2017.06.16 01:54

 料理人が料理を作るのが下手であったらそもそも料理人として失格ですね。料理で生きていく覚悟であれば、上手に料理ができて当然だと考えるべきでしょう。ただ料理さえ上手ならそれですべていいのかということになると、ちょっとどうなのだろうという気はします。
 遠い昔に行っていた飲み屋さん、いわゆる酒亭という感じのこじんまりしたお店で、ご主人はすごく料理が上手だったのですが、雰囲気がよくないのです。それで料理は食べたいと思いつつ、だんだん足が向かなくなってしまいました。
 
 常連のお客さんとご主人が話をしている。ご主人は噂話が大好きで、あそこの奥さんはご亭主のお母さんと敬遠の仲だよとか、あの店のマスターは雇っている女の子に手出しちゃってさーとか、とんでもない話題がぽんぽん出てくる。それを常連さんが喜ぶわけです。
 私はせいぜいひと月に1度行くか行かないかという感じだったので、そういう形で盛り上がられても非常に困りました。
 
 料理人としてはまったく瑕疵はないものの、ある意味では尊敬しにくい(?)人が作ったものをおいしいおいしいと喜んでばかりいていいのだろうかという気持ちになってきました。
 おそらくそういうところは他の方も感じていたのでしょうね。ほどなくしてお店はなくなってしまいました。ただ私はそのご主人が作ったいくつかの食べ物ーーおからとかーーを、いまでもどこで食べたものよりおいしいと感じています。
 
 こうしたことは料理人だけではないですね。先生という職種も科目の知識だけではやっぱりだめだと思うのです。授業がよくわかるのは当然だとしてそれだけでは足りないのであって、できれば人格的な部分でも多少はいいところがないと生徒はついてこないでしょう。
 道徳のお話ではないのですよ。そもそも私自身単純な善人になろうと考えたことはありません。ただ一生懸命生きているとか、最低限のマナーは守るとか、温かい空気を醸成しようと努力しているとか、そういうことは大切だと考えています。
 
 どう評価されようが一生懸命に生きている。その姿勢を伝えることは本当に大切ですね。
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2017.06.13 10:00

 先日、インターネットのニュースを見ていたら小学校の30代の先生が教え子の自宅で暴力をふるったという変な記事が出ていました。
 何でもその先生は事件のあった日、校長先生や同僚の先生とお酒を飲んでいたそうです。午後の10時ぐらいになってなぜか小6の男児の自宅に1人で出かけていった。そしておもちゃの太鼓のばちで男児を30回ぐらい叩いてけがをさせたというのです。
 男児はトイレに逃げこんだ。それを追いかけていってトイレも一部破壊したそうです。
 
 完全におかしい・・・だけでもないのかもしれません。この先生は翌日には男児が学校を休んだことを気にしていたと書かれていました。家族が相談して事件が発覚したのですが、それまでずっと教壇にも立ち続けた。完全に「?」というわけでもなさそうです。
 おそらく熱心は熱心な先生なのでしょう。よくわかりませんが、男児のご家族がいらっしゃったらそんなことはできないでしょうから、夜の時間帯に心配して見に行かれた可能性はありますね。
 あくまでも想像ですよ。そしてかっとなって暴れてしまった。
 
 この「相手のためを思っているうちにかっとなって・・・」みたいな話はどこでもよくありますね。しかし、それはいったいどうなのか。
 私ぐらいの年齢の人間は、時代的に大人たちから体罰を受けて育ちました。時代的なものでしたから深刻にはならなかった。ですが、暴力的な相手に深い愛情を感じたことはありません。暴力的な人間は何かに負けているように映るものです。暴力はーー戦争と同じでーー要するにコミュニケーションの可能性をそこで断ち切ります。
 
 たとえ子どもであっても、暴力を受けている側は冷静に相手を観察しているものです。相手の目に宿る狂気におびえながら、じつは相手が楽しんでいるらしいということにも気づいている。憂さ晴らしでやっているなと感じるときもありました。暴力行為が相手の心に次々と興奮を呼びコントロールできなくなっているのをじーっと耐えている。絶望的な流れの中で、いずれ自分が相手より強くなったらそのときこそ・・・などと考える。
 
