2019.12.02 07:57

 つねにそういうものだと思いますが、人間関係には適度な距離感がどうしても必要になってきます。簡単に書けば、つねに密着状態では長続きしない。老若男女を問わずそういうものでしょう。
 当然親子関係もそうであって、どちらかが息苦しく感じだしたらうまくいかない。そのときは話し合い以前に、とりあえず距離をとってお互い自由に呼吸できる空間を確保されるといいでしょう。
 
 比喩的な表現になりますが、息を吸ったら相手の息しか呼吸できないような不自然な密着状態ではいらいらはつのるばかりです。
 恋人同士でも、毎日毎日会っているのははじめは楽しいかもしれませんが、だんだんいらいらしてくる。喧嘩の回数が増えてくる。個々人の精神は内奥で自由を欲しているのに、その隙間がないからです。そういう状態だと、仮に長く続いてもお互いを啓発しあえるような理想的な関係には昇華していかないと思います。
 
 昔、友人から「人間関係は必ずしもお互いを高めあうためにあるわけではなく、一緒に落ちていくような関係もいいと思う」という話を聞いたことがありました。なかなか文学的ないいことを言うなとは思ったのですが、実生活において何かしら成功しようとか幸福になろうとかささやかであっても社会に貢献しようとかということになってくると、落ちていく関係を維持するだけではうまくいきません。
 親子兄弟友人恋人どの関係であっても、相手を高める光線みたいなものが提供できているかどうかは大切なポイントになると思います。
 
 コミュニケーションというと誰しもすぐに言葉でどうのこうのと考えますが、本来存在そのもので伝えられるものがないといけない。それは安心感であったり温かみであったり愛情であったりというのが望ましいのですが、逆に存在によって恐怖感や嫌悪感を与えているケースもあるわけで、言葉以前のそうした関係は気をつけていかないといけない。
 親がいるから家に帰りたくないという気持ちは私自身10代のときに何度も経験しています。だから友だちの家からなかなか帰らない。
 
 帰宅が夜中になって叱られたりしましたが、あなたたちがいる家には帰りたくないのだとまでは言えませんでした。そのことに私自身はっきり気づいてもいなかった気がします。彼らのよかれと信じる過干渉が、こちらの呼吸を苦しくしているのだという理屈を冷静に観察できるほど私自身が成熟していなかった。
 少し隙間を作る。何でもないようで、価値のあることだと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.11.21 01:31

 たとえば中学生でもけろりと「きのうは1日14時間勉強しました」という子がいることはいます。夏休み、自習室に8時台から来ている。帰るのが22時すぎ。約14時間ですね。授業も休み時間もあり途中で何か食べたりもしているでしょうが、まあざっと14時間。帰ったらどうする? と質問すると、勉強しますと笑顔で答えます。
 そういう生徒は毎年います。ご本人の選択であり、誰に強制されたものでもない。そこが尊いところだと思います。
 
 難関高校に合格してからもすぐに塾に通わなければだめでしょうかというご質問をいただくことがあります。現実に、すぐに通ってくださる生徒はいる。ほとんど中学時代の継続という感覚ですね。もちろん塾はZ会だけではありません。とにかくどこかしら学校以外で勉強している。
 声をかけてみると、要するに通いたくて通っている。学校の宿題も大量にあってすごく大変ではあるというのです。それでももっと難しいことを学びたい。だから私塾に通う。これまた「もっと勉強したい」というご本人の意志がすべてです。
 
 こういうことを他人に強制するものではないでしょう。何々くんは1日14時間勉強しているのにあなたはどうして2時間もできないの? などと強く責めるべきではない。それは大人が「もっともっと残業している人間もいるのに、あなたはなぜその程度しか残業できないのだ」と責めたりしてはいけないのと同じ理屈です。
 2時間しかできないのであれば、とにかく2時間だけ集中して必死にやればいい。あとの12時間は勉強はしなくても、何かしらご本人の糧になることに励まれたらいいと思います。
 
 向き不向きというものはどうしても存在し、誰もが黙々と勉強に励めるものではありません。むしろそういう生徒は少数派でしょう。そんなことでは超難関校に合格できないじゃないかという考え方もあります。ただ超難関校に合格していくような生徒はじつは結果的に合格しているだけであって、合格するためだけに勉強しているわけではないのです。
 妙な前提ですが、試験が中止になるといまからわかっていたら猛勉強をやめるかね? と彼らに訊ねたことがありますが、全員「楽しいので勉強は続けます」でした。
 
