2017.03.26 00:33

 私は10代のある時期、明確に「成績は上げない」と決めました。勉強をやらないではないですよ。成績は上げない、です。そういう時期は何年間も続きました。理由はいろいろあるのですが、はたから見ればもはや「学習障害」みたいなものですね。上げないと決めているのだからもうどうしようもない。
 もっとも見栄があったので、友だちに笑われない程度には調整していました。ただ仲間と別れてからは、そうした見栄も一切必要なくなった。
 
 崩れていくほうが美的だと考えていたので、上昇志向はまったくありませんでした。いまでもときどき、自分はーー本質的にはーーあれからずーっと落ち続けているのかもしれないと考えるときがあります。
 こんな親ですから、息子に過度な負担をかけるのはいかがなものかと考えました。そういう意味で過大な要求をしたことはありません。息子は小学生のころ素行が悪く、勉強どころではない時代がありました。
 
 勉強はやりたくないと言っていたので、家内とも話しました。あの子は私たちの生活圏(仕事や友人など)とは別の形の人生を送る可能性がありそうだ。ただどういうことになっても、とにかく大切にしてやろうという話はつねにしていました。そうした合意事項以外にはとくに作戦はなかったですね。
 息子は気質的な真面目さが発露してくるにつれ、少しずつ「あたりまえのこと」ができるようになってきました。
 
 勉強したいというより「まともに生きないと恥ずかしい」という純朴さが彼を救ったのかもしれません。仲間の手前、あまりぐだぐだしているとみっともないという気持ちが彼を真人間化(?)したように思います。
 それはしかし高校生になってからです。いちおうのことがわかってきたのが高校生のときです。やっぱり勉強すると言い出した。こちらはびっくりして「むりしなくてもいいんだよ」と言った。それぐらい変化した。
 
 ときどき「勝手なことをやっている」生徒が出てきます。担当の先生から報告を受ける。しかし、待たないとわからない部分があるのです。待って変わるという保証はないものの、待たないとわからないのも事実。
 待てるだけの時空間を子どもたちに用意できるかどうか。入試に間に合う間に合わないは大問題ですが、人間を真の高みにおしあげていくことに比べればじつは小さな問題だと思います。
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2017.03.01 07:57

 説明会などで本気でいちばん高い進学先を目指すのであれば、大人になることが何より必要だというお話をしています。それこそ都立のトップ高校に推薦入試で合格しようということになってくると(一般入試は多少色が違ってきます)、大人以外不可能でしょう。そもそも内申ほぼオール5が必要なわけで、大人以外そんな成績はとれませんね。
 ですから本当に目指したいのであれば、いい悪いではなくそういう人間(=大人)になるしかない。
 
 おととい、いつものようにクリニックである週刊誌の人生相談を読んでいたらこういうフレーズにぶつかりました。「世間の人と同じことができないようでは、大人の資格はない」
 乗り物のつり革に素手でつかまることができないという潔癖症の方に対して厳しい意見が書かれていました。確かにこの「世間の人と同じことができないようでは、大人の資格はない」というのは一面の真理であるとは思います。そして、上に書いたレベルで勉強ができるようになるためには当然世間の人と同じことができる必要があります。
 
 するとどうなりますか。頻繁に忘れ物をする、きちんと大人と会話ができない、整理整頓の概念がない、食生活などが乱れている・・・という状態では世間の人(=ある程度しっかりした中学生)のレベルにまったく達していません。ということは大人とは言えない。その状態ではいくら勉強「だけ」をしてもトップ層に食いこむことは難しいでしょう。
 当然、ご家庭もわが子を守りすぎてはいけない。目的地に行き着けなかったというようなときに、問題は地図がわかりにくいことだけではないと考えなければならないということです。
 
