2017.08.18 07:17

 動物が寄生の意味ではなく他の動物を意識的に「飼う」ということはあるのですかね。他の動物を飼うのは人間だけであるような気がするのですが、どうなのでしょう。よく狼に育てられた人間の話を聞くことがあります。あれは狼が人間を飼っているというより何かの関係で自身の子どもだと勘違いしてしまったのだと認識しています。
 いわゆるペットとして飼うのはどうしてなのか。犬が来てから改めてそんなことを考えるようになりました。
 
 私自身、これまで犬だけでなく、亀、鳥(何種類か)、カブトムシなどの昆虫類(幼いころ)などを飼ってきました。ほかにもカニ、ヤドカリ、メダカ、金魚、どじょう、すごいところでは貝を飼おうとして失敗したことがあります。なぜ飼ったのかと言われると単純に面白かったからとしか答えようがないですね。
 子どものときは面白いだけでしたが、大人になるに連れて対象の生物を擬人化するようになりました。心が通じていると思いたくなってきた。
 
 大きい動物であればあるほど、心が通じているような気分になります。うずらを飼っていたときは私のあとをついて歩いたりするので、かなりわかっているらしいという感触を持ちました。亀も私と他の家族とでは反応が違ったので、自分のことがわかっているのだなと勝手に想像しました。
 犬はもちろんこちらのことを覚えますから、人間側が思っている状況とは違うにしてもとにかく心は通じます。「おすわり」と言うとすっと座る。
 
 ときどき家内が大きくなった犬を抱きかかえて狭い部屋をうろうろしていることがあります。脚があるのですから歩かせればいいのに、子守みたいに抱いたままうろうろしている。さすがにまだ頭がぼんやりしてくる年齢ではないので、何かの勘違いではなくそんなことをしたくなるのでしょう。
 不思議な光景ですが、要するにかわいい。かわいいのであえて抱いてやりたくなる。私も部屋の中はうろうろしませんが、膝の上で撫でてやることがあります。
 
 家内は優しい人間で、幼いころの息子でも鳥でも犬でも甘く甘く育てていました。相手が決まり事を破ってもそうは叱らない。どうしても破りたいのなら破ってもいいんだよ、そんなことではお前のことを嫌いにならないよという感じで接していました。そのことで息子も鳥も犬も情緒が安定してきた。ピリピリ感がないのです。深い愛情に包まれているという自信がつくのでしょうね。
 しつけはもちろん大切ですが、大前提としてとにかく愛されているという安心感を持てないといけないですね。交換条件見え見えの愛情では、なかなか本来の力が発揮されないように思います。
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.08.02 00:18

 昔、名人までのぼりつめたある棋士がこういうことをおっしゃっていた。タイトル戦に挑戦者として名乗りをあげたときの談話です。タイトル保持者は当時棋界の最高峰の棋士でした。ところがその挑戦者は相手は関係ないという。相手は関係ない。戦型も関係ない。勝負はそういうところでつくものではない。あとを読んで、なるほどと思いました。自分がどうであるかだけなのだと。要するに自分が圧倒的に将棋が強ければ誰にでも勝つ、それだけが問題なのだというのです。
 
 だから自分のコンディションとか棋力とかを「最強」にもっていくことだけを考える。結局そのタイトル戦自体は接戦の末敗れてしまったのですが、のちのち名人になるような人間は深いことを考えているものです。相手の弱点がどうの、得意戦法がどうのとおろおろしているようではホンモノではないということでしょう。
 子どもたちに接することも、これに似た要素があるような気がします。この子はどこの中学だとかあの子はどういう性格だとかやたらと分析するより、自分はどうなのかという視点のほうがはるかに大切だと感じます。
 
 相手によってあれこれ態度を変えているようではーー瞬間的には効果があってもーー所詮は「その程度の人間である」ということです。普遍性がない。それはもちろん子ども側からもよくわかります。そのとき「この人は信頼できるからついていこう」と心底考えてもらえるものかどうか。
 現在の私は相手が小学生でも中学生でもあるいは卒業生のアルバイトの方でも、そんなに態度を変えることはありません。つねに一定の慈しみの気持ちを持って(昔はこれができなかった)接しているつもりです。
 
