2017.08.31 01:27

 どんぐりころころの童謡がありますね。お池にはまってさあ大変のあと、どじょうが出てきてこんにちは・・・と続きます。あそこで当然のようにどじょうが出てくるのは、昔はそれぐらいあたりまえに見かける水生動物だったということでしょう。田んぼのウジと呼ばれていたという記事を読んだことがありますが、どこにでも生息していた。
 子どものころどじょうを飼っていたことがあります。そういう仲間はたくさんいたので蟻や蝶なんかと同じ存在だったのだと思います。
 
 いまは見かけないですね。どじょうを専門に食べさせるお店が東京に何軒かありますが、非常に高い。ステーキなんかよりも高い。昼の定食でも2千円ぐらいします。
 今年、8月はじめに体調を崩してしまって苦労しました。風邪だけではなく複合的な理由があったのですが、とりあえず省きます。年寄りの病気自慢みたいになるとよくないですからね。
 ときどきいらっしゃるじゃないですか。病気自慢というか不健康自慢みたいな話ばかりされるお年寄りが。あれはあれで無邪気で微笑ましいのですが、自分がそうすることもないなと思って。
 
 どじょうが身体に非常にいいということを聞いていたので、夏期講習期間食べに行ってみました。渋谷にも専門店があるのですよ。何でもない普通の昼食に2千円というのは私にはちょっと痛いのですが、行ってきました。
 今回もお若い方はほとんどいらっしゃいませんでしたよ。私の隣のテーブル席の2人組は30代ではないかと思います。その方たちがいちばん若かった。ビールを飲みながら政治経済の難しい話をされていました。
 
 お年寄りのグループがかなり酔っ払っています。確かにどじょう屋さんというのは、昼間からアルコール類を飲みにくるようなところでもありますね。定食だけ食べてさっさと帰っていくお客は珍しいかもしれません。
 まるなべ(まるごとどじょうを煮たなべ)とどじょう汁とあと一品ぐらい何かついていました。基本はなべです。大量の刻みネギが出てくるので、それをまるなべに乗せて食べます。まるごとですから、骨もある。ご飯とは合うような合わないような・・・やっぱりお酒のほうが合うかな。
 
 お店はビルの中にあります。何年か前、息子を連れてきたことがありました。彼が20歳になったばかりのころでした。
 ただ1回ぐらいそんなものを食べてもとくに元気にはなりませんね。それはそうだろうな。またいつか休みの日に、今度は飲みながら食べてみようと思います。
 火曜水曜と連休をいただき、おかげさまでだいぶ回復してまいりました。来週から授業がスタートするので、それまでにより健康体に戻したいと思っています。
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2017.08.28 09:02

 これは実話なのですが、いままでどなたにも話したことがない奇妙なお話です。その先生はーーいまから45年ぐらい昔に教わった先生ですから、おそらくすでに鬼籍に入られていると思います。だから気楽に書ける要素もあるのですが。
 中高校生だった私はその先生があまり好きではありませんでした。波長が合わないというか洗練されていないというか子どもっぽいというか・・・とにかくあまりひかれるものはなかった。その先生の授業中は、だいたい雑誌を読んだりして遊んでいました。
 
 女性恐怖症ではないかという噂がありました。私はその先生が顧問をされている部活の部員からその噂を聞いたのです。合宿でどこかにバスで行った。そのときバスガイドさんがいた。バスガイドさんに話しかけられて、その先生は絶句してしまったというのです。「真っ赤になっちゃってさ、もじもじしてひと言も喋れないんだぜ」聞いたときは、ありそうな話だなと思いました。
 私の通っていた学校は男子校でしたから、ふだんは先生も生徒も異性と接する機会がありませんでした。
 
 私はますますその先生のことをばかにするようになりました。10代の自分にとって異性にもてないままでよしとしている男性はありえない気がしたのです。勉強よりはまず異性だろ、というふざけた人間でしたから。
 高校を卒業した直後、私は1度だけその先生にばったり会ったことがあります。それも非常に変な状況下で会った。あんまり奇遇なので、思わず近づいていってしまったのですが、先生は気づかないふりをされていました。それはそうかもしれません。彼は女の子と手をつないで歩いていたのです。
 
 私にはその女の子が中学生ぐらいに見えました。中学生ということはないのかな。それでも16歳ぐらいには見えた。年齢が近いと、わかるものですからね。
 ものすごい美少女でした。私はバス停でバスを待っていたのです。そして、髪の長いきれいな女の子が向こうからやってくるのをまず見つけた。(うわ、かわいい!)と驚嘆してよーく見たら、隣にちんちくりんの40近いおじさん(=先生)がくっっいていたのでびっくりしたというわけです。どういうこと? 
 