 そういう機会を作ってしまっていいのかという話ですね。小学校の先生がばちで30回という部分だけ取り上げれば完全に異常者みたいですが、誰でも同じような狂気を内側に持っているかもしれないと自覚したほうがいい。自分だって気をつけないと・・・という自覚がないから暴走してしまうのです。
 世の中、自分の場合だけ「あの暴力はやむをえなかった」と正当化して考えようとします。あの戦争はやむをえなかったという発想とちょっと似ているかもしれません。
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2017.06.02 09:24

 先日、教室で中1の保護者会を実施しました。大勢のご父兄がいらしてくださった。会が終わったところで、ある保護者の方が私にこうおっしゃった。
 口調が非常に知性にあふれていて私は心底感心したのですが、要するにお子さんが在籍しているクラスが少し騒がしくなるときがあるらしいのです。「正確にはわからないものの、ちょっとだけ気にかけておいてくださいませんか」というような大変ご配慮いただいた表現でした。
 
 「授業中うるさい生徒がいてうちの子が迷惑している」的な直截な表現をしたくなるケースが多いと思うのですが、私があまり困らないようにということを考えてくださっているのです。私はすぐに調べてみますという意味のお返事をさしあげた。
 で、先生にちょっと訊いてみたり授業日誌を調べ直したりしたのですが、要するにすごく活気のあるクラスなのです。発言も多い。ある先生は、若干わさわさしてもあれぐらい活気があったほうが伸びるのではないかとおっしゃった。
 
 それもまたわかるような気がしました。教室の空気がどんよりしていると静かであってもなかなかうまくいきません。空気そのものは「楽しい」感じでないと伸びていかないというのは事実でもあり、なかなか難しいなと思いました。
 私にできることを考えた。楽しい雰囲気を残したまま私語などは少し抑制していく。そのためにはどうしたらいいのか。
 担当の先生に厳しくやってくださいとお願いするだけでは、あれだけのご配慮をいただいた保護者の方に申し訳ないですからね。
 
 そうかといって、ふだん教えてもいない「教室長」がいきなり教室に入ってきて「静かにしろ!」はないでしょう。
 そういう乱暴なことをするから子どもたちに反発されるのです。やわらかく、理念だけはしっかり伝えるにはどうしたらいいのか。
 私はそこで彼ら全員に手紙(もちろん印刷物ですが)を書きました。礼儀正しく「いつも学んでくださってありがとう」という挨拶からスタートしましたよ。
 
 渋谷教室で人気の高いある名門都立高校の「期待する生徒像」にあった「集団のルールとマナーを守る」という文言を紹介しました。そういう人が期待されている以上、あなたがそうなるしかないですよという意味のことを書いた。配るときも大声を出したりしないでなるべく笑顔で「困っている人がいると心配なので読んでくれ」と言いながら配りました。
 皆さん読んでくださったみたいで、その日の授業後担当の先生は今日はとても静かでしたとおっしゃっていました。
 
 保護者の方が私に配慮してくださったように、私もまた生徒たちに「つねに」ある種の配慮を持っています。それはじつはよりストレートに意志を伝えるための配慮であり、世の中露骨に伝達するより思いやりを持って接したほうがはるかに伝わることが多いものです。大人と子どものあいだであっても、コミュニケーションのスタート時点で相手に対する敬意と思いやり、さらには伝え方に品性がないと伝わらないものだと考えています。
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2017.05.26 09:37

 自分の考えていることをどなたかに押しつけようとすることはまずありません。それぞれがそれぞれの意見を持ちながら協調して生活していくのがベストだと思っています。
 ただ現実を見ていると、権力的なものの腐敗や堕落は昔よりひどくなってきていると感じます。全世界的にそういう感じがする。
 本当の力ではない力を信奉するからでしょう。増えたり減ったりするものはーー不安定なわけでーー本当の力ではない。そのことをきちんと学ぶ場がない。
 
 本当の力ではないものをやたらと持ち上げて、これさえあればあなたも勝利者だ! という要素が教える側(広義の教育する者たち)に強すぎるのです。
 おまえも成功者だなどと安易におだてるからいけない。決してなくならないものを丁寧に獲得していくのが徳性ですよと穏やかに伝えて考えさせる経験を持たせるのが本当の教育(導き)ではないかという気はします。
 教える側に、生きる哲学が欠落しているのかもしれないですね。
 
