2018.05.20 01:21

 妙な事件が起きるとよく「あの人がまさかこんなことをするとは思わなかった」という反応が出てきます。日ごろの人づきあいもきちんとしていたし、仕事(勉強)もズル休みしたりせず真面目にこなしていた。それがこんなとんでもない事件を起こすなんて・・・という話はしょっちゅう聞きますね。
 この場合、事件を起こした本人も「まさか自分が」という気持ちを持っていたりするものです。いわゆる「魔がさす」という心境ですね。そういうことがどうして起きるのか。
 
 日ごろからきちんと自分自身に向き合っていれば避けられたはずなのですよ。ところがあまりにも厳しくしつけられてきたりすると善悪の二項対立にいつも単純化させて、他者に正しい自分だけを見せようとします。正しい自分を「装う」だけであればきわめて簡単です。そのために本当の自分は徹底的に隠す。いいところだけを見せる。
 ところが、隠しているうちにご自身でも見失ってしまう。何かしら邪悪な影を感じると「これは自分ではないな」と考えよう考えようとする。
 
 残念ながらそうではないのです。それもまたご自身の一部ですよ。善だけということはない。悪だけということももちろんない。それがないまぜになって人間が形成されています。ですからいちばんいいのは、自分は善だけではないということに気づいている状態ですね。自分を油断なく見ているかどうか。
 本当はガイドできる人間が周囲にいると助かります。誰かが何か問題を起こす。「お前は最低だ!」とただ弾劾するのではなく、なぜそんなことをしたのかね? と本人に考えさせるガイドですね。
 
 自分がした行為についてーー子どものときの小さないたずらからはじまりますーー相手に考えさせる。たとえば、なぜお金を払わずに持ってきてしまったのか? なぜ見てはいけないところをのぞこうとしたのか? なぜ弱い者いじめが楽しかったのか? ご本人に考えさせる。
 だめだとか最低だとかというセリフは、内省的な何かとしてご本人がしみじみご自身に言い聞かせるべきもので、頭ごなしに怒鳴りつけて終わりでは内側に芽生えるべき貴重なものが芽生えずに終わってしまいます。
 
 まず気づかせる、自覚させるということは非常に大切なことだと思います。
 私自身、たとえば小学生のころ嬉々としてお金を払わずに商品を持ってきてしまった経験があります。高校生のときは北海道の温泉地で知り合った悪い男子大学生数人に誘われて女湯をのぞこうとして全員岩場から転がり落ちて失敗したことがあります。そういう愚かな過去は私自身が覚えている。油断したら再びあちら側に転落しないとも限らない。まさかこの私がどころか、私だからにやりかねないという恐れがあるのです。だからこそ逆に絶対にそちらには近づきません。
 
 やたらと断罪するだけでなく、とにかくご本人に考えさせてください。そのあたりが鍵になってくるはずです。
 
 
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2018.05.19 06:18

 勉強というのはりっぱな文化ですね。やりようによってはそれなりに面白いはずですよ。ただテストがどうのこうのと点数のことばかり気にしているとあまり面白く感じられないでしょう。心がけとしては、何か面白いことがないだろうか・・・という前向きな姿勢が大事です。
 文化が成熟していくためには「楽しみ」がないといけない。楽しいことしか上達しないものです。これは勉強に限らないと思います。
 
 ですから、私個人は塾もそれなりに楽しくないといけないと思っています。げらげら笑うような楽しさでなくても、とにかく塾のある日はそれなりに充実しているという感想を持ってもらいたい。
 授業が終わって何となく教室に残っている生徒がいます。勉強をしているわけではない。ただ走り回ったりゲームをやったりしているわけでもない。友だちと学校の出来事なんかを話している。うちの学校でこれこれこんなことがあったよと夢中で喋っている。
 
 そういうときに「自習しないのならすぐに帰りなさい」ではつまらないのであって、10分15分ぐらいはそういう会話ができる余裕を与えてやったほうがいいのです。勉強をしていない瞬間はすべてむだだというような考え方はうまくいかないものです。勉強の前後に何かしら心の余裕があったほうが、間違いなく成績も上がっていく。
 塾でのくつろぎというのはまた学校とは違うもので、その中に何かしら自分もしっかりしなければというものが出てきます。
 