 先生は少女の手を両手で握って頬ずりするような仕草さえ見せました。もしかするとわざと私に見せつけたのかもしれません。興味深かったのは少女も本当に幸せそうだったことです。つねに笑顔で、異性として先生が好きで仕方がないという素振りを見せていました。完全に恋愛状態ではありました。
 この経験は、私の中に何らかの痕跡を残しました。善悪を超えた何かですね。自分は少し変えた状況でこの話を小説にしようと何度も試みました。うまくいかなかったのは、私が書く主人公にはあの先生のような蓄積された惨めさが足りなかったからだと思います。
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2017.08.27 00:53

 久しぶりに拙著「励ます力」のことを書きます。編集者の方からご連絡をいただきました。発売から2年半で、いちおう完売という形になりそうです。なりそうですというのは、出版社さんのほうの在庫があと10冊ちょっとらしい。
 シロウトのおじさん(私のことですよ)が大手の出版社からいきなり書籍を出して大丈夫なのか? と自分でも心配していたのですが、とりあえずはほっとしました。すべて皆さまのおかげです。どうもありがとうございました。
 
 と同時にもうなくなりますので、お求めになられる方はお急ぎください。
 書籍を出すというのは私の世代の人間にとっては、大きな夢でした。10代のときは詩人になりたいと思い、20歳になる少し前からは小説家になりたいという気持ちを持っていましたが、形としてーー当時はそれしかないですからーー書籍にしたいと考えたものです。小説を書いていたころ、1度だけ出版社の方から「いずれ書籍化できるかも」と言われたことがありました。1990年代ですね。
 
 家族にも友人にも何も言いませんでしたが、とてもうれしかった。ただそのお話は何となく流れてしまいました。きちんとしたお約束というわけではなかったですからね。
 その後会社勤め(時間講師ではなく)をするようになり、若かりしころの小説を出版するという夢は意識しなくなりました。あまり飛躍したことを考えながら生活しているとよろしくないだろうという気持ちもあった。
 で、ときどきーー酔っ払った夜なんかですねーー少年の日に「本を出してやろう」と意気込んだことがあったが、あれは夢に終わったなと考えたりしました。失意というほどではないのですが。
 
 まあ、自費出版はまたちょっと方向性が違ってきますからね。
 ブログに関しては仕事として書いていましたから、とくにまとめてどうのこうのという気持ちはありませんでした。それが編集者の方から突然ご連絡をいただいた。いろいろな方のお力添えがあり、とんとん拍子で話が進みました。
 2014年の年末、何冊か見本誌を送っていただきました。黄色いきれいな単行本が荷物から出てきたときの幸福感をいまでも覚えています。冷静ではありましたが、うれしかったですね。重層的な幸福の概念が、私にはあります。感謝しながら「皆さんと」生きようと考えています。
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2017.08.26 00:16

 昔、非常に面白い話を読んだことがあります。例によって何の本だったかは忘れてしまいました。ある聖人がキリストだかブッダだかの体験談を話していました。聴いていた多くの聴衆が感動した。あとで、学者がこういう質問をしました。
 自分はいまのエピソードに非常に感銘を受けました。そして自分はありとあらゆる経典や伝記をこれまで調べてきたのですが、いまのお話は見つかりませんでした。いったい何という記録に残っているのですか。
 
 すると聖者は淡々とこう答えたそうです。私は経典なんか見てもいませんよ。キリスト(やブッダ)なら当然そう考えるだろうし当然そう振舞うだろうということを適当にお話しただけです。
 学者は悲しみ、そういうことであれば私はいまのお話を全面的に受け入れることはできませんと伝えました。私たち学者はあくまでも史実に基づいているかどうか、事実の裏づけがあるかどうかで価値を決めています。どこにも記録が残っていないことを勝手にキリスト(やブッダ)のお話にすることはできないのです。
 
