてそんなことを考えるようになりました。
 
 私自身、これまで犬だけでなく、亀、鳥(何種類か)、カブトムシなどの昆虫類(幼いころ)などを飼ってきました。ほかにもカニ、ヤドカリ、メダカ、金魚、どじょう、すごいところでは貝を飼おうとして失敗したことがあります。なぜ飼ったのかと言われると単純に面白かったからとしか答えようがないですね。
 子どものときは面白いだけでしたが、大人になるに連れて対象の生物を擬人化するようになりました。心が通じていると思いたくなってきた。
 
 大きい動物であればあるほど、心が通じているような気分になります。うずらを飼っていたときは私のあとをついて歩いたりするので、かなりわかっているらしいという感触を持ちました。亀も私と他の家族とでは反応が違ったので、自分のことがわかっているのだなと勝手に想像しました。
 犬はもちろんこちらのことを覚えますから、人間側が思っている状況とは違うにしてもとにかく心は通じます。「おすわり」と言うとすっと座る。
 
 ときどき家内が大きくなった犬を抱きかかえて狭い部屋をうろうろしていることがあります。脚があるのですから歩かせればいいのに、子守みたいに抱いたままうろうろしている。さすがにまだ頭がぼんやりしてくる年齢ではないので、何かの勘違いではなくそんなことをしたくなるのでしょう。
 不思議な光景ですが、要するにかわいい。かわいいのであえて抱いてやりたくなる。私も部屋の中はうろうろしませんが、膝の上で撫でてやることがあります。
 
 家内は優しい人間で、幼いころの息子でも鳥でも犬でも甘く甘く育てていました。相手が決まり事を破ってもそうは叱らない。どうしても破りたいのなら破ってもいいんだよ、そんなことではお前のことを嫌いにならないよという感じで接していました。そのことで息子も鳥も犬も情緒が安定してきた。ピリピリ感がないのです。深い愛情に包まれているという自信がつくのでしょうね。
 しつけはもちろん大切ですが、大前提としてとにかく愛されているという安心感を持てないといけないですね。交換条件見え見えの愛情では、なかなか本来の力が発揮されないように思います。
 
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2017.08.02 00:18

 昔、名人までのぼりつめたある棋士がこういうことをおっしゃっていた。タイトル戦に挑戦者として名乗りをあげたときの談話です。タイトル保持者は当時棋界の最高峰の棋士でした。ところがその挑戦者は相手は関係ないという。相手は関係ない。戦型も関係ない。勝負はそういうところでつくものではない。あとを読んで、なるほどと思いました。自分がどうであるかだけなのだと。要するに自分が圧倒的に将棋が強ければ誰にでも勝つ、それだけが問題なのだというのです。
 
 だから自分のコンディションとか棋力とかを「最強」にもっていくことだけを考える。結局そのタイトル戦自体は接戦の末敗れてしまったのですが、のちのち名人になるような人間は深いことを考えているものです。相手の弱点がどうの、得意戦法がどうのとおろおろしているようではホンモノではないということでしょう。
 子どもたちに接することも、これに似た要素があるような気がします。この子はどこの中学だとかあの子はどういう性格だとかやたらと分析するより、自分はどうなのかという視点のほうがはるかに大切だと感じます。
 
 相手によってあれこれ態度を変えているようではーー瞬間的には効果があってもーー所詮は「その程度の人間である」ということです。普遍性がない。それはもちろん子ども側からもよくわかります。そのとき「この人は信頼できるからついていこう」と心底考えてもらえるものかどうか。
 現在の私は相手が小学生でも中学生でもあるいは卒業生のアルバイトの方でも、そんなに態度を変えることはありません。つねに一定の慈しみの気持ちを持って(昔はこれができなかった)接しているつもりです。
 
 子育てしていくうえでいちばん大切なことはお子さんにどう対処するかということではなく、育てている私たちがどの程度の人間であるかということです。私たちのレベル(という呼び方はちょっと抵抗もありますが便宜上使わせてください)が上がれば上がるほど、子どもたちはこちらを尊敬します。立派な人の言うことだから聞いておくかという自然な感情も芽生えるでしょう。
 ところが、往々にして大人は子育て本のノウハウみたいなものだけに頼りがちです。自分を高めることはせずにノウハウで何とかしようとする。
 
 それは無理のないことでもあるのですよ。ノウハウの提唱者は皆さん「これだけで大丈夫!」「奇跡の天才児に!」みたいなことばかりおっしゃいますからね。
 ただノウハウはともかくとして、自己の向上ーーより自分らしく、より愛情深く、より公平に、よりおおらかに、より世の中の役にたつように、より人間らしくーーを意志する人間ほど魅力的な存在はありません。彼らはこちらの人間性をじーっと見ています。
 自己の完成を目指す過程でお子さんともうまくいくようになってくださるのがいちばんです。そしてそれがまた何よりの近道でもあるのです。
 
 大人が、子どもに尊敬されなくてどうするのかということです。尊敬しない子どもが悪いのか、尊敬されない大人が悪いのか。
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2017.07.31 00:19

 いろいろな意味で疲れてしまったら、しばらく休んでください。休むことは非常に能動的な行為です。休むことを消極的な姿勢と考えずに、積極的な準備期間だと思ってください。後日の大活躍に変えていくことが十分可能です。
 場合によってはただ寝ているという日もあるかもしれません。ひたすら好きなことーー生産的なことでなくても構いませんよーーだけをしている日もあるかもしれない。それでいいと思います。私も1日中ネット将棋を指していた日がありました。
 
 そうした過ごし方ももちろんあっていいのですが、自分を再生させるために時空間を有効に使う知恵もまた大切だと思います。それこそ旅をするとか、遠くまで散歩に出るとか。映画を鑑賞する。美術館に行ってみる。神社仏閣をめぐり歩く。憧れている人物の伝記(エッセイ)を読む。尊敬する人に話を聞いてもらう・・・
 重みのある時空間で何かを感じることは自己再生につながります。自分はこうだった、こうなりたかった、こういう夢を持っていた、こんなことでつまずいている人間ではないはずだ・・・それは「リセット」に近い感覚かもしれませんね。
 
 周囲も接し方には気をつけられるといい。疲れていると人間誰しも自暴自棄になりがちです。それは疲れが運んでくる要素であり、その人の本質とは違います。あまりにも疲れているので捨てたくなるだけです。ご本人も混乱のきわみにあり、何が何だかわからなかったりしますから「それは疲れの影響であって、あなたは本当は捨ててしまうような人ではないから安心して」ということは伝える必要があるかもしれません。
 昨年だったか、勤めはじめた息子がもう会社をやめたいと言い出したときがありました。
 
 やめないほうがいいというのは理屈であって、理屈は精神的な疲労のまえではまったく意味がありませんね。極端に疲れて眠りそうになっている人間に、このタイミングで眠るのは人間としてどうなのかなどと注意しても、そんなことわかっているけど死にそうに眠いんだからどうしようもないじゃないか! と反発されるだけでしょう。
 まず落ち着いた雰囲気作りを心がける。何でも話せる時空間ですね。息子には「やめたければやめてもいいよ」と言った。反対されなかったことで、気持ちが楽になるでしょうから。
 
 仕事はどうなろうとも生きていればいいこともたくさんあるだろうし、世の中の役にたつこともいろいろ出てくるだろう。そんなことだけを話しましたかね。疲れさえ癒えればどうにでもなる。自己再生のためのキーワードは「魂の洗濯」です。
 大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください。あなたの本質を軽く見てはいけません。それは世界の財産です。わかりますか? あなたが再生することが世界の財産なのです。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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