 本年度の自分の中1のクラスにはすでに25人以上生徒がいて、ほぼ満員状態です。机はあと少しだけ余裕がありますが、やみくもに増やそうという気持ちはありません。
 私はカリキュラム通りにあたりまえの授業を展開しているだけでとくに特別なことはしていませんが、大人の流儀みたいなものは伝えておかないといけないとつねに考えています。テストの点数だとか偏差値だとかはそのあとのことなのですよ。そういう増えたり減ったりするものは骨格形成のあとで大切にしていけばいい。
 
 私の授業は最終コマです。すでに英数と3時間勉強してきた彼らは疲れています。途中でトイレに行きたがる生徒が出てくる。にこやかに「行っておいで」と言う。毎年そうです。中2中3になると落ち着くのですが、中1のときはそういうことが多々あります。これを「どうして休憩時間に行っておかないんだ!」と私の年齢(ここは大切です)でやみくもに叱ったりするのは、成熟した大人の行動ではないと考えています。休み時間には上級生がたくさん来るからトイレに行きにくい子も絶対にいるはずで、そうした想像力を大人だから持てるのだと感じさせることはじつは大切なことだと思っています。
 
 規則はきちんと話したうえでいろいろとイレギュラーな応対をしていますが、それは単純に甘やかしているのではないのですよ。大人はいろいろ考えているということを伝えたい。伝わっているものはあるのでしょうね。彼らは授業中決して騒いだりはしません。何人いてもきちんとやってくれます。
 授業中生徒が騒いでしまうと先生が嘆かれているケースを過去何度か見たことがあります。「舐められないように」とやたらと厳しくされる。その姿勢が、逆に軽く見られてしまう。重みみたいなものは自然と伝えていく必要がありますが、それは大人側がどれだけーー科目内容だけでなくーー人生を勉強しているかという要素がじつは大きいですね。
 
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2017.05.21 00:21

 とくに小学生の男の子なんかで、やたらと軽そうに見える子がいます。これはそう見えるというだけであって本来の軽薄さとはじつは別種のものです。私は自分がそうだったのでよくわかるのですが、自分自身の内側で何かよくわからないものを韜晦させる目的でとりあえずそう演じているケースがしばしばあります。
 ですからある日突然、内省的で静かになることがある。口をきかなくなる。笑顔を見せなくなる。もともとその素養があったのです。
 
 概して、小中学生は男の子のほうが女の子より重心が高いものです。うろうろきょろきょろしていて落ち着かない。生理的な何かもあるのでしょう。いわゆるじっとしていられない。
 自分の場合は中学2年生ぐらいになって突然他人と話すのが苦痛になりはじめましたが、性的な目覚めみたいな要素が微妙に関係していたような気もします。とまどいですね。何か考えこんでしまうようになったとでも言うのでしょうか。
 
 いずれにせよ、重心が高い位置にあるときはどうしてもじっくり考える態勢になれません。ぐらぐらしている。喋ったり動いたりマインドが落ち着かない。
 勉強に限ったことではないですよ。お手伝いをさせても失敗する。買い物に行ってお釣りを忘れてきたり、洗濯物を干そうとして地面に落としたりする。重心が高くて不安定なのです。
 やみくもに叱ったところでどうにもならないでしょう。そそっかしさの根本原因が重心の高さにあるのですから。
 
 そこは時期を待たないといけませんね。と同時に生活の中で重心を少しでも下げられるような働きかけをしていかないといけない。
 本当は瞑想でもさせるのがいいのでしょう。しかし、小中学生相手にそういうわけにもいかないですね。落ち着いた空間作り、じっくりと姿勢正しく座らせ食べさせる、家の中の空気を泡立たせない工夫などは必要になってくると思います。ずーっとテレビがついているとか部屋中散らかっているとか家族が怒鳴り合ってばかりとかいうのはちょっと感心しません。逆に重心が上がってしまいますよ。
 
 お子さんの重心を下げてやるにはどうしたら・・・ということを常に意識されるといいと思います。「がみがみ文句を言う」などというのは重心を上げることこそあれ、下げることはまずないと思います。何かあったときは、明日対処法を訊くからまとめておいてでいいでしょう。1人でまとめながら、彼らの重心は静かに下がっていくはずです。
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2017.05.15 09:32