 このあとの展開は忘れてしまったのですが、聖者は「あなたの中のキリスト(やブッダ)は残念ながら生きていないのですね」というような憐れみの感情を持った・・・という流れだったのではないかと思います。
 私は炎天下の歩道を歩きながらときどき歩幅を変えてぴょんと飛んだりすることがあります。ふざけているわけではないのですよ。ただその理由を他人に話したことはありませんし、まして文字にしたこともありません。
 
 私はいつも歩道をうごめく蟻を見ているのです。けっこうたくさん活動している時間帯がありますが、できれば1匹も踏みたくない。これは若いころからずーっと続けてきたことで、踏みそうになったときはぱっと歩幅を広げて飛びます。
 これをもしどなたかがーー生徒でいいのですがーーあの先生(私のことです)は考え事をしていてときどきあまりにも深く考えすぎて脚がもつれ、ぴょんと飛ぶような格好になるのだと誤解して説明してくださっても腹もたちませんし、わざわざ蟻のせいなのですと弁解しようという気持ちにもなりません。
 
 私たちは間違えた解釈の可能性も含めてあちら側に包括されているような気がします。そもそも対象に深い愛情を抱いているかぎり部分は間違えても全体についてはそうは間違えないはずです。
 むしろ「原理主義的に」しかとれない個々の人間の見方のほうが危険な感じがしますね。どのような貴重な箴言にしても血の通った解釈ができないと価値が半減するのではないか。憧れの人物が私たちの中で「生き続けている」ことは非常に意義のあることだと思います。
 
 
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2017.08.25 04:22

 先日、講習前にクリニックに寄りました。それから昼食を食べてしまおうと考えてクリニック近くの中華のお店に入りました。まだ11時半ぐらいでした。
 そこのお店には以前からちょっとだけ入ってみたいと思っていたのです。表の看板メニューが豊富で非常においしそうに見えます。実際はどうなのかわかりませんが、興味がありました。
 入ってみると、中のメニューはもっとシンプルになっていた。まあ、そういうものなのでしょうね。
 
 お客さんは、その時間でもそこそこ入っていました。15人ぐらいかな。肉体労働者風のグループ(服装でわかりました)が何組かいました。
 結局、私は「冷やし中華」を注文しました。もっと複雑なものを頼もうと張り切って入ったのですが、卓上のメニューには書かれていません。わざわざ外の看板まで店員さんを引っぱって行って「これをください!」と指さすほど子どもではないですよ。書かれているものでいいやという感じでした。
 
 味は可もなく不可もなく。なかなか冷やし中華のあたりには出会いませんね。わかっているのですが、ひょっとしたら・・・という期待だけで頼んでしまうことがあります。最近、渋谷のあるお店で頼んだものは麺が固くて閉口しました。いかにも慣れていない感じのおじさんが片隅でもそもそ作っているので、不安ではあったのですが。
 ちょっとオシャレな感じの70近いおじいさんがやってきて、カウンターの端に座りました。すると不思議なことに店の女の子(中国の方だと思います)が「レモンサワー2つ」と呟くではないですか。
 
 一瞬わからなかったのですが、どうやら毎日注文されているみたいです。見た感じは仕事中のようですが、まあいいのかな。「食欲ねえんだよ、ラーメン半分くれ。濃いめにな」とにこにこしながら頼んでいました。
 レモンサワーがくると(横目を使って必死で観察)1杯目はあっという間に飲み干してしまい、すぐにお代わり。
 え、私? さすがに授業前に飲んだりはしないですよ。Z会にお世話になって以来、1度もありません・・・と偉そうに胸を張るほどのことでもないか。いずれはああいうじいさんになりたいものだと思いますよ。
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2017.08.23 02:11

 私自身、あまり細かいことはわからずに続けてきた連載記事を77回でひとまず終わりにさせていただきました。画面右側の「長野先生からの応援メッセージ」というものです。「どうしたら勉強ができるようになるか」というタイトルではさすがに書くことが尽きてしまいました。それでも約1年半書き続けました。ブログと勉強法と両方だとそれなりに大変でしたので、ちょっとだけほっとしています。
 教育関係の記事ですから、あたりまえですがあんまりメチャクチャなことは書けません。とりあえず「先生」として書かなければいけない。
 