 子育てしていくうえでいちばん大切なことはお子さんにどう対処するかということではなく、育てている私たちがどの程度の人間であるかということです。私たちのレベル(という呼び方はちょっと抵抗もありますが便宜上使わせてください)が上がれば上がるほど、子どもたちはこちらを尊敬します。立派な人の言うことだから聞いておくかという自然な感情も芽生えるでしょう。
 ところが、往々にして大人は子育て本のノウハウみたいなものだけに頼りがちです。自分を高めることはせずにノウハウで何とかしようとする。
 
 それは無理のないことでもあるのですよ。ノウハウの提唱者は皆さん「これだけで大丈夫!」「奇跡の天才児に!」みたいなことばかりおっしゃいますからね。
 ただノウハウはともかくとして、自己の向上ーーより自分らしく、より愛情深く、より公平に、よりおおらかに、より世の中の役にたつように、より人間らしくーーを意志する人間ほど魅力的な存在はありません。彼らはこちらの人間性をじーっと見ています。
 自己の完成を目指す過程でお子さんともうまくいくようになってくださるのがいちばんです。そしてそれがまた何よりの近道でもあるのです。
 
 大人が、子どもに尊敬されなくてどうするのかということです。尊敬しない子どもが悪いのか、尊敬されない大人が悪いのか。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.07.31 00:19

 いろいろな意味で疲れてしまったら、しばらく休んでください。休むことは非常に能動的な行為です。休むことを消極的な姿勢と考えずに、積極的な準備期間だと思ってください。後日の大活躍に変えていくことが十分可能です。
 場合によってはただ寝ているという日もあるかもしれません。ひたすら好きなことーー生産的なことでなくても構いませんよーーだけをしている日もあるかもしれない。それでいいと思います。私も1日中ネット将棋を指していた日がありました。
 
 そうした過ごし方ももちろんあっていいのですが、自分を再生させるために時空間を有効に使う知恵もまた大切だと思います。それこそ旅をするとか、遠くまで散歩に出るとか。映画を鑑賞する。美術館に行ってみる。神社仏閣をめぐり歩く。憧れている人物の伝記(エッセイ)を読む。尊敬する人に話を聞いてもらう・・・
 重みのある時空間で何かを感じることは自己再生につながります。自分はこうだった、こうなりたかった、こういう夢を持っていた、こんなことでつまずいている人間ではないはずだ・・・それは「リセット」に近い感覚かもしれませんね。
 
 周囲も接し方には気をつけられるといい。疲れていると人間誰しも自暴自棄になりがちです。それは疲れが運んでくる要素であり、その人の本質とは違います。あまりにも疲れているので捨てたくなるだけです。ご本人も混乱のきわみにあり、何が何だかわからなかったりしますから「それは疲れの影響であって、あなたは本当は捨ててしまうような人ではないから安心して」ということは伝える必要があるかもしれません。
 昨年だったか、勤めはじめた息子がもう会社をやめたいと言い出したときがありました。
 
 やめないほうがいいというのは理屈であって、理屈は精神的な疲労のまえではまったく意味がありませんね。極端に疲れて眠りそうになっている人間に、このタイミングで眠るのは人間としてどうなのかなどと注意しても、そんなことわかっているけど死にそうに眠いんだからどうしようもないじゃないか! と反発されるだけでしょう。
 まず落ち着いた雰囲気作りを心がける。何でも話せる時空間ですね。息子には「やめたければやめてもいいよ」と言った。反対されなかったことで、気持ちが楽になるでしょうから。
 
 仕事はどうなろうとも生きていればいいこともたくさんあるだろうし、世の中の役にたつこともいろいろ出てくるだろう。そんなことだけを話しましたかね。疲れさえ癒えればどうにでもなる。自己再生のためのキーワードは「魂の洗濯」です。
 大丈夫ですよ。ゆっくり休んでください。あなたの本質を軽く見てはいけません。それは世界の財産です。わかりますか? あなたが再生することが世界の財産なのです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.07.21 09:18

 極めて落ち着いた気持ちで静観しているのですが、基本的に学力の本質はそうは変わらないものです。知識というのはやはりそれ相応に重視されるべきもので、たとえば「情けは人のためならず」の正しい意味であるとか、「そんなご飯は食べれないよ」のどこが間違えているのかとか、「それは杞憂だった」の意味が正確にわかっているかとか、正しい答を出せる人のほうがぜんぶ間違えてしまう人より確実に勉強家であり、入学試験などで高く評価されるはずです。
 
