2019.05.14 09:21

 たとえばある生徒が私に対して反抗的だとします(あくまでも例えであり、ありがたいことにいまはそういうことで困らずにすんでいます)。ところが、それは必ずしもその子が私が嫌いということではないのです。私がいやで反抗するという事例ももちろんあるでしょうが、それよりは「先生」とか「大人」とかという権威に対して反抗したいという気持ちを持っていることが多い。
 だいたいは父親との関係でそうなるみたいですね。「権威」みたいなものが許せない。
 
 以前も書いたように私自身そうでした。中学3年のあるとき、これからは大人全員に挨拶をしないと決めたことがありました。大人は自分勝手でずるいから・・・というのが表立っての理由でしたが、もちろんすべての大人の生活を私が知っているわけがありません。どうしてそんなことになったかというとーー細かい事情は忘れてしまいましたがーー要するにいつも両親から強く叱責される。ただその理由の多くに自身ではまったく納得がいかない。納得がいかないけれども力でねじ伏せられてしまう。そのことに対する無念さみたいなものが鬱積して反抗的になりました。
 
 両親は言ってみれば「大人代表」みたいなものでしかない。そして、ぜんぶの大人と挨拶なんかするものかとなった。ただ現実問題として、いい大人というのもたくさんいるわけですよ。そちらのほうが多いぐらいです。先生なんかも理解のあるいい先生がたくさんいました。それを軒並み無視というのはけっこう難しいものがありました。気がつかなかったふりをしたり、徹底的に視線をそらしたり、ばかみたいな努力を重ねてそれでも一時期は徹底して頑張ったように思います。
 
 反抗的というのは、要するに何かでひどく傷ついている可能性があるということです。仮に私に反抗的であるとして、私自身がどうこうではなく私の背後に透けて見える「大人の世界」の理不尽さに抵抗しているだけかもしれない。
 ご家庭でも同じですね。あることでばーんと反抗するのは、そのこと自体が問題ではないのかもしれません。積年の恨みつらみみたいなものがいま出てきて爆発した。ですから、一点にしぼって「この内容のどこに文句があるのだ」などと話してみてもらちがあかないこともあるでしょう。
 
 大人は、その子の反抗をはぐくんだ土壌みたいなものにまで想像をのばす必要があると思います。少なくともまったくこちらに挨拶をしない昔の自分みたいな子がいても、私はその子と自分との関係だけに原因があるのだとは考えないようにしています。
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2019.04.24 03:36

 先日、こういうことがありました。数学の授業、新しく入ってきた生徒がよくわからないと言い出しました。先月いなかったのであやふやなところが出てきた。先生に「わからないので教えてください」と申し出た。りっぱですね。わからなくてもまあいいやではない。何とかしようとご自身で残りますとおっしゃった。こういう要素がじつはいちばん大切なのですよ。
 おうちにもちゃんと連絡された。私はそのことをあとで知ることになります。さらにちょっと意外なことが起きました。
 
 同じクラスの別の2名の生徒が、補習をするのであれば自分たちも残りたいとおっしゃった。その子たちは新入会ではないのでいちおうわかってはいる。わかってはいるけれども何となく不安な部分があったのでしょう。自分たちも残って教わっていっていいですか? と先生に訊いた。もちろん先生はいいとおっしゃいますね。勉強したいということであれば、つねに参加歓迎です。
 こういう形でなければ生徒を残しても効果が薄い。いやいやではだめだということです。
 
 しかもこの子たちはまだ中1です。受験生ではない。にもかかわらず、自分たちで残って勉強していこうという意志と熱意を持っている。伸びていく生徒というのはこうやって「ご自身から動ける子」です。目的意識がはっきりしている。
 逆にいやいや残されても効果はいたって乏しいものです。私も若いころ(20代)張り切って当時仕事をしていた塾で毎週生徒を残したりしました。1時間以上残してやらせたこともあるのですが、いやでいやで涙ぐむ小学生が出てきたりしてこれでは「いじめ」みたいじゃないかといやになり残すのをやめました。
 