 こうした性向は成長とともに変わってきます。だから変に決めつけないことも大切です。中学時代2時間しか続かなかった勉強が、何らかの理由で高校生になると8時間以上あたりまえのように勉強できたりすることもある。体質が変わるからです。
 息子もそんな感じでした。おれは(他者からの勉強の)強制による金属疲労がいままでないから、いくらでも勉強できると変な自慢をしていました。私みたいにぼろぼろの少年ではなかった。短気を起こしてつぶさないことです。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.11.20 08:24

 入試改革でさかんに表現力を増強しなければいけないというようなことがうたわれていますが、ということはこれまでの世代は表現力が乏しいということなのでしょう。その世代の中にはもちろん大人も含まれています。要するにいままでの日本人はどこかしら表現力に難がある。もう少し伝わるように工夫努力しなければならないということになりますね。
 考えてみれば、親が子どもに対してどれだけ愛情を伝えられているかという問題も出てきます。愛情があるのはあたりまえでも、表現力がともなっていなければ全然伝わらない。
 
 私は心理学者ではありませんし、これから述べるようなことを「権威を持って」お話したいとは思っていません。ただ自分が経験もしくは見聞きしてきたかぎりにおいては、こうしたことは真理に近いのではないかという気がしています。
 愛情ということに関してですが、基本的な方向性としてはとにかく大前提として「まるごと愛する」という配慮がそれなりに必要ではないかと思います。つまらない条件をつけずに「まるごと」です。それが相手に伝わっているかどうか。
 
 条件がついてしまうと相手もバカではない。これができるから愛されるのだなという気持ちになります。芸事でも勉強でも競技でも何でもいいですが、できたら愛され、ちょっと調子が悪いぐらいで愛されなくなる。ましてやすごく調子を落とすと、けなされたり怒鳴られたりする。
 こんなので本当に愛されているのだろうか? と疑心暗鬼にもなるでしょう。愛されているのは自分ではなくて、優秀な競技者や優等生にすぎないのではないか。
 
 まるごと愛されることの安心感の土台があってはじめて次の段階に進めます。私はーーさんざん書いてきたので繰り返すのもどうかという気持ちがあるのですがーー子どものとき自分が「まるごと」愛された記憶はほとんどありません。あくまでも素行がよくはきはきしてさらに成績がよかったらはじめて愛されるという付帯条件をつねに感じました。
 それに気づいたときからむしろ身近な大人(とりわけ両親)に嫌われるようなことをしてみたいとさえ思いました。相手がどう出てくるかに興味があった。
 
 勉強をしない。あきらかに態度も悪くする。すると彼らは怒りますね。なぜ怒るのか。彼らもまた本音のところでは自身の子どもを愛したい。当然でしょう。ところが目下の状況では愛しようがない。そこで条件を整えようとする。はやくいい子にもどして、全面的に愛したいという焦りが生じてくる。
 そうした焦りを私はむしろいい気味だと思っていました。おれはあなたたちのロボットではない。そんな価値観では絶対に生きないぞと考えました。
 
 これがなかなか難しいところなのですが、いったん「どんなに悪いことをしても自分は愛されるのだ」という安心感を得ると、人はそうそう悪いことができなくなるものです。まるごと愛してくれる相手が失望しながらもさらに愛してくれるに違いないと思うと、さすがにしのびなくなるからでしょう。
 大事に思っていることがわが子に伝わらないのであれば、もっともっと表現力を磨く必要があると思います。
 
 ビジネスのような感覚が混じってくるとうまくいかないものです。いい点をとったらとか何番以内に入ったらとか勝利をおさめたらとか、商売上の契約みたいな愛情は人間が渇望している本当の愛情とはまるで違います。徹底的な反感を抱かれる可能性さえある。愛情を表現する工夫や技量みたいなものは、油断なく常に磨き続ける気持ちが大切です。親子関係の良好さというのは日々のトレーニングみたいなところがあり、問題が生じようが生じまいが大人側は常に配慮していく必要があると思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.11.08 06:13