 全員が行き着けなかったわけではありません。皆さん、ちゃんと探しあてている。お子さんだけがまごまごしてしまったのであれば、まだ相対的に幼いからでしょう。困ったときは大人に堂々と質問できるように、あるいは地図をきちんと理解できるように変化させていく必要がありそうです。
 ただーーここはあえて書いておきますーー私自身はとても子どもっぽい人間です。そして自分の個性はそこにしかなく、私がやっていることに少しでも価値があるとしたらとんでもなく子どもっぽい部分が活躍しているからだと考えています。
 
 私が大人だったらブログの内容も全然違っていたと思います。もっといいことを書いていた可能性はありますが、いまの内容では絶対に書けないでしょう。ですからそんな自分が現在中学生だったらどこの都立上位高校の推薦試験も受からないでしょうが、それならそれでいいと思っています。
 要するに生き方は人それぞれだということですね。そのあたりは個々の受験生ご自身が冷静にどう生きたいか考えてくださるのがいいと思います。
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2017.02.19 06:40

 高校入試の結果がいろいろと判明しています。まだまだ受験は残っていますから、総括する時期でもありません。
 ただ個人的に感じることはいろいろあります。じつは現在かなり善戦してくださっています。例年より人数は少ない学年でした。それでもそれなりの成績を残しています。いずれ公立高の合否が判明した時点で、何人中何人合格という一覧を作成することになると思います。
 この学年は中2のころ、いろいろ言われていた時期がありました。
 
 あんなに落ち着かなくて大丈夫なのかと心配してくださる先生もいらっしゃった。特定の授業を脱走(?)する子が出たりして、ちょっと雰囲気が乱れがちの時期が確かにありました。そんなに多くはないのですが、抜けていく生徒もいた。
 本部から「大丈夫ですか?」と会議のときに質問されたりもしました。私は「いまは落ち着かないときもありますが、このままで大丈夫です」と答えていました。いずれは落ち着くということがわかっていましたから。
 
 もちろん何もしないで放っておいたわけではありません。あるクラスには手紙を配付して教室に来る意義を問いかけたりしました。落ち着かない生徒がいるらしいということは知っていましたが、個人の責任云々ではないのですよ。あくまでも全体で高めていってほしいという気持ちがあった。
 中2の夏休みぐらいまではわさわさした感じもあったのですが、秋以降だんだん落ち着いてきた。そういうものなのです。場の力でそうなるものなのです。何ヶ月かタイミングがずれる程度でしかない。
 
 はたして中3になるころには、何人もの先生に「あの子たちもずいぶん大人になりましたね」と言われました。代講に入られた先生から春先(に代講されたとき)とはべつのクラスのようですと絶賛されましたよ。
 自ずからそうなっていくというのがやっぱり大切なところですね。外から強い力が加わって変わるのではなく、内から開いてくるものがあった。外圧であれば見張られていないとまたゆるむでしょう。内からの変容であれば安心です。辛抱強く待てる知恵は大切だと思います。
 
 待てずに土を掘り返してしまえば花は咲かない。どうなっているのか心配しすぎてこっそり卵を割ってしまったら雛は永遠にかえりません。時機を見通す力が大切ですね。
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2017.02.12 07:25

 息子は堅実な社会人生活を送っていて2年目に入ろうとしています。とにかく私なんかとは全然堅実さの次元が違う。気質の違いと言ってしまえばそれまででしょうが、ここまで価値観が違いながら仲良く暮らせているのは珍しいことなのかもしれません。
 それは家内も感じていて「まるでわざと逆を行くようだ」と評するのですが、結局お互いがお互いの差異を尊重してきたということなのだと思います。
 
 社会人になってから1年間、いろいろあって大変だったのですがーー終電がなくなってカラオケボックスに泊まり、明け方帰ってきた日もありましたーー私はあまりうるさいことを言いませんでした。うるさいことというのは「新人なのだからあたりまえだ」とか「それぐらい辛抱できないでどうする」とか、逆に「そんなにハードなら新しい勤め先を探したほうがいいぞ」とかですね。本人が考えればいいことで、元気のないときは元気になりそうな話題だけをぽつりと出す程度でしょうか。
 