 大昔、こういうことがありました。私が中学に入ったときのことです。私は本格的にある活動をしたいと思いました。そういう部活もあったので入りたいと両親に話した。するとだめだというのです。どうしても入りたいと訴えたのですが、絶対にだめだと。
 理由がいかにもうんざりで、受験に関係がないからそんな活動はむだだという。大学受験(私が入ったのは私立の中高一貫校でした)に役にたたない。まだ中1になったばかりなのですよ。受験勉強に役にたたないことはお前の人生に必要ないとまで言われました。
 
 そしてある部活に入るようにも言われた。これまた私にとってはうんざりするような部で入ったもののすぐにやめてしまいました。全然面白くない。
 先輩たちはすごくいい方ばかりでした。人間関係自体は楽しめました。ただ自分にまったく興味のない分野ですからね。放課後、貴重な時間をつぶして何をやっているのだろうという気持ちになりましたよ。
 そんなことが度重なって、自分は「受験」しか頭にない両親の価値観を徹底的にきらうようになりました。あまりにも浅薄に思えたのです。
 
 嫌悪というよりは軽蔑の感情に近かったような気がします。こりゃ話にならんわという感じですね。ですから、もう何も言うことを聞かない。ただまだ正面から反抗できるほどの体力はなかったので、ウソばかりつきました。ウソばかりついて、とにかく自宅に帰る時間を遅くした。
 友人と都会の雑踏を用事もないのによくうろついたものです。彼にもまたそうしていたい事情がありました。あんな家帰りたくねーよな・・・みたいなことを愚痴りあったことを覚えています。
 
 もうそうなってしまうととにかく親には何も相談できない。相談したところで受験のことしか言わないのですから、深みも何もない。
 たまに生徒が私のところに来て「勉強する気が起きない」と訴えてきます。状況を見て「ぜんぶやめちゃえばいいじゃないか」と言うとすごくうれしそうな顔をするときがありますよ。お互いにもちろん「ぜんぶやめていい」とは考えていない。ただ「ぜんぶやめてもいい」と語りかけられる大人の感性の中には、窒息しかけている少年少女の魂をよみがえらせるだけの何かが潜んでいるのです。
 
 ぜんぶやめたって何とかなるだろうと言う。するとそれはさすがにまずいスよ・・・とにやにやしながら帰っていく。しばらくして担当の先生に様子を訊いてみると「最近、けっこう頑張っていますよ」という返事が返ってきたりする。
 大人側が深い人生観を持っていないといけないですね。背反するものを包括しているのが人生です。矛盾は当然であり、一時的にどちらにころんでも、こちらは守ってやれるよという安定感ですね。本当の大人のすごみはそのあたりに出てくるのだと思いますよ。
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2017.05.14 07:24

 入社後1年経過ということで、息子の会社で面接があったそうです。偉い方がいらっしゃって、1年間の仕事ぶりを総括してくださった。その話を聞いていて、なるほどと思ったことがありました。
 伝え方の問題ですね。本人がやる気を起こすように起こすように引っぱっていく技術というか心構えというか。こういうところは先生と生徒や親子の関係でも同じです。どんな正論であっても、本人がやる気をなくしてしまったら失敗でしょう。
 
 ひととおり面接が終わったあとで、担当の偉い方がこうおっしゃった。「すごくできる社員になりたいのであれば・・・」とわざわざ前提をつけた。ですから命令口調ではありません。熟練の話術ですね。
 いままで見ていると、できる社員に限ってなぜか早め早めに出社してくるとおっしゃったそうです。そして「もしそうなりたかったら朝早く来るといいかな」とアドヴァイスされた。
 
 息子はおれも早めに行こうかなと笑顔を見せていました。気分のいい提案だったのでしょう。確かに聞き方によってはおまえだって「できる社員」になることは夢ではないぞと言われた感じを受けるかもしれません。息子は単純にそう受け取ったような気がします。
 これを「もっと早く来なくちゃだめじゃないか」とか「来るのが遅いんだよ」とか叱責されたらどうでしょうね。命じられればもちろん早くは行くでしょうが、うきうきとした気分で行けるのかどうか。
 