 「そんな難しい本、面白いの?」みたいな会話が聞こえてくるときもあります。教科の勉強とは全然関係ないものの、難しい本(何の本だか確認していないのでわかりません)を読んでいる同学年の子がいたという認識を持つだけで勉強になるでしょう。
 最近も中1のテストにいま話題の「君たちはどう生きるか」が出ていました。問いの解説なんかをしてもつまらないので、大事そうなところには線を引いてもらってただ文章を読みました。そういう文化的な後方応援がじつはいちばん大切なのです。
 
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2018.05.09 09:11

 男女にかかわらず、ときどきこの子はとても繊細だなと感じる生徒がいます。それはある意味ご性格というか、特質ですね。
 昔ですが、個別指導の塾で教えていたころ地方から都会の私立高校に転校してきた生徒がいました。個別指導ですから合間合間にいろいろな話もできる。ある日すごくお腹がすいているというので、今日は学校でお昼をあまり食べなかったのかね? と気楽な気持ちで質問してみました。
 
 するとこう答えた。「ぼくはまだ十分高校に慣れていないので・・・」その日はお弁当の用意がなかったため校内の食堂に行ったそうです。「何とか定食みたいなのは面積をとるので恥ずかしいじゃないですか。仕方なくおそばとかカレーとか、手もとで小さく食べられるものだけを食べているのです」
 それだと16歳の少年にはちょっとヴォリュームが足りない。「はやく派手な定食が食べられるようになるのが夢です」と笑顔を見せていました。
 
 この話を聞いていて、私はこの子は勉強ができるようになるだろうと思いました。はたして現役で医学部に進み、現在は一流のお医者さんとして活躍されているはずです。
 堂々としっかりしている子というのももちろん伸びるのですが、繊細なご自身を責めることなく落ち着いて対処していける生徒もまた伸びます。等身大にご自身をながめられるということですね。心配なのは、本質的なご自身の繊細さを異様に恥じたり卑下したりするケースです。どうして「弱くてもいいじゃないか」と落ち着いて認められないのか。
 
 そこはやはり周囲からの干渉が大きいように感じます。さきほどの定食を食べられなかった生徒に私は「いまのきみの話には何となく感動したよ」と直接告げました。そういう肯定的な評価を日ごろ周囲の大人が投げかけているかどうかは、とても大切な要素だと思います。
 事情をよく知らない大人に「男のくせにそんな気弱なことでどうするんだ!」みたいな乱暴な応対をされると、素直に伸びられず変にねじれてしまうものがあるということです。
 
 等身大のご自身を大切にできるというのは非常に大事なことです。逆に等身大のご自身の特質と闘い続けるのは、どこかに不自然さがあるように思います。
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2018.04.17 01:52

 先日、またまた「教科書が読めない子どもたち」という記事の続報を読みました。何度かブログでもとりあげてきた話題ですが、ちょっと騒ぎになってきている感じですね。そこにはやはりスマートフォンが言語機能やコミュニケーション機能をつかさどる脳の前頭前野に悪影響を与えている可能性があると書かれていました。
 東北大学の川島隆太教授が約7万人の児童や生徒を追跡調査した結果というのですから、かなり信憑性があります。
 
 スマホの使用で明らかに学力が低下する。さらにーーこれはちょっとびっくりしたのですがーーとくにLINEなどのメッセージアプリの影響が大きいそうです。使用時間に比例して偏差値が下がっていくというのですから穏やかではありません。まったく使用していない集団と1日4時間以上使用している集団とでは、何と10以上も偏差値が違う。
 学習時間をとっていても下がるのは、集中力や学習効率が著しく低下してしまうからであると考えられているようです。
 
 もっともっと恐ろしいことも書いてありました。スマホを長時間利用すると、読書をしたとき活発に働く前頭前野が安静にしているとき以上に(!)働かなくなる。すると健常児でさえ言語機能の発達が遅れる可能性がある。しかもこの現象は、テレビやゲームを長時間利用したときにも起こるそうです。
 これは私自身思いあたるふしがあります。私は将棋以外のゲームはやらないのですが、ふだんあまりヒマがないので休みの前夜、ほぼ徹夜で将棋を指していたことが何度かありました。
 