 ときどきやっていなかったら残してでもやらせてほしいとおっしゃる保護者の方がいらっしゃってお気持ちはよくわかるのですが、いやいやではほとんど効果はなくご本人は勉強ぎらいになる一方でしょう。自ら残るぐらいでなければ効果はない。そしてさきほどの子たちのように、中1でも入ってきたばかりの生徒でも臆することなく「残ります」とおっしゃる場合もある。それは勉強がどうのこうのという以前の、基本的な生活の姿勢にあります。積極的という用語では片づけられない生き方の姿勢がある。
 
 そうした姿勢はやはり生活の場で身につけないといけない。幼いころから何でも周囲が用意しすぎるとそれがあたりまえになってしまいますね。
 比喩的に書くとこういうことです。幼いころは黙っていても食事が出てきますね。それがあたりまえになってしまっていつまでたっても「お腹が空いた」と訴えられないような人間ではいけないということです。守りすぎないということもまた大切な何かなのです。
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2019.04.07 07:01

 ときどき「受験でつぶれてしまった」という表現を目にすることがあります。中学受験が多いですね。どうしてそのようなことが起きるのか?
 これは私自身がまさしくそうだったので、非常によくわかります。やるのであれば、受験勉強は本当にエレガントにやらなければいけない。周囲にそうした配慮がないと、きわめて危険でもあるのです。春期講習の報告会でもその話をしたのですが、せっかくですからここにも残しておこうと思います。
 
 彼らはなぜ失速するのか? 暴力的な価値観に対する反抗が、受験が終わって何年もたってからわーっと出てくるのです。いわゆる反抗期に入って、あのときの自分はいいように踊らされていたという悔しさが出てくる。多くはご両親に対してですね。中には「強制的な受験勉強という虐待を受けた」と語っていた生徒もいました。
 私が育った時代は、体罰あたりまえという時代でしたからまだわかる。ところが彼らは精神的な意味でこの用語を使っています。
 
 人さまの例を出すわけにはいかないので自分の話をしますが、私もいちおう合格はできたので、受験勉強がむだではないということは理解できた。ただその過程において、点数がいいか悪いかだけの評価軸ですべてが決定という脅迫的な価値観を押しつけられたことは、ずっとあとになってからひでえじゃねえか! という気持ちになりました。
 つまり点数がいい子をーーそれがどんな人間であってもーー両親揃ってあの子は素晴らしい、お前もああいう人間を見習いなさいと言う。
 
 逆に点数が低い子をーー私の親しい友人であってもーーできない子と遊んでばかりいるから成績が伸び悩む、もうつきあってはいけないと命じられる。こうした見方が何という浅薄な人生観だったのだろうということは、中学生になって外の世界が見えてくるにつれ実感できるようになりました。
 偏差値ですべての序列を決める価値観は、資本主義下では貧乏人はぜんぶ役立たずでお金持ちだけが有能であるという乱暴な決めつけ方とちょっと似たところがあります。
 
 そして金持ちになる(高い偏差値をとる)ためなら手段を選ばず他者を蹴落として何でもやれということになる。
 ある時期から私はそうした価値観は一切捨てようと強く思いました。きっかけはいろいろありますが、とにかく全否定でいこうと思った。ですからじつは勉強そのものがきらいになったわけではなかった。誇りを持って別の座標軸で生きようと思ったわけです。
 
 豊かな人生観を与えてやれない大人は、子どもから反逆されるものです。そこは少し気をつけないと。
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2019.03.20 01:13

 昨日ゲームのことについて少し言及しましたが、私は自分の息子にはゲーム禁止などの措置をまったくとりませんでした。1つには家内もゲームをよくやっているということがあります。もう1つはーーゲームという軽い名称を使ってよいものかどうかわからないのですがーー私自身ネットで将棋は指しているので、息子だけ規制するのはどうかという心理が働きました。
 ただ自分で指していてわかるのですが、あきらかにゲーム類には依存性があるようには感じます。
 
 あるいは依存しやすい体質というものもあるのかもしれません。私は昔から自分は非常に何かに依存しやすい体質だと感じています。子どものころからそうでした。幼稚園のころ、叔父からプレゼントされたあるゲームを指の皮がめくれて血が出るまでやっていて両親から呆れられたことがありました。お前は、バカかと。血が出ているのになぜやめなかった?
 昔のパチンコに似た親指ではじくゲームでした。内容的には野球形式になっていて、ホームランを狙って私はひたすらはじいていたのです。
 