 ですから、マークシート方式がどうのこうので、知識に関してたいして覚えなくてもよくなるのではないかという期待はまったくできないと思います。いままでと同じ、あるいはそれ以上の知識の定着は必要であり、勉強量を減らしても心配ないという事態にはならないでしょう。
 いままでの試験はある種の骨格として残り、そのうえで「臨機応変に対処できる力を確認していく」形に移行するでしょう。
 
 この「臨機応変に対処する力」というのは、確かに教科書の勉強だけではどうしようもない部分があります。それはある種「人間力」であり、あなた自身の生き方と密接に関係してきます。
 それこそーー以前も書きましたがーー特急列車のシートをどれぐらい倒していいものか、あなたはその理由とともに即座にまとめることができますか。即座に、です。そうしたことは現実場面では瞬間的に考えるべきことです。列車に乗って背後にどなたかがいて、いままさに倒そうとしているときに考えるわけですから。
 
 そうした物事を少しだけ時間はあげるかわりに理路整然とした文章で数百字で書いてくださいというのが「人間力」のテストですね。
 次々と使えそうな言葉が浮かびますか? 遠慮、礼儀作法、自由、権利、マナー、気分を害する、思いやり、我慢、人と人との関係、自分が座席を倒す場合と倒される場合、配慮、ルール、日本の風習・・・そうした用語がいくつもいくつもぱーっと頭をかけめぐるぐらいでないと的確に対応できないでしょう。
 
 そこは机上の勉強だけでなく、日常のお手伝い(それこそたまには料理を任されて途方にくれながら仕上げたり、洋服を1人で買いに行って店員さんとあれこれ相談できるぐらいの力が必要です)が威力を発揮するでしょうし、大人とのコミュニケーション能力は絶対に必要で、そのためにはもちろん「大人が何を考えているのか」ということがある程度わかっていないといけません。
 大人との関係が大切で、命令ー服従、指示ー反抗みたいなことだけではまったく能力は開発されません。そこは大人側も育てていく過程で大切に考えないといけないでしょう。
 
 正しい「人間力」は正しい「家庭力」からついていく側面もありそうです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.07.16 00:20

 1つの目安としてだいたい2学年上の教科書がすらすら読めるかどうかがいわゆる国語がよくできる・そうでもないの分岐点になってきます。小学校6年生であれば中学2年の教科書、中学3年生であれば高校2年の教科書ですね。
 すらすら読むためには内容が理解できないといけない。「うへー、何これ?」状態ではすらすらというわけにはいかないでしょう。自分ができるようになれそうか、そのあたりで確認してみるといいと思います。
 
 2学年上の教科書というのはたいした背伸びではありません。たとえば高校生のある教科書には芥川龍之介の「羅生門」が出てきますが、「羅生門」そのものをすでに読んでしまったという中学生はたくさんいます。小学生のときに読んだという子も相当数いるでしょう。私自身も小学生のとき読んだ記憶がありますが、高校生になって改めて何時間も解説されるわけですからそれはそれはよくわかる。
 語彙も表現も思想的な展開も、解析的に授業を受ければーーなるほどあのとき感じたもやもやはこういう解釈なのかとーー本当に深く理解できます。
 
 ところが中には芥川龍之介の名前すら知らない高校生がいます。私はそういう方を否定しているわけではありませんよ。いろいろな生き方があり、芥川龍之介を一生知らないままの人生だって全然悪いとは思いません。私だってありとあらゆるクラシック音楽を知らずにこの歳を迎えています。
 ただ少なくとも国語の授業で「羅生門」を学習しているときだけは、芥川を知らない高校生が著しく不利なのは事実でしょう。そもそもあらすじさえわからない。あれはこういうことだったのかという再発見もない。
 
 2学年上の教科書をすらすら読める生徒はもちろんむりに先取り学習しているわけではありません。先取りというのは「気づいたらだいぶ先のものに興味を持っていた」という形をとらない限り、なかなか効果が出てきません。むりに先取り学習をさせられた小中学生がかえって勉強嫌いになり、大きな壁にぶつかったりしている状況を何度も目撃してきました。文化的成熟が自然に同学年より2年程度進んでいるというのが理想です。中学時代に自然に芥川龍之介に手が出るぐらいの生活が、本当は好ましいのです。
 