 いらいらしているときは放っておく。いらいらする必要があるからいらいらしているわけで、そういうとき言葉だけで「いらいらするな!」と叱ったり説得しようとしたり試みるのは愚かなことに思えます。
 同じように、悲しんでいる人間に対しても「まあ、まず思い切り泣きなよ」と言えるのが本当はすぐれたアドヴァイスだと感じます。感情を上手に浄化してから、はじめて論理的な探求がはじまるのですからとりあえずは「泣くといいよ」ですね。
 
 息子は長期的展望まで考えていて、瞬間瞬間のことだけを考えて生きてきた自分(いまでさえそんな感覚があります)とはずいぶん違った一生を送ることになりそうです。
 彼は先輩方(厳しい方もいらっしゃるようです)にとてもかわいがっていただいているのですが、素直だからでしょうね。全然困っていない。その点だけは、育て方がよかったのかなと思います。親があまりにも皮肉屋だったりするとなかなか素直には育ちませんからね。
 
 私自身は父親が大変な皮肉屋でしたから、そういう物の見方を学びました。身近な人間(有名無名にかかわらず)のことをすぐに皮肉るのです。勢いがあるのもいまだけだよとか、あんなことでは将来後悔するに決まっているとか。
 内側でそうした見方を払拭できたわけではありませんが、息子の前では意識的に完全に封印しました。そうした発言を聞かせるべきではないと思ったのです。おかげさまで最近では難しい契約がとれたらしく、無邪気に喜んでいました。
 ありがたいことです。「あひる男」のころとは大違いですね。
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2017.01.28 00:36

 先日、夏目漱石の文章を読んでいたらこういうのがありました。漱石家で飼っていたネコが死んだ。庭にお墓を作って埋めることになりました。墓標をたて、そこに漱石がしゃれた文句を書いた。
 ある日ーー窓から見ていたとだけ書かれていましたーーまだ幼い漱石のお嬢さんがその墓標をじっと見つめている。それから手にしていたひしゃくでお供えの茶碗の水を飲みはじめた。何回も何回も飲む。水は供えてあった花にもふんだんにふりかかります。
 
 じつは私はこの随筆を全文読んだわけではありません。細かいところはわからないまま書きますが、お嬢さんの様子をじーっと観察し続けた感受性はやはりすごいと思いました。ふつうだと声をかけてしまうでしょう。声をかけることが子どものためでもあり、自分のためでもあるような気持ちになる。
 少し離れたところからじーっと観察を続けた漱石の中の孤独意識、さらにこの種の感情は子ども自身も味わったほうがいいのだという配慮みたいなものが働いていたのだとすれば、やはりすごい感性だと思うのです。
 
 これは漱石のレベルとは全然べつの話ですが、私もずーっと遠くから子どもを見ていながら、そのことを伝えなかったときが2回あります。あるところまで心配で見に行った。様子を見て変なことをしているなとは思いましたが、そのまま帰ってきました。
 もう1回はゆっくりあとを追ってみました。で、ははあ、こんなことをしているのかとは思いましたが、当人には何も告げませんでした。場合によっては叱るまではいかなくても注意ぐらいはしてもよかったかもしれません。
 
 それをこらえたのは、彼が感じたであろう何かのほうが、親の私がまとめて説明する概念以上の財産になると考えたからです。そしてまた、安易に家族の団欒話にしてしまいたくない孤独さを私自身が好むという事情もあったと思います。
 見られているか見られていないかはべつとして、幼い子どもが1人で考えて何かをしているときにはその行為自体に大きな意味があり、それを安易に世間的な概念で説明してしまうのはーー彼らはそういうものなのかと信じるでしょうからーーちょっともったいない感じがします。
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2017.01.23 10:23

 言葉だけではなく、伝えたい気持ちが強いと力を持ちますね。ときどき生徒と話していてそう感じることがあります。
 たとえば現時点ではさほど成績はかんばしくない生徒と話す。やる気もーー勉強に関してだけですがーーあまりなさそうに見えます。それならそれでいいのですが、塾ですからどうしても勉強のことを話す機会も出てきます。相手のほうからあることを相談されたのでちょうどいい機会だと思って、少し長く話しました。
 