 本当の私にはいろいろな面があり、もっともっとメチャクチャなことを書きたい気持ちがないでもないのです。最近太宰治の作品のことで、ある生徒から質問を受けました。細かい部分を忘れてしまっていたので、改めて文庫本を買って読み直してみました。ついでにほかの作品ーー家庭を顧みずにでたらめなことをしている男の話ーーなんかもいくつか読んでいくうちに、自分は現在でもこうした世界観に強くひかれる人間なのだということを再認識しました。
 本質的に、ふらふらした人間なのです。
 
 社会的な制約や期待される役割がありますから、実生活で何をして何をしないかということはまた別問題ですが、どなたかに読まれる読まれないということとは無関係に小説みたいなものをこそこそ書き続けているのは、浄化作用的な意味が大きいのだと思いました。自分1人であれば、暗くて病的なこともいくらでも書く自由がありますからね。
 最近書いているのは、小さい子どもを捨ててしまった初老の男の話です。何十年もたって後悔している。そして寝るとき毎晩「おやすみ」と虚空に声をかける。
 
 私は現実問題として子どもを捨てたことはありません。いつもそれなりに大切にしてきたつもりですが、私のどこかにそういう自分は偽者ではないかという感情があるのです。
 もう少し踏みこんで表現すると、自分が書いている小説の主人公のようなことをしてきたら現在の自分はもっと美しい心境で生きていられたのではないかという妙な気持ちがあります。ただその主人公は、友人は裏切る、家庭は捨てる、借金はする、まともに働かない、反社会的・・・というとんでもない人間だったりします。
 
 それは別次元の自分自身なのだろうと思います。並行宇宙とやらに住んでいる私ですかね。
 いずれにせよ、学習法そのものはそれなりに皆さんのお役にたつはずです。しばらくは残しておいていただけると思うので、どうかご参考になさってください。
 
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2017.08.22 08:08

 犬のことがいろいろわかってきました。ただ私もおかしいと言えばおかしいのでしょうね。どうしても心理的な実験(?)をしてみたくなるのです。
 非常に面白かったのは「腹話術」です。私が犬の前でまず口を開けて歌を歌う。すると犬は不思議そうな顔をして聴いています。ただそれは納得できるみたいですね。意味不明な言葉ではあるが、この人は何かしら犬の自分に向かって表明している。で、じーっと聴いている。つねに顔を見ていますよ。口を開けているところを見ています。
 
 次に腹話術みたいにして歌う。口をほぼ完全に閉じて歌う。歌うといったって歌いたくて歌うのではなく犬が何をどう考えるか確かめたくて歌っているだけですから、それこそ思いつきの童謡なんかを歌う。
 ぞーさん、ぞーさん、お鼻が長いのね~と口を閉じたまま歌う。そのスタイルはどうにも納得できないらしいのですよ。私の顔を穴のあくほど凝視する。口がほとんど動いていないのを確認しておもむろに立ち上がる。どうするつもりなのかこちらは観察しながら歌い続けます。するとのそのそと私の背後を見に行きました。
 
 つまり私が歌っているように見えないので、背後で誰かが歌っているのではないかと考えるらしいのです。何度か試してみたのですが、毎回毎回「腹話術」歌唱のときは背後にまわって探しているので、まず間違いないと思います。
 家の者は私がそういう実験をしていると「変なことをする」と呆れているのですが、私にしてみれば普通にかわいいとかいい子だとか頭を撫でたところで、たいして発展性がなくて面白くありません。
 
 最近、私は咳が出るのですがーーいわゆる夏風邪というやつだと思いますーーあえて咳を聞かせてみたところ相当びっくりしたらしく、ぱっと低く身構えて「ワン!」と吠えました。うちの犬は「ワン」とはめったに吠えない(クーンクーンとかキャンとかが多い)ので、よほど驚いたのだと思います。
 ただ咳は連続で出ますからね。そのうちこれはこれで自然な何かなのだと感じたらしくだんだん無反応になってきました。はじめは咳のことを吠え声の一種だと勘違いした可能性があります。
 