 徹夜でということは・・・だいたい5時間ぐらいぶっ通しでしょうか。ある意味、熱くなって指し続けるわけですが、しばらくたつと確かにぼんやりしてきて信じがたいようなミスをするときがあるのです。実際に人と徹夜で指しているとき(そういう時代もありました)には絶対出てこなかった類の変なミスなのですよ。
 いちばんひどいときは3手目に妙な手を指して角をただでとられて負けてしまいました。あれ? いまおれ何したんだっけ? と寝ていたわけではないのに、突然目が覚めた感じがした。ぼーっとしているのでしょうね。
 
 私の場合もうたいして先のない(?)年寄りですし、将棋を指す機会はそんなにないのでまあいいのですが、お若い方、それこそ小学生中学生高校生の方が、毎日毎日そうした状態を続けていたらそれはそれは深刻な弊害が出てくるかもしれません。
 こうしたことを経済的な事情からなかなか声高に提言できないというのが、いまの日本社会の現実なのだと思います。利用時間を1日1時間以内にとどめれば悪影響はないそうですから、ご家庭でもよく話し合われるといいですね。
 
 自由で豊かな世の中では、何をやるか以上に何をやらないかが幸せの鍵になってくるものです。
 
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2018.04.03 07:22

 スタートラインというか出だしというか、そこは妙な期待値なしにありのままの相手の状態を受け入れるところから出発するべきでしょう。うちの息子は小さいころ「ぼくは勉強したくないよ」とさかんに言っていました。いろいろなことを考えていたらしく、こう告げられたことがあります。「お父さんの仕事はわかっているけど、ぼくは勉強はやりたくないからね」
 笑ってしまいましたよ。受験勉強はたくさんしなくてもいいが、他に得意なことを見つけないといけないなと答えました。
 
 そのときは「大工さんになりたい」と言っていましたかね。家内にもそんなことを言っていたので、それならそれで将来は大工さんの勉強とか訓練をするといいと話したような気がします。
 私の住んでいる東京の杉並区は中学受験が盛んで、小学生のときから学習塾に通っている子がたくさんいます。小学校では当然そういう子の成績が高く出るので、受験しないご家庭でもお子さんを塾に通わせたりします。
 
 本人が何か言ってきたらそれも考えたかもしれませんが、「勉強したくない」息子は小学校時代1度も塾に通いませんでした。あるとき小学校の先生が受験をする生徒に長野くんとはーー勉強しなくなるといけないのでーー遊ばないほうがいいとおっしゃったという事件(?)があり、家内は多少憤慨していましたが私はそれは1つの考え方だと思いました。要するにそれぞれの生き方がある。
 小学校時代は劣等生でもまあよかったのですが、中学であまりにできないとちょっと恥をかくかなとは思いました。劣等意識の塊みたいになるのはよくないでしょう。
 
 そこで近所の、比較的ゆるやかな塾に通わせました。学校の友だちがいるところですね。みんなで自転車で帰ってくる。突然その日の授業科目が変更されたり若干心配な部分はあったのですが、ずーっと何も言わず本人任せにしました。そこでさえつらいということであれば、それもまた選択です。
 息子が大学に行きたいと言い出したのは高校2年生のときでした。そちらの方向には進まないものだとばかり考えていたのでちょっと意外でした。ではと応援するだけです。
 
 その後の大学や就職の選択も、私は一切口を出していません。やりたいようにやれ、あまりむりはするなぐらいです。社会人になって3年目に入りますが、今後もこちらの言いたいことは変わりません。
 ありのままの相手を受け入れる度量は大切だと思います。とくに相手がお子さんの場合ですね。「子ゆえの闇」という言葉がありますが、ありのままからスタートして少しずつ成長しようという気持ちを上手に持てないと親子ともども大混乱ということが起こりうるからです。
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2018.03.16 08:14

 どこでも「量より質」ということは強調されているものです。Z会進学教室のパンフレットにも書いてあります。量より質であると。
 ただ、漠然と「質」を重んじると言われてもピンとこないですね。質というのは何だろう・・・という疑問を持たれている方も多いのではないでしょうか。
 大前提として「参加者の心構え」は強調しておかなければいけません。あなたご自身がどんな気持ちで物事に向かわれるか。
 