 もちろん血が出たということはわかっているのですが、かーっとなっていて痛みを感じなかった。ゲームから引き離されてはじめて「痛い」と自覚しました。両親にどう説明したのかは忘れてしまったのですがその後も同じようなことがあり、とうとうゲーム自体を取り上げられてしまいました。
 現実生活で私はパチンコや麻雀、あるいは競輪や競馬などの合法的なギャンブル類をまったくやらないのですが、自分のそうした性向を熟知しているので近づかなかった面もあります。
 
 将棋についてはじつはいまでもそういう側面があり、最近も休みの日にネットで25局指したことがありました。1局20分ぐらいだとして8時間以上になりますかね。
 息子が小学生のころは夜に指しはじめて止まらなくなり、翌朝息子が起きてくるまで続けていたことがあります。「お父さん、ずっとやってたの?」と質問され、はっとしてそのときは「そんなわけないじゃないか」と教育上(?)ごまかしたのですが、簡単に書くとアツくなって時間感覚がなくなってしまうのです。
 
 25局指した翌日は珍しく頭痛がして、こういうのはほどほどにしないと本当にまずいなと思いました。ただ理屈でわかっていても止まらない可能性があり、物理的な約束は必要だと思っています。
 ですから、自室に持ちこまないとかやるときは他人の目の届くところでやるとか、お子さんにも決まったルールは与えるべきだと思います。やみくもに禁ずるというのもまた大人になれないような気がするので、ルールについてはご本人と話し合われるといいでしょう。
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2019.02.27 03:47

 ときどき何かの関係で「うちの子どもはどうしようもない」というお話をいただくことがありますが、私は自分の中学高校時代を思い出して、あの当時の自分よりはるかにまともだと感じます。両親や勉強に対する姿勢なんかですね。
 もっともそこには子どもなりの「理由」というものがありました。その「理由」がなくならないかぎりは、反抗的な態度もあらたまらない。もっともっと悪くなってやるぞ、ぐらいに考えていました。
 
 世間一般の「誰のために汗水流して働いていると思っているんだ」とか「どれだけ教育費をかけているかわからないのか」とかは、子どもの心にはまったく響きません。ありがたいとも何とも思わないものです。少なくとも私はそうでした。当時「私立に通わせてやっている」ぐらいのことは言われましたが、こちらは「私立に通ってやっている」という気持ちしか持ちませんでした。何を言われても聞く耳はもたない。母親には「うるせえ」だけです。父親はこわいのでまったく話をしない。徹底的に無視です。何か訊かれたら「ああ」とか「うん」だけでした。
 
 わかったか? と親は確認したがりますね。自分は「わかったよ」とふてくされてすぐに姿を消してしまうのですが、全然わかっていませんでした。ぜんぶ言われたことのま逆をいってやろうとファイトを燃やしました。
 当時日記をつけていたのですがーーもともと両親に言われてつけるようになったのですーーあるとき私は親が日記を盗み見ていることを知りました。何となく予感があり、短い髪の毛をはさんでおくようにしたのです。するとなくなっている。
 
 毎日ではありませんでしたが、定期的に盗み見られている。日ごろから正直に男らしくしなければいけないと叱られていましたから、日記なんか盗み読みやがってどこが男らしいんだよ! とめちゃくちゃに腹がたちました。そして日記にはわざと「こんな家、火をつけて燃やしてやる!」とか「親なんか早く死んじまえ!」とか、毎日毎日書き続けました。
 両親があるときふすま越しにひそひそと「子育てに失敗したな」と嘆いていた晩があります。私は勝った! と小躍りしたものです。
 
 自分の場合、大人が正直でない部分が許せなかった。何かしら欺瞞がある。ですから、自分は息子にはとにかく正直に接しました。「お父さんは一般的な意味で昔からやる気がないんだ」とか「人と普通につきあうのさえ苦手だ」とか、いわゆるマイナス面も正直に話してきました。「小学生時代万引きをした」「いまも蒸発願望がある」・・・そんなことまで理由や感想を交えて話した。欠陥だらけの人間(私)が、何とか世間並みになろうと悪戦苦闘してきた経緯を息子はずっと聞いてきた。そこにある種の可能性や生きることの切なさや物悲しい応援の気持ちなどを見つけてくれたのではないかと感じます。
 