 このまえは歯を磨いているところをしばらく見せたのですが、長いこと見つめていてどういう意味なのか右手を上げていました。それやめなよ、と合図しているような感じがしたので洗面所に戻りました。何だか書いているうちに犬の観察をしているのだか、犬と同レベルというだけの話なのかよくわからなくなってきました。
 まあ、いいや。今日は夏期講習の前にお医者さん(脳ではないですよ)に行きます。
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2017.08.21 07:07

 土曜日、首都圏の豪雨はすごかった。あんなの久しぶりですよ。私はーー仕事は休みでしたがーー用事があって外出していました。いちおう傘を持っていったのですが、午後には強い日差しになってきて(こんなもの持ってきてちょっと失敗したかも)と思ったものです。
 それが夕方になるとにわかに空がかき曇ってきた。雨が降る前からごろごろ音がしていたので、夕立になるなとは思いました。
 
 新宿駅でもけっこう降っていたのですが、たった十数分後、西荻窪駅に着いたときにはものすごかった。駅のホームの屋根が何箇所も破れてしまい、ホームのあちらこちらに浸水しています。強い雨がじかに落ちてきている状態で、傘をさしながらホーム上を歩く必要がありました。
 以前、西荻窪駅ではゲリラ豪雨でホームの屋根が一箇所破れる瞬間を偶然自分が目撃したことがあります。すぐに駅員さんに知らせると、駅員さんは「え!」と大慌てでホームに駆け上がって行きましたよ。
 
 たった一箇所でも「え!」なのです。それが三箇所も四箇所も穴が空いてしまった。駅構内も人で溢れかえっています。とてもではないが、外を歩けません。雷もばりばりすごいですし、雨も斜めから殴りつけるような状態で傘が役立たない。
 爽快な感じはありました。あそこまでいくと「なんだこりゃ?」という面白さが出てきます。例によって周囲の人を観察していたらーーいましたいましたーー楽しんでいる人が。中年男性が立ったまま缶ビールなんかを飲んでいる。空を見上げてじつにうれしそうな顔をしています。
 
 何もなければこんなところでビールなんか飲むわけがないのです。せっかくだからイベントにして楽しもう・・・みたいな感覚なのでしょう。
 タクシー乗り場は長蛇の列でした。あきらめて小ぶりになった道を歩きはじめた。途中でサイレンが何度も何度も鳴りました。善福寺川が増水しているのですね。これはせっかくだから見に行こう(どっちみち橋を渡らずには帰れないのですが)と思いました。するとぎりぎりでしたね。あと10分降り続いていたら確実に溢れていたと思います。缶ビールを片手に(お前もかよ!)、橋の上からずーっと眺めていました。
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2017.08.20 03:16

 知恵でいいのですが、わざと大げさに。
 前々回に書いた記事のことを考えています。読書をしない人は人生に真剣に向き合っていないのではないか云々の記事ですね。これは読書に限る必要はないと思っています。要するに友人知人との会話だけで、あるいはせいぜいテレビの娯楽番組に頻出するような概念だけで本当に人生がやり過ごせるものなのだろうか? という疑問を自分もまた持っています。
 
 たとえば私に何か破滅的な衝動が生まれたとします。それを家族や友人や職場の人間に相談したとしますね。当然、彼らは「それはやめたほうがいい」と止めてくださるでしょう。「絶対にやらないほうがいい」「それがおまえ自身のためだ」ともおっしゃるでしょう。
 常識というのはそういうものです。そしてまた私自身も破滅しないほうがいいとははじめから知っている。すると問題は、破滅的な行為がいいのか悪いのかというところだけにあるのではないということがわかってきます。
 
 なぜ、自分の中にそんな衝動が芽生えたのか? これは個人的な願望なのか人類に共通するものなのか? 歴史的に見てこうした衝動はどう評価されてきたのか? 心理学的にはどういう位置づけになってくるのか? 衝動を乗り超えるとしたらどのような精神修養や手段が必要なのか? 芸術活動に昇華したら?
 そうしたことをたとえば親戚や飲み友だちや職場の仲間にいきなり相談したらどうなりますか。そんなことばかり喋っている人間が近くにいたら、普通の生活を送っている人たちは迷惑に感じるだろうと思います。
 