 ただ現状、そうでなくても何も心配はないのでご安心ください。方向性としてというお話です。私はこのブログを選民思想みたいな気持ちでは書いていません。ここからのスタートですよ。私を含めて「全員」の方がここからです。よりよく生きるということですね。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.07.04 01:13

 私たちは他者とコミュニケーションをとるときに、こちらの言いたいことがまったく伝わらなかったらどうしようという変な恐怖心を抱くことがあります。そこでわーっとまくしたててしまったりする。ところがそんなとき喋れば喋るほど事態は悪くなり、真意は伝わりません。
 コミュニケーションというのは双方向のものです。むしろあちら側の「伝えたい」という焦りをうまく引っ張り出してあげたほうが良好な関係を維持できますし、結果的にこちらの意志を伝えることも可能です。
 
 昔の人はそのことを「耳は2つで口は1つ」というような形で表現しました。つまり喋る倍きちんと聞きなさいということですね。それはコミュニケーションの1つの神髄ではないかと思います。
 たとえば教室にやる気のない生徒がいたとします。呼び出して「なぜ真面目にやらないんだ!」ではシロウト同然であって、そんな叱責はまったく効果がないだけではなく人間関係まで崩してしまう可能性があります。意味がないですよ。昔の大人はそんなのが多かった。
 
 私が彼らと話すときはまあ「最近どうかね?」ぐらいです。その回答の中にすべての要素が内包されている。それを読み取れない私のほうが悪いと思いますよ。自分が子どものころはそんな大人ばかりでした。だからこそ私はいまの立場でしっかりやろうと考えています。
 封建的な時代の大人たちの愚鈍さみたいなものを自分ははっきり覚えています。どれだけ鈍感でどれだけ浅薄だったか。大人というものがどんなにくだらないかということはじつにしばしば感じましたし、友人とはそんな話ばかりしていました。
 
 とにかく相手の話を聞くことです。そこにはもちろん巧妙なウソやごまかしが入ってくる。大切なのは「なぜ」ウソやごまかしを入れなければいけなくなったのかということですね。ウソをつくしかない方向に追いつめたものは何なのか。それを聞き取る気持ちが大切だと思います。
 部活は忙しいかい? きみが尊敬している人間って誰? いちばん面白かった本を教えてくれよ。どんな大人になりたい? いまの世界をどうすればいいと思う?
 
 そんな感じですよ。それで「しっかり勉強しようじゃないか」ということが伝わるかどうか。伝わらなければ何度でも話を聞きます。直接「勉強しろ!」では夢がない。露骨なプロポーズに似ています。相手はなかなか受け入れてくださらないと思いますよ。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.06.16 01:54

 料理人が料理を作るのが下手であったらそもそも料理人として失格ですね。料理で生きていく覚悟であれば、上手に料理ができて当然だと考えるべきでしょう。ただ料理さえ上手ならそれですべていいのかということになると、ちょっとどうなのだろうという気はします。
 遠い昔に行っていた飲み屋さん、いわゆる酒亭という感じのこじんまりしたお店で、ご主人はすごく料理が上手だったのですが、雰囲気がよくないのです。それで料理は食べたいと思いつつ、だんだん足が向かなくなってしまいました。
 
 常連のお客さんとご主人が話をしている。ご主人は噂話が大好きで、あそこの奥さんはご亭主のお母さんと敬遠の仲だよとか、あの店のマスターは雇っている女の子に手出しちゃってさーとか、とんでもない話題がぽんぽん出てくる。それを常連さんが喜ぶわけです。
 私はせいぜいひと月に1度行くか行かないかという感じだったので、そういう形で盛り上がられても非常に困りました。
 
 料理人としてはまったく瑕疵はないものの、ある意味では尊敬しにくい(?)人が作ったものをおいしいおいしいと喜んでばかりいていいのだろうかという気持ちになってきました。
 おそらくそういうところは他の方も感じていたのでしょうね。ほどなくしてお店はなくなってしまいました。ただ私はそのご主人が作ったいくつかの食べ物ーーおからとかーーを、いまでもどこで食べたものよりおいしいと感じています。
 
 こうしたことは料理人だけではないですね。先生という職種も科目の知識だけではやっぱりだめだと思うのです。授業がよくわかるのは当然だとしてそれだけでは足りないのであって、できれば人格的な部分でも多少はいいところがないと生徒はついてこないでしょう。
 道徳のお話ではないのですよ。そもそも私自身単純な善人になろうと考えたことはありません。ただ一生懸命生きているとか、最低限のマナーは守るとか、温かい空気を醸成しようと努力しているとか、そういうことは大切だと考えています。
 