 そういうとき私はあまり些細なことは注意しません。数学の宿題やっていなかっただろうとか、国語の時間うとうとしていただろうとか、そういう末梢的なことは何も言いません。
 私のクラスの生徒ではなくてもZ会進学教室には先生方が書いてくださる「授業日誌」があり、私は彼らがどんな感じで授業を受けているのか知っています。しかしそうしたことは一切言いませんでした。宿題をするしないは大事なことですが、そのときの会話の優先順位から言えばはずしてもいいと判断しました。
 
 私は彼が自分をたいした人間ではないと考えていることがわかっていたので、それは絶対に違うということを伝えました。勉強が徹底的に嫌いであれば、確かに直近の「テストの点数」はとれないかもしれません。ただそのことと個人の能力とは全然べつだということはだれかが指摘しないといけない。
 好きなことをやっても自分はたいしたことはないと思われたら、完全に育てる大人側の失敗です。好きなことを見つけて思い切り上達して、最後に世の中の役に立つ。私たちはそうあるべきだと思います。
 
 話しているうちに彼らのなかに力が充満していくのがわかるときがあります。気づくのですね。そうか、自分には相当の力があるかもしれない。そしてそれはまた真実なのですよ。勉強だけに限定したり他者との比較ばかりを持ち出したりするからおかしくなってくる。
 ときどき話していてーーただ励ましていただけなのにーー涙ぐむ子もいます。いままでどれだけ傷ついてきたのだろう? と思いますよ。私は何もしなくてもすべてうまくいくと言っているわけではありません。何かをすれば相当なものになれる事実だけは確認しながら生きようねということです。
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2017.01.11 08:24

 25年ぐらい昔でしょうか、小動物を洗ってから乾かすために電子レンジに入れてしまったという海外女性の話を聞いたことがあります。当然小動物は死にますね。するとその女性は訴訟を起こしたそうです。電子レンジの説明書のどこにも「動物を乾かしてはいけません」とは書かれていないじゃないかという理由でした。
 その後どうなったかはわからないのですが、要するに常識だとか生き物に対する想像力だとかが、その方には著しく欠如していたのではないかと思います。
 
 こういうのは子どものときにあまりにも守られすぎていた部分があったのかもしれません。自分で判断するクセをつけずにきた。この女性に関しては、もちろんわかりませんけどね。
 ただ私が見ていてたとえば10代半ばをすぎても不思議なミスをする子は、幼年期から10代前半まで極端に守られて生きてきたケースが多いように感じます。
 守ることが単純にだめということではないですよ。ただたくましさみたいなものはどうしても必要になってきます。
 
 買い物に行かせる。買い物を経験させるのは私は非常にいいことだと思っています。タマネギだのジャガイモだのを買ってきた。それがちょっと傷んでいるものだったとしますね。子どもだと思って甘く見やがって・・・と仮に保護者の方がお店に乗りこんでいって真新しいものと取り替えてくる。手っ取り早い解決策ですが、教育的な配慮から考えればそうした損得よりまず新鮮な野菜や果物の見方を教え、変なものを押しつけられそうになったら冷静にこちらのほうがいいですと言える交渉力を身につけさせないといけません。その力をつけるための買い物ですからね。
 
 以前、息子が何かの催しに早朝から数人の友だちと出て行ったことがありました。ところがなぜか息子だけがすぐに帰ってきた。持ち物を間違えたとか何か大きな失敗があったのでしょう。楽しみにしていた催しにはとうとう参加できずに終わりました。
 私は深く詮索しなかったのですが、あれでいいのだということは家内に話しました。ああやってときには痛い目を見る。その経験が次の機会に活きてくる。かわいそうに見えるかもしれないが、あれでいいのだという話をした。
 