 俗に言う悪い子というのがいます。たとえばお店にあった何かを黙って持ってくる、身体の不自由な方をからかう、弱い者いじめばかりする、テストでカンニングする。いろいろありますが、行為としてはぜんぶ「悪い」でしょう。ですから、そうした行為に励む子は、とりあえず悪い子であるということになってしまいます。
 ところがご本人はーーあくまでも子どもの場合ですよーー悪いことをしているという自覚がほとんどなかったりします。
 
 だいたいは親しい友だちも一緒にそんなことをしている。誰かをいじめる、スキあらば物をとってくる、協力してカンニングする・・・悪いということに全然気づいていない。気づいていないどころか、部活動の「ノリ」で、あいつはそんなすげーものとってきたのか、よーし、自分だって負けてはいられない、もっと大物を持ってきてギャフンを言わせてやる! などと張り切っていたりします。
 私は自分がそうでしたから、よくわかるのです。事実、問題を起こした子に訊いてみると、皆さん昔の私と同じですね。
 
 悪いことというよりは、いたずらのつもりなのです。これぐらいならいたずらですむだろうという一線がどんどん後退していって、ついにはある種の犯罪でさえいたずらにすぎないという間違った認識を持つにいたるわけです。
 ですから、事件が起きたときに大人の感性で爆発的に叱ってみたところで、相手は、ぽか~ん? ですよ。この人、たかがいたずらに何をエキサイトしているのだろうという感覚ですね。
 
 それは世間では非常にまずいんだよというところからじっくり「語って」あげてください。息子がそろそろ危ない年齢かなというとき、私は先回りして自身の子ども時代の間違った行為を告げたものでした。「悪いことという意識がまったくなく明るい競技感覚でやっていて、バレても友だちと『次は絶対バレないようにやろうぜ』なんて笑い合っていたんだ」と話しました。
 息子はびっくりしていましたが、事実は事実ですし、そういう意識の麻痺のこわさは伝えておいて損はないと思いました。
 
 何か出てきたときはいきなり犯罪者を裁くような冷たい叱り方をなさらず、お前もそういう年齢になったんだなと落ち着いて話してみてください。
 学歴も地位もあるりっぱな大人だって、四六時中脱税だの汚職だの裏金だの隠蔽だのと目を覆うばかりです。おそらく罪悪感もほとんどなかったのだと思いますよ。未熟な小中学生(まあ高校生も入りますかね)が競技感覚に陥りやすいのはむりもないことです。ただ放っておくわけにはいきませんから、じっくり「人間って不思議だね」という根本のところから話し合ってみてください。
 
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.10.27 00:45

 立場上、生徒の学校成績がわかります。志望校を決めていくときにどうしても学校成績ーー内申と呼ぶやつですねーーは大切なので、いくつとれているのか申告していただくことになります。中には恥ずかしがって本当の成績を書かない生徒もいるかもしれませんが、だいたいの方は正直に書いてくださっているのではないかと思います。
 すると必ずしも模擬テストの偏差値どおりではないということがわかる。テストはかなりとれているのに、内申が低いケースはしばしば目撃します。
 
 オール3というのは要するに「普通」ということですね。悪くはない。いいというほどでもない。オール4は普通よりはよいということです。残念ながらすごくよいというわけではありません。
 この内申と私自身の価値観は必ずしも一致しません。簡単に書けば自分が非常に「買っている」生徒でもオール3ぐらいの子はいます。私も「先生生活」は40年近く続けていますから、自分の見方にはそれなりの自信を持っています。
 
 ですから、いずれは伸びるだろうと確信を抱いている生徒にいまオール3がついていても、そんなに心配はしません。
 ある意味で、感情の動きが乏しいとか表情が乏しいとかで損をしている中学生がいます。いい子なのですよ。ただ挨拶みたいなことは避けたがる。避けているつもりはないのかもしれませんが、こちらから見るとそう見える。たとえば「こんにちは」と声をかけたときに相手がかすかにうなずく程度であれば、挨拶したほうは歓迎されているとは考えないものです。
 
 ひょっとして自宅でも挨拶の習慣がまったくないのではないか。おはよう。おやすみ。いただきます。行ってきます。お帰りなさい。うちの息子はいまでも大きな声でその種の挨拶をしますが、それは幼いころからの習慣であって、道徳的な何かではありません。自然な動物の「鳴き声」みたいなものですね。
 ご自宅で挨拶が皆無なのに外でいきなり「こんにちは!」とか「おはようございます!」とか快活に挨拶できる方はまずいないでしょう。
 