 どう評価されようが一生懸命に生きている。その姿勢を伝えることは本当に大切ですね。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.06.13 10:00

 先日、インターネットのニュースを見ていたら小学校の30代の先生が教え子の自宅で暴力をふるったという変な記事が出ていました。
 何でもその先生は事件のあった日、校長先生や同僚の先生とお酒を飲んでいたそうです。午後の10時ぐらいになってなぜか小6の男児の自宅に1人で出かけていった。そしておもちゃの太鼓のばちで男児を30回ぐらい叩いてけがをさせたというのです。
 男児はトイレに逃げこんだ。それを追いかけていってトイレも一部破壊したそうです。
 
 完全におかしい・・・だけでもないのかもしれません。この先生は翌日には男児が学校を休んだことを気にしていたと書かれていました。家族が相談して事件が発覚したのですが、それまでずっと教壇にも立ち続けた。完全に「?」というわけでもなさそうです。
 おそらく熱心は熱心な先生なのでしょう。よくわかりませんが、男児のご家族がいらっしゃったらそんなことはできないでしょうから、夜の時間帯に心配して見に行かれた可能性はありますね。
 あくまでも想像ですよ。そしてかっとなって暴れてしまった。
 
 この「相手のためを思っているうちにかっとなって・・・」みたいな話はどこでもよくありますね。しかし、それはいったいどうなのか。
 私ぐらいの年齢の人間は、時代的に大人たちから体罰を受けて育ちました。時代的なものでしたから深刻にはならなかった。ですが、暴力的な相手に深い愛情を感じたことはありません。暴力的な人間は何かに負けているように映るものです。暴力はーー戦争と同じでーー要するにコミュニケーションの可能性をそこで断ち切ります。
 
 たとえ子どもであっても、暴力を受けている側は冷静に相手を観察しているものです。相手の目に宿る狂気におびえながら、じつは相手が楽しんでいるらしいということにも気づいている。憂さ晴らしでやっているなと感じるときもありました。暴力行為が相手の心に次々と興奮を呼びコントロールできなくなっているのをじーっと耐えている。絶望的な流れの中で、いずれ自分が相手より強くなったらそのときこそ・・・などと考える。
 
 そういう機会を作ってしまっていいのかという話ですね。小学校の先生がばちで30回という部分だけ取り上げれば完全に異常者みたいですが、誰でも同じような狂気を内側に持っているかもしれないと自覚したほうがいい。自分だって気をつけないと・・・という自覚がないから暴走してしまうのです。
 世の中、自分の場合だけ「あの暴力はやむをえなかった」と正当化して考えようとします。あの戦争はやむをえなかったという発想とちょっと似ているかもしれません。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.06.02 09:24

 先日、教室で中1の保護者会を実施しました。大勢のご父兄がいらしてくださった。会が終わったところで、ある保護者の方が私にこうおっしゃった。
 口調が非常に知性にあふれていて私は心底感心したのですが、要するにお子さんが在籍しているクラスが少し騒がしくなるときがあるらしいのです。「正確にはわからないものの、ちょっとだけ気にかけておいてくださいませんか」というような大変ご配慮いただいた表現でした。
 
 「授業中うるさい生徒がいてうちの子が迷惑している」的な直截な表現をしたくなるケースが多いと思うのですが、私があまり困らないようにということを考えてくださっているのです。私はすぐに調べてみますという意味のお返事をさしあげた。
 で、先生にちょっと訊いてみたり授業日誌を調べ直したりしたのですが、要するにすごく活気のあるクラスなのです。発言も多い。ある先生は、若干わさわさしてもあれぐらい活気があったほうが伸びるのではないかとおっしゃった。
 
 それもまたわかるような気がしました。教室の空気がどんよりしていると静かであってもなかなかうまくいきません。空気そのものは「楽しい」感じでないと伸びていかないというのは事実でもあり、なかなか難しいなと思いました。
 私にできることを考えた。楽しい雰囲気を残したまま私語などは少し抑制していく。そのためにはどうしたらいいのか。
 担当の先生に厳しくやってくださいとお願いするだけでは、あれだけのご配慮をいただいた保護者の方に申し訳ないですからね。
 