 こういうのは本当に技術の問題だと思います。その技術を生み出す原動力は何といっても相手に対する思いやりですね。こう伝えたほうが相手の気持ちが高まるのではないかという想像力が必要です。伝達というのは、伝えたい内容を垂れ流すことではありません。自分の伝えたいことを相手の心にしみわたらせることこそが本当の目的でしょう。
 ご本人の気分がまったく盛り上がらないようであれば、伝達した行為によって真の伝達が阻害されるというおかしな状況も考えられます。
 
 ちっとも勉強しないだめなやつだなと言う。伝達したいことは「勉強してほしい」ですが、そのセリフでお子さんがへそを曲げてしまったのであれば、何も言わなかったほうがましだったということになりかねない。
 伝えたいことが相手の心にどう響くか。的確な想像力が働く背景にはやはり相手に対する大きな思いやりがあるはずです。人間の信頼関係はそうやって作っていくものですね。想像力を駆使して相手を鼓舞することだけを伝えていく。あの人の言葉は進んで聞こうという大人に、私たち自身がならないといけない。こちら側も細心の注意を払って提案しなければいけないと思いますよ。
 
 
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2017.05.10 10:09

 子どもたちがはじめに体験する社会はご家庭でしょう。まずはご両親が「先生」のような存在になる。もちろんご「両」親ではないケースはありますが、これはまったく心配いりません。過去も非常に優秀で円満な人格者に育っていった生徒を数え切れないほど見ています。
 やがて保育園や幼稚園、小学校に通うようになり第2の社会と出会うことになります。それまではご家庭がすべてです。
 
 そしてご家庭はまたふるさとみたいなものですね。他の土地に行くことがあっても、ふるさとに帰ってくればほっとできるという安心感は絶対あるはずです。わかりやすく書くと他の土地(幼稚園とか学校とかさらには将来の職場なんかもそうかもしれません)でどんなにつらいことがあっても、ふるさと(ご家庭ーーご結婚されればご自身で作られたご家庭ということになりますね)に帰れば安心できる。そのことは本当に大きな救いになるでしょう。
 
 他の土地では理不尽なことや相容れない要素が出てくるものです。そこはお互いさまでもあるのですよ。育ってきた環境が違います。文化が違う。場合によっては生活信条や教育や宗教が違ったりということもある。
 帰ってきたふるさとまで殺伐としてしまっていたらどうでしょうか。実際世の中には何かの原因で故郷に帰れなくなってしまう方もいらっしゃいますが、いざとなれば帰れるところがある方の何十倍も不安感は大きいと思います。
 
 ふるさとを構成するすべての要員が、そのことを意識しておいてもいいですね。ご家庭の全員が意識されていていい。「全員がくつろげる権利を有している」ということです。万が一にも他の方の権利を侵害していないかどうか。受け入れ態勢の豊かさをとくに強調したいと思います。
 お子さんが成長していく過程で、価値観の揺れはどうしても出てくる。それこそ極左から極右にブレるぐらいの揺れが出ることもあります。それを大人側まで一緒にカリカリしていたらくつろぐ空間ができないのではないかと思います。
 
 ゆるやかに受け入れられる空気を意識的に作る。ふるさとでは最低限の約束事さえ守れれば、あとは穏やかに過ごせる。穏やかさというものは平和と同じで意図的に更新していくものでしょう。意図的な努力で更新していく。
 現状がどうであってもいいのですよ。いつも書くように、いまからここからです。いまからここから積み重ねていく気持ちが大切です。私たちにはよりよい関係を築く力がありますね。大げさに書けば、その力が世界を救う。ご家庭は第1歩ということでしょうか。
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2017.05.04 07:14

 話題になっていますね。特急電車なんかでどれぐらいまでシートを倒したらよいのか。よいのかというのは、後部座席の方がどれぐらいまでの倒し方なら不快感を覚えずにすむかという意味ですね。
 けっこう乱暴な意見も出てきていて興味深く感じました。倒せるだけ倒したっていいじゃないかという。もともとシートがそういう構造になっているのだから、それが道理じゃないか。
 