 それをたとえばうちの子がかわいそうじゃないか、いまからでも参加させろと周囲が守ってしまったらーー瞬間的にはよくてもーー大人になりきれない部分が出てくる。過保護ということになるでしょうね。世間の冷たい風にさらすこともまた必要なのです。
 並べなかったお前にも責任がある。説明できなかったお前にも責任がある。逃げて帰ったお前にも責任がある。やる気がないと判断されたお前にも責任がある。そうしたことをヒステリックに叱るのではなく、穏やかに何かの物語のように指摘してやれるかどうか。
 
 
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2016.11.28 08:24

 ときどきコンビニエンスストアーで「飲食」をテーマにした分厚いコミック誌が売られていることがあります。まあそれなりの紙を使った500円ぐらいの安いやつです。名前を聞いたことのない作家さんのマンガが大量に収録されている。深い意味はなく、たまに買うことがあります。
 暇にまかせてぱらぱらめくってみるのですが、あまり引きこまれることはありません。もともとゆるい気分に浸ろうと考えて買うわけで、最後まで読まない作品も出てきます。
 
 どうしてなのか? と考えているうちに、作家さんたちが物語にむりに教訓をこめようとしているのではないかということに気づきました。絵そのものはプロの方が描いているだけあっていいのですよ。ところが、ストーリーの運びに妙な力みがある。
 たとえば「オヤジさん、おれ目が覚めた。頑張るよ」的な作品があったり、「本当に大切なものはきみだった!」的な作品があったりする。そうしたことを短編のマンガで訴えられてもなあ・・・と感じます。
 
 本気で感動したい気持ちであれば、コンビニのコミック誌で手っ取り早くとはならないでしょうから、教訓をわずらわしく感じる方もいるでしょう。
 ここはなかなか難しい問題で、自分が過去感動した芸術作品について考えてみても、教訓にも何にもならない切ない場面で心を動かされたりしたものです。入試問題を読んでいてはっとすることがあるのですが、そこには何の教訓もなさそうに見える。しかし、感情の大きな動きだけは意識することができる。
 
 いまから10年ぐらい前でしたか、東京のある高校の入試問題で私は非常に感動したことがありました。生徒が正解を出してくれと持ってきた文章を解いて(読んで)いるうちにわけのわからない涙が出てきた。主人公の孤独が強く伝わってきました。そんなところを見られたら恥ずかしいので、中断した。
 ああいう感動は、むりやり伝えようとしない感覚から出てくる。それもまた作家の技術であると言ってしまえばそれまでなのですが、押しつけがましくない姿勢に秘密があるような気がします。
 
 これは日常生活でも言えるでしょうね。叱ったり怒ったり説教がましくならずに、何をどこまで深く伝えられるか。逆にこうるさいあまり何も伝わらないのでないか。
 昔、中学生だった息子の肩によく触れていたことがあります。顔を見てぽんと軽くたたく。「頑張れよ」とか「大変だな」という意味をこめた。言葉に出さずにただぽんとたたく。あの「コミュニケーション」はとても効いたように思っています。技術と言えば技術。ただそれ以上のものはこめたつもりですし、それはやはり伝わりますね。
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2016.11.25 08:32

 何かが得意になるとか好きになるとか、出会いが必要ですね。その人なりに出会うのです。そして得意になる。
 私は中学生のときに洋楽に出会いました。きっかけはトミー・ロウというシンガーでした。「ヒーザー・ハニー」という曲を異様に気に入った。そこから今日に至る長い長い旅がはじまりました。トミー・ロウはどなたかに紹介されたわけではなく、ラジオで偶然聴いた。そういう偶然も大切ですね。
 
 私は自分を介して生徒が何かに出会ってくださったらいいと思っています。必ずしも勉強ではなくてもいいのです。とにかく「生きる喜び」につながるような何かに出会ってくださったらうれしい。
 私自身との出会いを楽しんでくださる方もいらっしゃって、それはそれでありがたくも感じますが、私はまあただのおじさんですから私を通じて何か大きなものに気づいてくれたらありがたいという気持ちで文学作品なんかをさりげなく紹介することがあります。
 