 感情のやりとりの入口が挨拶ですから、何とか工夫して明るく(暗い挨拶というのは本来の意味で挨拶の役目を果たしていないかもしれません)挨拶できるようにもっていきたいものです。「ちょっと後ろ通るよ」とか「いきなり前をごめんね」とか「これ貸してもらえる?」とかもりっぱな挨拶でしょう。配慮をあえて表現するということ。身体をぶつけながら黙って強引に背後を通るなどというのは、ちょっとどうなのでしょうか。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.10.13 00:21

 この話は講演会でだいたいいつもお話していることなのですが、改めていろいろ考えたので、書いておこうと思います。私がお話することは、だいたいは実際の生徒から学んだこと(こういうお話も大きな意味で学んだことになると思います)ばかりで、だからこそお役にたてるという気持ちも持っています。私が創ったものではないのですよ。私は単純な観察者にすぎず、お役にたちそうなことはできるだけ冷静に正確にお伝えするべきだと考えています。
 
 少しぼかして書きますが、女の子4人が講習中の昼休み、机をくっつけて昼食を食べていました。私はーーこういうときの話題はじつは非常に勉強になるのですーーブラインドの点検のような形で、その部屋に入っていました。
 4人のうち1人だけが手作りのお弁当でした。あとの方たちは何かを買ってきていた。1人の子がお弁当の子に言った。「何々ちゃんのお母さん、そうやって毎日お弁当作ってすごいね。うちは働いているからむりなんだ」
 
 お弁当ではない他の2人も、そうそうとうなずいた。するとお弁当の子が「うちも働いてるけど毎朝早く起きて作ってくれるよ」と言った。あとの3人はへーっ! と大きな声を上げました。「何々ちゃんのお母さんって偉いねー!」
 この話をしかし、彼らは自宅に帰ってご自身の親には訴えないと私は思います。「何々さんのお母さんだって働きながら早朝お弁当を作っているのに、うちはどうしてできないわけ? 努力が足りないのでは?」なんて言うわけがない。
 
 人間と人間の関係として、そこまで干渉するのはちょっと配慮を欠くという当然の判断が働くからです。ところが逆はばんばんやってしまう。優等生が朝早く独力で起きて勉強しているという話を聞くと、ご自身のお子さんにそのまま「何々さんはそうやって努力しているのにそんなことも出来ないからあなたはいつまでたってもだめなのよ」と感情的に責める。批判する。場合によっては叱る。
 他者との突然の比較がどれほど人間の尊厳を傷つけるかということに関して、子どものほうが親よりも配慮しているという現実がありますね。
 
 尊厳を守れなければ親子関係がうまくいくわけがない。マナーですからね。そう思うことがあります。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.09.23 09:01

 大人は思春期を通過してきているわけですが、そのときの微妙な感覚は忘れてしまっているような気がします。あの憂鬱さ、あの絶望感、また逆にあの高揚感、あの興奮や感激、そうしたものをほとんど忘れて子どもたちに接していれば、ずいぶん理解のない人間だと思われるのも無理はないですね。
 若さゆえ、ただでさえつらかったりする。生きていること自体がひりひり痛い。その相手にいきなり「いいから勉強しろ!」ではうまくいかないのが当然でしょう。
 
 あれは中学2年生になる春休みのことでした。私は妹や母親と一緒に夕暮れどきの商店街を歩いていました。場所まで正確に覚えています。私は友人のためにある将棋の本を買った。翌日だか翌々日だか、彼の家に遊びに行くことになっていたのです。相手の少年も将棋に興味を持ちはじめていたので、ちょうどいいと思って自分も持っている本を買いました。
 夕日を浴びながら坂道を歩いているのですが、何だかむなしくて仕方がない。憂鬱でたまらない。
 
 理由を探ってもわからない。友だちのうちに遊びに行くじゃないかと自分を鼓舞してみる。将棋のテキストだって買ったじゃないか。将棋だって指せるじゃないか。レコードだって聴けるじゃないか。あれこれ考えても、ちっとも心が弾まない。
 そのうち憂鬱の1つの原因は、さっき見た洋画劇場のせいではないかということに気づきました。当時、昼の時間帯に古い洋画を流していたのです。「春の椿事」という映画だったと思います。
 