 少年時代、お前のためなのだからという大人たちの言葉の中に別の要素が宿っていることを私はつねに感じました。やる気のなさを楽しんでいる時期の私に「少しでも上をめざせ」と叱咤激励するのは、完全にそっちの都合じゃないかと考えたものです。
 いずれにせよ、10代は相当なものでした。それがあるところから落ち着いて両親とも話せるようになった。あのころの私よりは、みんなまともだと思いますよ。
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2019.02.20 08:59

 そう言えば中学校のホームルームの時間、担任の先生から同学年の友だちの名前を「ふたり」書きなさいと指示されたことがありました。この問いかけには非常に困惑したことを覚えています。好きな者同士で班を組めと同じ要素がありますね。
 私には、それなりに親しい友人がいないこともなかったのです。私が通っていたのは私立の男子校でしたから、同性ですよ。ただよくわからないのですが、いちばん親しい相手の名前は書きたくなかった。
 
 そこにはこういう心理が働きました。彼は私の名前を絶対に書かないだろうと想像したのです。彼は私と違ってきちんと部活もやっていますし、それなりに勉強もできました。友人も多いので「ふたり」枠におそらく私は入らないでしょう。
 先生がのちに私やその友人が書いた名前を見て、こいつ(私のことです)は大胆にもあんな人気者の名前を書いて、向こうからは全然相手にされていやしないじゃないか・・・などと笑われたら、屈辱的だと考えたのです。
 
 もう1人比較的親しい友人がいましたが、こちらも名前を書きたくない。その友人のことはあくまでも先の少年より(友情という意味で)下に見ていたので、繰り上げて名前を筆頭に書くのは露骨なウソを書くようでいやでした。
 となると、とりあえずまあ話しているかぐらいの相手の名前を書くしかない。ただもちろん相手は私の名前を書かないでしょう。こちらが名前を書くのだから、面倒が起きないように向こうにも書いてもらいたいと考えました。
 
 そこで作戦をたてて、私は近くの席のいかにも友だちの少なそうな少年に声をかけました。きみの下の名前は何だっけ? 相手は「え?」という顔をしました。それはそうだと思います。挨拶しか交わさない仲なのですから。気分をよくした彼は「じゃあ、おれもきみの名前を書くか」と言いました。
 とりあえずは切り抜けたのですが、自分はこうやっていつも姑息な手段で生活しているという変な感覚は胸の底に残りました。
 
 要するにおおらかな自信がなかったのですね。自分は何についても「ふさわしくない」とどこかでおびえている。きちんとした友情を育めていない。
 これは一般論ですが、たとえば親がわが子に「成績のいい子以外とはつきあうな」というような浅薄な価値観を押しつけるのは、非常に危険だと思います。人間関係は自然に開花すべきであって、とにかく学力の高い子とだけ話しなさい・・・といういびつさは、何かを摘んでしまうと思います。
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2019.02.08 09:25

 都立高校の推薦入試の結果が出ています。うまくいかれた方は素直に喜ばれていいと思いますが、うまくいかなかった方は毎年そういう受験生のほうが圧倒的に多いわけですから、やみくもに動揺することなくしっかり生活を送ってください。
 都立高校の推薦入試は学科試験はありませんが、小論文だとか作文だとかが課されています。中には何をどう書いたらいいのかわからないような作文が出される高校もあります。抽象概念をぽんと出してくるので、子どものマインドではどう対処したらいいのかわからない。
 
 それが普通だと思います。成績が優秀な生徒でも「あの作文はやりにくい」とおっしゃっていたのを聞いたことがあります。書くのが好きであればけっこう面白く遊べる課題ではあるのですが、全員がそうとは限らないですからね。国語が得意でも、自由に創作するのはあまり好まないという方も当然いらっしゃるはずです。
 そこへいくと小論文は少しだけ書きやすいかもしれません。文学的な創作能力はあまり必要とされないですね。細かく分析して丁寧にまとめれば何とかなる。「そこに映し出されてくるのは未来の私自身の姿ではなかろうか」みたいな終わり方をしなくてもいい。
 