 そんなとき、何らかの書物ーーインターネットの検索でもいいのですがーーで過去の偉人たちの知恵(当然言語化されたものです)に耳を傾けるというのは非常に価値のあることですし、そうせずにはいられないのが「人間の本質」ではないでしょうか。
 いまから30年ぐらい昔、いわゆる精神世界に凝っていた時期があるのですが、そのとき斬新だと興奮していた思想の数々のエッセンスをその後古い宗教書などで次々と見つけ(パクったとか何とかという話ではありません)、やはりこうしたものもまた先人の知恵の結晶だったのだと感じました。
 
 勉強(仕事)をばりばりこなして常に明るく親切に、わが身を犠牲にしてでも世の中のために頑張るのがりっぱ・・・などと定義されても、何かしらうまくいかない要素が出てくるのが人生というものでしょう。そこに気づいていないから、楽しく話すだけですんでしまう。幸せなことではあるでしょうが、深みには欠けるかもしれない。深みに欠けた人生観だから深く考えるのが苦手という可能性もあるわけで、それこそ勉強ができるようになるためには深く考えられないといけないですね。
 読書に励む人たちの成績がいいのは、そのあたりにも1つの原因があるような気がします。
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2017.08.18 07:17

 動物が寄生の意味ではなく他の動物を意識的に「飼う」ということはあるのですかね。他の動物を飼うのは人間だけであるような気がするのですが、どうなのでしょう。よく狼に育てられた人間の話を聞くことがあります。あれは狼が人間を飼っているというより何かの関係で自身の子どもだと勘違いしてしまったのだと認識しています。
 いわゆるペットとして飼うのはどうしてなのか。犬が来てから改めてそんなことを考えるようになりました。
 
 私自身、これまで犬だけでなく、亀、鳥(何種類か)、カブトムシなどの昆虫類(幼いころ)などを飼ってきました。ほかにもカニ、ヤドカリ、メダカ、金魚、どじょう、すごいところでは貝を飼おうとして失敗したことがあります。なぜ飼ったのかと言われると単純に面白かったからとしか答えようがないですね。
 子どものときは面白いだけでしたが、大人になるに連れて対象の生物を擬人化するようになりました。心が通じていると思いたくなってきた。
 
 大きい動物であればあるほど、心が通じているような気分になります。うずらを飼っていたときは私のあとをついて歩いたりするので、かなりわかっているらしいという感触を持ちました。亀も私と他の家族とでは反応が違ったので、自分のことがわかっているのだなと勝手に想像しました。
 犬はもちろんこちらのことを覚えますから、人間側が思っている状況とは違うにしてもとにかく心は通じます。「おすわり」と言うとすっと座る。
 
 ときどき家内が大きくなった犬を抱きかかえて狭い部屋をうろうろしていることがあります。脚があるのですから歩かせればいいのに、子守みたいに抱いたままうろうろしている。さすがにまだ頭がぼんやりしてくる年齢ではないので、何かの勘違いではなくそんなことをしたくなるのでしょう。
 不思議な光景ですが、要するにかわいい。かわいいのであえて抱いてやりたくなる。私も部屋の中はうろうろしませんが、膝の上で撫でてやることがあります。
 
 家内は優しい人間で、幼いころの息子でも鳥でも犬でも甘く甘く育てていました。相手が決まり事を破ってもそうは叱らない。どうしても破りたいのなら破ってもいいんだよ、そんなことではお前のことを嫌いにならないよという感じで接していました。そのことで息子も鳥も犬も情緒が安定してきた。ピリピリ感がないのです。深い愛情に包まれているという自信がつくのでしょうね。
 しつけはもちろん大切ですが、大前提としてとにかく愛されているという安心感を持てないといけないですね。交換条件見え見えの愛情では、なかなか本来の力が発揮されないように思います。
 
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プロフィール

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長野先生
35年以上、中学生を教え続けてきました。生徒たちが日々の学びを通じて大きく成長できますように明るいヒントを発信していけたらと思います。

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