 内容はコメディでした。それにひきこまれたことの反動が起きているような感じがしました。つまりさっきまで面白がって明るいほうに心がぐーっと傾いた。それが逆方向にまたぐーっと戻りつつあるのではないか。
 いずれにせよ、憂鬱は憂鬱なのですからどうしようもない。だんだん口数も少なくなり、その日は夕食もあまり食べなかった記憶があります。食卓に出てきたコロッケ(商店街で買ったものでした)を見て憂鬱だったさっきの思いがぶり返し、食べる気がなくなってしまった。
 
 私は中学3年生のときに自身をホンモノの鬱病ではないかと疑った時期があり(そうであったら詩人として「はくがつく」とバカなことも考えた)、両親に病院に行かせてくれと訴えて逆に怒られたことがありました。そんなことを考えるのは精神がたるんでいる証拠だ、毎朝早朝に冷水まさつをしろ! だいたい軍隊では・・・ 
 そういう大人とはもう「会話」自体が成立しないと結論づけてしまうのは思春期特有の心理でしょう。私は生徒たちに接するときに、自身の経験してきた思春期の葛藤をつねに意識しています。いまでも心の色は同じだよということですね。
 
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.09.22 07:11

 たとえばご自身のお子さんに対してでも暴言を吐くのはよくないという記事を読むとしますね。まあ、間違いのない真理ではあると思います。するといままで暴言を吐いてきてしまった方にはある意味で感じの悪い指摘であり、いまさらそんなことを言われても・・・という不快感は抱かれるかもしれません。
 こういうのはいい悪いではないですね。歳をとっても少しは運動したほうがいいという常識がありますが、私なんか生まれてからまったく運動してきませんでしたから、それこそいまさら言われても・・・という気持ちになります。
 
 ごくごく自然な反応であって、現在私はどなたかを責める目的で発言することはまずありません。すべての提言は「こちらの方向のほうがより豊かさが増すようですよ」という情報提供でしかなく、人さまの生き方をどうこうという大それた気持ちはまったく持っていません。
 そもそも私たち大人も幼少期にじつは相当傷ついています。傷ついた結果、ある種の偏向が生じている可能性はおおいにありえます。しかも、それに気づいていない。
 
 ご自身の傷ついている微妙な部分を他者の中に見て批判的になるということはごくごく普通のことで、異常でも何でもありません。たとえば私には、非常にだらしないところがあります。そしてそれを両親に強く叱られて育ちました。叱られたことに対する強い反発が生じ、わざとだらしないままでいたい変な気持ちもあるのです。
 複雑なことになってしまったわけですね。だらしない自分は本当はいやである。しかしそれを矯正することはそれに輪をかけていやである。
 
 するとたとえば息子がだらしないところを見るとストレートに注意できない何かが顔を出します。ただこうやって気づいている要素があるので、彼の整理整頓がなっていなくてもそうは責めません。つまり複雑な背景を持っている自分は息子の欠点(だらしなさは欠点は欠点だと思います)を過剰に痛めつけるようなことをする可能性があるので気をつけているということです。
 気づかなかった時代は仕方がない。ただ気づいた瞬間からは十分注意する。できるところからスタートする気持ちはつねに大切だと考えています。
 
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.09.17 09:09

 大人はそれほどでもないのでしょうが、子どもの心は日々進化成長しています。外からだとなかなか見えないために、よほど意識していないと忘れられてしまったりもしますね。よく「中学時代1年間に10センチ以上背が伸びたよ」などというお話を耳にすることがありますが、当然心の身長も10センチ以上伸びているはずで、大人はそのあたりを十分配慮しないといけないと思います。
 成長に害になるようなことをしてしまうとまずいですね。さまざまなことがうまくいかなくなってしまう。
 
 ここはよく考えないといけないのですが、問題はこちらが「正しいかどうか」ではない。たとえば「子どもを厳しくしつける」という考え方があり、それはそれで正しいことだと思います。甘やかしていい加減に育てるよりよほどいいことではあるかもしれない。ただ相手によりけりでーーそれこそ小さいころの私自身のようにーーとことん弱虫であれば、厳しくしつけられて一方的に萎縮しだめになる可能性もあります。
 するとそれは健全な心の成長に結びつきません。正しく指導しても相手によっては逆効果ということもありうるわけです。
 