 いやでいやで仕方がないという状態であれば、何をどうやったって質が高まるわけがない。そう思いませんか? どんなに上質な教材を与えられても、いい加減に雑に適当にやっていたら質の向上はありえないでしょう。
 ですから勉強(勉強以外もそういうことになると思いますが)するときは、心の中を整理してすっきりした感情でスタートしてください。あれが気になるこれが気にかかる・・・状態ではいけないということです。
 
 私は子どものときから単純なゲームを一心不乱にできない人間でした。すぐに飽きてしまう。子ども向けのいろいろなゲームがありますね。ぜんぶすぐに飽きてしまうのです。唯一将棋だけはのめりこみましたが、他の遊びはまったく上達しませんでした。つまり私はゲームを習得することに「向いていない」のでしょう。
 徹底的にぜんぶの教科が面白くないという場合、確かに勉強に向いていない可能性はありえます。ただそういう方も他の分野で大活躍されていたりもしますから、ご自身の興味のある分野を見つけられれば問題はないですね。
 
 好きな科目はあるよという場合、とにかくその科目を中心に心の質を高めようという気持ちは持ってください。心の質が高まれば、当然丁寧に書くはずです。丁寧に聞くはずです。はじめて習ったことは宝物ですから、何度も何度も慈しむように見直すはずです。そうしたことが自然にできるまでおのれの心を高めていくということが何よりも大切でしょう。要するに丁寧にやれないのであれば、好きではないのですよ。
 塾としては生徒の心をそちらの方向にいざなえれば、いちばん質の高い指導ができたことになるでしょう。
 
 私はーーもう何年もーー受験生のクラスではあえていちばん成績が苦しいクラスも担当しています。国語云々ということより心のケアが大切ですからね。生徒自身が質を高めていけるような働きかけを心がけているつもりですが、彼らのやる気をそぐ事件がほかならぬ学校やご家庭内で起きたりすることもある(私自身がそうでしたから生徒の気持ちはよくわかります)ので、残念に感じるときはあります。
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2018.02.18 01:46

 いまも歩いてみたいところというのを定期的に書き出しているのですが、あそこはどうなっているのだろう・・・というところが多いですね。私が子どものころはまだ昔の地名が残っていました。何とか1丁目2丁目ばかりではなかった。同じように西何とか東何とかもあまりありませんでした。
 実家近くに「川添町」という住所がありましたが、川に沿っている街で当時からいい町名だと思っていました。そこは現在「東何とか何丁目」と呼称されています。
 
 わかりやすくすることを悪いことだとは思いません。そういうのもグローバリズム化の一種(?)みたいなもので、数字に類する何かでわかりやすくわかりやすくしていくわけです。1丁目の隣はだいたい2丁目ですし2丁目の隣はだいたい3丁目でしょうから、いきなり「川添町」と言われるよりはるかにわかりやすい。
 ただわかりやすさに必ずしも最上の価値を置く必要はないでしょう。わかりやすさよりも情緒を重んじる考え方もありますね。
 
 すべてを数字に変換してしまえば全世界で通用するという考え方はある意味で浅薄だとも思います。そんなことはない、誰だって5千円もらうより1万円もらえたほうがうれしいに決まっているという意見も出てきますが、成熟した人間にとっては数字以上にどこで何の対価としてどれだけのものをどなたからいただいたのかということが大切なのであって、数値の大小だけを見て大きいほうにすぐに飛びつくのは若干危険を伴う気がします。
 抽象的なことを言い出すとわかりにくくなりますが、簡単に書けばこういうことです。
 
 飼い犬を見ていてつくづく感じますが、主人の年収が低いので別の主人に早く乗り換えたいなどとは考えません。比べることさえない。主人は主人です。この人は自分の主人であるという事実に価値を感じています。
 人間は必ずしもそうではない。もちろん利口だからでしょう。こちらの人のほうが数値(お金?)が大きいから乗り換えようということもしばしば起きます。それは仕方がないにしても、ひどいときには成績という数値が低いわが子を数値の高い他人の子の下に置いてしまうことさえありますね。それがあまりにも露骨なのはどうなのか。
 