 首尾よく合格されたある生徒とちょっとだけ話をしました。残念だった方も大勢いらっしゃるので、私はまだ合格した子たちとあまり話していません。作文のことが話題に出た。彼はなにげない感じでこうおっしゃった。「父に添削してもらっていました。父の目だけを通しての評価だったので、ちょっとだけ不安はありました」非常に穏やかな、大人びた口調でした。
 彼がお父さんを尊敬している感じが強く伝わってきました。そういう落ち着いたご家庭を築かれていること自体が価値のあることだと感じます。
 
 自然に、ちょっと見てやろうか? じゃあ、見てくれる? という流れになるのでしょうね。私も以前息子が就職活動の際に、何かで必要な書類を「ちょっと見てくれるかな」と持ってきたことがありました。「見せろ」とか「指導してやる」とか「チェックさせなさい」ではない。あちらから、どうだろうと持ってきたのです。
 そうしたことに自分が適任かどうかはある意味どうでもいいことで、親子関係として自然にそうあれたこと自体は誇らしく感じました。
 
 以前、将棋の故米長邦雄先生が「名人になるような少年のご家庭はすべて丸い空気を持っている」とおっしゃっていたのを思い出します。谷川先生、羽生先生、森内先生、佐藤先生・・・すべて名人のタイトルをとられた方ばかりですが、そのあたりのご家庭を米長先生はさかんに訪問されたりしていました。面白いところに目をつけられたものだと改めて思います。
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2019.01.26 07:00

 渋谷教室で教室長をさせていただいてからもうすぐ丸8年になります。この2月まで継続したところで、8年間ということですね。それ以前、池袋教室にいたのが丸7年間でしたから、いつのまにか池袋時代より長く勤め(この場合務めかな?)させていただいたことになります。
 中学生や保護者の方との関係は、どこでも同じと言えば同じです。これが東京と大阪みたいに距離が離れてくるとそれなりに違いも出てくるのでしょうが、池袋と渋谷ではそうは変わりません。
 
 街そのものとしては、私は池袋のほうが愛着があります。最近の渋谷はどんどん変わってしまうので、落ち着いて歩けない感覚があるのです。のんびり散歩する気持ちにはなれないですね。お店の変遷なんかも渋谷のほうが激しい。8年間のあいだに何度変わったのだろうという店舗もあります。
 渋谷はやはり圧倒的に若い方が多いですね。どの地域に行ってもそう感じます。例のハロウィンの日なんかは本当に大騒ぎですが、私にはあまり関係ないですね。
 
 教室は、おかげさまでうまくいっています。何をもって「うまくいく」と呼ぶのか難しいところがあるのですが、要するに通ってくださっている生徒自身がどれぐらい楽しんでくださるかということがいちばん大きい。さらに保護者の方がどれぐらい安心されているか、あるいは教えている先生がどれぐらい落ち着けるか、さらには教室に関係しているーー自動販売機の業者さんや清掃をしてくださる方などーーがどれぐらい気分よく仕事をしてくださるか・・・ということです。そうした空間の演出がいちばんの仕事だと考えています。
 
 生徒はときどきこういうことを口にするわけですよ。「安心して授業を受けられるとほっとする」教室を預かる人間は相当考えなければならない問題で、彼(あるいは彼女)自身は大人しく成績のいい子でいつも褒められていたとしても、他の生徒が同じ教室内で強い叱責を受けたりするとそれなりに大きなストレスを感じるものなのです。ときにはひどく調子が悪くなりもする。
 そうしたご自身に起因しないストレスも、できるだけ生徒たちが受けないようにとはつねに心がけてきました。
 
 柔らかい空気を演出することはさほど難しいことではないのですが、柔らかい空気を保ったままいい成績を残し続けることはじつは非常に難しい。見せかけだけではないホンモノの愛情がないと、むりではないかと思います。それは集団でも個人でも同じことです。
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2019.01.14 08:05

 教育に熱心という表現がありますね。
 私の感じでは、その熱心さが具体的な何かと結びつきすぎるとなかなかうまくいかないような気がします。これは非常にデリケートな問題で、気づかれている方は気づいている・・・という感じではないかと思います。
 ただ、だからこうしなくてはだめだというお話ではありません。単純に、ご参考になればという程度です。
 