 まあ、そういう考え方も確かにあるでしょう。またこういう意見もありました。文句が出てくるほど倒せる構造にしたこと自体が悪い。深い角度まで倒れない椅子をはじめから作っておけば何も問題は生じなかったというのです。要するに人間ではなく、技術のほうから解決を図る考え方ですね。
 数年前、都内のいわゆるトップ高校(文字通り、首都圏のトップ校です)で出題されていた記述問題を反射的に思い出しました。テーマは携帯電話でしたよ。
 
 変なところで鳴ってしまうことがよくありますね。「あ、いけない」となる。マナーモードにし忘れていたのです。するといっそのこと、会合の場では電波を切断できるようにしておいたらいいのではないかという案が出てきます。そこの部屋ではどなたの機器も一切電波がつながらないようにしておく。すると、どなたの携帯も「うっかり」鳴ることは絶対にない。便利ですね。
 そして受験生への問いはこんな感じで投げかけられました。「この考え方にはどんな問題点が生じるか」
 
 高校受験の問題です。もちろん中学生にこれを考えてみなさいと言っているわけです。暗に技術のみで何かをなしていくことは非常に危険だし問題だぞ・・・と語りかけていることがわかりますか? こういうことをじっくり考えられるようになることこそが、私は本当の自立した大人であると思います。そして、そうしたトップ校はホンモノの大人しか入れないようになっているのです。こんなこと「受験」参考書をいくら読んでも、こう書くと合格ですとは出ていません。
 
 今回のシートを倒す話なんかはさっそく次年度の公立高校の推薦試験に出てくるような気もします。ただそういうこととは関係なく、また正しい答がどうあるべきかということではなく、こうしたことこそおうちで話し合われてみるといいと思います。「どう思う?」とざっくばらんに話せる空気は非常に大切ですし、それこそ子どもたちを大人にします。
 先日、私は大阪に行ったと書きました。新幹線で自分もシートを軽く倒した。帰りは背後にはまだどなたもいませんでしたが、あとのことを考えそれでも細心の注意を払って圧迫感がないように倒しました。
 
 私はそうやってさまざまに気を遣う瞬間の人間ほど崇高な(?)存在はないと思っています。倒れない椅子なんか作って、人間からこの唯一の瞬間を奪わないでくれよ・・・とは考えましたよ。
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2017.04.28 00:25

 今年も生徒たちが合格体験記を書いてくださいました。保護者の方が書いてくださったものもあります。ある生徒、私は教科は教えたことがなかったのですが面接の練習をしただけですばらしい人間だということがよくわかりました。
 本人にも告げましたが、話していて半端ではない温かみを感じました。優秀な子はたくさんいます。それで十分でしょう。ただその生徒は、加えてものすごく温かい。具体的なことは書きにくいのですが、こんな子がいれば日本も安心だと感じました。
 
 彼のおうちの方が書いてくださった体験記を読んで、なるほど・・・と思いましたよ。勉強はそれなりに大変だったということが書かれていた。それは全員同じだと思います。そのあとがいい。
 食卓でその日の授業内容や先生方の話を楽しそうに話していた。友だちのすごさを自分のことのように楽しそうに話していたとありました。
 私が感心したのはそうした空間を構築された保護者の方の手腕です。その温かみがそのままその生徒の温かさにつながっていったわけですね。
 
 話の途中で、腰を折らないことはとても大切です。徹底的に聞く。話が少し矛盾していてもとにかく聞く。「しっかりやらなければだめだ」とか「ところで、点数はどうだったのだ」とか「ちっともやっているように見えないぞ」とか、こちらの主観に基づいたことを口にする以前に、とにかく徹底的に聞く。
 それだけの度量が必要で、話の途中でこちらが怒り出したりしたら彼らはもう2度と話そうとしないでしょう。
 
 どんなアドヴァイスよりも話を聞いてあげられる、闊達に自由に喋れる場を作るということは大切なことだと思います。
 うちの子なんかいまでも、夜遅く帰ってきて深夜食卓であれこれ家内に会社のことを喋っています。愚痴が出たり文句が出たりする日もありますが、家内は楽しそうに聞いているだけで、雰囲気が悪くなることはまずありません。
 
 数年前も合格体験記に「母の明るさに救われた」と書いていた生徒がいました。応援というのはそうしたものだと思います。極論すれば、私たちにできることは相手を明るくするか暗くするかだけなのでしょう。どちらがいいか、わざわざ書くまでもないことですね。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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