 毎日毎日接している大人が、相手の特性を見きわめながら与えていかないといけないでしょう。その能力こそが真の意味での子育ての能力と言えるのではないか。
 これまでも同じ話を書いていますが、月刊誌に優秀な大学に進んだ方のご家庭がどうであるかというような特集記事が載ることがあります。毎回毎回同じことが書いてありますが、ご家庭が穏やかで温和な、まるい空気を保っていらっしゃるということが書かれている。心が成長できる環境ということです。
 
 これは名人になるような棋士のご家庭もそうだという話を聞いたことがあります。亡くなられた米長元名人は将棋の強い若手棋士のご家庭を片っ端から訪問されていました。そして、まったく同じ結論を出されていた。
 そういう状況であれば、安心して心が成長できるということなのだろうと思います。要するに環境作りに成功している。
 ですから、極端に反抗的であるとか乱暴であるとか投げやりであるとかということであれば、絶望せずに「ここから」環境に修正を加えていかれたらいい。
 
 怒鳴らないとか愚痴らないとかからかったりくさしたりしないとかということは基本中の基本で、叱るにしても「話をじっくり聞く」形でとにかく徹底的に聞いてやる。かぶせるように意見したりせず、こちらの言いたいことは後日に譲るぐらいの余力がほしいと思います。
 言いたいことがあるなら言ってみろと言い、子どもがおずおずと喋りはじめるなり「そんなことだからお前はいつまでたってもだめなんだ!」と激怒するようではまったく逆効果だと思います。
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

2019.09.05 00:02

 ブログを10年以上続けてきて、ある意味書くことがなくなってきています。同じ内容を繰り返して気づかなかったりということがだんだん頻繁に(?)なってきた気がします。個人でひたすら書いているだけで、チェックしてくださる編集者さんがいらっしゃるわけでもないので、多少の混乱は仕方がないのかなと感じています。
 ただあたりまえですが、私が永遠に会社員を続けられるわけではありません。そのときはブログも終了になると思いますので、もうしばらくご辛抱ください。
 
 勉強法については、右側の「どうしたら勉強ができるようになるか?」にまとめてしまいました。ここに77回分記事があります。そちらを読んでくだされば方法論そのものはわかっていただけるでしょう。ただ実行するかどうかは人それぞれですから、読んでくださった「だけ」では効果は薄いと思います。実践できるかどうかがカギになってきますね。
 最近は勉強法以外のことを主に書いていますが、各ランキングを見る限り、それでも楽しんでくださる方がいらっしゃるみたいでほっとしています。
 
 先日、危ない運転でつかまってしまった方の記事がある週刊誌に出ていました。私はその週刊誌を月曜日に皮膚科の待合室で読みました。「あおり運転」ですね。印象に残ったのは、その容疑者のおうちの方がやはり大変ないわゆる「クレーマー」であったというところでした。
 つまり彼は、幼いときからおうちの方があちらこちらに文句を言うところを目撃しながら育ってきた。幼いころのご両親というのは絶対ですからね。世の中はこうするものなのかと確信したに違いない。
 
 代々伝わっていく文化遺産というものがあります。それは子育ての過程でかなり意識されてもいいかもしれません。DVなんかもそう言われていますね。親に暴力をふるわれて育つうちに、そういうものなのだと思いこむ。そしてお子さんにも暴力をふるうケースが多いそうです。負の連鎖が起きてくる。
 もっとも私のように、意識しているから子どもを叩かないという選択もできる。自分が木製の棒で叩かれたり蹴られたり全裸で外に立たされたり(どれも誇張ではないですよ)して育ったからこそ「同じようなことは絶対にしない」と強く意識しました。
 
 よい文化は黙々と受け継ぐ。悪い文化は意図的に断ち切る。そうしたことは人間だけができることで、ここからよいことを自分がスタートさせるぞという気概は絶対に必要だと思います。まあ、気負いすぎてもよくないですけどね。
 
Tags :
幼児・小学生
中学生
高校生
高校受験
ソーシャルブックマーク:

プロフィール

プロフィール画像
長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

カレンダー

<<   2019年12月   >>
01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

新着記事

月別アーカイブ