 具体的というのは、こういうことです。何点をとる。偏差値をいくつにあげる。あるいは何番以内に入る。さらには志望校はどこどこでないとだめ。
 ご本人がまだ何となくぼんやりされている状況(=幼いという意味)にもかかわらず、周囲がやたらと具体的に追いつめるとその逼迫した感覚に飲まれてうんざりしてしまい、うまくいかなくなることがありますね。
 わかりやすくたとえるとおなかが全然すいていない相手に、絶対鮨にしなさい、15貫以上は食べられなくてどうする! というのと似た感じでしょうか。
 
 教育に熱心なことが悪いというのではないですよ。熱心さを抽象的な方向に広げたほうが効果が高いという意味です。たとえば自然とのふれあいの機会を多く持たせるとか、科学館や博物館に連れていくとか、ご本人が興味を持っている分野の本を与えるとか、いろいろな方法があると思います。
 そして、少しでもご本人が面白がるものが出てきたら、偏差値や順位とどう結びつくのかなどということはいったん棚上げして、ご本人の面白がるところだけを突破口にして切りこんでいく。
 
 そんなに天体が好きなら望遠鏡を買ってやろうかとか、小説が面白かったならエッセイも読むとどんな作家かよくわかって楽しいよとか、科学者に興味があるのなら自宅でも実験セットぐらいは用意しようかとか・・・もちろんご本人の興味の対象が変化することはありますが、大きな「教養」枠からアプローチしたほうが結局は勉強に熱意を持って取り組む確率が高いですね。
 それが「何点以上とらないとだめじゃないの」「何とかくんはお前よりずっと上位にいるぞ」「そんな学校じゃ行く意味がない」などと言ってしまうと、およそ「つまらない」という感覚しか伝わりません。
 
 そうした激励は、勉強(教科)内容とは全然関係のない部分で勉強させようというのと同じです。これまた例えれば、栄養価の観点だけからある物を食べろ食べろと強制するのと同じです。進んで食べたくなるのは食品そのものがおいしいからでしょう。その視点が欠如していると、なかなか「自ら進んでは」食べません。勉強もまた同じです。
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2018.12.28 00:40

 最近、事情があってしばしば話を交わす昔の優等生がいます。わざわざ「優等生」と書いたのは、そうなりたがっている生徒が多いので彼らのために書いているだけで、全員の方にそうなるべきだと強制したいわけではありません。
 世の中、ロックン・ローラーや吟遊詩人や格闘家なども必要なわけで、あるテレビ番組で世界的に有名な日本人ギタリストが「いいロッカーになりたいのなら学校の勉強をあまりやるなよ」とおっしゃっていましたが、それもまた至言だなと感じています。
 
 ただ、漠然と優等生になりたいという方のためにはこうしたお話も役にたつと思うので、さらに続けます。
 優等生の定義はいろいろあって難しいですからもう少し書いておくと、その生徒は都立のトップ校から有名な国立大学に進んでいます。まあ、どなたがご覧になってもしっかりした優秀なお嬢さんという印象を持たれるはずです。
 今年彼女のご家庭では、現時点で大掃除はだいたい終わったとおっしゃっていました。
 
 現時点というのは、26日に話した時点でということです。家族できちんと役割分担して、大掃除を少しずつ進めてきた。あとはお父さまの分担された箇所が残されているだけだというお話でした。くわしくは聞いていませんが、お父さまはおそらく年末にお仕事を終えられてから掃除をされるのでしょうね。
 とにかくーーここが大切ですーーご家族全体がきちんと計画的に物事を進めている。そういう文化をご家庭が持っているのは、非常に心強いことだと思いました。
 
 さらにすごいなと感じたことは、こういうことでした。毎年、おせち料理はご一家総出で作っているそうです。全種類ちゃんと作る。もちろん彼女も毎年毎年お手伝いしてきた。若いせいか、力がいる料理を任される。ご兄弟も全員手伝う。和気藹々としたムードの中でおせち料理を毎年作る。そうした光景もまた大変文化的に成熟した環境だと思いました。
 優秀さはその種の文化的背景の中で熟成されてきたもので、単純に勉強時間がどうのこうのという次元ではなさそうです。
 
 勉強法だけをあれこれいじってもなかなか成績が上がらないという場合、こうした文化的背景の見直しが必要かもしれません。きちんと計画をたてるとか手作りの生活を大切にするとかご家族が落ち着いて仲よく物事を進めていくとか、何のテキストをやるかどこの塾に通うかよりそうしたことのほうが大切なのは確かでしょう。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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