 あなたは本当にだめねえ。何とかくんはあなたより20点も上じゃないの。
 しかし、わが子の60点はAくんの80点より何か価値や主張があるかもしれないとはなぜ考えないのか? そこにこめられた数々の主張、痛み、自慢、抑制、ためらいや頑張りにはどれだけの意味が含まれているのかをなぜ考えないのか? 
 大人ならあれこれ説明するはずなのです。昇進してしまうと大切なことができなくなる。これぐらいでとどめておいたほうが健康的に生きられる。じつは他に気になることが出てきたので時間がほしい。いまの体制下ではあえてこのレベルで抑えておきたい・・・
 
 なぜその数値なのかという数々の物語があるのです。それは子どもたちにとってもまったく同じことですから、数字だけで頭ごなしにただ叱るだけというのはちょっと気の毒であるようにも感じます。
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2018.02.11 00:46

 試験結果がいろいろと出てくるころだと思います。どういう結果も落ち着いて受け止めてください。人間が主役で、試験を超えるという気持ちが大切です。何事もそういうものです。しっかりした精神はすべての事象を超えます。一喜一憂するのでなく、超えられる人間として生きようという強い気持ちを持ってください。
 意外な結果が出ることもあるでしょう。運が介在しますからね。ただあなたの実力そのものがなくなってしまうわけではありません。そのことは大変な救いです。
 
 いずれいろいろな場面で結果を出すことができるようになりますから先を見てください。合格できたとしても未来永劫何かが約束されるわけではありません。所属先でどうなるかはプロ野球の新人選手と同じで、まったくわかりません。うまくいくかもしれませんし、うまくいかないかもしれません。それはこれからあなたが何をどう頑張るかで決まってくるはずです。
 ある若手棋士が「才能は関係ない。努力が足りないだけだ」とおっしゃっていました。
 
 この若手棋士はものすごく強い。ものすごく強いのにーー私にはーー若干運がないようにも見えます。ところがご本人はまったく弱音を吐きません。努力が足りないだけというひと言にすべてを昇華させています。そのほうがやりがいというか、努力のしがいがあるのでしょう。たいした精神力だと思います。
 志望校云々という狭義の話ではなく、人生全体は? ということになってくればやはりこれからの努力次第です。
 
 私の息子も昔いくつか試験を落ちました。大学受験ですね。いまでも覚えています。本人からメールが来た。「落ちたぞ。残念だったな」と書いてありました。残念だったなと他人ごとみたいな文面だった。まあ、いいじゃないかと返しました。とくに慰めたりもしない。合格したときも「よかったな」ぐらいです。とくに大騒ぎもしない。
 要するにこちらの態度というか愛情というか磁場というか、そんなことでは変わらないよということです。お前はそういう仲間に属しているよ。
 
 ご家庭全体が個々の事象を超えられるようになるといいのですが。お互いがお互いを大きく包んでいく。生きているかぎり、予定外の何かは必ず起きるものです。それなりに動揺される方もいらっしゃるでしょう。そのとき「大丈夫」と言える役を交互にになえるといいのですが。私たちには前進しようという気持ちがある、これぐらいの困難であれば切り抜けられる自由を持っている・・・そうしたことを伝え合ってください。
 いたずらに嘆く姿勢に魔が宿るのです。そのあたり、私も気をつけています。
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2018.02.03 00:42

 先日、息子があることでやつあたりしていました。暴力的な人間ではないのでやつあたりといっても「物」にあたっていた。家族に暴言を吐いたりすることはありません。「ふざけんじゃねー!」みたいなことを自室でわめいて、壁を殴ったりしていました。彼自身のミスから生じたことなのでそんなことをしてもまったく意味がないのですが、まあ23歳というのはそんなものですね。私自身は気持ちを理解できました。
 理解できなかったのは犬です(家内は仕事に出ていました)。よほどびっくりしたのでしょう。しっぽを丸めて椅子の下に隠れてしまいました。
 
 同じ部屋にいたわけではないのですよ。隣室から人間が荒れる様子が伝わってきた。何か叫んでいる。内容は理解できなくてもただごとではない感じがする。さらにどんどん壁を叩く音がする。
 息子はその後慌てて外出していきましたが、出かける際にはちゃんと挨拶をしていました。私も犬がかわいそうだから怒鳴るなぐらいの注意しかしませんでした。そのあとがけっこう大変でした。犬がぶるぶる震えていて、椅子の下から出てこようとしないのです。
 