 そうかといって、ふだん教えてもいない「教室長」がいきなり教室に入ってきて「静かにしろ!」はないでしょう。
 そういう乱暴なことをするから子どもたちに反発されるのです。やわらかく、理念だけはしっかり伝えるにはどうしたらいいのか。
 私はそこで彼ら全員に手紙(もちろん印刷物ですが)を書きました。礼儀正しく「いつも学んでくださってありがとう」という挨拶からスタートしましたよ。
 
 渋谷教室で人気の高いある名門都立高校の「期待する生徒像」にあった「集団のルールとマナーを守る」という文言を紹介しました。そういう人が期待されている以上、あなたがそうなるしかないですよという意味のことを書いた。配るときも大声を出したりしないでなるべく笑顔で「困っている人がいると心配なので読んでくれ」と言いながら配りました。
 皆さん読んでくださったみたいで、その日の授業後担当の先生は今日はとても静かでしたとおっしゃっていました。
 
 保護者の方が私に配慮してくださったように、私もまた生徒たちに「つねに」ある種の配慮を持っています。それはじつはよりストレートに意志を伝えるための配慮であり、世の中露骨に伝達するより思いやりを持って接したほうがはるかに伝わることが多いものです。大人と子どものあいだであっても、コミュニケーションのスタート時点で相手に対する敬意と思いやり、さらには伝え方に品性がないと伝わらないものだと考えています。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2017.05.26 09:37

 自分の考えていることをどなたかに押しつけようとすることはまずありません。それぞれがそれぞれの意見を持ちながら協調して生活していくのがベストだと思っています。
 ただ現実を見ていると、権力的なものの腐敗や堕落は昔よりひどくなってきていると感じます。全世界的にそういう感じがする。
 本当の力ではない力を信奉するからでしょう。増えたり減ったりするものはーー不安定なわけでーー本当の力ではない。そのことをきちんと学ぶ場がない。
 
 本当の力ではないものをやたらと持ち上げて、これさえあればあなたも勝利者だ! という要素が教える側(広義の教育する者たち)に強すぎるのです。
 おまえも成功者だなどと安易におだてるからいけない。決してなくならないものを丁寧に獲得していくのが徳性ですよと穏やかに伝えて考えさせる経験を持たせるのが本当の教育(導き)ではないかという気はします。
 教える側に、生きる哲学が欠落しているのかもしれないですね。
 
 本年度の自分の中1のクラスにはすでに25人以上生徒がいて、ほぼ満員状態です。机はあと少しだけ余裕がありますが、やみくもに増やそうという気持ちはありません。
 私はカリキュラム通りにあたりまえの授業を展開しているだけでとくに特別なことはしていませんが、大人の流儀みたいなものは伝えておかないといけないとつねに考えています。テストの点数だとか偏差値だとかはそのあとのことなのですよ。そういう増えたり減ったりするものは骨格形成のあとで大切にしていけばいい。
 
 私の授業は最終コマです。すでに英数と3時間勉強してきた彼らは疲れています。途中でトイレに行きたがる生徒が出てくる。にこやかに「行っておいで」と言う。毎年そうです。中2中3になると落ち着くのですが、中1のときはそういうことが多々あります。これを「どうして休憩時間に行っておかないんだ!」と私の年齢(ここは大切です)でやみくもに叱ったりするのは、成熟した大人の行動ではないと考えています。休み時間には上級生がたくさん来るからトイレに行きにくい子も絶対にいるはずで、そうした想像力を大人だから持てるのだと感じさせることはじつは大切なことだと思っています。
 
 規則はきちんと話したうえでいろいろとイレギュラーな応対をしていますが、それは単純に甘やかしているのではないのですよ。大人はいろいろ考えているということを伝えたい。伝わっているものはあるのでしょうね。彼らは授業中決して騒いだりはしません。何人いてもきちんとやってくれます。
 授業中生徒が騒いでしまうと先生が嘆かれているケースを過去何度か見たことがあります。「舐められないように」とやたらと厳しくされる。その姿勢が、逆に軽く見られてしまう。重みみたいなものは自然と伝えていく必要がありますが、それは大人側がどれだけーー科目内容だけでなくーー人生を勉強しているかという要素がじつは大きいですね。
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2017年08月   >>
    01 02 03 04 05
06 07 08 09 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

新着記事

月別アーカイブ