 さりげなく、というところが大切かもしれません。強制的な感じになると、どうしても面倒さがつきまといます。自由な中でふと手にしてみるのでないと、本当の出会いにはならないかもしれません。
 先週、太宰治の「親友交歓」と「トカトントン」という作品をさりげなく面白いよと紹介したところ、もう読みましたという生徒が出てきてうれしく思いました。よくできる子です。やっぱりそういうことに敏感な子はできますね。
 
 よくできるから敏感なのではなく、敏感なのでよくできるようになる。知的好奇心というやつですね。今週はヘルマン・ヘッセの「車輪の下」をやはり紹介しておきました。いずれ読む生徒が出てくるかもしれません。
 私はカリキュラムに従って日々授業をしています。お役にたっていると思いますが、もし私の授業を通してヘルマン・ヘッセに出会うことでもあれば、受験勉強だけではない大きな財産になると思います。
 
 昔も書いた話ですが、モネの「日の出・印象」という絵画について授業中に話したことがありました。それもまたテキストの文章との関係で何かしら話しておくといいかなと思った。「はじめは誰もが未完成の絵だと思ったそうだよ」と話した。「確かにまだ途中みたいにも見える」と。好奇心を刺激するような言い方をわざとした。
 翌週、見ましたと言ってきた生徒がいます。インターネットで簡単に見られますからね。それこそ「印象に残った」とおっしゃっていた。そうしたことが何かの種になり、やがて花を咲かせるのではないかと期待しています。
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2016.11.16 00:38

 詳しい話は省きますが、今週ちょっとだけ長い手紙を食卓に残してきました。息子が読むように。家内も必然的に読むことになりますが、それは問題ない。こういう手紙を残しておいたよという確認を取る意味で、見られてもまったくさしつかえないと思っていました。
 いろいろと彼なりにどうしようかと悩んでいる問題がある。迷ったり苦しんだりしているということです。それについて自分はこんな風に考えているよと書いておきました。
 
 こういうのは直接話すとうまくいかないのです。何かしら力が入る。私は彼のことはすべて彼に任せたい気持ちでいるのですが(もういい大人ですから)、面と向かって話すとどこかしら説教臭くなります。私が意図しなくても彼のほうでそうとるかもしれない。
 会話というのは交互に進行していきますね。すると相手の特定の会話にこだわっているうちに、話全体のイメージが変形していくことがあるのです。たとえば全体は「きみのことを大切に考えているよ」だったとしますね。
 
 そうは言っても会話であれば、何かしら相手の発言を否定する必要が出てくるときがある。直接の会話はそういうものです。仮に相手が「もう何もかもどうでもいい」とでも毒づけば、やはりその考え方はよくないとこちらは否定せざるをえないでしょう。結果として「自分のことなんか全然わかってくれないじゃないか」となり、大切に考えているよとは正反対のイメージを植えつけてしまう可能性がある。
 ですから、質問も応答もできない手紙はいいですよ。ふーん、こんなことを考えてくれているのか・・・となりますからね。
 
 そもそもうるさくあれこれ言いたいわけでもないのです。手紙に託して物事を伝えたいというよりは、私の心を伝えたいのです。心さえ伝われば細かいことはどうでもいいとも感じます。大切にしてくれる人間が側にいれば、人間そうそう簡単につぶれてしまうもことはありません。方向性はともかくとして、それなりに頑張れるものです。
 子どものころからこうやって育ててきたなあという感慨があります。社会人になった息子にまだ遠方支援(?)みたいなことができるのは幸せなことです。
 
 過去の記事に「あひる男」というのがあります。2100件を超える記事の中で、あれが最高傑作だとおっしゃってくださった方が複数いらっしゃった。うんとおひまな方は、ブログ内検索でお読みになってみてください。あんな子どもが、大人になりましたよ。ありがとうございます。
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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