 大丈夫だよとやさしく声をかけた。それでも出てこない。頭を撫でようとすると頭を引っこめてしまう。「大丈夫、大丈夫」声をかけてもとにかくこわいのでしょう。出てこない。仕方がないのでおやつを2種類並べてみた。いつもならつられてすぐに来るのですが、それでも出てこない。こりゃよっぽどのことなのだなと思いました。
 ふだん私も家内も怒鳴りません。家族の間で何かあっても怒鳴るという形式はとらない家庭です。私の場合はーーいろいろな考え方があっていいと思いますーー授業でも怒鳴りません。
 
 若いときはわざわざ演技してまで怒鳴ったことがありました。しかし、いまは怒鳴らない。犬はうちにきてはじめて人間が怒るところを目撃したことになります。それは大変な破壊力だったのですね。
 だいぶたって椅子の下から出てきました。おやつを食べた。ところがいつものようにくつろがない。いつもは専用のふとんでぐうぐう眠るのに、不安そうにずっとこちらを見ていました。口のまわりをさかんに舐めています。
 
 以前、子どもを怒鳴れば暴力をふるったのと同じことになるという記事を書いたことがあります(「怒鳴ればたたくのと同じ」2013年9月12日)。脳が受けるダメージ(萎縮するそうです)は同じだということをピッツバーグ大学とミシガン大学の研究者が発表されていた。獣の犬でさえここまで深いダメージがあるのかと思いましたよ。叩かれたわけでも自分が叱られたわけでもない。それなのにまったく落ち着かなくなってしまった。こんなのが続いたらどれだけいじけた犬になってしまうことか。まして人間がしょっちゅうこんな思いをしていたら・・・ということですね。
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2018.01.22 08:28

 ある雑誌で面白い記事を見かけました。ビール会社の方が最近の若者のビール離れについてコメントされていたものです。ビールから離れていった現在の若者は、幼いころ食卓に瓶ビールが並んでいる光景を見ていないから愛着がないというのです。もちろん理由はそれだけではないのでしょうが、その要素はけっこう大きいのではないかと分析されていました。
 確かにそういう側面はあるような気がします。私の両親はまったくアルコール類を飲まなかったので、私も自宅ではそういう光景を目にしたことはありませんでした。
 
 しかし、たとえば親戚なんかが集まったとき、卓上に瓶ビールが林立しているシーンというのは毎回のように目撃していました。子ども心に「赤い顔をした大人たちは何かうきうきして楽しそうだぞ」という感情を持ちました。
 その延長線上で、飲み屋さんでも瓶ビールを注文する人間が多かったですね。ある種、無意識の儀式みたいなところもあったのかもしれません。瓶ビールが卓上に並びはじめる=楽しくなってくる、という感覚は確実に存在していたように思います。
 
 ただ今回、私が書きたいのはビールのお話ではありません。
 先日、ある新聞でついに大学生の半分がほとんど本を読まなくなったという記事を目撃しました。私は大学生がアルバイトにかまけて勉強をサボったり飲み歩いたり遊んだりということには批判的な感情を持っていないのですが、まったく本を読まないのはどうなのだろう? と思います。
 生きていくうえでの知恵の多くは、世間や他者との交流の中から徐々に身につけていくものだと思うのですが、読書皆無ではたしてそれが可能なのか。
 
 さまざまな「映像」でダイジェスト版みたいな知識を得ることはできるでしょうが、私たちにとって大切なのはじつは「結論」だけではない気がします。結論に至る過程も非常に大切です。将棋なんかでも最新定跡に至る長い試行錯誤の歴史を調べてみると、単純にここではこう指しましょう・・・以上の深い知恵を得ることが可能です。
 結論を導く過程もできるだけ味わったほうがいいですし、そこで自分も参加して考える経験も大切でしょう。
 
 若者の読書離れの原因はさまざまだと思いますが、私は彼らが幼少時に「大人が没頭して本を読んでいる」姿をほとんど目撃していないことが一因ではないかという気持ちを持ちました。瓶ビールの林立シーンなんて見たことがないよというのと同じですね。
 実際、本が好きだという生徒になぜそうなったのか? と質問するとだいたいが「わからないけれど周囲にたくさん本があった」と答えます。環境的な要素は大きいですね。と同時に、環境的なものを整えていく配慮は周囲にもっとあってもいいのかもしれません。
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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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